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2013年11月

2013年11月29日 (金)

信仰の内容と外観

 私は最近のブログで日本の神話に出てくる神の名前を挙げて、生長の家の信仰について語った。それを読んで、一部の読者は「いったい何が起こったのか?」と不思議に感じているかもしれない。また、ブログだけでなく、このほど生長の家総本山で行われた秋季記念式典でも同様の話をして、それが12月1日号の『聖使命』紙に報道されているので、意外な気持を抱いた人がいるかもしれない。神話を話題にすることは、しかし私にとってごく自然なことなのである。
 
 その証拠に、私は本欄の前身である「小閑雑感」でも、神話について何回も語ってきた。それは例えば、2011年1月に書いた「天照大御神について」という11回のシリーズであり、2010年2月11日、12日、14日に書いた「神武東征」の神話をめぐる考察、そして同月15日付の「神話について」という文章である。日本の神話のことだけでなく、聖書の『創世記』にある天地創造の神話についても、2010年の7月に5回にわたって文章を書いた。時をさらに遡れば、2009年11月6日には、神話学の発展に大きく貢献したフランスの文化人類学者を偲んで、「レヴィ=ストロース氏、逝く」を書いたし、アイヌの神話にもとづく「イオマンテ」という儀式にも興味をもち、2008年9月、2005年3月、同年5月のブログの材料にしている。
 
 だから、本欄で自然と人間の関係を考えるときにも、両者の最も原初的な接点である「食事」を扱いながら、昔の人々がどのような想いと態度をもって自然の恵みを体内に摂取したかということを、神話を手がかりにして考え、また、そこから神・自然・人間の調和した生き方を学ぼうとして論を進めている。
 
 もしかしたら、一部の読者は「食事」のようなごくありふれた日常茶飯事から、「高御産巣日神」というような一見、日常とはかけ離れた話題が跳び出してきたことに驚いていられるのかもしれない。もしそうであれば、両者の表面的な違いに惑わされないでほしい。後者は非日常的な日本語だが、自然界のあらゆる所に見出される“ムスビの働き”を神名に表したものだと理解していただけば、日常生活とかけ離れていないことが分かるはずだ。もっと具体的に言えば、私たちの食事はコンビニ店やレストランだけが提供してくれるのではなく、その前に農業や漁業を営む人々が必要であり、さらにその前には野菜や家畜や魚介類が繁栄している必要があり、そのためには地球の生態系が健全に機能している必要があり、さらにそのためには、それらすべてを創造した「何ものか」が存在していなければならない--私たちの食事は、これらすべてが結び合わされて初めて可能となる。そのことを思い出してほしいのだ。私は、食事の際に、この「何ものか」に思いを馳せ、さらにその「何ものか」と目の前の食事との間に関与し、介在したすべての人・物・事に感謝の思いをもつことを提案しているのである。
 
 ただ、感謝の念を振り向ける対象が「何ものか」というような無名で抽象的である場合、私たちの心は満足しないだろう。だからもし、家に神棚を設けて神道形式で先祖供養などをしている人ならば、(私自身がそうであるように)その「何ものか」の働き--特に、ムスビの働きを日本神話の中で的確に表した「高御産巣日神」をその名前として採用してはいかがだろう、と提案したのである。これは、すべての生長の家信徒がそうすべきだという話ではない。自分はすでに天照大御神を祀ったお社を神棚に置いていて、そのお社を通して神・自然・人間の一体感を得、三者の大調和を祈るので十分だと考える人は、それでいいと思う。また「生長の家大神」を祀ったお社で十分だという人も、それでいいだろう。さらにキリスト教や仏教から生長の家に入信した人で、「十字架」や「観世音菩薩像」で同じ目的が達成できると信じる人がいれば、それはそれでいいのである。
 
 生長の家は形や形式を重んじる信仰ではなく、その形や形式を生み出した信仰の「内容」を問題にする。この「内容」さえきちんと把握していれば、神道的外観、仏教的外観、キリスト教的外観の違いによって信仰がぐらつくことはないのである。しかし、外観はまた「内容」への入口でもある。より自然に「内容」に到達できる外観というものは、文化や国籍、宗教の違いによって変わってくるものだ。だから、今回の提案は、あくまでも日本の神道に慣れ親しんだ人々に対するものであることを、読者はご理解いただきたい。
 
 谷口 雅宣

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2013年11月22日 (金)

ムスビの働きで新価値を創造しよう

 今日は午前10時から、長崎県西海市にある生長の家総本山の出龍宮顕齊殿で「谷口雅春大聖師御生誕日記念式典」が開催され、晴天下、紅葉に彩られた自然の中、生長の家の幹部・信徒らが全国から参集して谷口雅春先生のお誕生を寿ぎ、“自然と共に伸びる運動”のさらなる進展を誓い合った。私は、祝詞奏上と表彰状の授与をさせていただいたほか大要、次のような挨拶をおこなった--
 
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 皆さん、本日は「谷口雅春大聖師御生誕日記念式典」に大勢お集まりくださり、ありがとうございます。
 谷口雅春先生は昭和60年6月に満91歳で昇天されましたが、まだ肉体をおもちであったならば、今日が120歳のお誕生日ということになります。ご昇天されてからは28年がたっていますが、先生の多数の著作物から、今でも先生のお心に接することができるのは、誠にありがたいことであります。
 ご存じのように、生長の家の国際本部は今年10月から、八ヶ岳南麓の“森の中”へと移りました。多くの皆さんは落慶式や見学会などの機会を通して、その新しい本部の建物をご覧になったかと思います。このオフィスの敷地には「万教包容の広場」というのがあり、そこには原宿の旧本部会館にあった“神像”が移設されています。私が東京にいた頃、本部へは徒歩で通っていましたから、その神像はビルで言うと4階ぐらいの高さの所にあったので、下を通る目からは詳しい表情などはあまりよく見えなかったのであります。しかし、新しい敷地では2階ぐらいの位置に据え付けられたので、かなり近くから神像を見ることができます。すると、その表情は雅春先生を彷彿させるのです。だから私は、毎朝、先生にお会いしているような気持になるのであります。
 
 さて、生長の家がなぜ国際本部を東京から八ヶ岳へ引っ越したかという話は、私は講習会や書籍をつうじてもう詳しくお話ししているので、皆さんはご存じと思います。ひと言で申し上げると、それは地球温暖化をできる限り抑制し、温暖化の結果として生じる厳しい気候変動、資源の枯渇、紛争の激化などを防ぐためです。加えて、「防ぐ」という消極的な目的だけでなく、エネルギーや資源をムダ遣いする私たちのライフスタイルを積極的に改革し、欲望の満足を追求する社会ではなく、“自然と共に”人類が成長する、平和な社会を実現するためです。
 
 人間は自然を破壊することで経済を伸ばし、それによって幸福が実現できるというのが、従来の考え方でした。しかし、そんな生き方は通用しないということが、次第に明らかになりつつあります。温暖化に伴う気候変動により、自然災害や異常気象による経済へのマイナスの影響が深刻化しています。このマイナスの影響がいわゆる“経済発展”によるプラスの効果よりも大きくなる日が、近づいています。いや、地球全体を見れば、もうすでにプラス効果よりマイナスの影響が大きくなっているのかもしれません。日本では今年の夏、台風26号が伊豆大島を襲い、甚大な被害をもたらしました。また、今月初めにフィリピンのレイテ島に襲来した台風30号は、史上最大級の破壊力に成長したため、甚大な被害を及ぼしました。死者、行方不明者の数は1万人を超えるとも言われています。今後、そのような自然災害の拡大により、世界中で犠牲者が増加していく可能性があります。生長の家では、このような犠牲者の霊を慰め、人類が自然と共に伸びる方向に生き方を変えることを目指し、京都府宇治市の生長の家宇治別格本山の敷地に「自然災害物故者慰霊塔」を建てました。また、この生長の家総本山でも、神・自然・人間の大調和を祈る行事がさまざまな形で行われていることは、皆さんもご存じのことでしょう。
 
 私たちはこのように、教団全体として、また教区単位で、「自然と共に伸びる」ことに主眼をおいた行事や運動を進めています。しかし、個人生活のレベルでは十分な対応がされているかというと、なかなか難しい点があるのではないでしょうか。もちろん多くの皆さまは、毎日『日時計日記』をつけ、技能や芸術的感覚を生かした誌友会を開き、肉食を減らし、植樹や植林に協力して下さっています。そのことには、この場を借りて大いに感謝申し上げます。しかしその一方で、私たちの生活は年々都市化して自然との接触が減り、自然を理解することが困難になりつつあると思います。そこで私はこの機会に--つまり、自然豊かな総本山の地で、天地一切のものとの大調和を説かれた谷口雅春先生のお誕生日に、皆さんの毎日の生活の一部として、自然を思い、自然に触れ、自然に感謝する行事を取り入れていただきたいのです。
 
 生長の家の“森の中のオフィス”では、本部講師である職員が交替で『大自然讃歌』と『観世音菩薩讃歌』を読誦しています。また、定期的に“自然を伸ばす活動”として、敷地内の森林の整備やキノコ採りなどを実施し、できるだけ多くの職員が自然に直接触れ、その厳しさとともにありがたさを実感する活動を展開しています。また、職員寮では、炭素ゼロ運動の一環として、化石燃料をできるだけ使わずに太陽光による電気や、薪、ペレットで暖房をしています。このような活動は、皆さんもできる範囲でいろいろ実践されていると思いますが、今日私が提案するのは、「神さま」を導入するということです。表現としては奇妙に聞こえるかもしれませんが、こういうことです。
 
 私たちの信仰の対象は、実相世界を創造された唯一絶対の神です。この神は宇宙に遍く満ちているので、すでに今ここにあり、本当は「導入する」必要などないのです。しかし、私たち人間から見ると、姿形のない創造神は時に意識することを忘れがちです。だから、私たちの意識の中心にしっかりと据えるために、生長の家では「実相」の掛け軸や額を掲げて宗教行をするわけです。また、「生長の家の大神」と唱えるときも、そういう固有名詞をもった神が宇宙の創造神とは別に存在しているのではありません。私たちに真理を伝えてくださった教えの根源の神という意味で、結局のところ、唯一絶対の神のことです。しかし、そう呼ぶよりは、「生長の家の大神」と呼ぶ方が、私たちの心の中により近い、より親しい感情が起こるので、そう呼ぶのです。神はあくまでも「すべてのすべて」でありますが、私たち人間は「すべてのすべて」を意識の中心に据えることは難しいので、その神さまの御働きの一部を神の名前として表現し、そのお名前を呼ぶことで、その御働きに心を集中させるのです。
 
 そういう理由で、これらからの“自然と共に伸びる”運動にあっては、神の無限の表現として自然を観ずる際には、「我即自然・自然即我」の自覚を深めるために、自然界の特徴をよく表した呼称を神に付すというのが、私の提案です。私のブログを読んでくださっている方は、もうすでにその呼称についてご存じでしょう。私は11月19日のブログに「自然界のムスビの働き」という題をつけて、自然界には、個々の存在を結び合わせる働きが満ちていることを書いています。その働きによって私たちは食事をし、他の生物から栄養素をいただいて生きているし、植物は動物に子孫を殖やしてもらい、動物は植物から栄養素を得て繁栄しています。自然界の最大の特長は、この多を一つにまとめる働きです。日本の神話には、このムスビの働きを表している神さまが「○○のムスビノカミ」として沢山でてきます。その中でも最も重要なのが「タカミムスビノカミ」と「カミムスビノカミ」です。この2柱の神は、『古事記』では宇宙の根源神であるアメノミナカヌシノカミの次に登場する神ですから、唯一絶対神の無限の働きの中の「ムスビの働き」を体現しておられるのです。この神さまは、皇室の祖神として歴代の天皇が祭られてきた神さまです。さらにこの神さまは、住吉大神と同じ系列にある神ですから、私たちのこれまでの運動とも整合しています。また、この働きはキリスト教で説く神の愛に通じ、仏教の四無量心とも共通しています。
 
 今、私が提案していることは、これまでの実相礼拝や神想観の実修方法を変えるということではありません。もし皆さんが毎朝、先祖供養や聖経読誦を神棚の前でされているならば、その神棚の両側にタカミムスビノカミとカミムスビノカミのお名前を記した札を掲げて、これまで通りの朝のお勤めをされたらいい--それだけのことです。そして、『大自然讃歌』や『観世音菩薩讃歌』を読誦する時には、2柱のムスビの神の名前を特に意識して、自然界のムスビの働きを思い起こし、自分も神の創造された大自然の一部として、この世界のあらゆる存在を相互にムスビ合う大調和実現のために、喜びをもって生きていくことを決意する--そんな行事をしながら、“自然と共に伸びる”運動を展開していきたいのであります。皆さま如何でしょうか?
 
 それでは最後に、谷口雅春先生のご著書から引用して、私のご挨拶を終わりたいと思います。
 
“日本では、古来「愛」という字を使わなかった。「愛」という語はシナの言葉ですが、英語では「ラブ(LOVE)」というんですけれども、これは煩悩の愛とも間違う。日本ではそのような不完全な語を使わないで、「産巣日(むすび)」と言ったのであります。「むすび」というのは、「愛」という語よりも非常に深遠な意味を含んでいるのであります。「むすび」というのは、「結婚」の「結」に当たる字ですが、皆さんが(…中略…)羽織の紐でも寝巻の紐でも、左と右とを結び合わす。そうすると、前の結ばない時よりも美しい複雑な形が現われてくるでしょう。これは「新価値の創造」である。それで左と右、陽と陰とが完全に結び合うと、このように、「新しき価値」が其処から生まれてくるのであります。愛は自他一体のはたらき、陰と現われ、陽と現われているけれども「本来一つ」であるから、互いに結ばれて一つになることです。「愛」というのは「自他一体」の実相の再認識であります。こういうふうに、宇宙の本源なるところの本来一つの神様が、二つに分かれ、陽と陰とに分かれたのがそれが再び一つに結ばれて「新価値」を生み出すところの働きをするのが、「高御産巣日神(タカミムスビノカミ)」「神産巣日神(カミムスビノカミ)」である。”(『古事記と現代の預言』、p. 32)
 私たちはこれから、本当の意味での「新価値の創造」をしなければなりません。古い指標であるGNPとかGDPなど、金銭的価値によってすべてが決定するような現在の経済・政治制度は限界に来ています。実相の本源神の無限の働きのうち、ムスビの働きを大自然から学び、また私たちの中で大いに活性化し、大自然と調和した“新しい文明”の構築に向かって明るく、希望をもって進んで参りたいと考えます。皆さま、どうぞよろしくお願い申し上げます。
 
 谷口 雅宣 

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2013年11月21日 (木)

自然界のムスビの働き (2)

 「自然即我」「我即自然」という言葉が何を意味するかについては、経本『大自然讃歌』の冒頭にある「自然と人間の大調和を観ずる祈り」とそれに続く同讃歌全体に詳しく説かれている。また、『観世音菩薩讃歌』では最後の「観世音菩薩」の項の後半で、同じことが別の角度から説かれている。
 
 谷口雅春先生に下された「大調和の神示」でも、生長の家の根本について、自然を含めた「天地一切のものと和解せよ」と力強く説かれていることは有名で、神の創造になる実相世界が顕れるのは「汝が天地一切のものと和解したとき」であると明確に述べられている。つまり、人間社会内部の調和だけでなく、人間と自然界との和解も神の顕現の必要条件だと示されているのである。
 
 さらに聖経『天使の言葉』では、人間と自然との和解がどのようにして行われるべきかを、次のように教えている--
 
 すべての生命(いのち)を互いに兄弟なりと知り、
 すべての生命を互いに姉妹なりと知り、
 分ち難くすべての生命が一体なることを知り、
 神をすべての生命の父なりと知れば、
 汝らの内おのずから愛と讃嘆の心湧き起らん。
 ここにある「すべての生命」という言葉の意味を人類にだけ限定して捉えているのでは、「大調和の神示」の教えと矛盾してしまう。だから、聖経で説かれている教えも、基本的には「自然即我」「我即自然」の自覚を前提としたものだと知らねばならない。
 
 では、この自覚を深めるための行事は、どのようにすべきだろうか。本欄の読者の大多数は日本人だから、私は日本人ならばどんな儀式が適当であるかを提示しよう。(日本以外の国での儀式については、別の形があって当然である。)そのためには、前回掲げた「ムスビ」という日本語が多くの示唆を与えてくれる。自然界はムスビの働きに満ちており、私たちの運動も神・自然・人間のムスビを目指しているからだ。
 
 日本土着の信仰である神道の教典である『古事記』や『日本書紀』には、ムスビの働きをする神々が数多く登場する。しかし、その中でも際だって重要な役割を果たすのは、タカミムスビノカミとカミムスビノカミの2柱である。私がここで神名をカタカナ書きした理由は、漢字を使った表現が複数あるからだ。『古事記』では「高御産巣日」「神産巣日」と書き、『日本書紀』では「高皇産霊」「神皇産霊」と表記されている。また、神名の発音の仕方も説が分かれていて、「ムスビ」を「ムスヒ」と濁らずに読むとするものもある。ここでは、谷口雅春先生が使われた用法に従っている。しかし、いずれの方法によっても、タカミムスビノカミの性格に大きな違いは生じて来ない。「高」は「高天原」にあるように尊称であり、「御」も同じである。「皇」を使った場合は日本皇室との関係をもった尊称となる。残りの名前を「産巣日」とするか「産霊」とするかで若干の違いが生じるのは、前者だと「太陽神」としての性格が生じ、後者では「生成化育」の神としての性格が強調されるからだ。しかし、両者とも「産」の字を用いて「産み出す力」を表現しているし、太陽は地上の生命を生み出す根源的な力であるから、いずれの表現法でも産生し育てる力を体現した神としての性格は変わらないだろう。
 
 このタカミムスビに対してカミムスビは、どんな性格を有しているだろうか。私は先にムスビの働きとは「もともと離れていた存在が一つに結ばれること」だと表現した。自然界では、そういう働きは、雌雄に分かれた性が再び一つとなる姿に典型的に現れる。それならば、そのムスビの働きを象徴する神自体が2柱あって、それぞれの特徴ある性格が合体して新たなものが生み出されるというイメージは、とても分かりやすい。このイメージは、イザナギとイザナミ両神の国生みの神話にも強く表れているもので、両神とも創造神であることを思えば、この創造を導くムスビの働きをする神が2柱あって、同じように対の関係で描かれることは極めて自然である。何か回りくどい言い方をしてしまったが、「陰」「陽」の言葉を使えば、陽のムスビの神がタカミムスビであれば、カミムスビは陰のムスビの神である。
 
 谷口雅春先生は、このことを次のように明快に説かれている--
 
“天之御中主なる「主」にして「中」、「中」にして「主」なる神は、そのままでは創造が完成しないのである。それは「陽の原理」(タカミムスビ)と、「陰の原理」(カミムスビ)とに剖判し出でたのである。(中略)中心の「一」は剖判して陰陽と分れ、再び、陰陽が交流して、創造がいとなまれるのである。陰陽は別個の如くであるけれども、本来一体であるのである。本来一体でありながら、その職能や働きの分担を異にするのである。”(『限りなく日本を愛す』、p.91)
 アメノミナカヌシの神については先に触れなかったが、この神は『古事記』本文の冒頭に出てくる神で、生長の家ではこれを宇宙の本源神--実相世界の創造主である唯一絶対の神だととらえている。私たちが信仰する神はこの唯一絶対神だから、生長の家の多くの行事では「実相」と書いた掛け軸や掲額を前にして、「実相の御軸(御額)を通して宇宙の大生命に礼拝します」と言って儀式を始める。私たちが「自然即我・我即自然」の自覚を深めるための行事をする際も、この従来通りの仕方で礼拝することに何も問題はない。しかし、「唯一絶対神」や「実相」のイメージだけでは、自然界のムスビの働きに意識を集中しにくい場合は、これら陰陽二柱のムスビの神の名を掲げたり唱えることは、大変有意義なことだと私は考える。その際、生長の家が多神教であるとの誤解を生まないように、一対のムスビの神の札を左右に離して置き、中央に「天之御中主大神」と書いた札を掲げるのがいいかもしれない。また、神名を書いた札が3枚も並ぶのは煩雑だと思う人は、「天之御中主大神」の札だけを掲げ、心の中で陰陽一対のムスビの神を想うのもいいかもしれない。
 
 谷口 雅宣
 

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2013年11月19日 (火)

自然界のムスビの働き

 このように、食事にはもともと宗教性があったのだが、神は自然界を通して「食材」ばかりを提供してくださるのではない。そもそも自然界とは、私たちの肉体も含めた地上のすべての存在のことを言うのである。だから、食事のときにだけ神・自然・人間の大調和のことを祈るのでは、まるで自然全体を人間の食欲を満たす「食材」として見ているようで、何ともバランスがとれていない。私たちの肉体が自然の一部であり、また肉体の生存を保証する適切な量の酸素や水や温度も自然の一部であり、私たちの五官の感覚そのものも、実は自然と不可分の関係の中で形成されてきたことを思えば、私たち人間の地上生活のすべては「自然の恩恵」と言えるのである。だから私たちは、朝目覚めてから夜眠りにつくまでの四六時中、「自然よありがとう」と感謝し、その自然を与えてくださった神に対しては、言い尽くせぬ謝意を表するのが当然と言えば当然なのである。
 
 しかし、悲しいかな、現代に生きる私たちはこの事実を意識する機会が少なすぎるのである。多くの人々が日常の私的関心事に忙殺されて、自分が常に大いなる神の御手に抱かれていることに気づかない。それはちょうど雲に乗った孫悟空が、大得意で自分の力を示そうとして飛び回るように、自己顕示の欲望に目を眩ませているのである。そして行きついた先で、まだ仏の掌中から一歩も出ていないことを知る。そんな愚を繰り返さないためにも、「自然即我」「我即自然」を自覚する行事が食事以外にあってもいい--否、食事以外にもあるべきだ、と私は考える。
 
 そういう意識をもって私たちの周囲を見渡すと、自然界のムスビの働きが注目されるのである。ムスビとは「縁結び」という言葉があるように、もともと離れていた存在が1つに結ばれることだ。「おむすび」と言えば、もともとバラバラだった飯粒が握り固められて一つになったものだ。「結びつき」というのは、2つ以上のものの関係を意味する。そこから「条約を結ぶ」「手を結ぶ」などの表現が生まれ、さらにそういう関係から生み出された結果を示す「実を結ぶ」「露を結ぶ」などの用法もできた。
 
 自然界は、このムスビの働きに満ちている。植物が「実を結ぶ」ことに触れたが、そのためには多くの場合、花の色や香りに誘われて昆虫が飛んできて、雄しべの花粉を雌しべに付けることが必要だ。これは動物と植物という異種の生物のムスビつきによるもので、これによって双方が繁栄する。花の蜜や花粉は昆虫の栄養源となり、花から実が結ぶと、その実が別の動物の栄養源となり、実を食した動物が種を遠方に運んで地に落とすことで、植物は子孫を殖やすことができる。これらの関係は、すべてムスビである。そして、これと似た異種間の共存共栄の関係は、生物界のいたる所に見られるのである。
 
Withbike1113131_4  私はこのたび、八ヶ岳南麓の大泉町に引っ越してきて秋を過ごしてみて、自然界は「与えること」で成り立ち、繁栄している、と強く感じた。「与える」ことができるのは「受ける」側がいるからで、この両者の関係がムスビである。私の家の周囲はカラマツ林が続いているが、今、その葉が大量に散り敷いて、地面を橙色に染めている。カラマツが落葉する前は、クリやコナラが落葉し、その前には実を大量に落とす。これらの実は、リスやヤマネなど森の小動物の餌となり、落ち葉は地上で腐って翌年の草木の栄養源となるだけでなく、昆虫やキノコたちの寝床となる。シカにもたびたび遭遇するが、彼らは農産物だけでなく、植物の芽や葉、木の皮まで食べるので“害獣”として扱われることもあるが、それは天敵がいなくなって数が増えすぎたからだ。適切な頭数が保たれていれば、彼らも自然の守り手である。山を歩けば彼らの排泄物をよく見かける。小指の頭ほどの大きさの球状の粒が、数十個固まって落ちている。これは立派な天然肥料だし、その中に植物の種があれば、彼らも鳥と同様に森の生物多様性を守ることになる。彼らの旺盛な食欲も、一面では森が繁りすぎるのを防ぐ役割を果たしているのである。
 
 これらのムスビの働きが自然界の特徴だとすれば、それと同じ働きが私たち人間の中にもあることをしっかりと思い起こすべきだろう。自分と他人とを鋭く切り分けて、自分の利益のみ追求するという生き方も、確かにある。しかし、そういう生き方は「人間らしくない」というのが、先人たちの教えである。宗教や倫理の基本は、ここにある。「対称性の論理」と「非対称性の論理」という言葉を使って、私はこのことをすでに述べた。私たちが今、盛りたてていくべきなのは前者なのだから、そのことを常に意識し、かつ生活に実践していくためには、自然界のムスビの働きを機会あるごとに思い起こし、それが生み出す豊かさに感謝し、それと同じ働きが自分の中にあることを実感する--「自然即我」「我即自然」を自覚することが必要なのである。
 
 谷口 雅宣

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2013年11月17日 (日)

食事と祈り (2)

 前回、本テーマで書いたことは、「食べる」ということが古来、洋の東西を問わず、宗教と密接な関係にあったということだった。聖書の記述以外にも、このことを証明する興味ある事実をもう一つ掲げよう。それは、私たちが毎日使っている「漢字」が教える事実である。
 
 漢字は、よく知られているように、中国で生まれた象形文字である。象形文字の原形は絵文字で、ものの形をまねた記号を複数の人間が共有することで、相互の情報の記録と伝達を行ったのが始まりだ。人類が最初に文字を使ったとされているのは、紀元前6000~1000年にかけての古代メソポタミアだ。その南部地域に住んでいたシュメール人の粘土板である「ウルク書板」には、当地の神殿を中心とした宗教共同体には、パン屋が18人、ビール職人が31人、鍛冶屋1人、奴隷7人がいたことが、楔形文字(せっけいもじ)で書き込まれていた。楔形文字とは象形文字の一種で、葦の茎を三角や釘の形に切り落とし、その切り口を粘土板に押しつけて書いたものだ。初期の楔形文字は、物の形を単純化した絵文字に似たものだったが、やがて物の形に対応することをやめ、記号としての汎用性をもつことになり、概念や観念も表すようになった。
 
 漢字の起源はよく分かっていないが、紀元前1500年ぐらいの甲骨文字まで遡ることができる。これは亀甲や獣骨に刻まれた絵画的な文字だが、その形態は物の形そのものから離れてかなり慣習化された線条文字であることから、この時代よりかなり前から使われていたことが推定される。古代シュメールの楔形文字との関連を指摘する説もある。
 
Shimesuhens  というわけで、象形文字の歴史を概観したが、それを前提に私たちが今使っている漢字の中で、祭祀に関わるものを思い出してみると、食事との関係が明らかになる。もっと具体的に言えば、「示偏(しめすへん)」のついた漢字のことだ。「神」「祀」「祠」「祖」「社」に加えて、「示」を文字の下部に置いた「祭」などを考えてみると、いずれも宗教と関係していることが分かる。そもそも宗教の「宗」の中にも「示」の字が入っている。では、「示」の原意は何であったかを調べてみる。すると、「象形、神を祭る台の形。転じて、神の意。また、牲(いけにえ)を供えておくところから、しめすの意」(三省堂『新明解漢和辞典』第2版、1981年)とある。つまり、神に供物を献げる台の形から「示」が生まれ、さらにこの字の意味が転じて「神」を意味することになった、というのである。そして、「示」で表される台の上には食材が置かれ、宗教行事の後には人々がそれを食べた。だから、古代中国においては、食事は宗教の儀式と一体のものだったことが、漢字の成り立ちを見ればよく分かるのである。
 
 宗教の「宗」の字の原意については、私は2010年3月30日のブログ「小閑雑感」の中で白川静氏の『字統』による説明を紹介しているから、興味のある読者はそちらを参照してほしい。

 谷口 雅宣

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2013年11月14日 (木)

自動化は好いことか? (3)

Fireplace  数日前から日本列島が急に冷え込んだおかげで、朝の仕事が増えた。それは、薪小屋からの薪運びと薪割りである。わが家の薪ストーブが大活躍しているため、それに“食糧”を与えねばならないからだ。面倒くさい仕事であるはずなのに、それを嬉々としてやっている自分を発見して、もう一人の自分が少し驚いている。1年前、東京ではどうやって寒さをしのいでいたかを思い出すと、予想外の違いだ--
 
東京の頃
①朝、寝室で目が醒めると暖房機が回っていて、あまり寒くない。
②着替えをすませて、居間へ降りていくと、ここでも暖房機が回っている。
③適当に暖まれば、暖房機のスイッチを切る。

大泉町の場合
①朝、寝室で目が醒めると寒い。
②着替えをすませて居間へいき、薪ストーブに薪を追加する。
③夜中に燃えた分の薪を補充するため、薪小屋へ行く。
④薪を5~6本、丈夫な布袋に入れて家の南側デッキに運び、乾燥のために並べる。
⑤その作業を3袋分する。
⑥4袋目の薪は、斧で細かく割る。

Logstorage  --これが朝行うようになった新しい仕事だが、薪ストーブの準備はこれで終わらない。家に新しく運んできた薪を、適当な時刻にストーブの回りに並べて乾燥させることが必要だ。これを怠ると、湿気の残る薪をストーブに入れることになり、火が途中で消えてしまうことがある。また、当然のことながら、ストーブ内の薪の燃焼が進むにつれて薪をくべる作業もある。

 室内を適当な暖かさに保つという目的だけを考えれば、今の大泉での作業に比べ、東京時代の作業はほとんど「ゼロ」に等しい。手もとの暖房機のコントローラのスイッチを押すか押さないかだけだからだ。暖房機は、内蔵のマイコンとセンサーにより、時間や温度によって運転のオンとオフまで自動的にするものもある。このように、東京時代の私にとって、「暖房」とは指先でチョンと行うものだったから、ほとんど抽象的で、印象に残らない作業だった。こんな簡単な操作で、寒い冬を寒くなく過ごせるのだから、東京時代の私は暖房機に何度も繰り返して感謝の言葉の述べるべきなのだが、そんなことをしたかどうかと振り返ってみると、どうも記憶がないのである。それどころか、当時の私は暖房機が存在していることさえも、あまり意識していなかった恐れがある。
 
 ところが、大泉町の森の中では、私は毎日上に書いたような作業をしながら、赤や黄色の魅惑的な炎を揺らしているストーブを常に意識し、その暖かさに心の中で感謝することしきりなのである。また、薪のズッシリとした重さや、その表面の荒々しさ、斧の重さ、薪をスパッと割った時の快感、割れる音の響き、木の匂い、変化に富んだ燃焼室の色、煙突から上がる煙……などを五官で感じ、それらを常にはっきり意識している。そして、「暖をとる」ということは、これらすべての注意と作業の結果として得られる“ご褒美”だ、と感じているのである。だから、ストーブがありがたいことはもちろん、薪も、斧も、煙も、炎も……すべてありがたい存在だと感じる。この違いが起こる理由は、いったい何なのだろう?
 
 私はかつて『次世代への決断』(2012年)を上梓させていただいた時、同書の第4章に「“めんどくさい”が世界を救う」という文章を書いた。そこでは、クリの木から薪を作ることと、草刈りをする作業を例にとって、手作業による場合と、機械を使った場合との違いについて細かく検討したのだった。そして、機械化された方法は効率面では文句なく優れているが、その代わり、①自然との触れ合いが減少するだけでなく、②エネルギー消費量は増え、③作業をする人間のものの見方が排他的になる傾向があることを示した。今回の都会と森の中での暖房機の比較についても、同様のことが言えると思う。つまり、薪ストーブの生活は、電気による暖房の生活に比べて、①自然により近づき、②エネルギー使用量、CO2の排出量ともにゼロに近く、③人間関係もより緊密になると思われる。
 
Fireburn 「自然に近づく」という意味は、私が先に書いた薪ストーブの準備作業を考えていただけば、容易に想像がつくだろう。霜柱が立つ寒い朝に、薪を取りに家の外へ出ていけば当然、自然の厳しさに触れる。毛穴は引き締まり、呼吸は深くなる。薪を下ろし、袋に入れて運び、家の中に配置する作業は、力仕事である。全身の筋肉を使い、体の内側から自然の力が喚びさまされる。筋肉や循環器系だけを使うのではなく、どの形のどの薪を何本袋に入れ、どこに運ぶかを考えるから、脳を使うことにもなる。自分の“外側の自然”と“内側の自然”とが、この作業を介して融合するのだ。運んだ薪を火にくべれば、優しい炎が、めらめらとストーブの闇の中から姿を現し、さまざまな色と形に変化するのが見える。この炎のダンスは、「ゴー」とか、「パチパチ」とか、「バリバリ」という音を伴う。大げさに聞こえるかもしれないが、私はこの光景を見つめ、静かに音を聞くとき、劇場で舞う踊り子の背後で、オペラのアリアを聴くように感じることもある。つまり、薪ストーブの炎は、私たちの美的感覚を刺激して、安らぎを与えてくれるのである。

 暖房を極限まで自動化した都会の生活と、原始的ともいえる森の薪ストーブの生活とは、どちらが「豊か」と言えるだろうか? 私はもちろん後者に軍配を上げるのだが、それに納得しない読者もいるだろう。反論の第一は、恐らくこうだ--薪ストーブの準備のために使う時間を、都会ではもっと別のことに使うことができるから、どちらが「豊か」かは即断できない。「豊か」さを「自由時間が多くある」という意味にとらえれば、むしろ都会生活の方が豊かではないか?

 読者はどうお考えか?
 
 谷口 雅宣

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2013年11月12日 (火)

食事と祈り

 「神・自然・人間の大調和」を実現することを目指して進んでいる生長の家の運動は、今年10月からの国際本部の北杜市移転をへて、新たな段階を迎えている。

 国際本部となった北杜市の“森の中のオフィス”には、東京・原宿の旧本部会館から“神像”を移設して「万教帰一」を象徴するキリスト教的な表象とし、その背後に新たに七重塔を建て、これを同じ万教帰一の教えの仏教的な象徴として位置づけることで、私たちは宗教を通して東西文化の共存共栄を目指すことを明らかにした。これらの2つの施設は、善一元の神への信仰にもとづいて世界平和を実現しようとする「国際平和信仰運動」の精神を、より具体的に表現したものである。

 これらの2つによって、「神と人間」の和解と調和を進めるための方向性は定まったと言えるが、「神と自然」「自然と人間」の関係については、読者にとってそれらの和解を表象し、象徴するものは必ずしも明らかでないかもしれない。

 もちろん「表象」ではなく、言葉による宗教的メッセージとしては、すでに拙著『日々の祈り』に収録された祈りの言葉があり、また経本となった『大自然讃歌』と『観世音菩薩讃歌』が神と自然、自然と人間の関係について詳しく説いている。また、本年8月に京都府宇治市の生長の家宇治別格本山の境内に建てられた「自然災害物故者慰霊塔」は、混乱の度を増しつつある「自然と人間」の関係を修復するための表象の一つとして見ることができるだろう。

 自然災害が人間社会に及ぼす影響は、人類の文明の国際化と経済のグローバル化の進展にともなって拡大しつつあることは、多くの読者が身をもって感じているだろう。2011年3月に日本が体験した東日本大震災と原発事故は、その一部に過ぎない。同じ年の10月から11月には、インドシナ半島に前例のない大雨が降り続いたため、タイで大洪水が起こり、チャオプラヤ川下流の工業団地が水に浸かり、ホンダ、ソニー、ニコン、キヤノンなどの日系企業419社被災し、世界への製品供給が不足したことは、記憶にまだ新しい。   今年は、台風26号で伊豆大島に深刻な土砂災害が起こったのに加え、11月現在、この年発生した台風としては最大の勢力をもった台風30号(現地名「ヨランダ」、英語名「ハイヤン」)が、フィリピンに甚大な被害を与えている。11月12日付の『朝日新聞』によると、同国政府の発表した11日午後現在の死者の数は1,774人で、死亡が確認されていない人の数を含めると、一万人を上回る恐れがある。同国全体で約967万人が被災し、約61万人が避難所生活を強いられているという。台風による被災が最も深刻だったレイテ島は農業と漁業が主要産業で、マニラ首都圏に比べて住民の所得水準は格段に低いという。今後、被災した貧困層の人々への食糧支援と住宅の供給が求められるだろう。

  人間にとって「食べる」ことはこのように死活問題である一方、自然と人間の関係を最も身近に感じる行事が、食事である。食事を単に栄養補給の手段と考えている人は、これを「行事」と呼ぶことに違和感をもつかもしれないが、古来、洋の東西を問わず、食事は自然の恵みに対して神あるいは造物主への感謝を献げる宗教行事と一体のものだった。生長の家も例外でなく、昭和5年11月に谷口雅春先生に最初に下された神示が「生長の家の食事」と呼ばれ、その中で、「食事は自己に宿る神に供え物を献ずる最も厳粛な儀式である」と説かれていることを見ても、食事と宗教の密接な関係は分かるだろう。また、同じ神示の冒頭で言及されている聖書の記述は、ユダヤ教の信仰に於いても、食べることが宗教儀式と切っても切れない関係にあったことの証左である。旧約聖書の『レビ記』などは、全部で27章あるうちの第1章から10章までが供儀に関する記述であり、どんな場合にはどんな犠牲を神に献げ、人はその供物の中のどんな部分を食べることができるかなどを細かく規定している。

 現代では、そのような宗教性は食事からほとんど消えてしまっているが、無宗教を自任する人でも、日本人ならば食事を前にして「いただきます」と言って手を合わせ、食事が終わると「ごちそうさま」と言って手を合わせる習慣に、あまり抵抗を感じないに違いない。この習慣の背後には、食事の提供者に対してのみならず、食材を供給してくれる自然界への感謝、ひいては自然の創造主への感謝の思いが含まれていたし、今でも含まれていると私は考える。だから、食事というものは、「神と自然」「自然と人間」の関係を意識し、三者の大調和を祈る最良の機会の一つだと言えるだろう。食前食後に、神と自然界の恵みに対して感謝の言葉を唱えることを省略している人がもしいたならば、次の食事から、この古き良き習慣をぜひ復活させていただきたい。

 谷口 雅宣 

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