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2014年2月 1日 (土)

『大自然讃歌』解説 (1)

 経本型の『大自然讃歌』の冒頭には、「円満具足微妙」の揮毫を入れさせていただいた。この言葉は、谷口雅春先生の聖経「天使の言葉」の詩文の終りに近い部分に書かれた、次の一節に呼応するものである--
 円満具足清浄微妙の世界、
 これ実相世界、
 これ汝らの世界、
 そのほかに世界あることなし。
 
Emmangusoku  神の創造である実相世界を表現する言葉に、一定のものはない。なぜなら、実相は言葉による表現を超えているからだ。無限の数の言葉を使っても表現しきれない神の国の実相ではあるが、その反面、釈尊がハスの花を手に持って目を瞬かせただけでも、迦葉尊者がその意味を会得して破顔微笑したように、実相を観ずることができる者にとっては、言葉によらずともそれを指し示すことができる。ただし、受け手の側に、ある程度の素養がなければ間違った理解が生じる可能性は十分にある。
 
 経本冒頭のこの六文字に対して、生長の家講習会で質問されたことがある。質問者は、この六文字のうち「微妙」の二文字の理解にいたらなかったらしく、質問用紙には「ビミョーとはどんな意味ですか」と書いてあった。聖経「天使の言葉」に親しんでこられた読者はご存じのように、この場合の「微妙」は「ミミョウ」と読むのが正しい。最近の若者の間では「ビミョー」というカタカナ表記で使われる言葉があるらしく、それは「怪しい」とか「真偽が断定できない」とか「一概には言い切れない」という意味のようである。しかし、すでに永年にわたり一般に使われ、国語辞典にも定義されている微妙の意味は、①美しさや味わいが何ともいえずすぐれているさま。②細かい所に複雑な意味や味が含まれていて、何とも表しようのないさま」(『広辞苑』)である。
 
 これに対して、「ミミョウ」と読む場合は、やや違う意味をもつ。同じ『広辞苑』には、次の2つの意味が掲げられている--
 
 ①何ともいえないほどすぐれていること。
 ②仏法とそれを悟る智慧の深遠ですぐれたさま。
 
 このうち①は、通常の意味とほとんど同じだが、②は、宗教的な悟りや智慧のすばらしさを表している。「微妙」についてのこれらの諸定義をまとめてみると、現代の若者たちが使う「ビミョー」は何となく否定的なニュアンスがあるが、伝統的な意味の「ミミョウ」は、どんな場合も“称賛”を表しておリ、“全面的な肯定”を意味するといっていいだろう。ここではもちろん、私は伝統的な意味での「微妙」を使っている。この経本の題名は「大自然讃歌」であるから、揮毫する目的も大自然を讃えるためである。大自然を前にして、「円満具足微妙」の言葉を捧げよう、ということだ。「清浄」(しょうじょう)の二文字が抜けているのは、意識して除外したのではなく、揮毫するスペースとの関係上、やむを得ず省略したと理解していただきたい。
 
 「円満具足」の「円満」の意味は、一般的には「角がなく穏やかなこと」「感情が激しくないこと」であるが、仏教的な意味では「十分に満ち足りること」であり、「欠点や不足がないこと」を表す。英語ではさしずめ「パーフェクト」な状態のことである。「具足」も「具え足りている」状態だから、何かが欠けていたり不足していないことを意味し、「円満」と類似している。両者を合わせると「完全で、完璧であること」である。この評価は、『創世記』の第1章で神が天地創造の後に宣言された「はなはだ良い」という評価とも一致する。『大自然讃歌』の扉を飾る言葉として、私は結局、「神の創造された実相世界は完全円満である」という生長の家の根本教義を、「天使の言葉」の詩文を生かして別の言葉で表現させていただいたわけである。
 
 「微妙」の意味についてさらに補足すれば、「天使の言葉」だけでなく「甘露の法雨」の詩文の最終部にも、この「微妙」という言葉は出てくる--
 
 --かく天使語り給うとき、
 虚空には微妙の天楽の声聞え
 葩(はなびら)は何処よりともなく雨ふりて、
 天の使の説き給える真理をば
 さながら称うるものの如くなりき。
 文字通りに解釈すれば、「天楽」とは天から聞こえてくる音楽のことである。しかし、これは比喩として捉えることもできる。その場合、上に掲げた「みみょう」の意味の2番目にあるような「仏法とそれを悟る智慧の深さ」に触れた際の、魂の喜びの響きだとも言える。それが「音楽」に喩えられている点を私は重要だと考える。なぜなら、自然界では、鉱物や生物や数々の法則など無数の存在が観察されると同時に、それらが全体として「1つ」のものとして包括して感じられるだけでなく、その全体を構成する無数の部分が互いに調和して心地よく感じられるからである。そのような全体と部分との不可分・不可欠な調和を表すものとして、「音楽」はとてもわかりやすい。
 政治の世界では、「国が先か個人が先か?」とか「社会の利益か個人の利益か?」などと言って、全体と部分は常に矛盾対立するかのような印象をもつ我々であるが、いったん優れた音楽を前にすると、そんな疑問は雲散霧消してしまう。和音とそれを構成する一音一音の関係は、どちらが先とか、どちらが後というものではない。和音は一音のためにあり、一音は和音のためにある。バイオリンの響きはピアノの音より優れているかそうでないかなどの疑問は起こらない。両者はともに演奏全体を構成する部分であり、ともに不可欠である。全体は部分のためにあり、部分は全体のためにある。それを理論や理屈で説明する必要はなく、聴いただけで納得し、疑問の余地なく感動する。それが芸術というものの力だ。このような全体と部分との複雑で微妙な一体性の理解が、音楽の領域を超えて、すべての生物と事象と存在とを覆い包む悟りに至るとき、これを得た感動はきっと「天楽」のハーモニーに喩えることができるだろう。
 
 「大自然讃歌」はその目的に向かい、自然界とそれを構成する生物や鉱物と、それらの背後にある法則などを言葉によって紡ぎ出し、整列させ、あるべき角度を与えて、大調和の感得へと導こうとしている。
 
 谷口 雅宣

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