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2014年1月27日 (月)

森の祭壇 (2)

 「森の祭壇」を作り、その前で『大自然讃歌』を読誦するとは、何を意味するのだろう。先に書いたように、「森の祭壇」は、大自然を創造された宇宙の本源神と私たちとの“接点”である。私たち人間の心は、五官の感覚器官から伝わる情報--特に、視覚からの情報に大きく左右される。このことは、脳の構造を見ても、視覚からの情報処理に脳の主要部分が使われていることからも分かる。しかし、大自然は、その全容や全相を個人の視覚によってとらえることはできない。対象が大きすぎて、全容や全相がとらえられないものは、ほかにも数多くある。例えば、山や川や森や地球、街、駅、地域、国などだ。そんな場合、人間はそれらをどうやって視覚化するだろうか? そんな時、ミニチュア化や象徴化が行われるのだ。
 
 富士山が世界文化遺産に登録されたが、この偉大な山は、古来多くの画家によって描かれてきた。しかし、それらの無数の富士山の絵のどれ一つをとっても、富士山の全容や全貌が描かれているのではない。ミニチュア化され、象徴化された「一面」がそこにあるのだ。言い直すと、どれも富士山の特徴をつかんで、その一面を視覚化することで、全体を示そうとしているのだ。特徴的な部分を描くことで、全体を示すのである。これと同様の方法で、人間はそこに棲む魚によって川を示し、そこにある特徴的な木によって森を示し、地球儀によって地球を示し、街に特徴的な樹木によって街を示し、その特徴的な塔や時計台によって駅を示し、その特産物によって地域を示し、国旗によって国を示してきた。最近では、コンピューターの使用が一般人の生活に深く関わってきたため、コンピューターにできる数多くの機能のそれぞれを、小さな図案として視覚化して、それぞれのマーク(図案)を指示することでプログラムを起動し、機能を発揮させる方法が多用されている。これが「アイコン」と呼ばれるものだ。
 神道では、樹齢数百年もたつ巨木や、巨大な岩石、大きな滝、そして山などの自然物を「ご神体」として礼拝することが珍しくない。私はこれらのご神体は、大自然の「アイコン」のようなものだと理解している。つまり、それらのご神体そのものが「礼拝の対象」なのではなく、それらの背後にある目に見えない偉大な力を、人間が視覚的にとらえるためのミニチュア化された象徴だと考える。巨木や巨岩を「ミニチュア」と呼ぶのは奇妙に聞こえるかもしれないが、大自然そのものと比べれば1本の木や1個の岩、あるいは滝や山も「ミニチュア」のように小さいからだ。だから、大自然に意識の焦点を合わせ、その創造主である宇宙本源の神を想う際に、巨木や巨岩、滝や山を“ご神体”として拝むことに、私は反対しない。しかし、先に書いたように、人間は視覚情報に支配されやすいので、巨木や巨岩、巨大な瀑布や崇高な山を目の前にすると圧倒され、それらが「ミニチュア化された象徴」であることを忘れ、それら特定の巨木、特定の巨岩、特定の滝、特定の山を礼拝の対象とする傾向が生じる。私が前回の本欄で、「その存在感によって、大自然やその創造主の全相がかえって制限されてしまう。つまり、人間の側が、その外観に縛られて神の全相を観じにくくなる」と書いたのは、そういう意味である。
 
 そこで、できるだけ素朴な素材を使って小さな祠を作り、その前で大自然を観じるという方法を考えたのである。「小さなものの前で大きなものは観じられない」と、読者は思うだろうか? 私はそう思わない。人間の想像力は偉大であり、部分を通して全体を感じることができ、日常的にそれを行っているという例を、すでに書いた。ただ、それが無意識に行われていたり、条件反射的に、理性による反省を経ずに行われている場合が多いため、問題が生じることもある。しかし、森の中の一画に簡単な祠を建て、その前で手を合わせる時、私たちが感じるのは周囲の森の空気であり、木々の間を抜ける風の音であり、鳥たちの囀る声、虫の羽音、花や木の香り……などだ。当初、それらが周囲にバラバラに分散して感じられていても、いったん祠に注目し、意識を集中すれば、それを自分の周囲に拡がる大自然のミニチュア化された象徴であると観じることができると思う。
 
 こうして『大自然讃歌』を開き、その詩文を朗読すれば、そこに書かれた自然の様々な様相や変化が、一段とリアリティーをもって心の中に感じられるのではないだろうか。目的は「自然即我」「我即自然」の実感を深めることだ。詩文は文語体で書かれているが、そこに使われている表現は比較的直裁であるから、難解なところはあまりないと思う。が、その意味を十分知りたい読者のために少し解説をしよう。
 
 谷口 雅宣
 

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コメント

合掌、ありがとうございます。
谷口雅宣総裁先生、いつも尊いご指導ありがとうございます。総裁先生の”人間の想像力は偉大である”という御文章に目を見張りました。
昨日は午後誌友会に出講させていただき、帰宅して初めて今回のブログを拝読させていただいたわたくしです。
誌友会では、ご主人や舅さんへの思いについての話題になりました。わたくしは、自分への反省も含めて、「私たちは既に想像する力を与えられているのだから、相手の気持ちを想像しましょう。見えること、聞こえてくる言葉だけで判断しないで、その人の育って来られた過程にも想いを馳せましょう。こちらが発した言葉を受け止める相手の気持ちも想像してみませんか?
もし大事な夫が亡くなったら、一体どうなるだろうと想像してみて下さい。
そうして、例えば、生ごみ一袋を燃やすためのエネルギーや、不燃ごみを家の外に出してしまったその後の処理についても想像してみませんか?」
と”想像”を強調いたしました。
いつも誌友会では感じるのですが、守護の神様のお言葉を自分を通して伝えさせていただいているのだ、と。
四無量心を行ずるとはまさに”想像力”を強く働かせることでもありますね。
本日報道された新型万能細胞の研究の先に、人間や社会にどんな未来が待ち受けているのかも少しは想像して、果たして手放しで喜んでよいのか、総裁先生のご指導をお待ち申し上げます。
   島根教区  西村世紀子

投稿: 西村世紀子 | 2014年1月30日 (木) 15時27分

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