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2014年2月 6日 (木)

『大自然讃歌』解説 (3)

 「自然と人間の大調和を観ずる祈り」の第3段落目は、次の言葉で始まる--
 
「その実相を見ず、“個”が実在であり、世界の中心であると見るのは迷妄である、“個人の損得”を中心にすえるとき、人間は自然との大調和を見失うのである。」
 ここにある「その実相」とは、「すべての存在が渾然と調和し、支え合っている」という世界の姿を指す。人間は普通、特に幼い頃は、肉体の自分を中心として世界を見、世界を考える。そうしなければ、肉体生命を維持・発達させることができないからだ。まだ乳飲み子である赤ちゃんが、自己中心的に考えずに、母親の都合を考えて泣いたり、泣かなかったりするならば、必要な時に、必要な栄養素を、必要量だけ得ることはできないだろう。だから、肉体が未発達の段階にある人が、「“個”が実在であり、世界の中心であると見る」のはやむをえない。が、成人した人間がこれと同じ価値観をもって生きようとするならば、その人はあらゆる場面で、他の人や社会とぶつかり合うことになる。こういう人物は「エゴイスト」とか「自己中心的」と呼ばれ、人から避けられ、さらには嫌われ、まともな恋愛もできないだろう。だから、その人物が「社会との調和」を失うことは容易に想像できる。
 
 しかし、この祈りは、それを言うのではなく「自然との大調和を見失う」と言っている。これははぜか? その理由は、エゴイストが社会との調和を失うことは自明でも、その人が自然界と衝突するということは、それほど自明でないからだ。前者はここで強調しておかなくても、後者についてはきちんと言おうとしているのだ。個人主義が称揚される現代では、後者については特に不明瞭になっている。しかし、このことは、すでに『創世記』の“楽園追放”の物語の中にきちんと書かれているのである。
 “楽園追放”の神話を思い出してほしい--神は、最初の人類であるアダムを創造した後、彼のあばら骨から女を造り、二人に楽園のどの木からでも採って食べていいが、「善悪を知る木」からは採ってはいけないと命じられた。ところがヘビが現れて、その木から実を採って食べても死にはしないし、「神のように善悪を知る者」となれると言って誘惑した。そこでまず、女が実を採って食べ、夫に与えて食べさせた。すると、二人は自分たちが裸であることに気がついて、イチジクの葉で腰回りを隠したのである。その後、楽園を神が訪れたとき、二人は神から身を隠したため、神は二人が禁忌を破ったことを知った。神の詰問に答えて、アダムは禁忌を冒した理由を「女が木から採ってくれたから」と説明した。一方、女は「ヘビがだましたから食べた」と答えた。このあと、神が彼らに言ったことを注意深く読んでほしい--
 
 つぎに女に言われた、
「わたしはあなたの産みの苦しみを大いに増す。
 あなたは苦しんで子を産む。
 それでもなお、あなたは夫を慕い、
 彼はあなたを治めるであろう」。
 更に人に言われた、
 「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、私が命じた木から取って食べたので、
 地はあなたのためにのろわれ、
 あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。
 地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、
 あなたは野の草を食べるであろう。
 あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、
 あなたは土から取られたのだから。
 あなたは、ちりだから、ちりに帰る」。
 (『創世記』第3章16~19節)
 ここに描かれているのは、どういうことだろうか? 私は、これらは結局、「人間は自然の中で苦しみながら生き、そして死ぬ」ということだと思う。農産物を作ろうとしても雑草が生い茂る。一切れのパンを得るにも、厳しい労働が必要である。そうして生き存えてきた肉体も、ついには失い無に帰するのである。これを言い換えれば、人間が「自然との大調和を見失う」ということではないか。では、イブとアダムは禁忌を冒してまで、何を求めたのか? それは、「神のように善悪を知る者」になりたいと思ったからだ。また、神からその理由を質されても、このことを正直に答えず、「ヘビが悪い」とか「女が悪い」と言って、責任を回避しようとしたからだ。このような無責任さと弁解の仕方は、エゴイストに特徴的なものではないか。
 
 このように、アダムとイブが“楽園”から追放された理由をここでまとめると、次の2つになる--
 
 ①神のように善悪を知りたいと思った
 ②責任を回避しようとした
 このうち②は比較的わかりやすいが、①は深い意味を含んでいて、正しい理解が必要だ。
 
 1つの解釈では、菌類や動植物の世界では、それぞれの生物の行動原理やパターンはすべてDNAの組み合わせで遺伝子の形で定められているから、何が善であり、何が悪であるかは問題にならない。例えば、発情期にある飼いネコが、飼い主の知らないうちに妊娠しても、それは“自然の行為”と見なされ、善悪は問題にならない。しかし、人間の男女の場合、配偶者がいる中で、発情しているという理由だけで性行為をして妊娠にいたれば普通、善悪の問題が生じる。その理由は、人間は一般に肉体的本能とは別に「理性」というものをもち、その理性が善悪を判断することで本能を制御することが求められているからだ。そしてこの理性は、神から人間に与えられた“賜”だと考えられてきた。ところが、人間は判断に際し、この理性が必ずしも常には働かない。その結果、人間の行為には「善」も「悪」も生じることになる。だから、人間が常に善悪の判断を過たずに下して生きていけば、神のような完璧な生を送れるに違いない--こういう考え方である。
 
 これに対して、「善悪を知る木」とは、実は「神の創造世界には善もあれば悪もある」という考え方そのものを象徴しているとする解釈がある。これが『生命の實相』で説かれている谷口雅春先生の解釈であり、生長の家の解釈だ。これによると、「神のように善悪を知りたい」と願うこと自体が、「神の創造世界には善悪いずれも存在する」という前提にもとづくという点に注目する。これを言い換えれば、人間を含め、大自然には善も悪もあるということだ。同じことを「個人」の立場に引き寄せて表現すれば、人間は生老病死を経験し、悩み苦しむ肉体的存在だということである。このように自分は不完全で欠陥だらけだという「迷い」が多くの人間にあるために、何かの知識や技術を獲得して自分を補う必要があると考え、外から「善悪を知る木の実」を食べたいなどの欲求が起こってくる、と生長の家では考える--
 
「霊によって生まれ霊によって支えられている無限の生命であるという自覚の代わりに、自分はアダムの肋骨すなわち物質によって造られたものだという自覚が反映して生まれた人間である。だから、自己自身をそのままで完全な人間だという自覚をもたないで、自分は何か他物によって補われなければ完全になれないものだと思っている。この何か他物によって補われる必要があるという渇欲(まよい)がある。この渇欲(まよい)があるために、その渇欲(まよい)を充たすために、これを食べたらどうだと誘惑すべく蛇によって差し出されたのがこの知恵の果実であります。」(『生命の實相』頭注版第11巻、p.72)
 
 今日のような資源・エネルギーの消費と技術社会発展の根源に、この2つの人間の「迷い」があると私は考えるのである。1つは、大自然そのものが善悪混交の不完全な状態であるとする見方であり、さらに2つ目は、我々人間自身も肉体的存在であるから不完全であり、外から何かを付け加えることによってのみ幸福になるという人間観・幸福観である--このような大前提のもとに、数多くの人々は自然改変と、資源・エネルギーの浪費、物質的繁栄の拡大に突き進んでいるのではないか。そのことを、祈りの言葉は次のように表現している--
 「自然界に不足を見出し、自然界を障害と見なし、自然界を自己の支配下に置こうとして、
 自然界の機構を自己目的に改変し利用することは、愚かなことである。
 自然の一部を敵視して破壊することは、恥ずべきことである。
 それによって人間は自然との一体感を失い、
 自然治癒力を含めた自然の恩恵を自ら減衰させ、
 生き甲斐さえも失うのである。」
 
 谷口 雅宣

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コメント

生長の家 総裁 谷口雅宣 先生
合掌 ありがとうございます

京都の講習会、本当にお疲れ様でございました。今頃、ご自宅にお戻りの事と推察申し上げます。私の予想では京都から新幹線で新富士で降りて、そんなに離れいない富士駅から身延線で甲府に出て、復旧したばかりの中央本線で小淵沢まで戻り車でご自宅に戻られたと思います。

今回の大雪は予想外の連続で、JRも国鉄民営化以来初めての豪雪で今の電車もこんな豪雪は初めてだったに違いはなく、昭和38年豪雪に匹敵する位だと思います。あの時は一週間全国の鉄路が停止しましたから。その時現役だった車輌は東北地方に僅かしか残ってません。

しかしものすごい大雪でした。その中、講習会に御指導いただき誠にありがとうございます。この様な身動きできない状況であれば本部のスタジオから衛星中継で講習会会場に放映するのも御教えの手段だと思いますがいかがでしょうか。午後の質問にはFAX等で通信でして答えるなどの方法で一度お考えになってはいかがでしょう。また今週、水曜日に大雪になると予報がありますから。 拝
神奈川教区 相愛会 壮年部員 直井誠

投稿: 直井誠 | 2014年2月17日 (月) 22時55分

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