肉体を超えて明るく生きる
今日は午前10時から東京・原宿の生長の家本部会館ホールにおいて「布教功労物故者追悼春季慰霊祭」が執り行われ、私は祝詞を奏上させていただいたほか、御祭の最後で概略、以下のような挨拶を述べた:
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本日は「布教功労物故者追悼春季慰霊祭」に大勢お集まりくださり、ありがとうございました。この御祭は、生長の家の幹部として光明化運動に長年携わってきた人のうち、この現世での勤めを終えて、霊界へと旅立って行かれた方々をお招きし、生前のご活躍に感謝の誠を捧げるためのものであります。本日お名前を呼ばせていただいた方は211柱の御霊でありました。その中には、かつて私が講習会などで各地へ行ったときに、教区のトップの役員としてお会いし、会食の場などで親しく言葉を交わしたことのある方が何人もおられます。そういうお名前を聞いていると「あの人も逝かれたか、あの人も逝かれたか……」と感無量の思いになります。そして、私にもまもなく“お迎え”が来るのだな、と考えるのであります。
この間の3月17日には、滋賀県大津市で生長の家講習会があったのですが、そのとき、私は「絶対悪というものは存在しない」と述べ、そういう意味では「死も悪ではない」と話したのであります。しかし、人間には執着心というのがあって、その心を通して見ると、いろいろ“悪い”と思われるものが見えてくる。一般的に言えば、普通の人間は自分の肉体に執着していますから、それが機能しなくなったり、あるいは壊れてしまうことは“悪い”ことだと感じる。自分の肉体だけでなく、自分が愛する人の肉体も、同じ理由でそれが亡くなってしまうことは“悪い”と感じます。しかし、自分とは関係がないと思っている人の肉体については、それが故障したり、傷んだり、あるいは破壊されて腐っていくことも、それほど“悪い”とは感じないし、意識しないことさえあります。これは、人間の了見がいかに狭いか、また自分や近親者の肉体への執着がどんなに強いかを示しているのです。ノーベル経済学賞をとったアマルティア・センとジャン・ドレーズが書いた『飢餓』という本によると、世界で毎日餓死している人の数は、ジャンボジェット機300機の乗客数に匹敵するそうです。つまり、毎日ジャンボジェットが300機も落ちているのに、我々はあまり関心を示さないことになります。
私たちは、この執着心をだんだん放していくことが、宗教的な意味での進歩だと教わっています。いわゆる四無量心の最後の「捨徳」の実践です。人間の肉体は、この現象世界で自己表現を進めていく最大の道具ですから、それを大事にしたい、また失いたくないと感じることは当然と言えば、当然です。生長の家でも、自分の体を粗末にしていいとは教えていないし、不摂生や暴飲暴食を避けて大切にしなさい、と言います。しかし、肉体を「大切にする」ことと「執着する」こととは少し違う。私たちにとって“道具”は大切でありますが、その“道具”のために自分が奉仕するのでは主客転倒です。これは、自分の自動車を愛するあまり、自動車の手入れや掃除ばかりしていて、その自動車を使った、人間としての仕事をしない人のようなものです。道具は目的のために使わなければならないのでありまして、人間が道具に使われるのではいけない。それと同じように、私たちは肉体の手入れや肉体自身の快楽のために人生を送るのではいけません。肉体を超えた目的のためにそれを大切に使い、その目的に合わなくなった肉体は、潔く交換しなければならないのです。そういう意味では、肉体の「死」はありがたい機会です。
今日、この場へお招きした御霊さまは皆、光明化運動の先頭に立って活躍してくださった方々ですから、ご自分の肉体を超えた目的のために邁進された尊い高級霊であります。私たちはそういう“魂の先輩”に先立たれて淋しい思いをしたかもしれませんが、ご本人は「ここにいるから安心しろ」と霊界から愛念を送ってくださっているに違いありません。ちょうど今、季節は春で、雪深かった今年の冬は終わり、大地から次々と草木が伸び、枯れたように見えていた木々は次々と新芽を出し、花を咲かせています。私の家の庭では、モクレンが豪華な花を開き、レンギョウやジンチョウゲ、ユキヤナギ、スモモ、スイセン、ヒヤシンスなども咲いています。こういう自然界の営みを見ると、一見「死」のように見える冬は、実は「生」が躍り出る春のための準備期間であることがよく分かります。それと同じように、この物質世界で「死」が起こるときは、霊界では「生」が始まるのです。
このことを谷口雅春先生は、聖経『真理の吟唱』の中の「神と融合するための祈り」の中で次のように説かれています--
<「死」という存在があるのではないのである。生命の動きが“前向き”になるのと“後向き”になるのとの相違にすぎないのである。現実界から見たら“前向き”であるときには、霊界から見たら“後向き”であり、現実界から見たら“後向き”であるときには、霊界から見たら“前向き”である。>
ですから、亡くなられた御霊さまは今、霊界において“春”を迎えておられるのだと知って、悲しみに浸るのではなく、私たちは御霊さまが生前推進された光明化運動のバトンをしっかりと受け止め、顕幽手を携えて肉体を超え、四無量心を行ずる信仰生活を明るく進めていかねばなりません。
谷口雅春先生が受けた神示の1つに「帰幽の神示」というのがあります。ここには、私たちの魂が霊界に移行することの積極的な意味が「音楽」の比喩を使って美しく描かれています。即ち、肉体の死は本当の死ではなく、より高い形式の音楽を表現するために、一曲を演じ終わることである--つまり、新しい肉体を使って、より高度な人生を生きるための、一時的な“幕引き”の時に過ぎない、と考えるのが生長の家の信仰です。人間は肉体でなく、それを道具として使う“神の子”であり“仏”であるという、根本的に明るく、積極的な教えです。それをこれからも多くの人々にお伝えし、この社会と世界とがもっともっと自然と調和し、住みよく、明るい、音楽表現のような楽しい場となるよう共に運動を進めてまいりましょう。
これをもって春季慰霊祭の所感といたします。ご清聴、ありがとうございました。
谷口 雅宣