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2014年1月24日 (金)

森の祭壇

 前回の本欄では、“森の中のオフィス”へ移転した国際本部の役職員が集まり、敷地内の森で『大自然讃歌』を読誦したことに触れた。この行事は移転後に新たに始められた行事の一つなので、ここで趣旨などを少し説明しよう。この行事の開催は昨年11月の常任参議会で決まった。目的は「豊かな自然に恵まれたオフィスの屋外において風や水の音、寒暖、木々の彩り、鳥や虫の鳴き声などに直接触れながら、“神・自然・人間の大調和”を祈る」ためだ。オフィス内の「世界平和誓願の間」では、すでに業務開始以来、本部講師または本部講師補が毎日交代で讃歌読誦をしていたが、この祈りを役職員全体に広げ、かつ自然との直接的な触れ合いの中で“自然即我”“我即自然”の自覚を深めようとするものだ。こちらは毎月1回なので、今回は2回目ということになる。
 
 森の中での讃歌読誦には、いくつか工夫が必要だった。まず、森の中に儀式をする場所を特別に設けるべきかどうか、という問題がある。屋外での儀式の場所としては、敷地北側にすでに「万教包容の広場」が設けられているからだ。加えていわゆる「お社」や「祠」を作る場合、その周囲の木々を切り倒すことが考えられるが、それでは「自然の森」というイメージが損なわれる。また、「お社」が必要ならば、メディアセンターの敷地内には、東京・赤坂から移設した末一稲荷神社がすでに存在している。しかし、万教包容の広場も末一稲荷神社も、そこで行われる儀式の目的は特化されていて、そのいずれも自然と人間の一体感を深めるためではない。ということで、できるだけ「自然」の雰囲気を壊さず、それでいて、ある程度の数の人間が集まって儀式をする際に、心の焦点を合わせられる対象を設けることを考えた。
 
 通常、宗教儀式にはその中心となるべき場所あるいは対象が必要である。山や森などの日本の自然の中では、それは小さな石製や木製の祠(ほこら)であったり、注連縄を張った大木や大岩であったりする。仏教では、いわゆる“石の地蔵さん”や観音像、石碑などがその役割をする。しかし、そういう心の焦点を合わせる対象を大規模にすることは、すでに書いたように「自然」のイメージから遠ざかり、ひいては“自然破壊”に通じる可能性もある。だから、できるだけ小規模で目立たない木の祠を採用することにした。
 
 では、この小さな祠をどのように設けるか--別の言葉でいえば、「祭壇」をどうすべきかが次に問題になる。日本古来の神道では「神棚」、仏教では「仏壇」、キリスト教では聖卓(holy table)に該当するものを、祠の前に設けるか設けないか。また神道では「神体」や「依代」とされるもの、あるいは宗教的シンボル--仏教での「仏像」や「仏画」、キリスト教での「十字架」--に該当するものはどうするのか、という問題もある。
 
 これらについては、方向性は比較的簡単に決まった。「木製の祠」を設けるのであれば、それは日本の伝統的形式であるから、その他の要素も同じ伝統に従うという方向である。もちろん、“森の中のオフィス”は私たちの世界的運動の「国際本部」である。しかし、それは日本の国土内に位置し、そこで働くほとんどの役職員は日本人であるから、これは最も無理のない選択である。しかし、このことは「日本の形式は世界の宗教と異質である」という意味ではなく、また「海外で同じことをする場合にも、日本方式でやるべし」という意味でもないことをここで強調しておこう。この辺りの事情については、すでに発表されている「生長の家の儀式についての基本的考え方」の中で詳しく説明されている通りである。
 
Forestalter_01  このような考えにもとづいた結果、設けられた場所が写真である。“森の中のオフィス”の敷地内で『大自然讃歌』の読誦をする際の祭壇だから、人工のものをできるだけ排除し、人間が造作したものは「祠」だけとした。それ以外の石や岩は、その場所にもともとあったものを基礎とし、周囲の石や岩を移動させて壇状に並べただけである。この場所の周辺には、普段は水がないが、大雨が降ると小川が現れる。だから、川底にあたる部分には大小様々な石が転がっていて、それらは角がとれていたり尖っていたりする。それを整理して脇へのければ、比較的平らな“川原”となる。そこならば、ある程度の数の人間が立って儀式をすることができるのである。祭壇の位置は、川原より一段高くなっているから、大雨で出現する川に入ることはまずないだろう。
 祠の中には神札が収められている。生長の家で信仰するのは唯一絶対神であるから、そこには「天之御中主神」の神名を書かせていただいた。神札には通常はお札を授与する神社や神宮の名前を書くが、宇宙の本源神の“お宮”は大自然そのものであり、特定の人造の社に納めるには無理があり、また長崎の龍宮住吉本宮や宇治の宝蔵神社とも性格が異なることから、お宮の名前ではなく、神名を直接書かせていただいた。その意味は、この小さな祠の中に宇宙本源神が収まっているというのではなく、この祠を一種の“接点”として、人間が大自然との交流を図る契機にするためだ。接点は「点」であるから、小さくていい。点ではなくて面であったり、立体であったりすると、その存在感によって、大自然やその創造主の全相がかえって制限されてしまう。つまり、人間の側が、その外観に縛られて神の全相を観じにくくなる。そのリスクを考えた。
 谷口 雅宣

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コメント

合掌 ありがとうございます。
深夜勤務の合間にコメントさせていただこうかと思い、こんな夜中に失礼いたします。
総裁先生の「森の祭壇」というタイトルが、何だかとても心が温かくなり、癒される思いがいたします。
こちら島根は今週、夜遅くに急に雪が積もったかと思えば、昨日、今日は気温が15度もあり、まるで春のようでした。しかし、今夜は、激しい雷に 竜巻警報まで出され、日々の気温差が尋常でありません。
日本はバブル崩壊後にも、消費の欲求はとどまるところを知らず、何か1つ…たとえば、コーヒーでも、シャンプーでも、何でも種類が多すぎて、お店にはずらーっと並べてあり、迷うばかりですが、「自然の中で暮らしたい」「今日は少し疲れているから休みたい」「高度な先進医療は受けないで家で最期を送りたい」などというシンプルな欲求は叶えられない、何だか複雑な世の中となっていて 生きづらさを感じます。
総裁先生のご教示を拝読しますと、私たち人間は大自然の一部であるという自覚に立ち戻ることができます。草花は与えられた場所で精一杯に咲こうとしていますし、隣の花を羨んだりもしませんね。現代は自然を見る、感謝する余裕もなく、日々の喧騒の中に埋もれ、我欲ばかりに追いかけられている人が多すぎるように思います。
人間の力の及ぶ範囲なんて知れていて、大自然に生かされているという、深い自覚を総裁先生のご教示により、また学ばせていただきました。
総裁先生は祭壇ひとつにも、自然を壊さないように大きな愛の心でお考えになっていらっしゃり、そんな素晴らしい先生が、総裁として私たち信徒を日々ご指導くださいますことに、感謝の気持ちでいっぱいになります。
ありがとうございます。島根教区 岡田さおり

投稿: 岡田さおり | 2014年1月26日 (日) 00時28分

なんにもない山の中でお奉りしたい時、そこにあるもので祭壇を作ってします。昔から私達(人類)はそうしてきた。この祭壇、なんだかホッとします。「天之御中主神」のお札(作られたものですが)、我が家にもあります。お奉りしてあるだけでしたが、御札を通して自然を礼拝しようと思いました。ありがとうっございます。

投稿: 水野奈美 | 2014年1月26日 (日) 22時11分

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