田舎の幸福感
「都会は左脳の産物である」という意味のことをどこかに書いたことがある。これは、都会を否定する考えではない。人間には誰にも左脳と右脳があるから、左脳を否定すれば、人間自体を否定することになる。そういう意味で、私は都会を否定してはいない。が、同時に、都会さえあれば、人間は幸福に生きていけるとも思わない。人間の幸福感と深い関係にあるのは、左脳よりもむしろ右脳であり、都会は“左脳向き”にできているからだ。
自然は、人間が何かを得たいときにしばしば抵抗する。別の言い方をすれば、自然は人間の欲望を簡単には満たさせない。しかし、その一方で、自然は人間の生存をしっかりと支え、人間に心身双方から喜びを与えている。この一見矛盾した関係を理解すれば、都会が発展し、都市が拡大を続ける理由も明らかとなるだろう。都会とは、人間が自然を改変し、できるだけ安楽に欲望を満たすために建設したきた空間なのだ。自然は、その動きに抵抗してきたが、人間の“武器”である科学技術の発達によって、後退を余儀なくされてきた。しかし、欲望の満足は必ずしも幸福の獲得ではない。なぜなら、人間の欲望は、果てしなく拡大するからだ。あるレベルの幸福の実現は、次のレベルの幸福の実現の“通過地点”に過ぎないことが多い。1つの欲望が満たされた時から、人間は次なる便利、快楽、都合を満たしたいと思うものだ。
例えば、こんな具合にーー
私は今、午前9時ちょうどに新宿駅を発車したJR中央線特急「あずさ9号」松本行きに乗っている。小樽市で行われた生長の家講習会から帰るところだ。これから約2時間かけて目的の小淵沢まで揺られていく。そこが新しい“故郷”となる。列車の座席は「13B」で妻は1つ窓際の「13A」だ。東京から西に向かっているから、朝の日差しは基本的には後方の東側から来る。今日は9月30日で秋分の日から1週間しかたっていないので、窓際の席から陽が射し込むことは少ない。が、秋が深まってくればそうはいかない。窓外の風景を楽しむことと、眩しい陽射しを受けることとの“相克”が起こる可能性がある。つまり、列車の窓から黄葉紅葉を楽しもうとすると、秋の低い陽射しを直接顔や腕に受けることになり、眩しい。これは読書の妨げにもなるから、窓際の席ではシェードを下ろす人も多いだろう。シェードを降ろされたら、もちろん窓外の風景は鑑賞できない。こうして美しい紅葉黄葉を楽しんでいた心は、まもなく眩しい陽光に不足を感じ、やがてシェードを降ろす。そして、自分が陽光の差し込む側の席を選んだことに不満を感じ、反対側の席にいる人々を羨むことになるかもしれない。
もしそんなことが実際にあれば、この人物は、美しい紅葉に彩られた山間部を行く特急列車のグリーン車にゆったりと腰掛けながらも、不幸であると言わねばならない。
列車での移動を例に引いたついでに、もう一つ似たような場合を考えてみよう。
妻と私は、つい先ほど、新宿南口のホテルを出て、この列車に乗った。ホテルから列車のホームまで歩いて10分ぐらいかかった。出張帰りの荷物を両手に持って10分歩くことは、若いころはともかく、最近では結構負担を感じる。今日は晴天だから、それでも比較的快適だった。が、雨天や降雪時には、そうはいかない。歩いても濡れない別のルートをたどるか、タクシーの世話にでもならねばなるまい。わずか数百メートルをタクシーで行くのは気が引けるが、複雑で混雑した新宿駅の地下街を重い荷物を提げて歩くよりも、はるかに楽だ。だから恐らく私たちはそんな時、「炭素ゼロ」という言葉を気にしながらもタクシーを利用するだろう。かくして、「重い荷物とともに遠隔地に迅速に移動したい」という人間の欲望が満たされることになる。
これで私は「幸福だ!」と宣言すべきだろうか?
その答えは、人によって違ってくる。ホテルから駅までの歩行中、その人が何を感じ、何を考えていたかの違いが、その人の幸福感を左右する。「荷物が重い」とか「距離が長い」とか「人ごみが煩わしい」と感じていた場合、その人は幸福とは言えまい。反面、同じ経験を「朝は清々しい」とか「体が鍛えられる」とか「人々の様子が観察できて面白い」などと積極的に捉える人は幸福感を味わうに違いない。
列車に乗ってからも、同じことが言える。鉄道という交通機関は、人間や貨物を大量、迅速、かつ(日本の場合は)時間通りに遠隔地に運搬するための手段だから、両手に下げてきた荷物を網棚に上げ、座席に腰を下ろしてゆっくりと寛げることに感謝できる人と、そんな状態は「当たり前」すぎるとして顧みない一方、窓から入る陽射しを「お肌の敵」とか「読書の邪魔」などとマイナスに捉える人とは、幸福感に大きな違いが出てくるに違いない。どちらが幸福かは、もう説明を要しまい。不足や不満に注目する人よりも、恵まれ、満たされている点に注目して感謝する人の方が幸福に決まっているのである。
では、今日の社会で「良い」とされている経済発展は、不足・不満の心と、現状への感謝の心のどちらが生み出したものだろうか? これはたぶん前者である。経済学では、前者の心を「需要」と呼んで何か高級な概念のように扱うが、私はこれを「欲望」と読み替えても差し支えない程度のものだと思う。だから、「需要を喚起する」とは「欲望を増幅する」ことと大差はないのである。
この事実をしっかりと理解すれば、経済発展が人間を幸福にするという一般的な考えが、控えめに言っても「不十分」であり、厳密に言えば「間違い」であると分かるはずだ。私は、経済発展と人間の幸福は相反すると言っているのではない。ほとんど無関係だと言いたいのだ。幸福感とは人間の心が生み出すものだから、物質的繁栄のさなかにあっても、もしその人がその状態を「好し」と認めない限り、その人の心に幸福感は訪れない。その昔、「釈尊」となる前のゴータマ・シッダルタが、豪奢をきわめた王宮生活を捨てて修行生活に入ったというエピソードも、こういう人間心理の複雑さを示しているのである。
では、ある人の心の中で経済発展とそれにともなう物質的繁栄が「好ましい」と認められるならば、幸福感は必ず訪れるだろうか? これは、その人の心の持ち方しだいだろう。人間は他者に対する感情移入の能力に秀でているから、多くの他者が貧困に苦しんでいる中で、自分だけが繁栄していることを知ってもなお、幸福感を抱くとは思えない。むしろ一種の罪悪感を抱き、困窮者を助けることなどに意欲を燃やすものだ。一般社会の経済状態から突出して繁栄する者が、慈善事業に乗り出す例が多いのは、この辺の事情を表している。が、それでも、物質的繁栄こそ自分の幸福だと考える人物はいる。しかし、そういう人物は例外的であり、心理的な問題を抱えている場合が多いと思う。例えば、幼い頃、親から充分な愛情を注がれなかったため、金銭を愛の代償と感じてきた人などである。
大泉町で生活を始めてから、私は都会で生きることと、自然豊かな田舎で生活することの違いを多く感じているが、その一つは、自分と他者との関係に対する態度である。簡単に言えば、都会には普段から人が溢れているから、新たな人間関係を結ぶことに消極的ないしは否定的である。これに対し、田舎は一般的に“人手不足”だから、新しい人間関係を積極的に結ぼうとする。これはもちろん比較の問題である。都会では新しい人間関係が成立しないという意味ではなく、田舎ではどんどん友達ができるという意味でもない。たぶん、人間にも生きるための適切な「人口密度」があって、それをはるかに超える都会では他人に対して排除的にならざるを得ず、そうでない田舎では、他人を受け入れる態度が自然に生まれるのだろう。そういう意味でも、人間の幸福には他者の存在は不可欠だから、田舎の幸福感は都会の幸福感に比べて、よりホンモノであるような気がするのである。
谷口 雅宣
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コメント
田舎の人間関係。確かに田舎の人のネットワークは素晴らしいです。例えば、私が毎日どこで何をしているのか、町中の人が知っています。新しい仕事を9月から始めましたが、面接に行って、返事がきて、その3日後くらいには地区のほとんどの人が知っていました。その間、近所の人に私からは一言もその話はしていないのにです。(一体、発信元はだれだったのだろうか?いまだに不思議です)インターネットをはるかに上まわる田舎のネットワークにびっくりです。体調を崩して2日間寝込んだ時も近所の人が「大丈夫かあ~」と尋ねてきて、おちおち寝てられませんでした。でも、このおせっかいとも思える人間関係が、心地よかったりします。
投稿: 水野奈美 | 2013年10月26日 (土) 21時41分