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2014年2月

2014年2月28日 (金)

雪の中の幸福者 (3)

 前回の本欄では、2月半ばの大雪に関連して「北杜市大泉町のわが家は、まだ分厚い積雪に囲まれている」と書いた。その状況は、あれから3日たった今でも基本的には変わらない。しかし幸いにも、その後は山梨県でも最低気温が氷点下とならない暖かい日が続いているので、雪解けは順調である。東京での経験からいっても、このまま春になることはないだろうが、今冬の寒さのピークは過ぎたといっていいのだろう。  
 
 「雪かき」というのは重労働であるには違いないが、不思議な満足感をともなう。こんな書き方をすると、日本海側の“雪国”の人々には叱られるかもしれないが、少なくとも今回の個人的体験に限れば、私はそう感じる。それはもちろん、私が多くの人々の支援を受けたからでもある。まず、大泉町の主要道路の一つである県道28号線までの約1キロの山道を、オフィスの依頼で専門業者が除雪してくれた。そうしなければ、私の業務が中断するし、食料の調達にも支障が生じるからだ。東日本大震災の時と異なり、今回は通信手段が正常に機能していたから、私の業務の相当部分はネットを通じて遂行できるかもしれないが、対面によるコミュニケーションは業務の内容が複雑になればなるほど、欠かすことはできない。だから、大型の除雪車を使ったこの除雪には感謝してもしきれない。これが科学技術の進歩のおかげであることは、言うまでもない。 
 
  これから書くことは、だから科学技術を否定するのではない。そうではなく、科学技術の進歩によって得られるものは大きいが、中には失われるものもあり、それが人間の「幸福」にとって重要な要素である場合もあるということだ。もっと簡単な表現を使えば、同じことをするのにも“ハイテク”と“ローテク”のいずれを使うかによって、幸福感に差が出るということだ。実はこの話は、すでに本欄で扱ったこともあるし、拙著『次世代への決断』の中にも書かれている。同書には、庭の芝生を刈るのに手作業でするのと、芝刈り機を使ったり、人に頼んでする場合、自然との触れ合いの度合いに大きな違いが出るということを書いた。しかし、その際、人の心に生まれる幸福感については、あまり触れなかったと思う。今回は、それを取り上げたい。 
 
  この表題で本欄を書いた第1回目で、私は個人の心の中に生まれる幸福感は、「その人が自分の置かれた状況に“プラスの変化”を感じるか、あるいは“マイナスの変化”を感じるかによって決まる」と書いた。これは一種の幸福の定義だが、このことと“ハイテク対ローテク”の違いをうまく整合させる必要がある。つまり、「ある一定の目的を達成するためにハイテクとローテクのいずれを使うことが、より幸福を感じるのか」という命題に解を見出す必要がある。私の幸福の定義を厳密に適用すると、この命題に対する答えは、「いずれでもない」ということになる。なぜなら、どんな手段や方法を使おうと、本人が状況の変化に対して積極的な評価をするか、消極的な評価をするかで、その人の幸福感は決まってしまうからだ。 
 
  一夜明けて外を見ると、わが家は雪の中に埋まり、外出もままならないという状況の変化があったとする。これに対して、「学校が休みになって雪遊びができる!」と考えた子供は、きっと幸福である。しかし、「これでは会社へ出られず、仕事ができない!」と考える大人は、きっと不幸である。ここまではいいだろう。では次に、外出のためには雪かきをしなければならないから、それをどんな手段で行うかによって幸福感に違いが出るかどうか、を考えよう。わが家に住む子供を「A君」と呼び、その父親を「B氏」と呼ぼう。ついで母親は「C夫人」としておこう。 
 
 A君--父さん、ぼく学校が休みになったから、お手伝いするよ。
 B氏--ちょっと待ってね。父さんは午後からは出られるようにしたいから、会社に連絡をとってるところだ。
 A君--会社も休みになるよ。だって電車は全部とまってるってニュースで言ってたから。
 B氏--会社は学校とは違うんだ。電車で行けなきゃバスがあるし、バスが動かなけりゃ歩いていくんだ。
 A君--へぇー。そんなに楽しいとこなの?
 B氏--楽しいわけじゃない。仕事はお金をもらうところで、学校はお金を払って勉強を教えてもらうところだ。お金をもらうためには、楽しくないこともしなくちゃいけない。
 A君--ふうーん。勉強は楽しくなくても、お金をもらえないけど……。
 B氏--そのかわり、頭がよくなるぞ。頭がよくなれば、その頭で仕事をして、お金をもらえるようになる。
 A君--そうか。会社でお金をもらえるようになるために、学校へ行くんだね。
 B氏--そういうこと。
  A君--じゃあ、人間って、子供でも大人でも楽しいことしない方がいいの?
 B氏--えっ、何言ってんだ? どうしてそうなるんだ?
 A君--だって、子供のときは勉強して、大人になれば仕事して……いつも楽しくないんでしょ?
 B氏--お金をもらったら楽しいじゃないか?
 A君--ぼくは楽しくない。雪で遊ぶ方がいい。父さんと雪ダルマつくりたい!
 B氏--……。(息子の言葉にハタと気づく)     
      わかった。会社へ行けないのなら、いっしょに雪で遊ぼう。
 A君--わぁーい、ヤッター!
 B氏--でも、その前に雪かきしないと外へ出れない。外へ出れなきゃ、雪遊びもできないからな。
 A君--うん、知っているよ。だから、お手伝いするって言ったんだ。
 B氏--そうか、そういう意味か。
 (C夫人が会話に参加する)
 C夫人--あなた、会社に連絡しなくていいの?
 B氏--あとでする。この様子だと、休みになる可能性もあるし、取引先も同じだろう。
 C夫人--じゃあ、朝ごはんにしましょう。まずエネルギーを蓄えて……。
 B氏--よし。今日は“子供の日”にしよう。
 C夫人--“家族の日”でしょう。もう一人いるのよ!
 B氏--ああ、その通り。雪の日は“家族の日”だね。  
 
 --こんな会話がどんな家庭でも行われるとは限らない。が、仮に行われたとするならば、B氏の心中には幸福感が生まれているはずである。「前代未聞の大雪」という客観状況に何の変化がなくとも、B氏は「不運な企業戦士」から「幸福な父」へと変貌する糸口を見つけたと言える。 
 
 では、朝食後に行われる家族総出の雪かきは、そのやり方によって、幸福感に違いが出るかどうかを考えてみよう。これはきっとA氏の心の持ち方如何にかかるだろう。その状況の中にどんな積極的な要素を見出すか、あるいは消極的な要素ばかりに目を引かれるかで、彼の幸不幸は決まるはずである。だが、これについては、上のような架空の物語ではなく、私の実際の体験から話した方がいいだろう。 
 
 谷口 雅宣  

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2014年2月25日 (火)

雪の中の幸福者 (2)

 記録的大雪から、早くも約10日がたった。が、北杜市大泉町のわが家は、まだ分厚い積雪に囲まれている。自宅からオフィスまでの道路は、平常通りとはいかないものの、車がスリップせずに通れるようにはなっている。ただし、道路の両脇にはまだ50センチほどの積雪が残っていて、片道1車線の県道を除くと、まだまだ道幅が狭く、車1台がようやく通れるという状態のところがほとんどである。オフィスの敷地内の雪も、これと似たようなものである。
 
 そんな中で、とても喜ばしいことに、オフィスに勤める本部職員の大活躍の様子が、ネット上で話題になっている。職員寮周辺のコミュニティーには高齢者も多く、そういう人々の中には、自宅に高々と盛り上がった積雪を自力で取り除くことが難しい人も多い。生長の家は、国際本部を北杜市に移転する目的の一つとして「地域貢献」を掲げてきたので、今回の大雪をそのよい機会ととらえ、渡辺重孝・環境共生部長を中心とした緊急事態対策チームを編成し、同市の災害ボランティアセンターに登録し、その要請にもとづいて雪かきなどの支援活動を展開してきた。
 
 例えば、23日の活動の様子を渡辺氏は次のように報告している--
 
①災害ボランティア依頼場所での除雪
 昨日の要請があった場所は、長坂の仲町区公民館のそばにある家で、一人暮らしの高齢の女性が足を悪くされて杖をついて生活され ている方でした。自宅まで自動車が通れず、雪が残る坂道を杖をつ いて歩いて買い物にいっておられる状態でした。
 今回の除雪で、通りまでの自動車の通行と自宅内で自動車の転回ができるようになり、歩道の近道も通れるようになりました。
 この方は、やはり長坂寮の皆さんが仲町区公民館を除雪したこと等を伝え聞いて、災害ボランティアセンターに電話して「できれば生長の家さんにお願いしたい」と依頼されたとのことです。
 10:50から作業をはじめて、一度昼食のためオフィスに戻り、あらためて13:30から14:30まで作業を行って終了しました。
 
②長坂商店街のセブンイレブン付近道路の除雪
 前記の作業を終えて帰ろうとしたところ、長坂商店街のセブンイレブン付近の道路が凍結していて近所の人がスコップで氷を割ることができずに大変苦労されていました。私達は、氷を砕く道具(アイスピッケル、バール、ツルハシ)を一通り持っていましたので、見過ごすことができず、車を降りて、もう1時間だけこの作業を応援しました。
 すると、仲町区のKさんが出てこられて、コーヒーやお茶をセブンイレブンで買って差し入れしてくださいました。Kさんは、長坂寮の開発申請で大変お世話になった方で、今回、生長の家の人が雪かきで地域貢献していることを大変喜んでくださっていました。
 氷を割るのは大変な作業でしたが、ご近所の方々と一緒に笑いながら作業することができて、大変良い交流をさせていただきました。 
 
 また、24日の活動については、こんな報告をしてくれた-- 
 本日は、国際本部7人と日本教文社1人の合計8人で活動しました。
 状況:甲斐小泉駅の近くで大型除雪車が入れない場所に家があり、高齢のご夫婦が10日間も外出できない状況でした。車は雪に埋もれたままで、家の裏手にある灯油タンクは屋根から落ちた2メートルほどの雪に埋もれてしまい、給油できない状況でした。
 食糧は、いつも1週間以上の材料を用意していたので、困らなかったそうですが、さすがに10日間を経過して材料がなくなったそうです。また、歯の治療に通いたくても通えなかったそうですが、ご自分達より困っている人がいると思い、助けを求めたのが昨日になったそうです。
 
 作業:8人で除雪作業を行い、車の進入路は除雪機を使いました。
  灯油タンクや自動車の掘り出しは手作業で行う必要があったのですが、今日の男性メンバーは力強い筋肉の持ち主が多かったため、1時間半の作業ですべてを完了しました。
   作業があまりにも早く完了したので、依頼された奥様は驚かれて、「土まで見えるなんて!」と大変感激されていました。早速、歯医者に予約されるとのことで、付近の道路状況についても質問されました。10日間も外出していないので、道路状況も全く分からないとのことでした。 
 
 渡辺部長によると、北杜市社会福祉協議会のサイトの情報から判断すると、「平日のボランティア人数の半分は、生長の家からの出動によるものである」ことが分かるという。私は最近、オフィスで会う職員の皆さんが、自宅の雪かきやボランティア活動のおかげで日焼けして、男性も女性も見るからに逞しくなり、目が輝いているのを見てうれしくなる。与える愛の実践は、人を喜ばせるだけでなく、自らの神性を実感し、精神面でも肉体面でも充実した生き方につながっていると確信できるからだ。 
 
 谷口 雅宣

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2014年2月18日 (火)

雪の中の幸福者

 史上稀にみる大雪が東日本を襲ったため、いろいろ予想外の新しい経験をし、普段はあまり考えないことを考えることができた。現在、京都市での生長の家講習会の帰途、東京駅を昼前に出て長野へ向かう長野新幹線「あさま521号」でこれを書いている。通常、近畿地方から国際本部“森の中のオフィ”がある北杜市へ帰るためには、新宿から中央本線に乗って小淵沢まで行き、そこから車で帰る。が、今回は大雪で中央本線が運休しているため、長野市経由で南下するのが唯一のコースだった。もっと具体的にいえば、長野駅まで新幹線で行ったあとは、篠ノ井線に乗り換えて松本へ出て、そこで再び乗り換えて小淵沢まで南下するのである。これによる所要時間は、乗り継ぎの時間を含めると5時間20分。新宿から小淵沢が2時間なのに比べ、倍以上となる。
 
 今回の大雪情報は、京都へ出発する数日前から流れていた。だから、私たちは出発を1日早め、金曜日の午前中に小淵沢を出る塩尻経由の中央本線の特急に乗った。しかし、大雪をもたらす低気圧はすでに東日本に大きくかかっていたから、同じコースを走る次の特急は運休してしまった。ぎりぎりセーフで名古屋へ着けたのだ。ということで、京都で2泊し、講習会を行い、その日の夜は新宿に一泊して今、こうして長野に向かっているのである。
 
 考えてみると、谷口雅春先生や清超先生の時代には、講習会の旅で3泊や4泊されることは珍しくなかった。いや、東京から遠方を回る場合は、複数箇所で講習会をこなして帰京されるのが普通だったから、その場合は1週間以上、帰宅されないこともあった。そういう時代と比べれば、今回の“トラブル”はトラブルではない。むしろ、当時の“順調な旅”と変わらないと言えるのである。それが今は“トラブル”と感じられるのは、技術革新にともない交通・通信の手段が急激に発達し、1つのことを実行するのに、当時の数分の一の時間しか要しなくなったからだ。このことを、経済学では「生産性の向上」という。しかし、このことの裏側には、生産された商品やサービスを使う人間がいなければならないから、「消費の増大」も同時に行われてきたのである。そして、この2つの流れが増大することを指して、人々は「経済発展」と呼び、これによって人間に幸福がもたらされると考えてきた。
 
 しかし、このような「幸福」の考え方は、あまりに浅薄であることが近年、いろいろな方面から指摘されてきた。また、今回の大雪で、それが様々な機会に改めて確認できただろう。人間は、ある一定の状態が長く続くと、その状態を“当たり前”と感じるようになる。たといその状態が、別の人間にとっては「幸福」に見えても、である。これは、いわゆる「馴れ」が生じるからだ。そして逆に、その状態から何かが欠けると“不幸”になったと感じるか、少なくとも“トラブル”に遭ったと感じる。このこと1つを考えても、「幸福」には何か客観的な基準があるのではなく、それを感じる人の物事のとらえ方や感じ方--つまり、主観に大きく左右される。これを別の方向から表現すれば、人間の幸不幸の感覚は、その人が自分の置かれた状況に「プラスの変化」を感じるか、あるいは「マイナスの変化」を感じるかによって決まる、と言えるだろう。
 
Matsumotostn_3  今回の大雪に遭遇した人は、さまざまな変化を経験したと思う。それをその人が「プラスの変化」と捉えるか、それとも「マイナスの変化」として捉えるかで、本人の幸不幸は決まる。--とここまでは、長野駅へ向かっていた新幹線の中で書いた。その時は、松本から中央本線で小淵沢へ行けると思っていた。なぜなら、JR東日本の職員がそう言って切符を発券したからだ。ところが松本駅へ着くと、茅野までは行けるが、その先は不通だと言われた。これは大きな“番狂わせ”で、私たちは仕方なく松本で一泊し、翌朝までの復旧作業に期待することにした。(写真は松本駅)
 
 翌朝、テレビに流れていた情報を見ると、「中央道は全線通行可能」というような表現だった。「ヤッター」と思ったが、道路情報をよく調べてみると、「通行はできるが、途中から上ったり下りたりできるかどうか?……」という妙な状況だった。つまり、各所の出入り口がすべChinostn て使えるわけではなく、一部だけということらしかった。残念だったのは、私たちが望んでいた「茅野-小淵沢間」は無理だということだ。そこで私たちは、“オフィス”から茅野駅まで車を出してもらう一方、私たちは松本から茅野までJRの在来線で下り、茅野駅で合流してからは一般道を雪中走行して北杜市大泉町へ帰ったのだ。松本市のホテルを出たのが9時20分で、オフィス到着は午後1時ごろ。結局、約3時間半の旅だった。(写真は、茅野駅)
 
 それで、「幸福」の話はどうなるかというと、私はこの“番狂わせ”の最中に特に不幸だとは感じなかった。が、予定していた通りに事が進まなかったのだから、「トラブル」だったことは確かだ。特に、水曜日に重要な会議を控えていて、その準備をしなければならない火曜日が半日使えなくなるということは、かなりの“損失”と言えば言える。しかし、この“番狂わせ”が、さらには記録的な大雪に見舞われたということ自体が、私には何か貴重で、得がたい体験であるような気がしてならなかった。というのは、次のような事実があるからである--
 
 今回の大雪は、生長の家が国際本部を東京から北杜市に移転してから最初の冬に経験した。しかも、この大雪は歴史的な規模だ。ということは、これ以上の厳しい冬を私たちがこの地で経験する確率はきわめて低いということになる。だから、今回の経験で足りなかったこと、失敗したこと、予想できなかったことなどを反省し、それらにきちんと対応していけば、“万全の準備”ができることになる。「千載一遇のチャンスがすぐに来た」のではないか? このことは、私個人の生活についても言える。私は、還暦を超えた年で初めて高冷地に家を建てて住むことになった。いちばん不安だったのは、冬の厳しさだった。雪がどの程度降り、その影響はどの程度あり、暖房にどの程度の薪が必要で、それをどう準備するか……などの情報の最大値が、すぐに手に入った。これは大変ありがたい。今後は、これらの最大値を想定して冬の準備をすればいい。どこかの大企業のように、「想定外だった」といって泡を食う必要はない--このように考えていくと、「トラブル」という声は消えて、「私たちは実は幸福者ではないか」という想いが湧いてくるのである。
 
 谷口 雅宣

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2014年2月 6日 (木)

『大自然讃歌』解説 (3)

 「自然と人間の大調和を観ずる祈り」の第3段落目は、次の言葉で始まる--
 
「その実相を見ず、“個”が実在であり、世界の中心であると見るのは迷妄である、“個人の損得”を中心にすえるとき、人間は自然との大調和を見失うのである。」
 ここにある「その実相」とは、「すべての存在が渾然と調和し、支え合っている」という世界の姿を指す。人間は普通、特に幼い頃は、肉体の自分を中心として世界を見、世界を考える。そうしなければ、肉体生命を維持・発達させることができないからだ。まだ乳飲み子である赤ちゃんが、自己中心的に考えずに、母親の都合を考えて泣いたり、泣かなかったりするならば、必要な時に、必要な栄養素を、必要量だけ得ることはできないだろう。だから、肉体が未発達の段階にある人が、「“個”が実在であり、世界の中心であると見る」のはやむをえない。が、成人した人間がこれと同じ価値観をもって生きようとするならば、その人はあらゆる場面で、他の人や社会とぶつかり合うことになる。こういう人物は「エゴイスト」とか「自己中心的」と呼ばれ、人から避けられ、さらには嫌われ、まともな恋愛もできないだろう。だから、その人物が「社会との調和」を失うことは容易に想像できる。
 
 しかし、この祈りは、それを言うのではなく「自然との大調和を見失う」と言っている。これははぜか? その理由は、エゴイストが社会との調和を失うことは自明でも、その人が自然界と衝突するということは、それほど自明でないからだ。前者はここで強調しておかなくても、後者についてはきちんと言おうとしているのだ。個人主義が称揚される現代では、後者については特に不明瞭になっている。しかし、このことは、すでに『創世記』の“楽園追放”の物語の中にきちんと書かれているのである。
 “楽園追放”の神話を思い出してほしい--神は、最初の人類であるアダムを創造した後、彼のあばら骨から女を造り、二人に楽園のどの木からでも採って食べていいが、「善悪を知る木」からは採ってはいけないと命じられた。ところがヘビが現れて、その木から実を採って食べても死にはしないし、「神のように善悪を知る者」となれると言って誘惑した。そこでまず、女が実を採って食べ、夫に与えて食べさせた。すると、二人は自分たちが裸であることに気がついて、イチジクの葉で腰回りを隠したのである。その後、楽園を神が訪れたとき、二人は神から身を隠したため、神は二人が禁忌を破ったことを知った。神の詰問に答えて、アダムは禁忌を冒した理由を「女が木から採ってくれたから」と説明した。一方、女は「ヘビがだましたから食べた」と答えた。このあと、神が彼らに言ったことを注意深く読んでほしい--
 
 つぎに女に言われた、
「わたしはあなたの産みの苦しみを大いに増す。
 あなたは苦しんで子を産む。
 それでもなお、あなたは夫を慕い、
 彼はあなたを治めるであろう」。
 更に人に言われた、
 「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、私が命じた木から取って食べたので、
 地はあなたのためにのろわれ、
 あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。
 地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、
 あなたは野の草を食べるであろう。
 あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、
 あなたは土から取られたのだから。
 あなたは、ちりだから、ちりに帰る」。
 (『創世記』第3章16~19節)
 ここに描かれているのは、どういうことだろうか? 私は、これらは結局、「人間は自然の中で苦しみながら生き、そして死ぬ」ということだと思う。農産物を作ろうとしても雑草が生い茂る。一切れのパンを得るにも、厳しい労働が必要である。そうして生き存えてきた肉体も、ついには失い無に帰するのである。これを言い換えれば、人間が「自然との大調和を見失う」ということではないか。では、イブとアダムは禁忌を冒してまで、何を求めたのか? それは、「神のように善悪を知る者」になりたいと思ったからだ。また、神からその理由を質されても、このことを正直に答えず、「ヘビが悪い」とか「女が悪い」と言って、責任を回避しようとしたからだ。このような無責任さと弁解の仕方は、エゴイストに特徴的なものではないか。
 
 このように、アダムとイブが“楽園”から追放された理由をここでまとめると、次の2つになる--
 
 ①神のように善悪を知りたいと思った
 ②責任を回避しようとした
 このうち②は比較的わかりやすいが、①は深い意味を含んでいて、正しい理解が必要だ。
 
 1つの解釈では、菌類や動植物の世界では、それぞれの生物の行動原理やパターンはすべてDNAの組み合わせで遺伝子の形で定められているから、何が善であり、何が悪であるかは問題にならない。例えば、発情期にある飼いネコが、飼い主の知らないうちに妊娠しても、それは“自然の行為”と見なされ、善悪は問題にならない。しかし、人間の男女の場合、配偶者がいる中で、発情しているという理由だけで性行為をして妊娠にいたれば普通、善悪の問題が生じる。その理由は、人間は一般に肉体的本能とは別に「理性」というものをもち、その理性が善悪を判断することで本能を制御することが求められているからだ。そしてこの理性は、神から人間に与えられた“賜”だと考えられてきた。ところが、人間は判断に際し、この理性が必ずしも常には働かない。その結果、人間の行為には「善」も「悪」も生じることになる。だから、人間が常に善悪の判断を過たずに下して生きていけば、神のような完璧な生を送れるに違いない--こういう考え方である。
 
 これに対して、「善悪を知る木」とは、実は「神の創造世界には善もあれば悪もある」という考え方そのものを象徴しているとする解釈がある。これが『生命の實相』で説かれている谷口雅春先生の解釈であり、生長の家の解釈だ。これによると、「神のように善悪を知りたい」と願うこと自体が、「神の創造世界には善悪いずれも存在する」という前提にもとづくという点に注目する。これを言い換えれば、人間を含め、大自然には善も悪もあるということだ。同じことを「個人」の立場に引き寄せて表現すれば、人間は生老病死を経験し、悩み苦しむ肉体的存在だということである。このように自分は不完全で欠陥だらけだという「迷い」が多くの人間にあるために、何かの知識や技術を獲得して自分を補う必要があると考え、外から「善悪を知る木の実」を食べたいなどの欲求が起こってくる、と生長の家では考える--
 
「霊によって生まれ霊によって支えられている無限の生命であるという自覚の代わりに、自分はアダムの肋骨すなわち物質によって造られたものだという自覚が反映して生まれた人間である。だから、自己自身をそのままで完全な人間だという自覚をもたないで、自分は何か他物によって補われなければ完全になれないものだと思っている。この何か他物によって補われる必要があるという渇欲(まよい)がある。この渇欲(まよい)があるために、その渇欲(まよい)を充たすために、これを食べたらどうだと誘惑すべく蛇によって差し出されたのがこの知恵の果実であります。」(『生命の實相』頭注版第11巻、p.72)
 
 今日のような資源・エネルギーの消費と技術社会発展の根源に、この2つの人間の「迷い」があると私は考えるのである。1つは、大自然そのものが善悪混交の不完全な状態であるとする見方であり、さらに2つ目は、我々人間自身も肉体的存在であるから不完全であり、外から何かを付け加えることによってのみ幸福になるという人間観・幸福観である--このような大前提のもとに、数多くの人々は自然改変と、資源・エネルギーの浪費、物質的繁栄の拡大に突き進んでいるのではないか。そのことを、祈りの言葉は次のように表現している--
 「自然界に不足を見出し、自然界を障害と見なし、自然界を自己の支配下に置こうとして、
 自然界の機構を自己目的に改変し利用することは、愚かなことである。
 自然の一部を敵視して破壊することは、恥ずべきことである。
 それによって人間は自然との一体感を失い、
 自然治癒力を含めた自然の恩恵を自ら減衰させ、
 生き甲斐さえも失うのである。」
 
 谷口 雅宣

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2014年2月 3日 (月)

『大自然讃歌』解説 (2)

 讃歌本文の解説に入る前に、揮毫に続いて収録されている「自然と人間の大調和を観ずる祈り」について、少し書こう。
 
 この祈りの言葉は、その最終部に書かれているとおり、2011年3月17日に書かれた。もっと正確に言えば、この日付で私のブログ「小閑雑感」に発表したものである。東日本大震災が日本を襲った日から6日目である。この大震災では、多くの人命が失われただけでなく、それより多くの人々は、自然界に潜む破壊力の大きさに圧倒され、個人の力のみならず、多くの個人が参加して長年にわたって築き上げてきた社会、経済、政治などの文明そのものが、自然界の“ひと揺れ”によって無惨に崩れていく様子を目撃し、あるいは体験した。そして、多くの人々が内部から湧き上がる切実な疑問に答えようとしたに違いない--「なぜ地震が起こるのか?」「なぜ津波を人間は防げないのか?」「なぜこんな事態になったのか?」「自然は人間の敵なのか、味方なのか?」。
 私もその例外でなかった。今回の震災では、地震と津波だけでなく、原子力発電所の破壊にともない、放射能汚染が拡がり、大勢の近隣住民が避難と移住を余儀なくされた。「愛する故郷を追い出された」と感じた人々も数多いに違いない。日本の現代史では、このように大勢の人々が「故郷を追い出される」体験をしたのは、恐らく大東亜戦争と関東大震災以来ではないだろうか。中国では、悪名高い文化大革命のときに、大勢の国民が紅衛兵やその背後にある政治権力によって、都会から農村へ強制的に移住させられた。1人の人間にとって、最も不合理・不条理に感じられることの1つは、自分が生まれ育った土地や町から、自分の意思によらずに引き離されることである。もちろん自分の意志で故郷を離れる人々は少なくないが、その場合のほとんどは、いずれは“故郷に錦を飾る”という希望を抱いている。“故郷を捨てる”という意識をもって離れる人は例外的だと思う。なぜなら、「故郷」こそ幼い頃の自分の生存の基盤であり、この世で生きる一個の人間の自己同一性の根拠であるからだ。
 
 「兎追いしかの山、小鮒釣りしかの川……」
 「ふるさとの山に向ひて言ふことなし
  ふるさとの山はありがたきかな」
 「Oh, Give me a home where the buffalow roam,
   Where the deer and antelope play...」
 
 このように人間というものは、洋の東西を問わず、故郷の自然と人間関係を心の基盤として人生を送るものである。故郷から歩み出しても、それは「捨てる」ためではなく、いずれ「もどってきて安らぐ」ためである。“村八分”として、あるいは“犯罪人”扱いされて故郷から追い出された人でさえ、いずれ「もどってきて見返してやる」と考える場合が多いだろう。「見返す」ためには、故郷とそこの人々は存在し続けなければならない。その故郷が、放射能汚染とその影響のために人が住めなくなり、自然も荒れ果てて、自分の生存中に戻ることができないというのでは、故郷が失われたに等しい。これほど、人の心に不合理で不条理な感覚を起こさせるものはないと私は思う。
 
 国破れて山河在り
 城春にして草木深し……
 
 人間の営みの“頂点”にある国が破壊されても、以前と変わらぬ自然がそこにあったことの感動を、杜甫(712~770年)は詩に残した。人間心理のこういう基本を振り返れば、私たちはいやおうなく「自然と人間は本来一体である」という事実を確認するはずである。
 
 「自然と人間の大調和を観ずる祈り」は、上記のような心理的な一体感について第1段落で触れている。それは、「自然は人間を支え、人間に表現手段を与え、人間に喜びを与えている」という部分である。自然は人間を水や食べ物や酸素などで物質的に支えているだけでなく、精神的、心理的にもしっかりと支えている。植物の緑、空や海の青、水の流れる音、鳥のさえずり、花の香りなどが、人間の疲れた心をどれほど癒やしてくれるかは、説明の必要はないだろう。また、「表現手段」のことを言えば、すべての芸術表現の道具や材料は、自然界から得られたものか、もしくはその人工的レプリカである。絵画や彫刻の材料、工芸品や衣類、建築物、文学や学問を記録する道具であるパピルスや紙、石材、音楽演奏に必要な楽器……など、数え上げたらきりがない。スポーツをする際のバットやボールやグローブ、スキーボード、金属製品でさえ、もともとは鉱物として地中に眠っていたものだ。このような無数の表現活動の結果、人間は喜びを感じるのだから、結局、自然が人間に喜びを与えているのである。
 
 そのことをきちんと理解し、常に感じている人々は、自然に感謝の想いが生まれるし、自分を支えてくれる自然を破壊せずに、養い育てることに何の疑問も抱かないどころか、それは義務だとさえ感じるはずだ。これが自然と人間との本来の姿である。だから、この段落の最後にはこう書いてある--「両者のあいだに断絶はなく、両者のあいだに争いはなく、両者のあいだには区別さえもないのである」。
 
 第2段落では、科学が教える自然と人間との同一性、または近似性が述べられている。最初の3行に書かれていることはあまりにも“当たり前”のことだから、あまり説明は要しまい。人間の肉体は原子・分子で構成されていて、肉体の営みと活動にともない、それらの原子や分子が肉体の内部に入って、また外へ出るということだ。これが「新陳代謝」と呼ばれるものである。これらの原子や分子の流れだけを見ていたら、無味乾燥に感じられるかもしれない。が、体の内外を往き来する原子・分子の流れが、1人の人間だけで生じているのでなく、すべての人間と生物との間で起こっている事実をよく考えてみれば、このようにきわめて複雑で、厖大な与え合い、支え合いの仕組みがなぜできているのか、という疑問に行き着くはずである。そこに「神の知恵と愛と生命を観ずる」ことを、この祈りは薦めている。
 
 第2段落の最後に出てくる「はなはだ良し」という神の宣言は、聖書の『創世記』第1章31節に出てくるものである--
 
 「神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。夕となり、また朝となった。第6日である。」
 
 この聖句にあるように、神は天地創造を6日間で行われ、その最終日にすべての創造物を見て、評価されたのがこの言葉だ。神御自身が「はなはだ良かった」と宣言されたのが大自然なのだから、私たちも自然を愛し、尊重し、その実相をもっと凝視しなければ申し訳が立たないのである。
 
 谷口 雅宣

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2014年2月 1日 (土)

『大自然讃歌』解説 (1)

 経本型の『大自然讃歌』の冒頭には、「円満具足微妙」の揮毫を入れさせていただいた。この言葉は、谷口雅春先生の聖経「天使の言葉」の詩文の終りに近い部分に書かれた、次の一節に呼応するものである--
 円満具足清浄微妙の世界、
 これ実相世界、
 これ汝らの世界、
 そのほかに世界あることなし。
 
Emmangusoku  神の創造である実相世界を表現する言葉に、一定のものはない。なぜなら、実相は言葉による表現を超えているからだ。無限の数の言葉を使っても表現しきれない神の国の実相ではあるが、その反面、釈尊がハスの花を手に持って目を瞬かせただけでも、迦葉尊者がその意味を会得して破顔微笑したように、実相を観ずることができる者にとっては、言葉によらずともそれを指し示すことができる。ただし、受け手の側に、ある程度の素養がなければ間違った理解が生じる可能性は十分にある。
 
 経本冒頭のこの六文字に対して、生長の家講習会で質問されたことがある。質問者は、この六文字のうち「微妙」の二文字の理解にいたらなかったらしく、質問用紙には「ビミョーとはどんな意味ですか」と書いてあった。聖経「天使の言葉」に親しんでこられた読者はご存じのように、この場合の「微妙」は「ミミョウ」と読むのが正しい。最近の若者の間では「ビミョー」というカタカナ表記で使われる言葉があるらしく、それは「怪しい」とか「真偽が断定できない」とか「一概には言い切れない」という意味のようである。しかし、すでに永年にわたり一般に使われ、国語辞典にも定義されている微妙の意味は、①美しさや味わいが何ともいえずすぐれているさま。②細かい所に複雑な意味や味が含まれていて、何とも表しようのないさま」(『広辞苑』)である。
 
 これに対して、「ミミョウ」と読む場合は、やや違う意味をもつ。同じ『広辞苑』には、次の2つの意味が掲げられている--
 
 ①何ともいえないほどすぐれていること。
 ②仏法とそれを悟る智慧の深遠ですぐれたさま。
 
 このうち①は、通常の意味とほとんど同じだが、②は、宗教的な悟りや智慧のすばらしさを表している。「微妙」についてのこれらの諸定義をまとめてみると、現代の若者たちが使う「ビミョー」は何となく否定的なニュアンスがあるが、伝統的な意味の「ミミョウ」は、どんな場合も“称賛”を表しておリ、“全面的な肯定”を意味するといっていいだろう。ここではもちろん、私は伝統的な意味での「微妙」を使っている。この経本の題名は「大自然讃歌」であるから、揮毫する目的も大自然を讃えるためである。大自然を前にして、「円満具足微妙」の言葉を捧げよう、ということだ。「清浄」(しょうじょう)の二文字が抜けているのは、意識して除外したのではなく、揮毫するスペースとの関係上、やむを得ず省略したと理解していただきたい。
 
 「円満具足」の「円満」の意味は、一般的には「角がなく穏やかなこと」「感情が激しくないこと」であるが、仏教的な意味では「十分に満ち足りること」であり、「欠点や不足がないこと」を表す。英語ではさしずめ「パーフェクト」な状態のことである。「具足」も「具え足りている」状態だから、何かが欠けていたり不足していないことを意味し、「円満」と類似している。両者を合わせると「完全で、完璧であること」である。この評価は、『創世記』の第1章で神が天地創造の後に宣言された「はなはだ良い」という評価とも一致する。『大自然讃歌』の扉を飾る言葉として、私は結局、「神の創造された実相世界は完全円満である」という生長の家の根本教義を、「天使の言葉」の詩文を生かして別の言葉で表現させていただいたわけである。
 
 「微妙」の意味についてさらに補足すれば、「天使の言葉」だけでなく「甘露の法雨」の詩文の最終部にも、この「微妙」という言葉は出てくる--
 
 --かく天使語り給うとき、
 虚空には微妙の天楽の声聞え
 葩(はなびら)は何処よりともなく雨ふりて、
 天の使の説き給える真理をば
 さながら称うるものの如くなりき。
 文字通りに解釈すれば、「天楽」とは天から聞こえてくる音楽のことである。しかし、これは比喩として捉えることもできる。その場合、上に掲げた「みみょう」の意味の2番目にあるような「仏法とそれを悟る智慧の深さ」に触れた際の、魂の喜びの響きだとも言える。それが「音楽」に喩えられている点を私は重要だと考える。なぜなら、自然界では、鉱物や生物や数々の法則など無数の存在が観察されると同時に、それらが全体として「1つ」のものとして包括して感じられるだけでなく、その全体を構成する無数の部分が互いに調和して心地よく感じられるからである。そのような全体と部分との不可分・不可欠な調和を表すものとして、「音楽」はとてもわかりやすい。
 政治の世界では、「国が先か個人が先か?」とか「社会の利益か個人の利益か?」などと言って、全体と部分は常に矛盾対立するかのような印象をもつ我々であるが、いったん優れた音楽を前にすると、そんな疑問は雲散霧消してしまう。和音とそれを構成する一音一音の関係は、どちらが先とか、どちらが後というものではない。和音は一音のためにあり、一音は和音のためにある。バイオリンの響きはピアノの音より優れているかそうでないかなどの疑問は起こらない。両者はともに演奏全体を構成する部分であり、ともに不可欠である。全体は部分のためにあり、部分は全体のためにある。それを理論や理屈で説明する必要はなく、聴いただけで納得し、疑問の余地なく感動する。それが芸術というものの力だ。このような全体と部分との複雑で微妙な一体性の理解が、音楽の領域を超えて、すべての生物と事象と存在とを覆い包む悟りに至るとき、これを得た感動はきっと「天楽」のハーモニーに喩えることができるだろう。
 
 「大自然讃歌」はその目的に向かい、自然界とそれを構成する生物や鉱物と、それらの背後にある法則などを言葉によって紡ぎ出し、整列させ、あるべき角度を与えて、大調和の感得へと導こうとしている。
 
 谷口 雅宣

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