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2013年9月25日 (水)

“森の中”で生きる

30年ぐらい住んだかねぇ〜」

と私が訊くと、妻は即座に、

「いいえ、27年です。」

と答えた。

  昔の記憶については、私はてんで自信がないので、妻の言うのが本当なのだ。27年間、東京・原宿の家に住んだ。木造二階建てで、もともとは私の自宅だったが、現在は生長の家総裁の公邸となっている。当時、3人目の子どもも生まれ、彼らが通う学校や私の仕事の都合も考えて、父が住む家の隣に家を建てた。そして、世田谷区駒沢のマンションから引っ越してきた。だから、今回の引越しは27年ぶりである。

  当時34歳だった私には、人生とは永遠に続く旅のように感じられ、目的地など見えなくてもさほど気にならなかった。が、61歳の今は、目的地は何となく見えている。これから先、何年生きるか分からないが、長く見積もっても30年。そんな期間で一人の人間にできることはそれほど多くない。それは、自分の過去30年を振り返ればよく分かる。ならば、あまり背伸びしたり焦ったりせず、自分に最もふさわしいことを、自分にできる範囲で丁寧にやって人生を終わりたいと思う。

  こんな書き方をすると、まるで隠居生活に入る人のように聞こえるかもしれない。が、私が予想しているのは、何が起こるか分からない“新生活”なのである。山梨県北杜市の八ヶ岳の麓、標高1200メートルの高地へ移住する。生長の家が国際本部を同市大泉町西井出へ移転するのに伴うものだ。生長の家は今夏、そこに“森の中のオフィス”を完成し、10月から業務を開始する。私たちの新居からさらに約100メートル高い標高の土地に、本部事務所を開設したのだ。その名の通り、カラマツとスギが生い茂った森の中に、木造二階建ての大型建築物が何棟も並び、まだ新しい木の香がする。そこへ連日通うのである。派手な装飾で彩られたファッションビルの間隙をぬって、車と人とが混み合う中を通った過去とは、まるで別世界と言えるだろう。

Kaikoma101213   妻と私にとって、しかしこの地は未知の場所ではない。もう10年ほど前から山荘を構え、仕事の合間の息抜きのために利用してきた土地だった。何の縁あってか、そこが“永住の地”になりそうである。50歳を過ぎていわゆる“別荘族”となり、都会と森を共に味わいながら、両者の極端な違いを肌身で感じてきた私には、一方を捨てて、一方を採ることが、自分にどんな変化をもたらすか予測できない。が、予測できないところが人生の面白味でもある。人はとかく、自然界の影響から離れて自由に生きていると錯覚しがちだが、好不況、転勤、転職、事故、病気などの変化は、田舎よりもむしろ都会でよく起こる。都会に住み続けていても結局、明日は予測できないものである。しかし、都会での変化は「もう分かった」と感じる。この感覚には、「もう沢山!」という思いが混じっているのだ。

  この文章を書き出した時、私の東京の自宅の隣地では、5階建ての商業ビルの取り壊し作業が始まっていた。そのビルは、5〜6年前にできたばかりなのに、大型機械が搬入され、日を追って瓦礫に変わりつつあった。3階建ての別のビルではその頃、テナントが替わったし、取り壊し中のビルより明治通りに一つ近い8階建てのビルでも、1階と3階に入っていた結婚式企画会社が去り、新しい会社--多分、ファッションかスポーツ用品店--が、新規開店に向けて内装工事中だった。こういう種類の変化は、私にはもうたくさんなのだ。それは一見華やかで、美しそうで、気分をウキウキさせるが、事後には心に残るものが何もない。なぜなら、表面を撫で、目先を変えるという潮流に乗っているだけだからだ。今後、この地域や東京全体が変化する方向と変化の質は同じである。それが目に見えていて、決して好ましいとは感じられない。それは産業革命以来、人類が歩んできた方向性--資源とエネルギーのムダ遣い--の延長にしかすぎない。それならば、同じ予測できない残りの人生を、まだまだ未知の領域が広く残っている“森の中”でしっかりと過ごし、自然との切実な関係を十分に味わう方が、より刺激的で、また豊かな人生と言えないだろうか?  そんな気持が私の中にあるのである。

   生長の家の本部移転は、もちろんそんな私個人の趣味の問題ではない。しかし、そういう公的、社会的意義や責任については本の中ですでに何回も述べたから、ここでは繰り返さない。が、一個の人間の生き方の問題に限っても、都会生活の無理やムダ、虚勢や嘘、神経磨耗に見切りをつけて、田舎生活や自然の中での暮らしを始める人の数は次第に増えている。そのことを考えれば、森の中の生活が、禁欲的で苦しいばかりでないことは、多くの人々の体験からも明らかである。ただ、明らかでないのは、都会と森での生活から得られるそれぞれの価値が、基本的に相反するものなのか、それともどこかで適切な折り合いをつけられるものなのか--もっと分かりやすく言えば、自然と人間とは今後共存していけるものなのかどうかということだ。それを実地で、責任をもって、自らの生活の中で検証してみる人生も決してムダではないと感じるのである。

 谷口 雅宣

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コメント

合掌、ありがとうございます。
総裁先生、森の中のオフィスからのわくわくするご指導ありがとうございます。

生長の家の総裁先生ご夫妻と国際本部、職員ご家族の皆々様が田舎で新しい生活を始められ、新鮮な感動や驚き、大きな喜びをお伝え下さることに、わたくし達も新しい感動を覚えます。

私たち夫婦は夫が約十年、わたくしは、約六年を都会で暮らし、田舎へ帰り、この地で出会ってから三十数年暮らしてまいりました。
み教えとのご縁は、もう少し多い年数ですが、ここに至って、自分たちの田舎の生活がより大きな喜びをもたらしてくれるようになりました。
総裁先生のご指導のおかげでございます。
これからも、み教えの素晴らしさを伝え続けます。
再拝 島根教区 西村世紀子

投稿: 西村 世紀子 | 2013年10月15日 (火) 21時46分

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