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2014年2月 3日 (月)

『大自然讃歌』解説 (2)

 讃歌本文の解説に入る前に、揮毫に続いて収録されている「自然と人間の大調和を観ずる祈り」について、少し書こう。
 
 この祈りの言葉は、その最終部に書かれているとおり、2011年3月17日に書かれた。もっと正確に言えば、この日付で私のブログ「小閑雑感」に発表したものである。東日本大震災が日本を襲った日から6日目である。この大震災では、多くの人命が失われただけでなく、それより多くの人々は、自然界に潜む破壊力の大きさに圧倒され、個人の力のみならず、多くの個人が参加して長年にわたって築き上げてきた社会、経済、政治などの文明そのものが、自然界の“ひと揺れ”によって無惨に崩れていく様子を目撃し、あるいは体験した。そして、多くの人々が内部から湧き上がる切実な疑問に答えようとしたに違いない--「なぜ地震が起こるのか?」「なぜ津波を人間は防げないのか?」「なぜこんな事態になったのか?」「自然は人間の敵なのか、味方なのか?」。
 私もその例外でなかった。今回の震災では、地震と津波だけでなく、原子力発電所の破壊にともない、放射能汚染が拡がり、大勢の近隣住民が避難と移住を余儀なくされた。「愛する故郷を追い出された」と感じた人々も数多いに違いない。日本の現代史では、このように大勢の人々が「故郷を追い出される」体験をしたのは、恐らく大東亜戦争と関東大震災以来ではないだろうか。中国では、悪名高い文化大革命のときに、大勢の国民が紅衛兵やその背後にある政治権力によって、都会から農村へ強制的に移住させられた。1人の人間にとって、最も不合理・不条理に感じられることの1つは、自分が生まれ育った土地や町から、自分の意思によらずに引き離されることである。もちろん自分の意志で故郷を離れる人々は少なくないが、その場合のほとんどは、いずれは“故郷に錦を飾る”という希望を抱いている。“故郷を捨てる”という意識をもって離れる人は例外的だと思う。なぜなら、「故郷」こそ幼い頃の自分の生存の基盤であり、この世で生きる一個の人間の自己同一性の根拠であるからだ。
 
 「兎追いしかの山、小鮒釣りしかの川……」
 「ふるさとの山に向ひて言ふことなし
  ふるさとの山はありがたきかな」
 「Oh, Give me a home where the buffalow roam,
   Where the deer and antelope play...」
 
 このように人間というものは、洋の東西を問わず、故郷の自然と人間関係を心の基盤として人生を送るものである。故郷から歩み出しても、それは「捨てる」ためではなく、いずれ「もどってきて安らぐ」ためである。“村八分”として、あるいは“犯罪人”扱いされて故郷から追い出された人でさえ、いずれ「もどってきて見返してやる」と考える場合が多いだろう。「見返す」ためには、故郷とそこの人々は存在し続けなければならない。その故郷が、放射能汚染とその影響のために人が住めなくなり、自然も荒れ果てて、自分の生存中に戻ることができないというのでは、故郷が失われたに等しい。これほど、人の心に不合理で不条理な感覚を起こさせるものはないと私は思う。
 
 国破れて山河在り
 城春にして草木深し……
 
 人間の営みの“頂点”にある国が破壊されても、以前と変わらぬ自然がそこにあったことの感動を、杜甫(712~770年)は詩に残した。人間心理のこういう基本を振り返れば、私たちはいやおうなく「自然と人間は本来一体である」という事実を確認するはずである。
 
 「自然と人間の大調和を観ずる祈り」は、上記のような心理的な一体感について第1段落で触れている。それは、「自然は人間を支え、人間に表現手段を与え、人間に喜びを与えている」という部分である。自然は人間を水や食べ物や酸素などで物質的に支えているだけでなく、精神的、心理的にもしっかりと支えている。植物の緑、空や海の青、水の流れる音、鳥のさえずり、花の香りなどが、人間の疲れた心をどれほど癒やしてくれるかは、説明の必要はないだろう。また、「表現手段」のことを言えば、すべての芸術表現の道具や材料は、自然界から得られたものか、もしくはその人工的レプリカである。絵画や彫刻の材料、工芸品や衣類、建築物、文学や学問を記録する道具であるパピルスや紙、石材、音楽演奏に必要な楽器……など、数え上げたらきりがない。スポーツをする際のバットやボールやグローブ、スキーボード、金属製品でさえ、もともとは鉱物として地中に眠っていたものだ。このような無数の表現活動の結果、人間は喜びを感じるのだから、結局、自然が人間に喜びを与えているのである。
 
 そのことをきちんと理解し、常に感じている人々は、自然に感謝の想いが生まれるし、自分を支えてくれる自然を破壊せずに、養い育てることに何の疑問も抱かないどころか、それは義務だとさえ感じるはずだ。これが自然と人間との本来の姿である。だから、この段落の最後にはこう書いてある--「両者のあいだに断絶はなく、両者のあいだに争いはなく、両者のあいだには区別さえもないのである」。
 
 第2段落では、科学が教える自然と人間との同一性、または近似性が述べられている。最初の3行に書かれていることはあまりにも“当たり前”のことだから、あまり説明は要しまい。人間の肉体は原子・分子で構成されていて、肉体の営みと活動にともない、それらの原子や分子が肉体の内部に入って、また外へ出るということだ。これが「新陳代謝」と呼ばれるものである。これらの原子や分子の流れだけを見ていたら、無味乾燥に感じられるかもしれない。が、体の内外を往き来する原子・分子の流れが、1人の人間だけで生じているのでなく、すべての人間と生物との間で起こっている事実をよく考えてみれば、このようにきわめて複雑で、厖大な与え合い、支え合いの仕組みがなぜできているのか、という疑問に行き着くはずである。そこに「神の知恵と愛と生命を観ずる」ことを、この祈りは薦めている。
 
 第2段落の最後に出てくる「はなはだ良し」という神の宣言は、聖書の『創世記』第1章31節に出てくるものである--
 
 「神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。夕となり、また朝となった。第6日である。」
 
 この聖句にあるように、神は天地創造を6日間で行われ、その最終日にすべての創造物を見て、評価されたのがこの言葉だ。神御自身が「はなはだ良かった」と宣言されたのが大自然なのだから、私たちも自然を愛し、尊重し、その実相をもっと凝視しなければ申し訳が立たないのである。
 
 谷口 雅宣

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コメント

合掌 ありがとうございます
総裁先生、「大自然讃歌」解説1と2で、大変素晴らしいご教示をいただき衷心より感謝申し上げます。
子どものころから みおしえに触れさせていただいていながら、円満具足微妙の世界についてもここまで深く学んで、自分のものとしていなかったことを反省いたしました。
バブルの崩壊後もわが国は、資源の有限性などお構いなしに、大量生産、大量消費、大量廃棄を繰り返し、先の大震災は、この国が驀進してきた経済的繁栄の浅薄さを私たちに教えていただく1つの機会だったように思いますのに、政治家はまだ原発の安全性や必要性を訴えている有り様です。
製品ひとつにしても、在庫として抱えると資産として課税されてしまいますが、廃棄することで損失として控除の対象と出来る…そんな資本の論理で、新製品が誰の手に触れることもなく、廃棄されてしまう、日本人はこれだけ優秀なものづくりを生み出しながら、どうして、ものを大切にする心を失ってしまったのでしょうか。
いつもながら 総裁先生のご教示により、私たち人間は大自然の一部であり 本来大調和して、一体なのだと、頭ではなく、心でそう感じさせていただきました。
こちら島根もおととい、節分の日は最高気温18度を超え、初夏に近い陽気でしたのに、昨日から氷点下になり、今朝は車の屋根やフロントガラスに降り積もった雪をかいて 徐行運転で出勤しました。あまりの気温の乱高下に担当させていただいています高齢者の皆さんが体調を崩し、入院する人が続出しています。
金曜日には全盲のYさんのところに伺うことになっておりますので、総裁先生の大自然讃歌のご解説1と2を代読させていただく約束をしています。
とくに心にとまるところは点字に変換されます。
総裁先生のご教示は、ハンディを抱えながらに生きている人たちにも大きな光となっております。
今後ともよろしくお願いいたします。
     再拝 島根教区 岡田さおり

投稿: 岡田さおり | 2014年2月 5日 (水) 22時51分

谷口雅宣総裁先生
合掌、ありがとうございます。
『大自然讃歌』のご解説の連載開始、誠にありがとうございます。
生長の家創始者でいらっしゃる、谷口雅春大聖師がご教示下さいました、『聖経 甘露の法雨』も元は「詩」すなわち「讃歌」と受け止めさせていただいております。
総裁先生がご教示下さいました二つの讃歌が、これからもわたくし達信徒の心のよりどころとして重要な位置をしめることと存じます。
居住まいを正して、拝読させていただきます。
余談ですが、昨日の白鳩ジョイメールに鮮やかに思い出したことがあります。
わたくしは、総裁先生とほぼ同年代ですが、田舎の里山から大きな恩恵を受けて育ちました。
松ぼっくりはかまどで炊くご飯の燃料でした。そうして里山に分け入って、枯れ松葉を山と集めて負ってかえり、風呂焚きの燃料としていました。
もちろん両親共々、まるでレクリェーションだった少女時代の数々の場面が蘇ってまいりました。
「自然を愛し、尊重し、もっと実相を”凝視”しなければ”申し訳が立たない”」という総裁先生の強いお言葉が胸に迫ります。
島根教区のご講習会が七月十三日、まもなく開催されます。ご指導有難く、お待ち申し上げます。

投稿: 西村世紀子 | 2014年2月 6日 (木) 11時35分

総裁先生,合掌ありがとうございます。
あの「大震災」からもうすぐ3年が経ちます。被災地,とりわけ三陸の沿岸部と福島第1原発周辺の状況はあまり変わっておらず,いくら「我慢強い」と言われている東北人も半ばあきらめ(行政等の対応に)にも思える気持ちですが,被災者はそれぞれ日々を精一杯生きております。
「自然と人間の大調和を観ずる祈り」は,被災地の「何故こんなことが?」といった想いに一つの回答を与えてくださったと心から感謝致しております。
縄文の昔から自然と調和し,自然に「神」を見出し共生してきた筈の東北地方がなぜこんな目に遭わなければならないのか?みな疑問だったと思います。しかし,振り返ってみれば,巨大な防潮堤を作り,原発を受け入れ,いつしか祖先の残した教訓を忘れていたことも事実です。
「大自然讃歌」本編のご解説を楽しみにしております。
                   再拝

投稿: 佐々木(宮城教区生教会) | 2014年2月 6日 (木) 19時30分

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