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2013年5月

2013年5月20日 (月)

奇蹟の果実

Japaneseplum  今年初めて、庭のスモモの木に実がついた。

 都内のDIY店で3年ほど前に買ってきた若木だった。スモモは、暑い盛りに水分の多い実を提供してくれるので、それにあやかりたいと考えたのだ。簡単に実ができると思っていたが、そうではなかった。当初は1.2メートルほどの高さだったのが、上にぐんぐん伸びてくれた。が、葉が茂ったころを見計らうように、カナブンが飛んできてムシャムシャと葉を食べるのだ。その数は20から30、あるいはそれ以上だ。近くにブルーベリーの木があって、カナブンはこれにも食らいつくが、スモモの葉の方が柔らかいからか、先に狙われる。そして、スモモを無残な姿にしてから、ブルーベリーへと移動する。
 
 私は最初、この緑色の甲虫に憎しみを感じて捕まえたりしていたが、殺虫剤は使わない主義だし、彼らとて食事をする権利は認めるべきだし、それに、人間が近づくと枝から落ちて必死に逃げ、手でつかむと力いっぱい抵抗する。そんな彼らをいじらしく感じて、見て見ぬふりをするようになった。こうして、1年目と2年目は、花ひとつつけない若木を見て過ぎた。ところが今年、まだ寒い頃に白い花がいくつも咲いているのを妻が見つけた。そして、二人して、「今年はカナブンが発生しないように……」と願っていた。花が終わっても、カナブンは姿を現さなかった。「もしかしたら……」と私たちは期待した。そして5月になって、ほんの数個だが、実ができているのを知った。
 
 ものの本を見ると、スモモは「自家不結実性が強い」と書いてある。つまり、花が咲いても、同一樹の花同士では、メシベにオシベの花粉がついても結実するのが難しいということだ。だから、「受粉樹の混植または人工授粉が必要である」とも書いてあるのだ。わが家の庭には、このほかにスモモはない。ということは、今回は同一樹の花の間で受粉と結実が行われた可能性が大きい。もちろん、私の知らない人さまの庭や、マンションのベランダに別のスモモがあった可能性はある。が、その場合でも、その花の蜜を吸ったチョウかミツバチが、たまたまわが家のスモモにも来てくれたのでなければ、結実はなかったのだ。その虫を探し当てて、「ありがとう」と言いたい気持になった。
 
 スモモにとっても、虫にとっても、人間にとっても、うれしい状況が実現している。願わくは、この実が無事育って、(カナブンの口にではなく)人間の口の中に入るように、などと思わずにいられない。が、ひるがえってスモモの立場になってみると、どちらの動物の口に入るのがいいのか……そして、この実の中で生長しつつある種のことに考えが至るのである。
 

自然の中に神さまの命を感じる祈り

 自然界では、多くの種類の生物が、あらゆる場所で工夫をこらしつつ、おたがいに助け合う愛の中で生きています。私はそこに、神さまの命と知恵と愛を感じます。
 
 命あるもののみが命を感じ、知恵あるもののみが知恵を感じ、愛あるもののみが愛を感じるのです。私が自然界のすべてのものの中に神さまの命を感じることができるのは、私の中に神さまの命があふれているからです。私は今、そのことをアリアリと知り、私が神の子であることを深い感動をもって思いおこします。そして、すべての人々が、すべての生物が私の命と一体であるだけでなく、神さまの命が私と彼らを一つに結んでいるという、生命の荘厳な実相を悟ります。神さま、ありがとうございます。
 
 谷口 雅宣
 

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2013年5月13日 (月)

鳥と人間の関係

 春になって一斉に花々が咲き、それが落ちて実ができる。木々には無数の昆虫が現れ、それを求めて鳥たちがどこからともなく飛来する--毎年繰り返される光景だが、こういう自然のサイクルの始まりを見て、聞いて、私たち人間も種を蒔き、漁に出かけ、新学期をスタートし、新入職員を迎える。
 
 今年も各地にツバメがやってきて、巣づくりを始めている。鳥たちは人間をどう思っているのだろうか? 「スキあらば、自分たちを捕らえて焼き鳥にする邪悪な動物……」とは、どうも思っていないようだ。ごく近くに来て巣をつくるからだ。数日前、原宿の目抜き通りにあるラフォーレ原宿の1階駐車場で、2羽のツバメが飛び回っていた。何年か前には、青山通りの商業ビルの同じような1階駐車場で、巣を構えているツバメの親子を見たことがある。彼らは、“悪”とか“善”などという概念をもっていないかに見える。もしもっていたとしても、「人間」は彼らの“悪”の分類の中には入れられていない。
 
 スズメやハトも、人間のかなり近くにやってくる。銀座通りに面するフレンチ・レストランの前で、パンくずをついばみに来るスズメを見た。明治神宮外苑で休憩するタクシー運転手から餌をもらうために、十数羽のハトが群がっているのを見た。新宿の公園では、何かを空に放り投げ、それをヒヨドリが急降下して空中で捕らえるのを楽しんでいる人がいた。
 
Rooster  人間は、空を飛ぶことができる鳥たちに「憧れ」の感情をもっている。その能力を獲得しようとして、両腕に翼を取り付けるなどして、多くの発明家が努力した。現代のようなスペースシャトルの時代になっても、ハングライダーやパラグライダーに興じる人々がいる。私たち人間の努力は、「鳥になりたい」との隠れた願いに由来するのかもしれない。
 
鳥やけもののすばらしさを称える祈り

 カワセミは空中から川へ飛び込んで魚を捕らえ、渡り鳥は寒い冬の空を何千キロも飛んで、間違わずに目的地に降り立ちます。カモシカは岩山の絶壁を軽々と駆け上がり、チーターは時速100キロ近くで草原を走り、モモンガは森の中を飛び回ります。
 
 神さま、私は鳥やけものの愛らしさ、俊敏さ、美しさ、力強さを讃嘆の思いをもって感じます。彼らの存在に荘厳な意義を感じ、彼らとともに地上に生きることを誇りに思います。彼らはそれぞれ人間のおよばない美点を備え、私に神さまの無限の命と知恵がそこ(○○)にあることを教えてくれます。
 
 私は、神さまのメッセンジャーである彼らに、心から感謝します。ありがとうございます。
 
 谷口 雅宣

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2013年5月11日 (土)

植物への愛 (2)

 サクラの話をしたが、この植物は花ばかりでなく、葉も幹も私たち人間に恵みを与えてくれる。新緑の頃の葉は、桜餅の重要な一部である。餅を包んだ葉は、餅との色のコントラスも美しいが、あの香りと歯ごたえは欠かせない。また、秋になるとサクラの葉の色の変化は、実に多様である。普通、サクラの葉は黄色から紅くなるのだが、黄色のまま落葉して紅くならないものもあり、赤と黄の混合や、黄色から赤へのグラデーション、さらにはそれに緑も加わったカラフルなものまで落ちている。私は、職場近くの公園に散り敷いたサクラの落ち葉の中から、そういう美しいものを思わず拾い集めて、持ち帰ったりする。が、その日のうちに絵に描いておかないと、朝になればもう変色しているのだ。
 
 サクラの木は堅くて緻密だから、狂いがなく、昔から版木や額縁などに使われてきた。色は普通は褐色だが、赤っぽいものや黄緑っぽいもの、さらに白っぽいものなどもあり、バラツキがある。私の家のダイニングテーブルはサクラ材だ。赤味をおびた滑らかな木肌が好きで、もう何十年も愛用している。

 日本は森林国であり、日本の家屋は基本的に木造だったから、日本人の生活は木と共にあった。しかし、戦後の高度経済成長で鉄骨や鉄筋コンクリート、「新建材」と称する石油系、化学系の建材の大量普及によって、いつのまにか私たちの生活から木材が遠ざかってしまった。燃料も、私が幼いころは、風呂を薪で焚いていたし、炭の火鉢が使われていたが、今は灯油やガス、電気である。つまり、化石燃料と原子力の利用へと変わった。その結果の地球温暖化だから、生活の場が“森”へ移転したら、私はもっと木と本格的につき合いたい。木を多用することは一見、自然破壊のような印象を受けるが、木を利用し、木の恩恵を実感することで、木を大切にしようという気持が高まる。森を豊かにすれば、木はそれに応えて良材を提供してくれる。人間は当然、感謝の気持を起こすから自然破壊から遠ざかっていく。
 
 そういう人と植物との本来の関係を、取りもどしたいと思う。
 

●人と植物の生かし合いを思う祈り

 神さまはすべてのすべてですから、神さまの“外”にあるものはありません。神さまの内にあって、私は植物を愛(め)で、植物に生かされ、植物に与えるとともに、植物は神さまの命を私に与えてくれます。私の体を動かすもととなる酸素は、植物がつくり出しています。私が吐き出す二酸化炭素は、植物を育てています。野菜や木の実や果物は、私の体に必要な栄養を豊かに与えてくれます。そして私は、植物を大切に育て、多くの種類がいっしょに生きる美しさの中で、神さまの愛を感じます。ありがとうございます。

谷口 雅宣

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2013年5月 9日 (木)

植物への愛

Cherrypark_fujimi  人間は緑色を見ると、心に安らぎを感じるものである。なぜなら、緑は植物の葉の色だからだ。進化心理学では、これを「人類の先祖がアフリカで樹上生活をしていたころ、周囲が葉で覆われている場所は外敵から身を護れる場所だったからだ」と説明する。つまり、「緑」とは「安全」と「安心」を意味したのだ。こういう遺伝的な記憶があるため、21世紀の現代人も、高層ビルの中や地下のコンクリートの部屋にいても、植物を飾って心を落ち着かせようとするのである。「観葉植物」というものがあること自体、私たちが植物なくしては心の健康を保てないことを示している。

 心の健康だけでなく、「肉体の健康」も植物のおかげで保っている。人間にとって野菜や果物、穀物が栄養素を摂るために必要であるというだけでなく、現在の医薬品のほとんどが、植物由来のものか、それと同等な化学的合成品である。加えて、香のように、色ではなく、においが私たちの心に働きかけるものがあり、それも植物由来であるか、それと同等な合成物だ。
 
 植物の体の一部である「花」は、特に人間に愛され続けてきた。人間が営む文化生活は「花」なくして成立しない。花は古来、絵画や彫刻によって記録され、物語の小道具として、あるいは詩のテーマとして使われ、人間の心を運ぶメッセンジャーの役割をしてきた。花言葉、花合せ、生け花、花垣、花笠、花かつら、花札、花電車、花時計、花屋敷、花ロウソク……など、人間の花好きをよく示している。
 
 日本人は、花の中でもサクラを愛することは有名だが、そのおかげで日本中にサクラが植えられ、春になると“サクラ前線”なるものが列島を北上する。サクラは「北上」するだけでなく、同じ地域でも高低差がある場合は、低地から高地へと上っていく。今年は、5月に長野県富士見町へ行ったとき、まったく予期しない町の駐車場で、満開状態の見事なシダレザクラに遭遇した。ありがたい驚きだった。

●植物の美しさと命を感じる祈り

 道ばたに咲く、小さなスミレ。空からはらはらと散るサクラの花。天を突くスギの森。海風にたえるマツ林--
 
 神さま、私は花々の愛らしさ、木々の美しさや力強さを心に強く感じます。体の外にあるこれらの植物を、内部に強く、美しく、力にあふれて感じることができるのは、私の命と植物の命が本来一体であるからです。花の色、繊細な形、色と形の組み合わせに、木々の枝の伸びやかな広がりや太い幹に、私が無限に多様な美を感じることができるのは、植物の発するメッセージを私の命が喜んで受け止めている証拠です。

 神さま、あなたは植物をとおして、私に命を与えてくださっています。ありがとうございます。

 谷口 雅宣

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2013年5月 7日 (火)

自然は与える

Mushrooms  森の中を歩いていて楽しいことの一つは、予期しないときに、予期しない場所に、予期しないキノコを発見することだ。それも1株や2株ではなく、一面に群生していたりすると、不思議な命の集団に出会ったような気がして、一瞬、躊躇する。人間の自分がこんなところにいて良いのか……という遠慮がちな気持になるのである。何に遠慮するかというと、自分の知らない、何か神秘な生命の循環の最終段階を目撃していると思うからだ。キノコを含む菌類は、動物や植物が命を終えて、土に還る前の段階の重要な分解過程を担当している。それなら、菌類を食べるものはいないかというと、まったく逆で、たくさんの昆虫がそのおかげで栄養を得る。どんなに新しい、きれいなキノコの中にも、必ずといっていいほど虫が発見される。虫を呼ぶために芳香を発しているものもあれば、異臭を放っているのもある。

 こういう偶然の出会いとは違って、キノコ採りを目的として森に入る場合は、ハンターの心境になっているから躊躇などまったくしない。コレと思うものを発見すると、すぐに手が伸びてしまい、多数を見つけると不必要な量を採ってしまうことが多い。森の動物の中にもキノコを食するものがいて、傘の一部がかじり取られているのを見つけることがあるが、周囲全部を食い尽くした跡など見たことがない。たまに、引き抜かれたキノコがいくつも散らばっている光景に出会うことがあるが、その“下手人”は人間に決まっているのである。私は最近になってようやく、キノコを適当な量だけ採るコツを覚えたようである。要は「与える心」の実践である。

●自然の与え合いに感謝する祈り

 愛にあふれているものは、必ず愛を他に与えます。太陽からエネルギーを得た植物は、動物のために酸素や糖を豊かに与えます。植物から力を得た動物は、二酸化炭素を植物に与え返し、花粉や種を遠方に運んで植物が繁栄するのを助けます。動物は老廃物や死骸をカビやキノコなどの菌類に与えて、菌類はそれを分解して動植物に必要な栄養素に変え、土を肥やします。一見、無関係と思う生物界のすべてのものが、与え合う愛の活動をしていることを私は知っています。そして、私たち人間は、これらすべてに支えられ、愛にあふれて生きているのです。だから、必ず愛を他に与えます。
 
 私たちが「自然」と呼ぶものは、無限に他を生かし、他に与える、神さまの豊かな愛の流れの別名です。だから自然は善いものであり、調和していて、美しいのです。

 私は神さまを愛し、尊敬するように、自然を愛して敬います。ありがとうございます。

 谷口 雅宣

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2013年5月 5日 (日)

心の居場所

 「技能と芸術的感覚を生かした誌友会」(Bタイプの誌友会)というのが始まって、もう何年にもなる。だから、絵手紙や絵封筒を描いた経験のある読者も多いに違いない。その経験を思い出してもらえば、「絵を描く」という行為が、描き手が見る世界をどんどん変えていくことをご存じだろう。こういう経験を通して、私たちは「環境は心の影である」という教えを、単なる理論としてではなく、実際経験として学ぶことができる。一輪のスミレ、1個のトマトを描こうとする時、ふだんは気がつかなかった多くのことーースミレの花弁の数、トマトの色や形の複雑さ、優美さ、力強さ、香りや質感などが、どんどん見えてくる。本来のスミレやトマトは、初めからそのように美しいのに、ふだんの私たちは、それらを左脳によって抽象的に、ほとんど記号としてしか扱っていない。それでいて、自分は自然を「好きだ」とか「愛している」と考えている場合が多い。実にいい加減なことではないだろうか?
 
 そこで、Bタイプの誌友会を通して、私たちはしっかりと自分の五感を動員し、左脳を沈黙させ、右脳の導きにしたがって「ものを見る」「ものを感じる」練習をするのである。そうすると、左脳のヴェールによって感ずることを妨げられていた“美しい世界”が、しだいに姿を現すのである。
 
 例えば早朝、林の中に立って目を閉じ、周囲から聞こえてくる鳥たちの声に身を任せてみる。その微妙な抑揚、繊細な響き、高低の音の組み合わせを味わってみる。コンサートホールで交響曲を聴くときの心境になるのである。「この声はどの鳥?」などと考える必要はない。ハーモニーを味わえばいい。鳥たちもきっと、木々の枝の上でそうしているのだ。そうしていると、あなたの心に鳥たちのメッセージが入ってくる。そうなれば、あなたは土の上にいながらにして、高木の枝を跳び回っている鳥の思いを感じているのだ。つまり、あなたは幾分か鳥に変身して、木の上にいるのと同じことだ。

 もう一つ、私が森の中で好きなことは、小川の流れの音である。よく「さらさらと流れる」などと表現されることがあるが、そんな単純なものではない。小さな流れは、それぞれの音が異なるし、同じ川でも場所によって流水の音はまったく違う。そして、どれも耳に心地よいのである。「耳障りな流れの音」などというものを、私は聴いたことがない。人間が奏でる音楽の場合、そういう音は少なくないのに、実に不思議だと思う。耳をすませてそんな潺(せせらぎ)の音を聴いているとき、私の心は小川の上にあるのである。

●私の中の自然に気づく祈り

 私は神の子ですから、一つの肉体の中に縮こまっているのではありません。

 木々の緑を美しいと感じるとき、その緑の葉たちと一つになり、木々の上にも私はいます。鳥の声に聞きほれるとき、その鳥と一つになり、空中にも私はいます。

 川が流れる音を聞いて,ああ気持ちいいと思うとき、その流れと一つになり、水の上にも私はいます。空の青さに感動するとき、その空と一つになり、山より高い空の上にも私はいるのです。
 
 秋になって赤や黄色の葉が美しいと思うときも、その葉たちと一つになって、私は木々の上、屋根の上、土の上に自分の心を宿します。

 植物が虫に蜜を与え、虫が植物の花粉を運んで実を結ばせる知恵は、どこから来たのでしょう。この助け合い、生かし合いの知恵に感動する私は、その知恵と同じ知恵を自分の中にもっているのです。そこに神さまの愛を感じる私は、神さまの愛を私の中にもっているのです。

 神さま、自然はあなたの知恵と愛の表現です。その美しさとすばらしさを感じることができる私は、神さまを感じ、神さまを知る神の子です。ありがとうございます。

 谷口 雅宣
 

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2013年5月 3日 (金)

アカマツの肌

 倒れたアカマツの幹を見て、美しいと思った。
 もちろん、倒れたから美しいのではなく、倒れたことで、直立した多くの木々たちと明確に区別され、美しいことが分かったのである。初めから美しくても、人間は自分の都合でそれを見ないだけである。そんなことが、自然界には溢れかえっている。いや、もっと正確に言えば、自然界は美にあふれていても、人間はそれを見ないだけである。
 
Fallentree  その倒木に近寄って、しげしげと眺める。
 アカマツは「幹の肌が赤い」と思っていた、自分の先入見がしだいに崩れていく。赤茶色あり、黄色あり、肌色あり、そして緑さえある。それらの片鱗がモザイクのように並べられて、遠くから幹全体を眺めたときに赤っぽく見えるだけである。自然界は色にあふれている。いや、もっと正確に言えば、自然の色は太陽から来る電磁波の一部だから、自然界は太陽の無限の恵みを豊かに反映しているのに、人間はそれに心を閉ざしているのである。

 倒れたアカマツは無念だったろう、と思う。
 が、ひるがえって考えれば、そのアカマツは倒れることで森に活力を与えるのだ。八ヶ岳南麓は太平洋型気候であり、夏の日差しはとても強い。そんな過酷な太陽光のもとでも、乾燥した裸地に最初に根付く木の1つが、アカマツである。学問的には「陽樹」といって、強い光の中で盛んに光合成を行いながら速く生長する。だから“森の先駆者”だ。この陽樹の木陰に護られて、「陰樹」と呼ばれる森の“次世代”の木々が生長する。この一帯は、戦後の復興をにらんで短時日で生長するカラマツやアカマツが多く植林されたが、そんな木々が密生する森は通気が悪く、光に乏しく、二酸化炭素の吸収度も低い。だから、アカマツの倒木は森の活性化に役立つのである。ただし、倒れた木を人間がきちんと利用すれば……の話である。

 アカマツの幹の裂け目を見ると、幼樹の頭がのぞいている。「死」は、人間の頭の中にしかないのかもしれない。

●自然の美しさをたたえる祈り

空の青と雲の白
輝く新緑と黒い木々
萌える若葉の柔らかさと
遠い青い山。
次々と開く花々の
鮮やかな色、色、色……。
自然の世界には
神さまの無限の美が、
満ちあふれています。
神の子・人間は、
これらすべてに触れて喜びを感じ、
自然の中で
生かされているありがたさに
心が震えます。
神さまはこんな自然をとおして
すべてのものに価値があり、
それぞれが組み合わさってこそ
美しさがあることを教えてくださいます。
神さま
ありがとうございます。

 
 谷口 雅宣

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2013年5月 1日 (水)

子供版“日々の祈り”は可能か?

Brokentree  連休を利用して、生長の家国際本部がまもなく移転する山梨県北杜市に来ている。標高1200メートルの地なので朝晩はまだ寒いが、サクラが美しく咲いているのがうれしい。スイセンやシバザクラの群生を見て、早春を再び体験する思いだ。4月初めに日本中に吹き荒れた強風もこの地を襲い、直径50センチもあるアカマツの大木が、林の中で何本も折れている。すべてが東側に折れたり、倒れているから、同じ時期に一気に吹いた大風の仕業である。そんな厳しい環境であっても、春はやさしく私たちを迎えてくれた。落ちた枝や倒木でさえ、自然の恵みだ。薪にすれば冬を暖かく過ごさせてくれるし、何といっても“炭素ゼロ”である。
 
 私は2007年に「神・自然・人間の大調和を祈る」という副題をつけて『日々の祈り』を出版させていただいたが、これの“子供版”がほしいという人がいるというので、編集部の人がこの祈りの本からの抜粋を作って持ってきてくれた。が、あくまでも「抜粋」であるから言葉足らずだったり、用語が難しかったり、である調であったりで、子供用としてはピッタリというわけにはいかない。そこで、その抜粋集を手がかりにして、新しく子供用の祈りの言葉を書いてみようと思う。やさしく、短く書くのは難しいことだが、うまく行くことを祈りながら……
 
●周囲に神さまを感じる祈り

 神さま、私は今、自然を前にして、あなたがここにいられることをアリアリと感じます--風で木々が揺れる音。草のにおい、花々の色、香り、そして鳥たちの声。私は地球の生命を感じ、太陽の愛を観じ、宇宙の生かす力を感じます。私の体は物質ではなく、あなたの愛です。あなたの知恵です。あなたの命です。私を取り巻くすべての人々は皆、私と同じ神の子ですから、神さまの愛です。知恵です。命です。私の周囲のすべての生き物は、神さまの愛と知恵と命の表現です。私の生きる環境は、地球は、宇宙は、すべて神さまの命の表現であります。ありがとうございます。

 谷口 雅宣

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