« “森の中のオフィス”で落慶式 | トップページ | 宗教における都市と自然 (2) »

2013年7月24日 (水)

宗教における都市と自然

Spconfpartis  生長の家の新しい国際本部となる“森の中のオフィス”は7月7日に落慶したが、そこでの最初の行事となる「世界平和のための生長の家国際教修会」が去る7月16日、17日の両日、同オフィスのイベントホールで行われた。生長の家の「教修会」なるものは、生長の家の本部講師と本部講師補を主な対象として、これまで日本と海外で毎年、交替で行われてきた。が、昨年は諸般の事情で開催が見送られ、今年、新しい国際本部のスタートに合わせて国内・海外の区分けを外し、世界全体の生長の家の最高幹部が一堂に集まって行われたものだ。だから、今回の教修会は、言葉の本当の意味で「国際教修会」と呼べる最初のものである。参加者は国内が223人、海外は119人の合計342人である。国別の内訳は、日本が198人、ブラジルは74人、アメリカ21人、台湾10人、カナダ5人、EU3人、韓国2人などである。
 
 生長の家教修会は毎回、特定のテーマを設けて、4~5人の本部講師(補)がそのテーマに即した研究発表をし、その内容を受けて、私がまとめの講話をすることになっている。今回のテーマは「宗教における都市と自然」だった。今の時期にこのテーマが選ばれた理由は、読者にもだいたい察しがつくだろう。それは、生長の家が国際本部を大都市から自然の豊かな地域へと移転するからである。その動きが、世界の宗教の歴史を振り返ったとき、通例のことなのか、それとも異例のことなのか? 前例があるならば、それはどういう目的で行われ、結果はどうだったのか? 都市を離れることは、宗教運動の中でどのような意味をもっていたのか?……などを考えようというわけである。これはもちろん、生長の家が国際本部の移転の目的を今ごろ考えるという意味ではない。“森の中のオフィス”構想はすでに9年前に決定されているし、私と妻との共著『“森の中”へ行く』が発行されて3年がたとうとしている。国際本部移転の目的は、それらの文書や書物に詳しく書かれているし、私は自分のブログで機会あるごとに、その目的をできるだけ丁寧に説明してきたつもりである。今回の教修会の目的は、「都市と自然」の問題を生長の家の立場からではなく、世界の宗教の歴史から学ぶというところに主眼があった。

 では、どんな研究発表があったのだろう。「世界の宗教」と書いたが、世界にはほとんど無数の宗教があるから、数カ月でそれらすべてを研究することなどできない。だから、研究対象に選ばれたのは、いわゆる「世界宗教」と呼ばれ信者数が多い大宗教の、しかもその一部にとどまる。もっと具体的には、キリスト教、イスラーム、仏教の3つである。これらの大宗教が誕生した場所、発展した場所、転換期を迎えた場所などが、都市であるのか自然であるのかに注目し、それぞれの理由を考えることで、「宗教における都市と自然」の関係を浮き彫りにしようとしたのである。
 
 キリスト教の場合について発表したのは、アメリカ合衆国伝道本部に所属するブルース・マレリー本部講師(Rev.Bruce G. Mallery)だった。同講師は、イエスが伝道活動を始める前には「荒野」で40日間の修行をしたことから説き起こし、都市で発展し、都市の人々を数多く救ったイエスの教団も、当初の精神的基盤が自然と近いところにあったことを確認したうえで、カトリックの伝統の中にある修道院の活動に焦点を当て、数多くの修道院が都市を離れた自然の中に建てられ、都市がもたらす数々の物資的、享楽的な生活を捨てて、そこで禁欲的求道生活を営んできた修道士たちの努力と功績について述べた。このカトリック修道会ではベネディクト派が代表的だが、この会派が生まれた6世紀から14世紀の初めまでに、どれだけ発展し、どれだけの功績があったかを数字で表すと、最盛期にはこの会派はヨーロッパに3万7千もの修道院をもち、それらから「24人の法王、200人の枢機卿、7千人の大司教、1万5千人の司教、1500人の聖人」が輩出したという。

 カトリックの修道院制度に問題がなかったわけではないが、その光明面に焦点をしぼり、これらのエネルギーの源泉として都市と自然のどちらが有効かという視点で考えた場合、マレリー講師は「これらの聖人は心を清め、日々の修行の向こうに神の光を感じようとした。そのための最適な場所は、都市を離れて荒野に行くことだと感じていた」と述べている。このように「神の光」を感じ、信仰の原点に還るという動きは、やがて宗教改革に結びつく。プロテスタントの場合、この“信仰の原点”とは聖書であるが、さらに興味あることは、多くのプロテスタントの信仰者が“信仰の原点”に還るための場所として選んだのが外国であり、“新大陸”であったということだ。つまり彼らは、カトリック教会の束縛から逃れるために“未知の荒野”である新大陸を目指し、そこで純粋な信仰生活を実現しようとしたのである。そういう意味で、プロテスタントにおいても、自然(荒野)は信仰の純粋性を守るための場所として機能した、とマレリー講師は指摘したと言える。
 
 谷口 雅宣
 

|

« “森の中のオフィス”で落慶式 | トップページ | 宗教における都市と自然 (2) »

宗教・哲学」カテゴリの記事

自然と人間」カテゴリの記事

コメント

合掌  ありがとうございます。
ブログを楽しみに拝読させていただいております。   国内はもとより 世界の宗教の方々と教修会が開催できますことは、生長の家の万教帰一の教えを必要とされているからではないでしょうか。 人間のいちばん自然なかたちとして自然界の中に生きたい気持ちが本性なのでしょう。 便利にながされ それを当然としているようでも 必ずめざめる人々が表面化することと思って拝読いたしました。「都市と自然」の問題を世界の宗教の歴史から学ぶというテーマは世界の宗教の多くの方々の願いでもあるように感じられます。森の中のオフィスの構想によってさらに世界の人々の環境に対する考え方が大きく変わることを願わずにはいられません。 生長の家ぴととして一個人ではありますが、地球の生命とともに生きる一人として自然に譲る生活実践を細々ではありますが行じ またお伝えしております。 感謝合掌         
           島根教区   足立冨代

投稿: 足立冨代 | 2013年8月10日 (土) 23時45分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« “森の中のオフィス”で落慶式 | トップページ | 宗教における都市と自然 (2) »