« 宗教における都市と自然 (5) | トップページ | 宗教における都市と自然 (7) »

2013年7月29日 (月)

宗教における都市と自然 (6)

 宗教改革については、すでに多くの人は学校や教会で勉強したことと思うので、あまり多くは説明しません。ただ、そのきっかけとなった「贖宥符」(しょくゆうふ)については、当時の教会の腐敗の状況を思い出していただくために、ここで触れておきましょう。私が高校時代に習った世界史の教科書では、「贖宥符」の代わりに「免罪符」という言葉が使ってあったのですが、カトリックの教えには正式には「免罪符」という考えはありません。中世の教会の教えでは、罪を犯した人はそれを悔い改め、司祭の前で罪の告白をしたのち、贖罪のための行為をすれば、罪を赦されることになっていました。罪を償うためには、人々は巡礼や断食、慈善の行為などを求められましたが、時代がくだってくると、教会への寄進や献金などによってそれを代替できるという考えが生まれました。これが、贖宥符を金で買うという行為につながっていったのです。
 
Menzaifu  ローマ教皇のレオ10世(在位 1513-21)が、それを正式に認めたことが問題を大きくしました。教皇は、ローマのサンピエトロ大聖堂の改築に要する莫大な費用を捻出するために、霊魂救済をうながすためと称して、ドイツで大々的に贖宥符を販売することを許可しました。それを引き受けたのが、ドミニコ会の修道士、ヨハネス・テッツェル(1465-1519)でした。テッツェルは、贖宥符を買うために人々が払う金貨が、贖宥箱の中に落ちてチャリンと鳴ると、その人の魂は天国に上って救われると言いながら、お札を売ったといいます。それを聞いた人々は、金さえ払えば救われると考え、喜んで贖宥符を買ったといいます。この教会の行為に大いに疑問を感じ、ローマ教皇に対して「95カ条の提題」(1517年)を出したのが、マルティン・ルター(1483-1546)でした。

Ryokanm01   宗教が経済的権益と結びつくことによっても、信仰の純粋性は失われます。贖宥符の問題は、当時のローマ教会のみが独占的に贖罪のためのお札を発行できるという状況の中で起こったことですから、経済的権益の濫用の一例としても見ることができます。谷口純子・白鳩会総裁の講話の中には、良寛和尚が当時の寺請檀家制度に反対して寺を持たず、乞食の布施行の生活を徹底したという話が出てきました。そして、この制度はキリスト教を排除するための一種の"民衆囲い込み"が目的であり、これによって「寺での葬式や法事が利権化して、僧侶たちは托鉢をしなくても食べていける」ようになったとありました。だから、経済的権益の確立は宗教を腐敗に導くことがわかります。

 宗教が国や政治権力と結びついたときの問題は、さらに深刻です。これについては、私たちは過去の教修会においてすでに学んできたところです。それは、極端な場合には戦争を引き起こし、遂行させる大きな要因になるということです。過去のヨーロッパの宗教戦争がそれを有力に語っており、現在でも、イスラーム原理主義にもとづくテロと、そのテロを撲滅させるための戦争が多大な犠牲を払って行われていることを、私たちは知っています。それらのことから、先進国の多くでは、今日では「政教分離」あるいは「聖俗分離」の考え方が採用されているのですが、そうでない国もまだ数が多く、信仰を理由とした紛争が延々と続いているため、そこから平和に有害な宗教や信仰など捨てるべきだという無神論の考え方も生まれています。
 
 しかし、私たちが充分知っているように、宗教は人類に紛争や戦争だけをもたらしたのではありません。ユダヤの預言者は国王の悪政をたしなめ、イスラームの指導者たちは政治が信仰から逸脱していると叱り、ローマ教皇は愛のない国際政治の欠陥を指摘してきました。また、各宗教の信仰者たちは、神の御心を実践するために、戦場や飢餓、災害の現場に駆けつけて、病み、傷ついた人々の救援活動に尽力してきました。このような宗教が説く徳性や倫理を政治に反映させようとする努力も古来、各国で続けられてきました。その中で、仏教はあまり目立った活動をしていないように見えます。しかし、この世界宗教については特筆すべきことが1つあります。それは、仏教が国家権力と結びついて戦争の当事者となることはほとんどなかったということです。宗教研究者の保坂俊司氏の言葉を借りれば、「仏教のみが、世界宗教の中で、武力を伴わずに世界に平和裡に伝播された宗教だ」(『国家と宗教』p.148)ということです。仏教が、世界で最初の普遍宗教であるという事実をこれに加えて考えれば、これは驚くべきことではないでしょうか。このことは仏教の教義の中に、本当の意味で平和を実現するための教えが含まれていることを示唆しているのではないでしょうか? 
 

 谷口 雅宣

|

« 宗教における都市と自然 (5) | トップページ | 宗教における都市と自然 (7) »

宗教・哲学」カテゴリの記事

自然と人間」カテゴリの記事

コメント

合掌   総裁先生ありがとうございます。
政治を治める方たちには宗教心は非常に大切であると単純におもいますが、宗教と政治の関係はブログを拝読していますと非常に困難でありますことが よく分かりました。  その意味においては政教分離は自然なことなのであると理会できます。また経済的権益確立は宗教を腐敗に導き宗教の純粋性が失われるとあっては、ただ単純な私の脳裡にも納得できます。
人間は 何故もっと純粋に生きれないものでしょう?と頭をよぎりました。その応えは ふたつの経文が語りかけてくださっています。  ありがとうございます。感謝合掌 
              島根教区    足立冨代

投稿: 足立冨代 | 2013年8月12日 (月) 10時36分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 宗教における都市と自然 (5) | トップページ | 宗教における都市と自然 (7) »