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2013年11月17日 (日)

食事と祈り (2)

 前回、本テーマで書いたことは、「食べる」ということが古来、洋の東西を問わず、宗教と密接な関係にあったということだった。聖書の記述以外にも、このことを証明する興味ある事実をもう一つ掲げよう。それは、私たちが毎日使っている「漢字」が教える事実である。
 
 漢字は、よく知られているように、中国で生まれた象形文字である。象形文字の原形は絵文字で、ものの形をまねた記号を複数の人間が共有することで、相互の情報の記録と伝達を行ったのが始まりだ。人類が最初に文字を使ったとされているのは、紀元前6000~1000年にかけての古代メソポタミアだ。その南部地域に住んでいたシュメール人の粘土板である「ウルク書板」には、当地の神殿を中心とした宗教共同体には、パン屋が18人、ビール職人が31人、鍛冶屋1人、奴隷7人がいたことが、楔形文字(せっけいもじ)で書き込まれていた。楔形文字とは象形文字の一種で、葦の茎を三角や釘の形に切り落とし、その切り口を粘土板に押しつけて書いたものだ。初期の楔形文字は、物の形を単純化した絵文字に似たものだったが、やがて物の形に対応することをやめ、記号としての汎用性をもつことになり、概念や観念も表すようになった。
 
 漢字の起源はよく分かっていないが、紀元前1500年ぐらいの甲骨文字まで遡ることができる。これは亀甲や獣骨に刻まれた絵画的な文字だが、その形態は物の形そのものから離れてかなり慣習化された線条文字であることから、この時代よりかなり前から使われていたことが推定される。古代シュメールの楔形文字との関連を指摘する説もある。
 
Shimesuhens  というわけで、象形文字の歴史を概観したが、それを前提に私たちが今使っている漢字の中で、祭祀に関わるものを思い出してみると、食事との関係が明らかになる。もっと具体的に言えば、「示偏(しめすへん)」のついた漢字のことだ。「神」「祀」「祠」「祖」「社」に加えて、「示」を文字の下部に置いた「祭」などを考えてみると、いずれも宗教と関係していることが分かる。そもそも宗教の「宗」の中にも「示」の字が入っている。では、「示」の原意は何であったかを調べてみる。すると、「象形、神を祭る台の形。転じて、神の意。また、牲(いけにえ)を供えておくところから、しめすの意」(三省堂『新明解漢和辞典』第2版、1981年)とある。つまり、神に供物を献げる台の形から「示」が生まれ、さらにこの字の意味が転じて「神」を意味することになった、というのである。そして、「示」で表される台の上には食材が置かれ、宗教行事の後には人々がそれを食べた。だから、古代中国においては、食事は宗教の儀式と一体のものだったことが、漢字の成り立ちを見ればよく分かるのである。
 
 宗教の「宗」の字の原意については、私は2010年3月30日のブログ「小閑雑感」の中で白川静氏の『字統』による説明を紹介しているから、興味のある読者はそちらを参照してほしい。

 谷口 雅宣

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コメント

合掌 ありがとうございます
この度の総裁先生のブログを拝読させていただき、ひとりで「うわーっ‥なるほど~ うーん…」などと呟きながら、宗教の宗の字も、また宗教に関係した文字に「示」偏が使われておりますことに改めて気づかせ
ていただきました。
日々の生活の中で、如何に自分自身が、漢字ひとつとりましても、あまりにも何気なく使っていることに対して反省しました。そして2010.3.30の小閑雑感を改めて拝読させていただき、この度のブログのご教示と合わせて読み返しさせていただきまして、食事と宗教の密接な関係に気付かせていただきました。こんな言い方は大変失礼で申し訳ございませんが、
総裁先生って本当に賢い先生で、びっくり箱みたいだと全盲のYさんが言いました。
今は亡き養父母が幼い私に毎回食事の祈りをしてから、ご飯を食べさせてくれていました光景を思い出し、涙が溢れました。
宗教目玉焼き論を今一度、考えないといけないことも、そして、それを心ある人たちに伝えていかなければならないとも思いました。介護の分野でも、目玉焼き論があります。
認知症が一番の例でして、黄身の部分が「認知症」という病名で白身の部分が認知症に伴って出現する症状です。
徘徊、幻覚、妄想、せん妄、見当識障害など……周囲を困惑させてしまう症状ですが、この周辺部分は、ケアする側の心の持ち方や対応の仕方で変化していく(ロボットには無理ですね)というものです。介護の分野でも周辺部分は変わっていくことを教えるのですから、宗教においては、周辺部分は時代とともに変わらなければならないと そうでなければ時代に即応出来ないことを、再び考えさせていただきました。
総裁先生、ありがとうございます。
こちら島根は気温がぐっと下がり、雷が激しく鳴り、霙が降っています。北杜市も寒いのではないでしょうか。
都会から森の中へと行かれた総裁先生のご決断に心から敬意を申し上げます。再拝  島根教区 岡田さおり

投稿: 岡田さおり | 2013年11月18日 (月) 22時43分

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