« “手紙月”への挑戦 | トップページ | ローマ教皇の退位 »

2013年2月11日 (月)

建国神話の普遍性と特殊性

 今日は午前10時から東京・原宿の生長の家本部会館で建国記念の日祝賀式が挙行され、私は磯部和男・理事長の式辞のあとで大略、次のような言葉を述べた--
 
----------------------------
 本日は、日本国の誕生日を祝う「建国記念の日」であります。日本国の皆さん、おめでとうございます。

 人間の誕生日の場合は普通、それが何回目であるかが問題になりますが、国の場合は少し違います。先ほどの開式の辞では「皇紀2673年」という表現がありましたが、この数字は神話に記述されたものから逆算したので、必ずしも歴史的事実ではありません。しかし、国家の場合、これほど昔から続いている国は、世界広しといえども、日本とお隣の韓国ぐらいしかない。だから、神話にもとづく建国であり、それがいつであるかが正確には分からない。これは大変珍しく、またすばらしいのであります。
 
 ところで、世界でも珍しいということは、なぜ「すばらしい」のでしょうか? 他に「類例がない」とか、「特殊である」ということだけでは、物事は必ずしも肯定的に評価されません。例えば、ちょうど昨日、江ノ島にいるネコの首輪にコンピューターウイルスを忍ばせたという男が逮捕されましたが、そんなことは恐らく類例がない。しかし、そういう彼は社会では決して称賛されない。なぜなら、彼がもし真犯人ならば、彼は社会に対して大きな損失をもたらしたからです。また、お隣の韓国の北に隣接した国は、国際社会の常識からかなり懸け離れた政治体制をもち、外交政策を展開していますが、そういう特殊性がすばらしいわけではない。この国も、国際社会に大きな問題をもたらしているからです。

 これに対して、昨日、山形市の蔵王で行われたスキージャンプW杯で16歳の高梨沙羅選手が優勝しましたが、これは文句なく「すばらしい」という讃辞を送るべきでしょう。なぜなら、彼女は多くの人々に夢と希望を与えてくれるからです。彼女はジャンプを通して「あの若さで、あのような技術と力が発揮できるのが人間だ」という人間の能力の可能性を教えてくれる。単に「類例がない」とか「特殊だ」という点が称賛に値するのではなく、その人やその国が、所属するより大きな社会や国際社会に対して、積極的な貢献をするのでなければいけません。そういう意味で、「日本は世界一になるべきだ」という意見に対して、ある人が「なぜ一番でなければいけないのですか?」と反論したのは、私は正しい疑問だと思います。一位になって世界を混乱に陥れるのでは、“すばらしい国”でも“美しい国”でもないでしょう。
 
 私がなぜこんな話をするかと言うと、最近、ある人から本をいただいたからです。その本を読んでみると、「日本の建国は世界に類例がないほど珍しく、古典に書かれた建国の理想は他国にない独特のものであるから、この理想を推し進めていけば、世界平和に貢献することができる」という意味のことが書いてありました。しかし、これは論理が混乱していて間違った考え方だと私は思います。特殊で、他に類例がないということ自体には、それほど価値はないのです。社会に受け入れられない特殊性や比類のなさは、かえって社会に有害です。単にウイルス作成の技術が優れているだけでは、犯罪者になることもある。単に特殊な政治体制を維持しているだけでは、平和実現に貢献しません。それらの優秀性や特殊性が、より広い社会の利益に貢献するのでなければ価値は低いのです。

 ガン細胞というのがありますが、これは人間の体の中の他の細胞と比べて特殊であり、優れています。その最大の点は、不死身であるということです。人間の細胞はある程度の分裂をすれば死んでいく運命にあります。その死は、体全体からの信号によって行われる。しかし、ガン細胞は、その信号に従わずに、自分の任務を忘れてどんどん増殖し、ついに体全体を冒すほどの能力を身につけます。だから、放射線で焼かれたりメスで切って取られるのです。この点を間違うと、日本国家も北朝鮮のように“唯我独尊”を主張することになり、国際社会の“鼻つまみ者”になりかねない。
 
「特殊だからすばらしい」のではない。「特殊の背後に共通性がある」のがすばらしいのです。これを生長の家の言葉を使って表現すれば、「特殊な現象の中に共通の実相が表れている」ことが、社会や人々に勇気と希望を与えるのです。表現が特殊であっても、その背後に共通する普遍性がなければ世界に通用しません。16歳のスキージャンパーがすばらしいのは、彼女の競技が、人間に共通して潜在する神性・仏性を表現しているからです。努力すれば、誰でも現象の壁を打破することができるという事実を示し、人々に勇気と希望を与えるからです。この「見えない共通性」に着目し、これを認めて引き出すのが生長の家の信仰であり、生き方であり、「万教帰一」の考え方です。ですから、私もこの建国記念の日では、日本の建国神話が他の国や地域の建国神話、創造神話とどう共通しているかという点を中心にお話ししてきたのであります。もちろん特殊性も指摘しましたが、その背後の普遍性が前提になっています。

 さて今日は、皆さんは日本の建国神話のストーリーはすでにご存じだと思いますので、その話の背後にある共通性--世界各地にある建国神話との共通性--について述べることにします。これには、神話学者の松村一男さんの文章がよくまとまっているので、それを紹介しましょう。松村さんは「王権の起源」という文章の中で、こう言っています--
 
「ある程度の規模を持ち、階層化が進んでいる社会にはその頂点に立つ支配者がいる。伝統的な社会では聖俗の区分は厳密でないので、世俗的な事項ばかりでなく神(々)との交流という宗教的役割もこの支配者の責任となることが多い。こうした支配者は通常、王または王者と呼ばれ、その権力は王権と呼ばれる。通常は、ある偉大な人物がいかにして国を興したかという建国の神話の形態をとる(建国神話)。王は社会の象徴であり、社会を重要な聖なるものとする以上、象徴である王・王権も聖なる存在として、神話によってその起源を語られることになる」。(p.233)
 
 ここに書いてあるのは、「偉大な王が国を作った」という建国神話は、世界に普通に見られるということです。その場合、その王権は聖なる存在だという書き方も普通に存在するというのです。つまり、「普通でない王権は普通でないところから来た」という説明が、世界の建国神話に共通する荒筋だということです。次を読みます--
 
「普通の人間と異なった超人的な、神との媒介者である王の神話には、英雄と同じような要素がしばしば認められる。すなわち、➀神の子、②辺境での成長、③武勲などである。」
 
 ここには、“王”とされる人物の特徴や性質は大体共通していて、それは3つあると書かれています。

「➀はとくに神の子とされなくても、神的な存在から選ばれた結果として王になったとする神話も含まれる。これは“神命”と呼んで区別しておこう。➀が強調されるのが以下に述べる神聖王・神聖王権である。」

 この点では、日本の神話は、神武天皇は天照大御神の孫であるホノニニギノミコトの曾孫であるとしていますから、「神と血筋が結ばれた」ということで「神の子」であることを示しています。ここは、世界の神話と共通しています。しかし、日本神話に特徴的なのは、初代の王権が神と直結しておらず、地上の自然界との交流によって生まれたことを描いている点です。つまり、「神-自然-人間」の構図がここにあります。もっと具体的に言いましょう--
 
「(ニニギノミコトは)日向の地で山の神の娘のコノハナノサクヤヒメと結婚して海幸・山幸らの子供をもうけ、祖父の山幸が海の神の娘で鰐(わに)に化身するトヨタマヒメとの間にもうけた子であるウガヤフキアエズを父とし、トヨタマヒメの妹のタマヨリヒメ(したがって彼女も鰐)を母とする」(p.234)ということです。

 ここには、自然界の動植物とも密接な関係をもつ“神の子”が描かれています。

 次に「辺境の地での成長」ということですが、この2番目の要素も日本の建国神話に見事に盛り込まれています。神武天皇は日向の地で生まれたということは、成人するまではその地で育ち、それから兵を結集して何年もかかって大和地方まで大移動をするのです。これは「辺境の地で育った偉人が王権を打ち立てた」というストーリーにほかなりません。

 それでは、3番目の要素「武勲」について検討しましょう。武勲とは「戦場での手柄」です。国家統一のためにはどうしても武力行使が行われます。これは、世界の建国神話に共通しています。しかし、その武力行使の方法については、各神話の特徴が出てきます。松村さんの解説を読みます--
 
「武勲については、社会の集団化・統合の度合いが低い“未開”社会の神話では、王者の武勲は個人によって成し遂げられることが多いが、より階層化された社会の神話では、王の武勲は彼個人のものであるよりも、彼が組織して支配する集団によって達成されることが多い。(…中略…)場合によっては、王自身の武勲は述べられていないこともある。その場合、彼が王になるのは神による召命、任命、あるいは家系、血筋によるとされ、個人的な才能より超越的な力、神(々)とのつながりが強調されるので、これを神聖王・神聖王権と呼んでいる」。(p.233)

 神武東征の物語を思い出してください。ここに描かれた「神聖王権」の説明と実にピッタリ合致します。神武天皇はパワフルな“英雄”としては描かれておらず、国家統一が地方の豪族によって妨げられることに悩み、神に何度も祈って進路を尋ね、さらにはできるだけ武力を使わずに、対峙する相手の協力や投降を待つことに腐心した様子が描かれています。松村さんの文章です--
 
「神武ははじめ日向の国の高千穂宮にいたが、兄のイツセノミコトとともに東方に天下を治める都を造ろうと大和へ向けて遠征に船出した。彼らは瀬戸内海を経て難波に至るが、土地の豪族のナガスネヒコとの戦いで兄のイツセノミコトは亡くなった。神武の軍勢はこれを、太陽女神の子孫であるにもかかわらず太陽に向かって戦ったための敗北と思い、紀伊半島を迂回して熊野から大和の地を目指した。熊野では化熊に惑わされ、軍勢は気を失うが、天から下された剣の力で元気を回復し、また、天から派遣された巨大な烏(八咫烏)に導かれて熊野、吉野の山中を無事に越えて大和に至った。そしてナガスネヒコをはじめとする土着の豪族を打ち破り、畝傍(うねび)の橿原に都を定め、天皇として即位したとされる」。(p.234)
 
 この物語は史実ではないでしょう。しかし、史実でないことは「重要でない」ことを意味しません。神話であることを認めたうえで、そこに何が理想として描かれているかということを私たちは把握しなければなりません。なぜなら、それが日本人の心の中にはぐくまれてきた「理想」であり、日本人のアイデンティティであるからです。そして、その理想は、世界の人々と全く異質であることはない。他の建国神話と比較しても共通点が非常に多い。ただし、その中には特徴もある。その特徴が、日本人を日本人たらしめている部分である。このことは、過去の建国記念日のあいさつで私が繰り返してきましたが、簡単に言えば、➀神の御心に聞きしたがう、②自然との一体感を大切にする、そして、③武力行使をできるだけ控える、ということです。
 
 この理想は現在、生長の家が推し進めている“自然と共に伸びる運動”と大いに共通しているものですから、ぜひ皆さんは、この運動を進めていく過程で、日本建国の理想を正しく人々に伝え、子孫にも伝え、海外の人々にも伝えることによって、世界平和の実現に貢献していただきたいと切に念願するものであります。日本国の「建国記念の日」にあたって所感を述べさせていただきました。ご清聴、ありがとうございました。
 
 谷口 雅宣

【参考文献】
○大林太良他編『世界神話事典』(角川選書、2005年)

|

« “手紙月”への挑戦 | トップページ | ローマ教皇の退位 »

人類学」カテゴリの記事

宗教・哲学」カテゴリの記事

自然と人間」カテゴリの記事

コメント

合掌ありがとうございます!総裁先生に対しまして心より感謝を申しあげます!今日一日、京都市の国際会館で近畿ブロックの栄える会繁栄ゼミナールに参加しました。人と自然と共に伸びる運動と日本国実相顕現の信仰生活を実践に生かして伝えて行く事を兵庫教区青年会の一員として運動を邁進します!総裁先生のブログの記事を通して勉強になりました。

投稿: 辻昭 | 2013年2月11日 (月) 20時19分

合掌、ありがとうございます。

私事ですが今月の地域の生命学園にて、iPadの絵本を自作して、日本のすばらしさと世界の国々のすばらしさを子供たちに見てもらい、日本人の特性を生かして世界に役立つ「夢」を子供たちに絵で描いてもらう企画の準備を任されておりました。

まだ、具体的なストーリーは考えているところでしたが、本日の総裁先生のご講話の内容をそのままストーリーにして絵本にしたいと思います。少々、作業日数が短めなのですががんばりたいと思います。
総裁先生、ありがとうございます。

投稿: 松本雅幸 | 2013年2月11日 (月) 21時19分

 感動致しました。日本の建国の神話が世界の神話と共通性を持つと言う事。それこそが普遍の宇宙の真理という事ですね。
 そして武力を出来るだけ差し控えるのが神武天皇の建国の精神という所。現在、尖閣の問題を巡って、勇ましい武力行使の考えが日本にけっこう出てきているのを憂いています。何とか平和的解決にならないかと祈念しております。

投稿: 堀 浩二 | 2013年2月11日 (月) 21時55分

大学時代に、松村一男先生の講義を受けた事があります。神話学をどう勉強すればいいのかという私の問いに、角川の神話学辞典から入ると良いよと、優しく教えてくださいました。
雅宣先生のブログを拝見して、とても懐かしく思い出しました。有難うございます。

投稿: 岡本 淳子 | 2013年2月15日 (金) 14時18分

合掌 南無龍樹菩薩

谷口雅宣先生の建国記念日に寄せるお話しに感心と感銘しました

大般涅槃経解釈の聖典を勉強させて頂いております

再度 合掌
南無龍樹菩薩

投稿: 太田真輔 | 2013年2月16日 (土) 00時58分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« “手紙月”への挑戦 | トップページ | ローマ教皇の退位 »