« 宗教における都市と自然 (6) | トップページ | 宗教における都市と自然 (8) »

2013年7月30日 (火)

宗教における都市と自然 (7)

 保坂氏は、このような仏教の教えの特徴として「空の思想」を取り上げていますが、私はそれに大乗仏教の「菩薩の思想」を加えたいと考えます。

 まず、「空の思想」ですが、これが戦争の回避につながる理由は、空の考え方では「いかなるものにも実体はない」と主張するからです。これはもちろん、私たちが肉体をもって生活するときに体験する現象世界のことです。そこには"本当の価値"はないと考えるのです。現象はすべて個々の事象の関係性によって成立しているから、現象それ自体で存在するユニークな実体(自性)はナイ、と考えるのです。生長の家では、これをもっと簡潔に表現して「現象はナイ」といいます。この現象世界のどこかに絶対的な価値があと考えると、その価値を死守するために、他を否定し破壊することを容認する考えにつながります。このことは、現在のパレスチナ問題を考えるとよく分かります。地球の地理的な一点に、対立する2つの勢力の"聖地がアル"と信じることで、その土地の奪い合いが、暴力的な手段を含むあらゆる方法で長い間、継続することになります。「空の思想」では、現象世界のすべての存在は空である――即ち実体はないので"本当の価値"ではないと考えるのです。

 これを、植物の花を例として説明しましょう。道元禅師の『正法眼蔵』には「空本無華」(No flower in Emptiness)の喩え話が出てきます。それは、次のようなものです――

 空は一草なり。(Emptiness is like a plant.)
 この空必ず華咲く。(This emptiness will certainly produce a flower.)
 百草に華咲くがごとし。(Just like a hundred plants will do the same.)
 この道理を道取するとして、(As this logic holds true,)
 如来道は空本無華と道取す。(The truth is that emptiness in itself does not have a flower.)

Flower003  私たちは植物を見るとき、多くの場合、それに花が咲いているかどうかを問題にします。咲いていないと、価値がないと考えがちです。しかし、花が咲いていなくても、その草にはやがて花が咲くか、翌年には大抵花が咲くものです。その草には本来、花が咲き、実を結び、子孫を殖やすという機能が備わっていても、時期や環境の条件によって、そのすべての機能が一時(いっとき)には現れないだけです。現れていないけれども、花の機能は本来アルというのが「空」の意味です。ナイように見えていてもある。アルように見えていても、そこにはナイということです。生長の家の前総裁、谷口清超先生は、道元禅師のこの喩えを解釈して、次のように書かれています――

 「まさに知らねばならぬ。"空"とは何もないことではない。それは一見無のようでもあるが、その奥に"全"がある。それは草のようなもので、今何も咲いていなくても、"華"がすでにその奥にあるのだ。それ故必ず咲くのである。そのように空も華がさく。この道理を説こうとして、釈尊は"空本無華"即ち空には本来華はないぞといわれたのだ。それは一定の華という形がないのだということである。本無華といっても、実相は"今有華"今華がさいている。それは桃の花でも李(すもも)の花でも、そのようなもので、梅も柳も同じことである。」(『正法眼蔵を読む 上巻』、pp.476-477)

Flowerparts  この「空」の考え方は、植物の"全体"は常にそこにあるが、時と場合によって、「芽」「葉」「茎」「花」「根」「果」「種」という形に現れてくるということですから、1つの全体が、時と場合に応じて多様に展開していくことを認める思想です。先に挙げた保坂氏は、この点に注目して、政治思想としての「空」の考え方は「諸々の対立する価値観は、その本質において決して違うものではない、という思想」(p.146)だと指摘しています。そして、「空思想を受け入れれば、現象界における差異を超えた共存が可能である」とし、「これは宗教や見解の違う者同士が平和的に共存するためには、先ず、自らの主義主張を絶対化しない事が必要であると考えることを求めているのではないだろうか」(ibid)と述べています。

Religionparts  私はこの考えに賛成します。すでに多くの皆さんはお気づきと思いますが、実はこの考え方は生長の家が主張している「万教帰一」と同じ論理構成になっています。世界の数多くの宗教は、それぞれの表現の仕方は多様であっても、それぞれの表現自体に絶対的な価値があるのではなく、その表現の“奥”にあって、その表現をさせている"本体"に本当の価値がある。「十字架」や「コーランの章句」や「如来像」そのものに絶対的価値があるのではなく、そういう表現を生み出した真理の力に価値がある――そういう生長の家の考え方は、仏教の空思想に根差しており、そして今、このグローバル化した世界の平和実現のためには、なくてはならない考え方であると言えます。

 谷口 雅宣

|

« 宗教における都市と自然 (6) | トップページ | 宗教における都市と自然 (8) »

宗教・哲学」カテゴリの記事

自然と人間」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 宗教における都市と自然 (6) | トップページ | 宗教における都市と自然 (8) »