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2013年5月 5日 (日)

心の居場所

 「技能と芸術的感覚を生かした誌友会」(Bタイプの誌友会)というのが始まって、もう何年にもなる。だから、絵手紙や絵封筒を描いた経験のある読者も多いに違いない。その経験を思い出してもらえば、「絵を描く」という行為が、描き手が見る世界をどんどん変えていくことをご存じだろう。こういう経験を通して、私たちは「環境は心の影である」という教えを、単なる理論としてではなく、実際経験として学ぶことができる。一輪のスミレ、1個のトマトを描こうとする時、ふだんは気がつかなかった多くのことーースミレの花弁の数、トマトの色や形の複雑さ、優美さ、力強さ、香りや質感などが、どんどん見えてくる。本来のスミレやトマトは、初めからそのように美しいのに、ふだんの私たちは、それらを左脳によって抽象的に、ほとんど記号としてしか扱っていない。それでいて、自分は自然を「好きだ」とか「愛している」と考えている場合が多い。実にいい加減なことではないだろうか?
 
 そこで、Bタイプの誌友会を通して、私たちはしっかりと自分の五感を動員し、左脳を沈黙させ、右脳の導きにしたがって「ものを見る」「ものを感じる」練習をするのである。そうすると、左脳のヴェールによって感ずることを妨げられていた“美しい世界”が、しだいに姿を現すのである。
 
 例えば早朝、林の中に立って目を閉じ、周囲から聞こえてくる鳥たちの声に身を任せてみる。その微妙な抑揚、繊細な響き、高低の音の組み合わせを味わってみる。コンサートホールで交響曲を聴くときの心境になるのである。「この声はどの鳥?」などと考える必要はない。ハーモニーを味わえばいい。鳥たちもきっと、木々の枝の上でそうしているのだ。そうしていると、あなたの心に鳥たちのメッセージが入ってくる。そうなれば、あなたは土の上にいながらにして、高木の枝を跳び回っている鳥の思いを感じているのだ。つまり、あなたは幾分か鳥に変身して、木の上にいるのと同じことだ。

 もう一つ、私が森の中で好きなことは、小川の流れの音である。よく「さらさらと流れる」などと表現されることがあるが、そんな単純なものではない。小さな流れは、それぞれの音が異なるし、同じ川でも場所によって流水の音はまったく違う。そして、どれも耳に心地よいのである。「耳障りな流れの音」などというものを、私は聴いたことがない。人間が奏でる音楽の場合、そういう音は少なくないのに、実に不思議だと思う。耳をすませてそんな潺(せせらぎ)の音を聴いているとき、私の心は小川の上にあるのである。

●私の中の自然に気づく祈り

 私は神の子ですから、一つの肉体の中に縮こまっているのではありません。

 木々の緑を美しいと感じるとき、その緑の葉たちと一つになり、木々の上にも私はいます。鳥の声に聞きほれるとき、その鳥と一つになり、空中にも私はいます。

 川が流れる音を聞いて,ああ気持ちいいと思うとき、その流れと一つになり、水の上にも私はいます。空の青さに感動するとき、その空と一つになり、山より高い空の上にも私はいるのです。
 
 秋になって赤や黄色の葉が美しいと思うときも、その葉たちと一つになって、私は木々の上、屋根の上、土の上に自分の心を宿します。

 植物が虫に蜜を与え、虫が植物の花粉を運んで実を結ばせる知恵は、どこから来たのでしょう。この助け合い、生かし合いの知恵に感動する私は、その知恵と同じ知恵を自分の中にもっているのです。そこに神さまの愛を感じる私は、神さまの愛を私の中にもっているのです。

 神さま、自然はあなたの知恵と愛の表現です。その美しさとすばらしさを感じることができる私は、神さまを感じ、神さまを知る神の子です。ありがとうございます。

 谷口 雅宣
 

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コメント

「私の中の自然に気づく祈り」素敵です。
私は、小さい時って、山の中に一人ぼっちでいるのが好きでした。わざと道のないところに入って行って、そこでしばらく山と自分だけ、の時間を楽しんでいました。時には、海と自分だけ、でした。自然と同化していくのが心地よかったのを覚えています。(危ない、と親には叱られましたが)。
今の子供たちにも、そんな自然との体験を持ってほしいな、と思います。

投稿: 水野奈美 | 2013年5月 7日 (火) 19時55分

合掌ありがとうございます。
最近、日時計主義のすばらしさを実感しています。それは絵を描くようになってからです。日時計主義には心の浄化作用があるように思います。始めたのはもちろん絵手紙誌友会がきっかけです。Bタイプ誌友会では始めは俳句をやっていましたが、1年経過した頃から絵手紙に移り、その後短歌や写経もしました。そうした中、絵を描くことにはまってしまいFBやポスティングジョイにも投稿するようになりました。始めは義務的に描くことが多かったのですが、重ねていくうちに花がわたしを誘ってくれるようになりました。(勝手にそう思っています。)そうしているうちに自他一体というコトバが、なるほどと思えるようにもなりました。右脳の優しい感触が疲弊した左脳を癒してくれます。そして、私の心が次第に浄化されていくようです。花はいつも「朗らかに笑って生きてる」ように見えます。そうだ、私も同じなんだと。ところで、讃歌に巡り会ったとき、「日々の祈り」と繋がっていることに気がつきました。また、5月3日と本日の祈りの中に「愛のハーモニー」を感じました。徒然なるままに感想を述べさせていただきました。感謝合掌

投稿: 永田 良造 | 2013年5月 7日 (火) 21時56分

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