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2013年12月

2013年12月31日 (火)

本年を振り返って

 生長の家の歴史にとって本年--平成25年(2013年)は、大きな変化のあった年だった。最大の変化は、何といっても運動の本拠地である国際本部が、東京を離れて山梨県北杜市へ移転したことだった。この変化は、“森の中のオフィス”構想としてすでに10年前から予告され、構想が煮つまる過程でしだいに具体的な計画となっていったのだが、大きなプロジェクトの例に違わず、実際の行動にいたるまでには多くの紆余曲折があった。その過程では多少の混乱もあり、また誤解や行き違いもあったかもしれない。が、それらは、今日の“森の中のオフィス”の考え方や、そこでの執務形態の基礎を固めるよい学習となった。その間、世界中にいる大部分の信徒の方々は、「これ以上、自然破壊と地球温暖化に荷担しまい」という私たちの考えと、運動の向かっている方向を支持してくださり、私たちを信頼して、運動に積極的に協力して下さったばかりでなく、この構想全体に対して多くの讃辞さえ寄せて下さった。これらのことへの私の感謝の思いは、言葉を尽くしても尽くし切れないものである。信徒の皆さん、本当にありがとうございました。
 
 私は今、雪化粧した甲斐駒ヶ岳を望む自宅の部屋で、新年を迎える準備をほぼ終えて、午後の陽を体にいっぱい浴びながらこの文章を書いている。外気温は0℃近くではあるが、遮るもののない太陽の光の放射熱は、室内では暑いと感じるほどである。窓外では時おり強い風が吹いて、周囲の森がざわめく音がわずかに聞こえるものの、そのほかには何の音もない。約1週間前に降った雪は、家の周囲や道端に盛り上げられ、除雪できなかった分は氷結して土を隠しているが、日光の暖かさのおかげで、ゆっくりと汗をかくように周囲に融け出している。この道路の氷は4~5㎝の厚さに固まっていて、明け方の寒さの中では鋭いシャベルの先でも容易に砕けなかった。が、今は私が指一本動かさなくても、陽の光の下で溶け出している。
 
「問題が氷解する」という言葉がある。氷が解けるように、疑いや疑問がすっかり晴れることだ。それが起こるためには、説明や説得の努力をしなければならないことはもちろんだが、そうしてさえもなお、疑義を唱えたり抵抗が消えない状態の中では、信ずるところのものを、陽の光のような明るい心で、ただひたすら地道に繰り返して述べ続け、また実行していくことによって、疑問や抵抗も消えていくに違いない。
 
 私は、立正佼成会の庭野日鑛会長が“森の中のオフィス”の落慶に際して祝辞を寄せてくださったことを、大変感謝している。庭野会長は、そこでこう述べていられる--
 
「経済優先、人間中心の価値観が根強い社会の中で、“これ以上望まない”という節度を保ち、人と自然の調和を目指す生き方を貫くことは、深い宗教的信念ないし現状を変革する志気とも申すべきものがなければできないことです」。
 
 私はこの素晴らしい讃辞をいただいたことで、異なる教団の間にあっても、宗教家としての信念の共通するところは多く、それを高く掲げて前進し続けることで、宗教の違い、宗派の違いにかかわらず、世界は正しい方向に発展することができるとの確信を新たにしたのだった。
 
 民主党の失政により政権を獲得した安倍晋三内閣と自民党は今、従来の経済優先、人間中心の政策を次々と復活させ、原子力発電所さえ順次再稼働していく意図を明らかにしている。一国の政治には、特に民主主義国家においては、その国の国民の大多数の意思が反映していることは否めない。しかし、「すべての国民」の意思が反映しているわけでもない。特に、大企業中心・都会中心の政治経済体制は長い間、“戦後日本”を支配してきたから、その大きな流れにもどることで「従来どおり」の生活が回復できるとの考えに傾く人々は多いだろう。ところが、日本の内外の客観情勢は、戦後日本とはあらゆる点で異なっているのである。少子・高齢化は戦後日本には存在しなかった。中国、韓国などの東アジア諸国の経済発展は、戦後日本の知らない周辺環境である。北朝鮮支配者の世代交替と核武装化も未経験の環境である。“冷戦”が消えたということは、「東側・西側」という戦後世界を支配していた考え方の枠組みが崩壊しているということで、世界各国はより柔軟な友好関係、同盟関係を構築できるということを意味している。だから、日本がどんなことをしても、アメリカとの間に戦後数十年間のような“蜜月関係”が維持されていくという保証はないのである。
 
 そんな中で独断的に、安倍首相は二十数年ぶりに靖国神社を正式参拝した。中韓両国との関係がこれでさらに難しくなることは、明らかだ。アベノミクスに好意的だったアメリカでさえ、失望と不快感を表明した。しかし、同首相は「話せばわかる」という意味のことを言うだけである。また、「どんな国でも戦没者を尊敬し、礼節を尽くすのは当たり前だ」というのは分かるが、その「戦没者」の中に、戦争を起こし、植民地政策を遂行した張本人が含まれているということを無視し続けている。そんな施設に参拝して“礼節を尽くす”という行為が、海外から見れば戦争と植民地政策を正当化していることになるという簡単な外交的論理が、この首相にはまったく理解できないか、あるいは強引に無視することで国益が増進されるという奇妙な信念をもっているように見える。
 
 日本の政治はこのように昏迷を続けているが、私たち生長の家は信仰の純粋性を守るために政治運動をやめ、政治的取引きの中に埋没しまいと決めてから久しい。政治の世界の時々の浮沈に一喜一憂することなく、「人間・神の子」真理を高く掲げ続けながら、人間社会と自然とが共存共栄する神の御国の実現に向かって、日時計主義の明るい信仰をさらに多くの人々に弘めていこうではありませんか。
 
 本年一年、皆さま方の燃えるような求道と伝道の活動に心から感謝申し上げるとともに、新たな年に於ける皆さま方のご多幸、ご健勝を、心から祈念申し上げます。よい年をお迎えください。ありがとうございました。
 
 谷口 雅宣

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2013年12月17日 (火)

クマさんと出会ったら? (2)

 ところが、この歌のオリジナルである英語の歌詞は、日本語の訳詞とはずいぶん違う内容なのだ。英語の歌詞は何種類もあるようだが、そのいずれも、森の中でクマに遭遇することの恐ろしさを強調しているようだ。たぶんこの歌は、ボーイスカウトやガールスカウトのメンバーに、キャンプなどで野生のクマと遭うことの危険さを警告するためのものなのだ。
 
 代表的歌詞としてネット上に掲げられている英文は、こんなものだった--
 
  The other day, I met a bear,
  A great big bear, away up there.
  He looked at me, I looked at him,
  He sized up me, I sized up him.
  He says to me, "Why don't you run?"
  "Cause I can see, you have no gun."
  I say to him, "That's a good idea."
  "Now let's get going, get me out of here!"
  I began to run, away from there.
  But right behind me was that bear.
  ......
 
 これを拙訳をすれば、こんな感じだろうか--
 
 あの日、私はクマに会った。
 大きな大きなクマが、向こうの方にいた。
 彼は私を見、私は彼を見た。
 彼は私を見定め、私は彼を見定めた。
 彼が言う、
 「なぜあんたは逃げないの。
 銃を持ってないくせに?」
 私は彼に言った、
 「そうだね、ほんとに逃げようかな」
 「さあ、私をここから逃げさせて!」
 私は走り出した。その場から遠くへ行くために。
 でもクマは追ってきて、私のすぐ後ろにいるじゃない。
 
 日本語の童謡では「花咲く森の道」でクマに出会い、あわてて落とした「白い貝殻の小さなイヤリング」をクマに拾ってもらうのだが、そんな美しい光景や可愛いらしい出来事など、どこにもないのである。英語では、「クマを遠くに見ても、油断すれば大変な結果になるぞ」というメッセージが伝わってくるのである。まず第一に、クマの大きさが強調されている。次にクマは、人間を見定める。英語の「size up」という語は、「寸法を取る」という意味がある。動物同士が出会って戦うときは、相手のサイズがどうかが重要である。自分より大きいものからは逃げ、そうでないときは戦う。そういうギリギリの判断がここで行われたというニュアンスが、この語にはある。にもかかわらず、自分より小さい人間が逃げないので、クマは不思議がって訊くのである--
 
 「おまえ、銃を持ってないのになぜ逃げないんだ?」
 
 私の解釈では、英語のオリジナルでは、この語がこの歌のメインテーマだと思う。つまり、「森の中でクマを見たら、銃を持っていない場合は、遠くにいてもすぐ逃げろ!」ということだろう。
 
 私がなぜこの歌の日英両歌詞を比較したかというと、この“クマとの遭遇”の描写の中に、日本とアメリカの自然観の違いが表れていると感じたからだ。日本では、クマは「クマさん」であり、外見はちょっとこわくても、人間に好意を示す安全な存在である。これに対してアメリカでは、クマは銃をもって対峙する相手である。スキを見せれば、すぐに襲ってくる。馬場祥弘氏は訳詞を作るときに、英語のオリジナルに忠実な訳を書くこともできただろうが、それはきっと日本では面白くないということを直観したのだろう。英語のオリジナルは、スカウトたちが自然を甘く見ないようにという実利的な目的から作られた。が、日本では、それを採用しても評判はよくないだろうから、カワイく仕立てた。それが功を奏して、NHKの電波にも乗り、童謡としての地位を確立した。
 
 しかし、実際にクマと遭遇するリスクの中で生きる人間にとっては、歌の中のクマの人気など気にしていられない。クマの“本性”をきちんと把握することは死活問題でさえある。私は、今日も自転車でオフィスから帰る道すがら、自分はどちらのクマを相手にすべきかを考えていた。
 
 谷口 雅宣

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2013年12月16日 (月)

クマさんと出会ったら?

 12月に入ってまもなく、大泉町にツキノワグマが現れたとの情報が入った。山荘の管理を頼んでいる会社からのメールで、次のようなものだった--
 
 日時:12月3日午前
 場所:北杜市大泉町北部 甲川上流の西側の沢、砂防ダム近辺
   (標高1300m付近、八ヶ岳横断道南側)
 状況:冬眠中もしくは冬眠直前と思われる大型の熊(ツキノワグマ)
 
 その1週間後に、今度は職場の人間から、これとは別の情報にもとづき、地元の市立泉小学校が登下校する子供たちとその親たちに、注意を促す印刷物を配布したとの話を聞いた。インターネットを調べると、北杜市のサイトにクマの目撃地点が地図で示されていた。一箇所はロイヤルホテル南側の森。もう一箇所は井富橋付近だった。
 
 私は「まさか」と思った。井富橋とは、私が通勤時にいつも通る小さな橋だ。そこでクマが目撃されていたのであれば、妻と私はクマの生息地に住んでいることになる。このことは、しかし初耳とは言えなかった。実は昨年から、井富橋から数メートル先の舗装された山道の電柱に、「クマ注意」を知らせる北杜市の貼り紙が付けられていた。が、私たちは「それは昔のことだろう」とか「もっと遠くで見たのを、安全を考えてここに貼ったに違いない」などと解釈し、あまり真剣に考えなかった。それでも、この地に定住を始めた今秋からは、さすがに不安を感じて、一種の保険のつもりで二人とも1つずつ「クマ除け」の鈴を買っていた。そして、キノコ採りのために自宅の裏山へ入る時には、それを腰に下げたり下げなかったりしていたのである。
 
 北杜市のサイトを読むと、スキノワグマは例年、同市内の南アルプス山系や八ヶ岳山系などで6月下旬から11月下旬頃まで目撃されるという。生態としては、「主に植物性に偏った雑食性」だといい、植物以外にはアリやハチなどの昆虫類や動物の死体などを食べることもあるらしい。暖かい時期に活動し、冬眠前は「11月頃まで脂肪を蓄えるため行動範囲を広げる」とある。そして私たちが住む大泉町では、12月3日の午前7時半ごろ、西井出地内の井富橋付近で目撃された後、同9日には朝7時半ごろ、大泉ロイヤルホテルの南側付近で小学生が目撃したらしい。
 
 生長の家の環境共生部が大泉総合支所に問い合わせた話では、大泉町はクマの目撃情報が少ない地域で、この次期の目撃情報は初めてだという。
 
 このツキノワグマが「大型」だとの情報が気になったので、百科事典を調べてみると「ヒグマよりずっと小さく、体長130~160センチ、尾長8センチ前後、体重120キロ前後」とある。少し安心するが、野生動物は人間より体が小さくても力ははるかに強いものが多いから、油断は禁物だ。どんな性格かと読み進めると、「肉食性の傾向の強いヒグマに比べて、植物性の傾向が強いためかはるかにおとなしいが、突然の出会いなどによる人の被害がわずかながら毎年ある」と書いてある。
 
 私の脳裏には、軽快なリズムに乗って、ある歌が聞こえてきた--
 
「あるひ もりのなか
 くまさんに であった……」
 
 という、あの童謡である。
 
 『森のくまさん』と題されたこの歌は、アメリカでボーイスカウトやガールスカウトで歌われていたものを、馬場祥弘(よしひろ)氏の訳詞でダークダックスが歌い、1972年からNHKの『みんなのうた』で放送されたことで一躍有名になった。この日本語の訳詞では、女の子に森の中で会ったクマは、あわてて逃げるその子が落としたイヤリングを拾って届けてあげるなど、人間に好意を示す善意いっぱいの動物として描かれている。だから私はこの時、無意識にこの歌を思い出して、自分の中の不安を和らげようとしていたのかもしれない。
 
 谷口 雅宣
 

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2013年12月 6日 (金)

運転免許証を更新する

 休日の木曜日に、自動車運転免許証の更新手続きをした。
 私たちが、東京から山梨県北杜市の八ヶ岳南麓に引っ越したのは9月の終わりだが、運転免許証の住所が東京のままだったので、何となく中途半端な気持が続いていた。「片足を東京に突っ込んだまま……」と言ったらいいだろうか、“森の中”へ入ったはずなのに、「本当はまだ大都会が根拠地だ」という囁き声がときどき聞こえてくる……そんな気分である。それに、地元の郵便局で“仲間”として扱ってもらえなかった経験があり、それが少し悔しかった。
 
 半年前の6月の終わり頃に、ここ大泉町の郵便局に口座開設を申し込んだら、住所を表示した本人確認の文書を示せと言われ、運転免許証を出したのである。すると、住所は東京だったので、「こちらの住所では口座は開設できません」と言われてしまった。「こちら」とは、北杜市大泉町の意味である。実は私は、住民票を昨年の12月に東京から北杜市に移していた。だから、1月以降の地方税は東京都にではなく、山梨県に支払っていたのである。だから当然、この地では“仲間”と見なしてくれるだろうと考えていた。が、当地の郵便局員は、「手続き上の規則だからできない」と言って、ガンとして私の大泉町の住所を認めてくれないのである。奇妙キテレツな規則だが、ゴネル時間とエネルギーがもったいないので、私は結局、東京の人間として大泉町の郵便局に口座を開設したのだった。
 
 そんな経緯があるので、運転免許証の更新にともない住所変更が行われれば、これで私は晴れて山梨県民、北杜市民になれると期待していた。
 
 北杜市の大泉支所で住民票を取ったあと、更新手続きをする南アルプス市の交通センターに向かい、午前10時すぎにそこへ着いた。広くてきれいな新しい建物で、その1階フロアーで流れ作業のように更新手続きをすませる。そして、10時半から1時間の「講習」なるものを受け、12時前にやっと「山梨県公安委員会」発行の免許証を受け取ることができた。これでもう一歩、私は山梨県に近づいたと同時に、もう一歩、東京から離れることができたと感じた。
 今の人間は普通、この地上に80年ほど生き、そしてどこかへ去る。その間、いろいろな場所に住むことになるが、その場所場所での社会関係、気候や風土、食習慣、文化などを自分の中に取り入れながら人格を形成していく。一般に、人の人格形成に最も深い影響を与えるのは、生まれ育った土地ということになっている。それは「故郷」とも呼ばれるが、私の場合、それは東京である。そこから離れたがっている自分がいる一方で、東京を懐かしく思い、その魅力に惹かれる自分もいる。そんな分裂した心境は、しかし大泉町に“山荘”をもち、東京とそこを往復していた間は、自分の中であまり違和感を生まなかった。どちらの自分も、それなりに満足していたからだ。ところが、大泉町への移住を決め、同時に都会生活から離れようと決めてからは、「東京を懐かしむ自分」を捨てる作業が必要になったようだ。
 
 私は今「東京を懐かしむ自分」と書いたが、それは本当は「都会を懐かしむ自分」なのかもしれない。というのは、私は東京に最も長く住んでいたが、若いころは横浜に3年弱、アメリカに3年住んだことがある。後者での生活は、1年間をサンフランシスコ対岸のオークランドで過ごし、2年はニューヨークのマンハッタンだったから、いずれも大都会である。思い返せばこれらの町のいずれも懐かしく、機会があればまた訪れたいと感じる。だから今、私は「都会を懐かしむ自分」と対面し、それに別れを告げようとしているのかもしれない。
 「一方を捨てるならば、もう一方には受け入れてほしい」と感じるのは、普通の人情だろう。しかし、その「もう一方」のほうにも事情があるから、どんな人間でも即時、無条件には受け入れられない。“新参者”の側の努力と時間が必要であることは充分理解できる。運転免許証の更新が、そんな努力の一助となることを私は願っている。
 
 谷口 雅宣

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