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2013年7月

2013年7月31日 (水)

宗教における都市と自然 (8)

 それでは、次に仏教の教えの中で世界平和に貢献するとして私が挙げた「菩薩の思想」について、お話しします。「観世音菩薩」については、私の著書『次世代への決断』に少し書いており、これは日本語だけでなくポルトガル語にも最近、翻訳されて出版されましたから、ブラジルからの参加者の方々はすでにそれを読まれたと思います。また、私が1年前に書いた自由詩「観世音菩薩讃歌」でも、その意味について書かれています。しかし、こちらは英語版もポルトガル語版もまだ正式なものは出ていません。また、昨年の日本での全国幹部研鑽会と全国大会では、「観世音菩薩とは何ものか」について話し、それが機関誌に掲載されましたから、日本の本部講師、本部講師補の皆さんは、詳しい内容を覚えておられるかもしれません。しかし、日本語以外の言語を使う参加者にとっては、まだ説明が不十分だろうと思います。ところが、今日の私の持ち時間はあまり多くなくなってきましたので、詳しい話は残念ながらできません。

 そこで、今日のテキストとして定めてある機関誌『生長の家』の8月号の私の文章を使って、大急ぎではありますが説明させてください。すでにご存じの方も多いと思いますが、「観世音菩薩」とは、古代インドの文語であるサンスクリットの「avalokitesvara bodhisattva」の漢訳(中国語訳)です。それを日本語で音読みすると「かんぜおんぼさつ」と発音されます。その意味を直訳的に言えば、「世の中の音(響き)を観じ、それに応じて人々を救い取ってくれる真理の探究者」ということになります。英語ではこれまでこれを「Goddess of Mercy」と表現していましたが、あまり正確な翻訳ではありません。というのは、「菩薩」という言葉には性別はないからです。男であっても女であっても、真理の探究をしている修行者、特に、自分が真理を悟るより先に、他者を救おうという愛他行に燃えた人は皆「菩薩」であります。それが女性であると解釈された理由は明らかでありませんが、多分、日本で作られた観世音菩薩像の多くが、女性的な容姿をしていたからでしょう。また、菩薩は「神」ではありません。特に、西洋社会では大文字の「G」を使って「神」を表現した場合、それは唯一絶対神を意味することが多いので、「Goddess of Mercy」という英訳は、原意から離れてしまいます。このような理由で、今回、このオフィスの敷地に設置された橋の1つに「観世音菩薩称念讃嘆橋」という名前を付け、それを英訳するに当たっては「Goddess of Mercy」を使わずに、「the Bodhisattva Who Reflects the Sounds of the World」という言葉を使いました。今後は、これを使っていく予定です。

 さて、この菩薩の思想がなぜ世界平和に貢献するかという点ですが、その理由の第一は、そこには「自他一体」の感情があるからです。「自分が救われていなくても、他人の救済を先行させよう」という考えは、自他一体感がなければ起こりません。例えば、親が、まさに交通事故に遭いそうな子を見て、自分がケガすることを顧みずに子供を助けに走った場合、その親の心には自分と子供との分離した感情などなく、「あの子は私の命だ!」という自他一体感に包まれているのです。慈・悲・喜・捨の四無量心とも共通しています。こういう人間の感情の大切さはもちろん、仏教だけで説かれているのではなく、キリスト教でも"よきサマリア人"などの喩えによって「無条件の愛」の大切さが説かれ、イエスは「いと小さき者の一人に為したるは、即ち我になしたるなり」と教えて、偉大なる自他一体の境地を説きました。しかし、仏教においては、この「菩薩」を数多く生み出し、人生のあらゆる場において「自分より他者を救う」ことの素晴らしさを強調してきました。「四無量心これ菩薩の浄土なり」という教えは、それを示しています。この「菩薩」の中で最大のものが「観世音菩薩」なのです。

 この自他一体感がどこから来るか、について考えてみましょう。そういう高級な宗教的感情は、相当の修行をした特別な人間にしか与えられないと、皆さんは考えられるでしょうか? 私はそうは思いません。もちろん、どんな人間も、どんな状況でも他者への自他一体感を簡単に抱けるわけではありません。しかし、人間は本来仏であり、神の子なのですから、多少の練習をすれば、どんな人間でもそれを感じることができるし、それによって「菩薩の浄土」に近づくことができると私は考えます。その証拠が、今日のテキストの中にまとめられているのです。

 谷口 雅宣

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2013年7月30日 (火)

宗教における都市と自然 (7)

 保坂氏は、このような仏教の教えの特徴として「空の思想」を取り上げていますが、私はそれに大乗仏教の「菩薩の思想」を加えたいと考えます。

 まず、「空の思想」ですが、これが戦争の回避につながる理由は、空の考え方では「いかなるものにも実体はない」と主張するからです。これはもちろん、私たちが肉体をもって生活するときに体験する現象世界のことです。そこには"本当の価値"はないと考えるのです。現象はすべて個々の事象の関係性によって成立しているから、現象それ自体で存在するユニークな実体(自性)はナイ、と考えるのです。生長の家では、これをもっと簡潔に表現して「現象はナイ」といいます。この現象世界のどこかに絶対的な価値があと考えると、その価値を死守するために、他を否定し破壊することを容認する考えにつながります。このことは、現在のパレスチナ問題を考えるとよく分かります。地球の地理的な一点に、対立する2つの勢力の"聖地がアル"と信じることで、その土地の奪い合いが、暴力的な手段を含むあらゆる方法で長い間、継続することになります。「空の思想」では、現象世界のすべての存在は空である――即ち実体はないので"本当の価値"ではないと考えるのです。

 これを、植物の花を例として説明しましょう。道元禅師の『正法眼蔵』には「空本無華」(No flower in Emptiness)の喩え話が出てきます。それは、次のようなものです――

 空は一草なり。(Emptiness is like a plant.)
 この空必ず華咲く。(This emptiness will certainly produce a flower.)
 百草に華咲くがごとし。(Just like a hundred plants will do the same.)
 この道理を道取するとして、(As this logic holds true,)
 如来道は空本無華と道取す。(The truth is that emptiness in itself does not have a flower.)

Flower003  私たちは植物を見るとき、多くの場合、それに花が咲いているかどうかを問題にします。咲いていないと、価値がないと考えがちです。しかし、花が咲いていなくても、その草にはやがて花が咲くか、翌年には大抵花が咲くものです。その草には本来、花が咲き、実を結び、子孫を殖やすという機能が備わっていても、時期や環境の条件によって、そのすべての機能が一時(いっとき)には現れないだけです。現れていないけれども、花の機能は本来アルというのが「空」の意味です。ナイように見えていてもある。アルように見えていても、そこにはナイということです。生長の家の前総裁、谷口清超先生は、道元禅師のこの喩えを解釈して、次のように書かれています――

 「まさに知らねばならぬ。"空"とは何もないことではない。それは一見無のようでもあるが、その奥に"全"がある。それは草のようなもので、今何も咲いていなくても、"華"がすでにその奥にあるのだ。それ故必ず咲くのである。そのように空も華がさく。この道理を説こうとして、釈尊は"空本無華"即ち空には本来華はないぞといわれたのだ。それは一定の華という形がないのだということである。本無華といっても、実相は"今有華"今華がさいている。それは桃の花でも李(すもも)の花でも、そのようなもので、梅も柳も同じことである。」(『正法眼蔵を読む 上巻』、pp.476-477)

Flowerparts  この「空」の考え方は、植物の"全体"は常にそこにあるが、時と場合によって、「芽」「葉」「茎」「花」「根」「果」「種」という形に現れてくるということですから、1つの全体が、時と場合に応じて多様に展開していくことを認める思想です。先に挙げた保坂氏は、この点に注目して、政治思想としての「空」の考え方は「諸々の対立する価値観は、その本質において決して違うものではない、という思想」(p.146)だと指摘しています。そして、「空思想を受け入れれば、現象界における差異を超えた共存が可能である」とし、「これは宗教や見解の違う者同士が平和的に共存するためには、先ず、自らの主義主張を絶対化しない事が必要であると考えることを求めているのではないだろうか」(ibid)と述べています。

Religionparts  私はこの考えに賛成します。すでに多くの皆さんはお気づきと思いますが、実はこの考え方は生長の家が主張している「万教帰一」と同じ論理構成になっています。世界の数多くの宗教は、それぞれの表現の仕方は多様であっても、それぞれの表現自体に絶対的な価値があるのではなく、その表現の“奥”にあって、その表現をさせている"本体"に本当の価値がある。「十字架」や「コーランの章句」や「如来像」そのものに絶対的価値があるのではなく、そういう表現を生み出した真理の力に価値がある――そういう生長の家の考え方は、仏教の空思想に根差しており、そして今、このグローバル化した世界の平和実現のためには、なくてはならない考え方であると言えます。

 谷口 雅宣

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2013年7月29日 (月)

宗教における都市と自然 (6)

 宗教改革については、すでに多くの人は学校や教会で勉強したことと思うので、あまり多くは説明しません。ただ、そのきっかけとなった「贖宥符」(しょくゆうふ)については、当時の教会の腐敗の状況を思い出していただくために、ここで触れておきましょう。私が高校時代に習った世界史の教科書では、「贖宥符」の代わりに「免罪符」という言葉が使ってあったのですが、カトリックの教えには正式には「免罪符」という考えはありません。中世の教会の教えでは、罪を犯した人はそれを悔い改め、司祭の前で罪の告白をしたのち、贖罪のための行為をすれば、罪を赦されることになっていました。罪を償うためには、人々は巡礼や断食、慈善の行為などを求められましたが、時代がくだってくると、教会への寄進や献金などによってそれを代替できるという考えが生まれました。これが、贖宥符を金で買うという行為につながっていったのです。
 
Menzaifu  ローマ教皇のレオ10世(在位 1513-21)が、それを正式に認めたことが問題を大きくしました。教皇は、ローマのサンピエトロ大聖堂の改築に要する莫大な費用を捻出するために、霊魂救済をうながすためと称して、ドイツで大々的に贖宥符を販売することを許可しました。それを引き受けたのが、ドミニコ会の修道士、ヨハネス・テッツェル(1465-1519)でした。テッツェルは、贖宥符を買うために人々が払う金貨が、贖宥箱の中に落ちてチャリンと鳴ると、その人の魂は天国に上って救われると言いながら、お札を売ったといいます。それを聞いた人々は、金さえ払えば救われると考え、喜んで贖宥符を買ったといいます。この教会の行為に大いに疑問を感じ、ローマ教皇に対して「95カ条の提題」(1517年)を出したのが、マルティン・ルター(1483-1546)でした。

Ryokanm01   宗教が経済的権益と結びつくことによっても、信仰の純粋性は失われます。贖宥符の問題は、当時のローマ教会のみが独占的に贖罪のためのお札を発行できるという状況の中で起こったことですから、経済的権益の濫用の一例としても見ることができます。谷口純子・白鳩会総裁の講話の中には、良寛和尚が当時の寺請檀家制度に反対して寺を持たず、乞食の布施行の生活を徹底したという話が出てきました。そして、この制度はキリスト教を排除するための一種の"民衆囲い込み"が目的であり、これによって「寺での葬式や法事が利権化して、僧侶たちは托鉢をしなくても食べていける」ようになったとありました。だから、経済的権益の確立は宗教を腐敗に導くことがわかります。

 宗教が国や政治権力と結びついたときの問題は、さらに深刻です。これについては、私たちは過去の教修会においてすでに学んできたところです。それは、極端な場合には戦争を引き起こし、遂行させる大きな要因になるということです。過去のヨーロッパの宗教戦争がそれを有力に語っており、現在でも、イスラーム原理主義にもとづくテロと、そのテロを撲滅させるための戦争が多大な犠牲を払って行われていることを、私たちは知っています。それらのことから、先進国の多くでは、今日では「政教分離」あるいは「聖俗分離」の考え方が採用されているのですが、そうでない国もまだ数が多く、信仰を理由とした紛争が延々と続いているため、そこから平和に有害な宗教や信仰など捨てるべきだという無神論の考え方も生まれています。
 
 しかし、私たちが充分知っているように、宗教は人類に紛争や戦争だけをもたらしたのではありません。ユダヤの預言者は国王の悪政をたしなめ、イスラームの指導者たちは政治が信仰から逸脱していると叱り、ローマ教皇は愛のない国際政治の欠陥を指摘してきました。また、各宗教の信仰者たちは、神の御心を実践するために、戦場や飢餓、災害の現場に駆けつけて、病み、傷ついた人々の救援活動に尽力してきました。このような宗教が説く徳性や倫理を政治に反映させようとする努力も古来、各国で続けられてきました。その中で、仏教はあまり目立った活動をしていないように見えます。しかし、この世界宗教については特筆すべきことが1つあります。それは、仏教が国家権力と結びついて戦争の当事者となることはほとんどなかったということです。宗教研究者の保坂俊司氏の言葉を借りれば、「仏教のみが、世界宗教の中で、武力を伴わずに世界に平和裡に伝播された宗教だ」(『国家と宗教』p.148)ということです。仏教が、世界で最初の普遍宗教であるという事実をこれに加えて考えれば、これは驚くべきことではないでしょうか。このことは仏教の教義の中に、本当の意味で平和を実現するための教えが含まれていることを示唆しているのではないでしょうか? 
 

 谷口 雅宣

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2013年7月28日 (日)

宗教における都市と自然 (5)

Benedictsrule  マレリー講師が述べたように、『聖ベネディクトの戒律』では、食事や服装の決まり、代表者(abbot)の選び方、最低5時間の手仕事、3時間おきに行う1日8回の祈りの儀式などが細かく定められています。それらは当初、"初心者の小さな決まり"(beginner's little rule)として定められていましたが、しだいに、カトリック全体にとって無くてはならぬ"戒律"に変化していきました。これら修道会の運動は、しかし、何回もの"改革"(reformations)を必要としました。詳しくは、マレリー講師が発表した通りです。その理由はいろいろあると思いますが、一つ挙げられるのは「経済的発展」との関係です。農作業を含む手仕事を重んじた修道士たちは、厳しい環境の中でも工夫や努力によって自給自足的な生活から富を生み出し、経済力を手にするようになりました。そのこと自体は、決して悪いことではないどころか、文化を生み、育て、伝える役割を演じてきました。修道制度のこの"光明面"について、少し言及させてください。
 
 ヨーロッパ中世の研究者であるアン・フリーマントルは、ベネディクト派の修道士たちの社会への貢献について、次のように書いています--
 
「修道院の穀物畑、菜園、果樹園、養魚池などは、新しい農業技術の試験場のような役割りを果たした。図書館は、幾度となく繰り返された蛮族の侵入による破壊の手をのがれた書物の宝庫であった。写字室(scriptorium)の中で、修道士たちは書物を転写し、ヴェルギリウス、オヴィディウス、シーザー、キケロなどの作品や、ギリシャ語で書かれた著作のラテン語訳を後世に伝えたのであった。また修道士たちは、自分の衣服を織り、自分のぶどう酒をつくり、大工や石工の仕事も自分で行なった。彼らはこれらの有益な技術を、周辺の農村の人々にも教えた。病気の者や飢えた者を修道院の救護院に収容し、学問したいと思う者には修道院学校で教育を授け、家郷を遠く離れて旅する者には修道院の客員室を提供した。」(『信仰の時代』、p. 34)

 しかし、このように経済や文化、教育の面で社会に貢献した修道院制度であっても、経済的豊かさから生じる人間の心の問題については、必ずしも完璧な解決方法は見出していなかったといえます。その背景の1つとして、当時の社会では教会が国から手厚く保護されていたことが挙げられます。教会の所領と聖職者は、租税を免除されていたし、犯罪で告発された聖職者は、軽犯罪の場合は法廷ではなく、教会での裁判が許されていました。つまり、仲間うちでの裁判です。また、教会に大きな経済的恩恵を与えた制度としては、教会が金銭や財産の遺贈を受けることが許されていたことが挙げられます。これによってヨーロッパ中の国王と貴族が、自分たちの富を教会に贈与することを美徳の徴(しるし)と考えるようになったといいます。前出のフリーマントル氏によると、この傾向によって、「教会と修道院は、しだいにしだいに富裕になり、数世紀たつうちに、その所有地からあがる収入だけで、ヨーロッパのどの国の歳入をも上回ることが多くなった」(p. 32)ほどでした。
 
 すると、信仰生活に緩みが生じ、戒律への真剣さが失われ、欲望を満たすことへの抵抗が失われていったと考えられます。そこから、次なる改革への必要性が生じてきます。興味あることには、これらの改革はすべて未来を目標としたというよりは、修道生活の基本である禁欲的信仰生活、さらにはイエスと十二弟子が生きた"無所有の生活"にもどれという"原点復帰"の運動であった点です。マレリー講師によると、シトー会にいたっては、イエスよりもさらに時代を遡るモーセの40年の放浪生活に還ることさえ目指していたといいます。(『申命記』32:10)このシトー会のうち最も厳しい戒律をもつ「厳律シトー会」の流れをくむ修道会が日本にもいくつかあり、その中では北海道の「当別トラピスト修道院」と九州の「大分トラピスト修道院」が有名です。「トラピスト」とはフランスのノルマンディー地方のトラップ修道院の戒律に従うという意味の通称で、正式には「厳律シトー修道会」といいます。
 
 経済的豊かさが人を信仰生活から遠ざけるという問題以外にも、私たちがキリスト教修道会の歩みから学ぶことは多くあります。その1つは、「権力は腐敗する」ということです。経済的豊かさは権力と結びつくことが多いのです。とりわけ近世までの歴史においては、国家と教会は未分離でしたから、教会の権力は国家によって裏づけられる強力なものでした。それは、人々の日常生活を規制し、支配していました。ヨーロッパの宗教改革は、この問題に鋭いメスを入れました。1517年10月に始まった宗教改革は西ヨーロッパ全土に広がり、同じ精神のもとに、教会権力の束縛から逃れようとする大勢の人々が"新大陸"アメリカへ渡り、250年後のアメリカ合衆国成立(1776年)につながります。

 谷口 雅宣

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2013年7月27日 (土)

宗教における都市と自然 (4)

 聖ベネディクトが修道院の生活の規範とした戒律(「聖ベネディクトの戒律」)は、12世紀に至るまで西方教会唯一の修道会規であり、フランシスコ会、ドミニコ会以後の多くの修道会の会憲や会則のモデルとなったといいます。ベネディクトの妹スコラスティカも、同じ精神をもって生活する女子修道院を開いています。同会の会員は「清貧」「従順」「貞潔」および「定住」の誓願をたて、修道院において、労働と祈りの中で共同生活を送りました。
 
 ところで、イスラームにおいては、スーフィズムがこのキリスト教の修道会の制度を取り入れました。日本におけるイスラーム研究の第一人者、井筒俊彦氏によると、ムハンマド没後の661年に始まるウマイヤ朝期には、イスラームは都市に於いて拡大し、そこでの物質主義的、享楽主義的文化に影響されたことで、「教祖在世の頃、信徒の胸に烈々と燃えていた熱い信仰の炎は消え失せて宗教は外面的儀式となり、人々は神の懼れを忘却して、ひたすら現世の快楽を追い求めるに汲々たる有様であった」(『イスラーム思想史』、p.174)といいます。イスラム最大の歴史哲学者の1人であるイブン・ハルドゥーンも、都市文化の退廃の様子を次のように嘆いています――

Ibnkhaldun03  「都会の人は一般にさまざまな快楽に耽り、奢侈(しゃし)や現世における栄達や欲望の追求に身を委ねがちである。このためかれらの心は悪に染まってしまい、善の道からはずれてしまっている。田舎や砂漠の人は都会の人と同じように現世のことに関心をもっているといっても、生活必需品に関してであって、奢侈とか快楽の対象となるものについてではない。田舎や砂漠の人の行動を規制する習慣は、その生活同様に単純であって、かれらの犯す過ちも都会の人の過ちと較べると微々たるものでしかない。
 田舎や砂漠の人は自然状態に近く、都会の人と違い、罪深くて醜い行為を繰り返すうちに芽生える悪徳に、その心が染まっていない。田舎や砂漠の人に対しては容易に罪を諭し、善行に導くことができる。都会の生活は文化の頂点であると同時に、堕落への出発点である。都市生活は悪の最後の段階であり、善からもっとも遠い」。(藤田弘夫著『都市の論理――権力はなぜ都市を必要とするか』、pp.172-173)

 久都間講師の発表にもありましたが、西暦661年に成立したウマイア朝の初期には、このような都市の乱れた状況に堪えかねて、現世を否定的に見、魂の救済を求めるスーフィズムの運動が起こります。ここで思い出していただきたいのは、イスラームの聖典である『コーラン』は聖書の記述を前提にしているということです。聖書には『ダニエル書』や『ヨハネの黙示録』のように、"最後の審判"と現世の終わりを予言する"終末論"が説かれています。だから、物質主義的な都市の繁栄に疑問を感じたスーフィーたちは、「享楽的な生活の末は、必ず滅亡がやってくる」という信仰から、危機感を感じて運動をしました。

このスーフィーたちの修道生活が組織化されていった原因について、井筒氏は次のように述べています--
 
「そしてこの『修業道(タリーカ)』の組織化に重大な貢献をしたものは、既に四、五百年も以前から、主としてシリア地方からアラビア砂漠の奥地にまで入り込んで隠栖(いんせい)生活を送り、特色ある修行実践道を創り出していたキリスト教の修道者達であった。」(前掲書、p.177)

 そして、井筒氏は、これらスーフィーの生活を描いたスーフィー自身による著作から次のように引用しています--
 
「彼らには種々特色ある風習や生活様式があるが、なかでも、現世的事物の極少部分をもって満足し、食物のごときも絶対必要の最少量しかとらず、衣食住を最小限度に切りつめている。彼らは富裕を棄てて貧困を選び、欠乏を好んで豊沃(ほうよく)を避け、満腹を去って飢餓を取り、全て多よりも少を選ぶ。また高位顕職を望むことなく、万人万物に慈悲の心深く、大なる人にも小なる人にも共に謙虚の心を失わぬ」。(pp.178-179)

 このような例を見て私たちに分かることは、人間は洋の東西を問わず、物質的繁栄や享楽的生活に"弱い"ということです。信仰深い修道士たちでさえ、豊かな生活の中でつまづくことがありました。しかし、また、そういう自分たちの"心の弱さ"を知って、深く反省し、さらなる"神への従順"を決意して、欲望を抑え排除して進む意志を貫き、何度でもそれを実行してきたという歴史が、宗教運動の中にはあります。また、そういう努力は決して無駄だったのではなく、その努力の中から、価値ある文化や思想が生まれ、後世に伝えられてきていることを忘れてはいけません。

 谷口 雅宣

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2013年7月26日 (金)

宗教における都市と自然 (3)

 “森の中のオフィス”での最初の行事として行われた今年の「世界平和のための生長の家国際教修会」では、5人の本部講師、本部講師補の研究発表が行われた後、私が全体をまとめた講話を行った。これらの講師の発表の簡単な内容はすでに述べた。しかし、私が述べなかった部分にも各人の努力が反映しており、興味ある情報、重要な示唆が含まれていることはもちろんである。これに加えて、谷口純子・生長の家白鳩会総裁も30分の講話をした。私が教修会の最後で行った「まとめの講話」の中では、その一部に簡単に触れているが、その全体は、いずれ彼女の意思でどこかに発表されるかもしれない。
 
 次に、私の講話を何回かに分けて掲載する--
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 全世界から集まられた生長の家の本部講師、本部講師補の皆さん、幹部の皆さん、生長の家の運動の新しい国際本部となる"森の中のオフィス"にようこそおいでくださいました。ありがとうございます。また、昨日の午後から、本教修会での発表を担当してくださったブルース・マレリー講師、久都間繁講師、天地忠衛(まもる)講師、斉城偉(すぐる)講師、大島達郎講師、そして1日目の講話を担当してくださった谷口純子・白鳩会総裁、本当にありがとうございました。私はこれらか、これらの講師の皆さんが話された広範で多岐にわたる、貴重な情報を集めて、1つのまとまったメッセージとして皆さまにお届けしなければなりません。これは実に大変な役割で、胃が痛くなりそうです。どうか皆さまの暖かいご支援をお願いします。ありがとうございます。

 今回の生長の家国際教修会のテーマは、「宗教における都市と自然」でした。このテーマが選ばれた理由は、ここにお集まりの皆さんには明らかだと思います。それは、生長の家の国際本部が大都市・東京から、ここ"森の中"の自然へと移転したからです。生長の家は都市から自然に本拠地を移し、そこで何をするかが今、私たちの重大な関心事であるわけです。そういう問題意識をもって、世界の諸宗教の歴史をひもとくと、それぞれが都市と自然との関係の中でいろいろな経験をし、それらの経験から私たちが学ぶべきことがあるのではないか--それが今回の教修会の目的でした。皆さんのお手元にあるシラバスには、そのことがこう表現されています。
 
 「古代における伝統的な都市の多くは宗教の中心であり、必ず宗教施設が置かれていた。また、釈迦が都市を支配する王家の出身であり、イエスが都市労働者の子であり、かつ都市に溶け込んで布教し、ムハンマドも当時の国際商業都市、メッカに生きる商人であったことを思えば、仏教、キリスト教、イスラームなどの世界宗教も、都市なくして誕生せず、また発展することはできなかったと思われる。日本に於いても、現在に続く多くの仏教宗派が鎌倉時代に成立したが、それらに共通する大きな特徴は都市で始まったことにある。だから、都市には、宗教を生み育てる重要な要素が存在するに違いない。その一方で、都市は人間が自然の"過度"な影響を排除して生きるために構築した場であり、人間の欲望を満たす場でもあった。別の言葉でいえば、都市には"聖"と"俗"の要素、あるいは"善"と"悪"の要因が混在しており、そこから宗教が生まれたと考えられるのである。」
 
 この2日にわたる研修で、私たちは都市と自然を背景として宗教が抱えてきた問題について、多くのことを学んだと思います。ブルース・マレリー講師の発表では、キリスト教には、都市に多く集まる金銭や財産は「完全」になるための障害であるという考え方があると指摘されました。具体的には、その教えは次の聖句によります--

「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。(『マタイによる福音書』第19章21節)
 
 この教えにしたがって、金銭欲や物欲を放って、自然の中でできるだけ無一物で神と共に生きるという考え方が、修道院生活の基本にはありました。
 
 この聖句のあとには、聖書には次の有名なキリストの言葉が記録されています--
 
「よく聞きなさい。富んでいる者が天国にはいるのは、むずかしいものである。また、あなたがたに言うが、富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。(同章23~24節)

Stanthonygreat  この聖句を文字通り実行しようとした初期の聖人として、マレリー講師はエジプトの聖アントニウス(St. Anthony the Great, 250-356)のことに言及しました。聖アントニウスは、羊飼いなどの牧夫の守護聖人と見なされていて、エジプト北部地方に棲み、キリスト教では、禁欲的な修道生活の創始者とされています。この禁欲的修道生活の伝統は、ギリシャ正教、ロシア正教も含めたキリスト教全体の中では、とても長く、そして影響力も大きいものでありました。その伝統を確かなものにしたのが、聖ベネディクト(480-547)によって打ち立てられたベネディクト派の「聖ベネディクトの戒律」(the Rule of St. Benedict)でした。
 
 ベネディクト派は、カトリック教会最古の修道会として知られています。
 
Cassino01  529年にヌルシアのベネディクトがローマとナポリ間にある標高約500メートルの岩山、モンテ・カッシーノ(Monte Cassino)に創建した会派で、その戒律は「服従」「清貧」「童貞(純潔)」でした。ベネディクト会士は黒い修道服を着たことから「黒い修道士」とも呼ばれました。同会の伝道範囲・活動範囲は、イタリア半島のみならず現在のイギリス、ドイツ、デンマーク、スカンジナビア半島、アイスランド、スイス、スペインに及び、中世ヨーロッパにおいて、伝道、神学、歴史記録、自然研究、芸術、建築、土木などの分野に果たした役割は大きいといいます。

 谷口 雅宣

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2013年7月25日 (木)

宗教における都市と自然 (2)

 次に発表した久都間繁・本部講師は、イスラームの開祖、ムハンマドが神から啓示を受けるかなり前から、メッカを離れること5キロほどの山の洞窟にこもり、独りで瞑想にふけっていたことに触れ、この行動が当時のシリアのキリスト教修道士の生活に倣ったものであるとする識者の見解を紹介した。ムハンマドは当時、メッカでは名門の貿易商人だった。ということは、一方に国際貿易都市であり、情報の集積地であるメッカを置き、もう一方に、仕事の合間に都市の喧噪を離れて瞑想をする山の洞窟を置くことで、イスラーム誕生の舞台が用意されたということだろう。つまり、「都市と自然」の対照、あるいは矛盾の中から、この世界宗教は始まったというのだ。また、久都間講師は、イスラームの“2大聖地”として知られるメッカとメディナを、それぞれ「都市」と「自然」に対応させ、イスラームの教えの変化と幅が、この2つの対照的な背景から生み出されたとの見解も述べた。
 
 もっと具体的に言えば、メッカでは、ムハンマドとその信奉者は土地の支配層から厳しい弾圧を受けたため、その初期の教えは「峻厳な神が示す生々しい終末論的イメージの警告」を特徴としていたが、中期から後期にかけての教えは、「神の恩寵を表す“神兆(みしるし)”として、大自然への讃歌を歌い上げるとともに、慈悲と慈愛に満ちた神の姿が随所に表現されるようになる」という。この所説は、イスラーム研究者、牧野信也氏によるところが大きいが、宗教が説く教えの内容は、その宗教が置かれた環境と無縁ではないという当然の事実にもとづくものと言えよう。だから、宗教が説く教えの“表面”だけを見ていては、その宗教の内奥の一貫した“真実”をとらえることはできない。原理主義的な宗教理解の危うさが、このイスラームの例からも理解されるのである。
 
 教修会での次なる発表は、中国の仏教についてだった。これは、中国出身の本部講師、天地忠衛、斉城偉両氏によって行われた。天地講師によると、現代の中国仏教は、衆生救済を主な目的とする「都市仏教」と、個人の修行を主な目的とする「山岳仏教」の2つに大別される。そして、前者を天地講師が、後者を斉城講師が担当して発表した。都市仏教では「人間(じんかん)仏教」という概念が紹介された。これは、太虚(1890-1947)という人物が提唱した理念で、清の時代の末期、僧侶が堕落し仏教が衰退している状況を改善しようとして、仏教の道理による社会改革を目指したものという。また、中国には古来、自然と人間の調和を説いた「天人合一」の思想があったが、現代中国では、中国共産党政府の経済発展第一主義の政策にしたがって「人定勝天」(人間が天に勝ち抜くことができる)というスローガンが掲げられ、自然破壊が進行しているという。だから、現代中国では都市仏教だけでは、環境破壊を止めることは難しい、と発表された。ここで私の興味を惹いたのは、中国語で「天」といった場合、そこには「天帝」「神」「造物主」という意味もあることは確かだが、「自然」「自然の力」「天然」という意味もあるという点だ。ちなみに、角川書店の『角川最新漢和辞典』(1995年)を引くと、前者の意味は6番目に出ていたが、後者の意味は3番目だった。
 
 中国の都市仏教に自然保護が期待できないならば、山岳仏教には何が望めるだろうか? 斉城講師の発表によると、山岳仏教も現代中国の経済発展政策の影響を強く受けているため、本来は自然を尊び、権力から離れることを志しながら、それがままならず、市場経済化の波に押し流されつつあるという。斉城講師によると、現代の中国山岳仏教の抱える問題は4つあるという:①出家修行者の資質、②指導者の資質、③政治権力からの分離、④都市からの分離。ご存じの読者も多いと思うが、中国は1966年から10年間の文化大革命によって、仏教が否定されたため寺院も人材も激減した。その後、1978年からの改革・開放政策によって、宗教一般がやや回復しつつあるが、ダメージはまだ大きい。そのため、①と②の問題は深刻である。また、③の問題は、中国の政治体制が大きく変わらないかぎり解決が難しい。また、最近の技術革新によって都市と山岳の距離は縮まり、それに経済発展中心の考え方が加わって、山岳仏教の施設も商業化しているという。なかなか深刻な問題だと思う。
 
 さて、最後の発表は、日本の仏教における都市と自然の問題だった。といっても、日本の歴史は長いので、この教修会ですべての時代をカバーすることはできないし、仏教のすべての宗派を取り扱うこともできない。担当した大島達郎講師は、道元が創始した曹洞宗の歴史をたどりながら、禅系の日本仏教の中での「都市と自然」の関係を考察した。もっと具体的には、「永平寺三代相論」と呼ばれている同宗内部の対立の中で、「都市と自然」がどのように扱われたかの検討である。仏教では「上求菩提、下化衆生」という言葉があるように、古来、悟りを求めることと民衆を救うことの両立が問題にされた。曹洞宗も例に違わず、真理の探究を重視する流れと、民衆への布教を重視する流れとがあり--複雑な諸要素を無視してごく単純化して言えば--前者が都市から離れた永平寺を守り、後者が前者から分かれて総持寺を建て、やがて都会の真ん中(横浜市鶴見区)にそれを移転し、以後守ってきた。この両派が分かれる原因となった論争が「三代相論」である。その内容は省略するが、読者にここで気づいてほしいのは、どんな宗教にもこの2つの要素が存在するということだ。

 前者を重視するならば、キリスト教の修道院制度のように、都市から離れた自然の中で、禁欲生活をしながら真理探究の道をきわめる方向が好ましいことになるが、後者を重視するならば、人口の多い都市に位置して、より多くの民衆と触れ合い、それらの人々を感化するためには多少の方便を使ってでも、布教を図ろうとするだろう。この「方便」の中には、その土地の政治権力に近づき、その力を借りて布教を進めることも含まれるかもしれない。しかし、これらの方便の度が過ぎれば、信仰や悟りの純粋性は失われ、宗教が腐敗する可能性も否定できないのである。古来「都市と自然」は、宗教が抱えるこのような二律背反的な課題の“舞台”あるいは“背景”として存在してきたのである。
 

 谷口 雅宣

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2013年7月24日 (水)

宗教における都市と自然

Spconfpartis  生長の家の新しい国際本部となる“森の中のオフィス”は7月7日に落慶したが、そこでの最初の行事となる「世界平和のための生長の家国際教修会」が去る7月16日、17日の両日、同オフィスのイベントホールで行われた。生長の家の「教修会」なるものは、生長の家の本部講師と本部講師補を主な対象として、これまで日本と海外で毎年、交替で行われてきた。が、昨年は諸般の事情で開催が見送られ、今年、新しい国際本部のスタートに合わせて国内・海外の区分けを外し、世界全体の生長の家の最高幹部が一堂に集まって行われたものだ。だから、今回の教修会は、言葉の本当の意味で「国際教修会」と呼べる最初のものである。参加者は国内が223人、海外は119人の合計342人である。国別の内訳は、日本が198人、ブラジルは74人、アメリカ21人、台湾10人、カナダ5人、EU3人、韓国2人などである。
 
 生長の家教修会は毎回、特定のテーマを設けて、4~5人の本部講師(補)がそのテーマに即した研究発表をし、その内容を受けて、私がまとめの講話をすることになっている。今回のテーマは「宗教における都市と自然」だった。今の時期にこのテーマが選ばれた理由は、読者にもだいたい察しがつくだろう。それは、生長の家が国際本部を大都市から自然の豊かな地域へと移転するからである。その動きが、世界の宗教の歴史を振り返ったとき、通例のことなのか、それとも異例のことなのか? 前例があるならば、それはどういう目的で行われ、結果はどうだったのか? 都市を離れることは、宗教運動の中でどのような意味をもっていたのか?……などを考えようというわけである。これはもちろん、生長の家が国際本部の移転の目的を今ごろ考えるという意味ではない。“森の中のオフィス”構想はすでに9年前に決定されているし、私と妻との共著『“森の中”へ行く』が発行されて3年がたとうとしている。国際本部移転の目的は、それらの文書や書物に詳しく書かれているし、私は自分のブログで機会あるごとに、その目的をできるだけ丁寧に説明してきたつもりである。今回の教修会の目的は、「都市と自然」の問題を生長の家の立場からではなく、世界の宗教の歴史から学ぶというところに主眼があった。

 では、どんな研究発表があったのだろう。「世界の宗教」と書いたが、世界にはほとんど無数の宗教があるから、数カ月でそれらすべてを研究することなどできない。だから、研究対象に選ばれたのは、いわゆる「世界宗教」と呼ばれ信者数が多い大宗教の、しかもその一部にとどまる。もっと具体的には、キリスト教、イスラーム、仏教の3つである。これらの大宗教が誕生した場所、発展した場所、転換期を迎えた場所などが、都市であるのか自然であるのかに注目し、それぞれの理由を考えることで、「宗教における都市と自然」の関係を浮き彫りにしようとしたのである。
 
 キリスト教の場合について発表したのは、アメリカ合衆国伝道本部に所属するブルース・マレリー本部講師(Rev.Bruce G. Mallery)だった。同講師は、イエスが伝道活動を始める前には「荒野」で40日間の修行をしたことから説き起こし、都市で発展し、都市の人々を数多く救ったイエスの教団も、当初の精神的基盤が自然と近いところにあったことを確認したうえで、カトリックの伝統の中にある修道院の活動に焦点を当て、数多くの修道院が都市を離れた自然の中に建てられ、都市がもたらす数々の物資的、享楽的な生活を捨てて、そこで禁欲的求道生活を営んできた修道士たちの努力と功績について述べた。このカトリック修道会ではベネディクト派が代表的だが、この会派が生まれた6世紀から14世紀の初めまでに、どれだけ発展し、どれだけの功績があったかを数字で表すと、最盛期にはこの会派はヨーロッパに3万7千もの修道院をもち、それらから「24人の法王、200人の枢機卿、7千人の大司教、1万5千人の司教、1500人の聖人」が輩出したという。

 カトリックの修道院制度に問題がなかったわけではないが、その光明面に焦点をしぼり、これらのエネルギーの源泉として都市と自然のどちらが有効かという視点で考えた場合、マレリー講師は「これらの聖人は心を清め、日々の修行の向こうに神の光を感じようとした。そのための最適な場所は、都市を離れて荒野に行くことだと感じていた」と述べている。このように「神の光」を感じ、信仰の原点に還るという動きは、やがて宗教改革に結びつく。プロテスタントの場合、この“信仰の原点”とは聖書であるが、さらに興味あることは、多くのプロテスタントの信仰者が“信仰の原点”に還るための場所として選んだのが外国であり、“新大陸”であったということだ。つまり彼らは、カトリック教会の束縛から逃れるために“未知の荒野”である新大陸を目指し、そこで純粋な信仰生活を実現しようとしたのである。そういう意味で、プロテスタントにおいても、自然(荒野)は信仰の純粋性を守るための場所として機能した、とマレリー講師は指摘したと言える。
 
 谷口 雅宣
 

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2013年7月 7日 (日)

“森の中のオフィス”で落慶式

 今日は午前10時から、山梨県北杜市の生長の家“森の中のオフィス”で同オフィスの落慶式、11時すぎからは万教包容の御祭が行われた。落慶式には、ブラジル、北アメリカ、韓国、台湾、ヨーロッパの生長の家の代表者を含む幹部・信徒が参列したほか、来賓として、立正佼成会の渡邊恭位理事長、地元北杜市の白倉政司市長、オークヴィレッジの稲本正代表、東洋大学の西山茂名誉教授、環境経営学会の岡本享二理事、近隣の自治会代表者、工事関係者など多数が参加してくださった。八ヶ岳南麓地域は前日まで雨模様だったが、今日は朝から青空が拡がるよい天気に恵まれたことがとても有り難かった。万教包容の御祭では、東京からこの地に移設された神像と、新たに設置された七重塔の除幕が行われ、世界各地より集まった生長の家の幹部・代表者が『観世音菩薩讃歌』を読誦する声と、周囲の森で鳴くエゾハルゼミの合唱とがあいまった荘厳な雰囲気の中で、参列者は運動のさらなる拡大と「万教帰一」の教えの宣布を誓い合った。

 私は、落慶式の最後に概略、以下のような挨拶を行った--
 
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 皆さま、本日は生長の家の新しい国際本部である“森の中のオフィス”の落慶式にお越しくださいまして、誠にありがとうございます。ここにおいでくださった多くの方はすでにご存じのように、私ども宗教法人「生長の家」の国際本部は、東京の渋谷区の「原宿」と言われる地域にありました。建物の竣工は、昭和29年(1954年)3月ですから、59年と4カ月、およそ60年前の出来事です。生長の家の立教は昭和5年(1930年)ですが、立教当初は神戸の住吉に本拠地があったものを、昭和9年(1934年)に谷口雅春先生御一家は東京へ居を移されました。それから数えると約80年間、私たちは東京を本拠地として活動を展開してきたわけです。そういう歴史をもった宗教運動が、このたび八ヶ岳の山麓にある“森の中”へ移転し、そこで活動を始めることになるわけですから、当然、運動のやり方や方向性に多少の変化が生じることは避けられません。
 
 しかしその一方で、宗教とは、そもそも時代や環境に左右されない“宗教的真理”を宣布するための活動ですから、発祥当時から全く変わってしまうということはあってはなりません。不変の真理を掲げながらも、時代や環境の変化にともなって生じる人々や社会の要求に応えていくということは、決して簡単なことではありません。しかし、それが宗教運動の最も重要な役割だと私は思います。その目的のために、私たちは、この“森の中のオフィス”に、立教当初からの生長の家の考えを表す象徴を、いくつか設置することにしました。基本にもとづき、応用範囲を拡大するためです。それの象徴とは、①神像であり、②七重塔であり、そして、③5つの橋の名称です。
 
 会場におられる皆さんの多くは、ここへ来られる前に、敷地内の2つの橋を渡って来ておられますが、その橋に名前がついていることに気づかれたでしょうか? この敷地には、全部で5つの橋があり、それぞれに漢字で表された名称がついています。この名称は、私たち生長の家の信徒が日常の業務の中で忘れてはいけない教えを凝縮して表現したものです。それを解説していると長くなるので、別の機会に譲ろうと思います。しかし、「神像」と「七重塔」については、今後の生長の家の方向を示す大切なものであり、この落慶式のあとに行われる御祭では、これらの除幕が行われて、皆さんはその姿をご覧になることになりますから、それらが何を意味しているかをこの機会に説明させてください。
 
 すでに申し上げましたが、これら2つは、生長の家の立教当時の精神を象徴したもので、それがここに置かれるということは、私たちはこの2つに象徴される立教の本来の目的を今後もずっと掲げ続ける、という意志の表明であります。まず神像ですが、これはもともと東京・原宿の本部会館の正面玄関に設置されていたもので、「七つの燈台の点燈者」を象ったものです。七つの燈台の点燈者とは、キリスト教の聖書の『ヨハネの黙示録』第1章に出てくる霊人のことで、聖書では「七つの金の燭台」に火を点ずる者として描かれています。生長の家では、これを「七つの燈台の点燈者」と呼んできました。私たちは、この点燈者とは「世界のすべての宗教に火を点じる者」のことだと解釈しています。つまり、世界の宗教は皆、唯一つの共通真理を、それぞれの時代や環境、人々の要請に応じて宣布してきたものだと考えるのです。これを私たちは「万教帰一」の教えと呼んでいます。簡単に言えば、すべての宗教の神髄は共通しているということです。この考えをキリスト教的に表現したものが、「七つの燈台の点燈者」ということです。
 
 これに対して「七重塔」は、同じ「万教帰一」の考えを仏教的に表現したものです。『法華経』見宝塔品によると、釈尊の説法のクライマックスでは多宝塔が地中から出現して真理の素晴らしさを讃えたとありますが、これに基づいて中国や日本の仏教寺院には、昔から二層の多宝塔や三重塔、五重塔、七重塔などが建立されてきました。私たちは、これを「一仏一切仏」の教えの表現としてとらえています。つまり、世界では色々の宗教や宗派の名称で真理が説かれていても、それらはことごとく同一如来の分身であり、同一の真理が、異る説き方で説かれているから、私たちは宗教争いや宗派争いをする必要はないということです。この「一仏一切仏」の考え方は、「万教帰一」の教えとまったく同じであります。つまり、キリスト教でも仏教でも「万教帰一」の教えは説かれているのでありますが、その表現の仕方が違うので、これまでは見落とされがちだったのであります。
 
 生長の家は、新しく建設されたこの“森の中のオフィス”を国際本部として業務を開始するに当たり、この「万教帰一」の考え方を目に見える形で表すため、そのキリスト教的表現である「七つの燈台の点燈者」の像と、仏教的表現である「七重塔」とを同じ広場に設置して、世界の宗教の大元は同じであり、したがって宗教争いや宗派争いをすることなく、共通目標に向かって一致協力して進むべきであることを訴え、自らもその方向に精進していく決意を新たにしようとしているのであります。
 
 それでは、世界の宗教が一致協力していくべき“共通目標”とは何でしょうか? 生長の家では、それは私たち人間の生活の場、表現の場、交流と発展の場である地球とその環境を、これ以上破壊することなく、自然界の他の生物と共存共栄することを目指して、私たちの考え方、生き方を改めていくことだと考えます。人間の活動によって地球環境が乱され、気候変動が今後も加速していくならば、世界の農業、漁業に深刻な影響が及ぼされ、森林破壊は進み、食糧難や土地の奪い合い、資源の獲得を目指した国家間の対立はさらに拡大するでしょう。そのことが充分予見されていながら、神の愛や仏の慈悲を説く宗教が、何もせずに手をこまねいていることは許されません。自分の生活さえ安全で豊かであれば、他国の人々が餓死し、また紛争の渦中で傷つき死んでいくのを無視することはできません。私たちはそのようなグローバルな問題をしっかりと見つめながら、実際の生活の場にあっては、ローカルな問題を着実に解決していくことによって、神の御国の建設、仏の浄土の現成を進めていきたいと考えるのであります。
 
 現在の日本のローカルな問題には、戦後に植えられた木々が収穫時期に来ている一方で、林業が衰退し、山が荒れていることがあります。また、地方の政治と経済が中央の犠牲となっています。これが端的に表れたのが、2年前の東日本大震災と福島第一原発の事故でした。都会でのエネルギーと資源のムダが多い生活を支えるため、地方には多額の補助金を添えて危険な原発が押しつけられてきました。それを改めるためには、エネルギーと資源のムダ遣いをやめなければいけないのですが、現在の政治は、「経済活性化」という旗印のもとに、再びムダ遣いの生活を奨励しようとしています。私たちのこの“オフィス”への移転は、その方向に対する「ノー」の宣言です。この“森の中のオフィス”では、二酸化炭素を排出しない“炭素ゼロ”で業務を遂行するだけでなく、現状において可能なかぎりの技術を駆使し、自然エネルギーによる“エネルギー自給”を目指して業務を遂行していきます。また、地元の自然保護と経済の活性化の両立を目指します。その具体的に方法については、このあとの見学会などでいろいろ説明があると思います。
 
 この落慶式にお越しくださった皆さんには、これら生長の家の目指すところをぜひご理解いただき、私ども生長の家に“新参者”として足りないところがあれば、ぜひご指導、ご鞭撻いただき、山梨県の一員として、北杜市の市民として、さらには大泉町、長坂町、小淵沢町のお仲間として末永くおつき合い頂きたくお願い申し上げます。これをもって、生長の家“森の中のオフィス”落慶のご挨拶とします。皆さま、どうぞよろしくお願い申し上げます。
 
 谷口 雅宣 拝
 

 
 

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