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2013年11月29日 (金)

信仰の内容と外観

 私は最近のブログで日本の神話に出てくる神の名前を挙げて、生長の家の信仰について語った。それを読んで、一部の読者は「いったい何が起こったのか?」と不思議に感じているかもしれない。また、ブログだけでなく、このほど生長の家総本山で行われた秋季記念式典でも同様の話をして、それが12月1日号の『聖使命』紙に報道されているので、意外な気持を抱いた人がいるかもしれない。神話を話題にすることは、しかし私にとってごく自然なことなのである。
 
 その証拠に、私は本欄の前身である「小閑雑感」でも、神話について何回も語ってきた。それは例えば、2011年1月に書いた「天照大御神について」という11回のシリーズであり、2010年2月11日、12日、14日に書いた「神武東征」の神話をめぐる考察、そして同月15日付の「神話について」という文章である。日本の神話のことだけでなく、聖書の『創世記』にある天地創造の神話についても、2010年の7月に5回にわたって文章を書いた。時をさらに遡れば、2009年11月6日には、神話学の発展に大きく貢献したフランスの文化人類学者を偲んで、「レヴィ=ストロース氏、逝く」を書いたし、アイヌの神話にもとづく「イオマンテ」という儀式にも興味をもち、2008年9月、2005年3月、同年5月のブログの材料にしている。
 
 だから、本欄で自然と人間の関係を考えるときにも、両者の最も原初的な接点である「食事」を扱いながら、昔の人々がどのような想いと態度をもって自然の恵みを体内に摂取したかということを、神話を手がかりにして考え、また、そこから神・自然・人間の調和した生き方を学ぼうとして論を進めている。
 
 もしかしたら、一部の読者は「食事」のようなごくありふれた日常茶飯事から、「高御産巣日神」というような一見、日常とはかけ離れた話題が跳び出してきたことに驚いていられるのかもしれない。もしそうであれば、両者の表面的な違いに惑わされないでほしい。後者は非日常的な日本語だが、自然界のあらゆる所に見出される“ムスビの働き”を神名に表したものだと理解していただけば、日常生活とかけ離れていないことが分かるはずだ。もっと具体的に言えば、私たちの食事はコンビニ店やレストランだけが提供してくれるのではなく、その前に農業や漁業を営む人々が必要であり、さらにその前には野菜や家畜や魚介類が繁栄している必要があり、そのためには地球の生態系が健全に機能している必要があり、さらにそのためには、それらすべてを創造した「何ものか」が存在していなければならない--私たちの食事は、これらすべてが結び合わされて初めて可能となる。そのことを思い出してほしいのだ。私は、食事の際に、この「何ものか」に思いを馳せ、さらにその「何ものか」と目の前の食事との間に関与し、介在したすべての人・物・事に感謝の思いをもつことを提案しているのである。
 
 ただ、感謝の念を振り向ける対象が「何ものか」というような無名で抽象的である場合、私たちの心は満足しないだろう。だからもし、家に神棚を設けて神道形式で先祖供養などをしている人ならば、(私自身がそうであるように)その「何ものか」の働き--特に、ムスビの働きを日本神話の中で的確に表した「高御産巣日神」をその名前として採用してはいかがだろう、と提案したのである。これは、すべての生長の家信徒がそうすべきだという話ではない。自分はすでに天照大御神を祀ったお社を神棚に置いていて、そのお社を通して神・自然・人間の一体感を得、三者の大調和を祈るので十分だと考える人は、それでいいと思う。また「生長の家大神」を祀ったお社で十分だという人も、それでいいだろう。さらにキリスト教や仏教から生長の家に入信した人で、「十字架」や「観世音菩薩像」で同じ目的が達成できると信じる人がいれば、それはそれでいいのである。
 
 生長の家は形や形式を重んじる信仰ではなく、その形や形式を生み出した信仰の「内容」を問題にする。この「内容」さえきちんと把握していれば、神道的外観、仏教的外観、キリスト教的外観の違いによって信仰がぐらつくことはないのである。しかし、外観はまた「内容」への入口でもある。より自然に「内容」に到達できる外観というものは、文化や国籍、宗教の違いによって変わってくるものだ。だから、今回の提案は、あくまでも日本の神道に慣れ親しんだ人々に対するものであることを、読者はご理解いただきたい。
 
 谷口 雅宣

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コメント

合掌ありがとうございます。
このたびの総裁先生のブログによりますご教示で、生長の家は形にこだわる宗教ではないこと、「内容」を重んじることが大切で、私には万教帰一のみおしえを、さらに深くご指導いただけましたように思います。
ひとつだけ、私自身の反省も兼ねて、総裁先生におたずねしたいことがございます。
今日、在日ブラジル人信徒さんと打ち合わせなどをするため、少し時間を作って会いました。
この方は日系3世で本国でも小さい時から生長の家に慣れ親しんでおり、日本に来て5年以上経ちますし、心の澄んだ、とてもきれいな心の持ち主ですので、こういうお祈りの仕方も総裁先生がご指導くださったとお伝えし、「タカミムスビノカミ」「カミムスビノカミ」と書いたものを渡したのです。
でも日本語がきちんと理解出来ていないこと、私のポ語も片言であること…そこを鑑みますと、総裁先生の今回のご教示は、あくまでも日本の神道に慣れ親しんでいる方に向けられたものだったのでしょのうか。日系ブラジル人信徒さんには、お伝えしたのは私の思いばかりが先にたったものだったのでしょうか。
彼は、素直に受け止めて合掌して受け取り、「これから、これを飾ってお祈りします」と嬉しそうにしていましたが…。
総裁先生のすべてのご教示をポ語にしていただくのは到底難しいと思います。
ただ、せっかく縁あって日本に働きに来て、日本で生長の家のみおしえを学んでいる仲間ですので、総裁先生のご教示をお伝えしたいと思うのでございます。言語の違いは大変ではありますが、同じみおしえを学ぶものどうしですので、結びについて、お伝えしたつもりですが、ブラジル人信徒さんに伝えたのは無理があったのでしょうか。
再拝   島根教区 岡田さおり

投稿: 岡田さおり | 2013年12月 1日 (日) 21時14分

岡田様

横からコメント失礼致します。

>彼は、素直に受け止めて合掌して受け取り、「これから、これを飾ってお祈りし ます」と嬉しそうにしていましたが…。

日本に全く無知というわけではではないので、日本ではこういう祈り方をすると知ってもらえた、という意味ではよかったと思います。ちゃんと説明しようとすれば、ポルトガル語という言葉だけでなく、ブラジルの文化にも深い理解がないと難しいのではないでしょうか。
彼が、真理の中心部分と周縁部分、つまり元は同じ神でも、日本とブラジルでは文化や習慣の違いから違う名前や姿で現れるということを理解しているか確かめてみた方がいいかもしれませんね。


静岡教区 加藤裕之拝

投稿: 加藤裕之 | 2013年12月 8日 (日) 22時27分

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