“手紙月”への挑戦
2月を「手紙を書く月」と決めて、毎日誰かに1通ずつ手紙を出すことを勧めるサイトをネット上に発見した。その目的は、「もっとていねいに人と付き合おう」ということらしい。
昨今の世の中では、携帯メールなどの電子的な連絡手段が高度に発達し、文字や写真のみならず、音声や動画もほとんどリアルタイムで遠方に送ることができる。これは、情報伝達の「速さ」という観点からみればまことに画期的であるが、反面、玉石混淆の情報が氾濫 して情報の真偽の判定を困難にし、とりわけ判定力が未熟な子供が犠牲になるなど、いろいろな問題をはらんでいる。ケータイやスマホを持っている人は、情報の着信を知らせる文字や音で、ゆっくり読書する時間もないのではないか……と私は老婆心ながら考えるのである。
そういう私は、ケータイやスマホを持っていない。理由の1つは、止まることを知らない情報着信の知らせが、仕事や私生活の妨げになると考えているからである。この辺のことは、『日時計主義とは何か?』や『太陽はいつも輝いている』などの拙著の中ですでに詳しく書いた。世界を便利に使おうと思うと、世界に便利に使われることにもなりかねない。これはいわゆる“動反動の法則”の1つで、技術社会の落とし穴の1つとも言える。
2月を“手紙月”としようと言っているのはアメリカ人の若手女性作家、メアリー・コーワル氏(Mary Robinette Kowal)で、彼女はふだんは電子メールをバンバン使っているのだが、メールを打つときと紙に書く手紙の違いを明確に意識し、こう表現している--
「紙に手紙の返事を書くとき、私はゆったりとした気分になり、メールで書くのとは違う書き方になる。メールには、今この瞬間に重要なことだけを書く。が、手紙ではそうはいかない。なぜなら、手紙に書くことは、それから1週間ほど先の宛先人に関わることだからだ。こういう状況は、いやおうなく私に“時間”を意識させる。郵便は届くのが遅いからだ。メールではそれがない。“この手紙をあなたが受け取るころには……”と書くことは、自分の気持をゆったりさせるし、相手の心に近づく。そこには持続的な、表現しがたい良さがある。」
「なぜそうなるのか? 受け取った手紙は、2度読むことが多い。1度は、それが到着したとき。2度目は返事を書くときである。そして、手紙の相手や用件のことが、自分の中により強く印象される。自分が書いた手紙は一回切りで、メールのように複製がない。そして、相手の手紙のオリジナルは、自分のところにしかない。そういうことが、なぜかメールより良い」
--こうコーワル氏は言う。
私はかつて「下手な字でいい」という一文を書いたとき、プリンターで打ち出した文字のうさん臭さを問題にし、ていねいに手書きした文章は、その文字がたとい下手であっても、書き手の誠意が表れて好感がもてると述べた。コワ-ル氏はそのことに触れていないが、サイト上では「手紙は必ず手書きする」ように言っているから、手書き文字の重要さは充分心得ているだろう。そして、彼女は、2月中に自分の知人に手紙など23通を送ることに挑戦しようと提案するのである。なぜ「2月」でなぜ「23通」か?
私は当初、それはバレンタインデーが2月14日であることと関連しているのかと考えた。しかし、ラブレターを23通ももらう恋人は当惑してしまうだろうし、かと言って23人に愛の告白をするのは、いかにもいい加減である。アメリカでは、バレンタインデーは必ずしも恋人同士の日ではなく、家族のため、友人のため、恩人のためにも愛情や感謝の思いを表現していいことになっているから、そういう近親者や知人との心の交流を主眼とした企画なのかもしれない。が、サイトにはそういう説明はなく、2月が年間でいちばん短い月であることと関係ありそうなことが書いてある。つまり、30日間連続というのは大変だから、1週間のうち郵便局が開いている6日間を利用し、それを4週継続すると「24通」となる。が、アメリカでは2月に祭日が1日あるから、その分を引いて「23通」ということになるらしいのである。
これを読んで、私は「なかなかいい企画だ」と思った。日本では、年賀状などの季節の挨拶を手紙や葉書で行う習慣が廃れていないが、反面、やや義務的になっているし、形式的な内容のものが多い。だから、年賀状のやりとりも一服し、一年で最も寒くなったこの時期に心温まる手紙や葉書を交換することは、日本の季節感とも矛盾しない。だいいち2月3日は「ふみ」と読めるから「文通月」を2月とする理由ともなる。さらに、2月14日にはもうCO2を排出するチョコレートを交換するのはやめて、温かい愛情表現の日にするのがいい。それには手書きの手紙や葉書がいちばんだ……などと考えたのである。
そこで1月の終りになって、私は急遽、コーワル氏が運営する「手紙月の挑戦」(The Month of Letters Challenge)というサイトに登録し、彼女が目指す方向に動いてみることにした。ただし、私なりのアレンジを加えて、である。私の場合、郵便物を差し出す相手は「24人」とし、差し出すものは絵手紙、ないしは絵封筒とすることにした。その「24人」は、生長の家が運営するポスティングジョイで募集し、すでに決まっている。私がどんなものを描いたかは、受け取った人がジョイとして登録することになっているから、興味のある方はご覧あれ。さらにフェイスブック上の「絵封筒作家の部屋」のサイトでも絵は見られるはずだ。
谷口 雅宣
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コメント
合掌ありがとうございます
私の友人に、まめに手紙を書く方がいます。日常のなんでもないことを書いて送ってきます。半分手紙、半分はがきです。はがきのときは隙間なくびっしり書いています。こういうのって、なんだかホッとしますね。
1ヶ月間、受け取られた方はきっと嬉しいと思います。
投稿: 水野奈美 | 2013年2月 4日 (月) 15時27分
合掌、ありがとうございます。
私のような50年代の終わりに生れた者のやや古い常識では、いや単に私の場合に限ったことなのかも知れませんが、総裁先生のブログに毎回のようにコメントをするのは、不躾であるという感覚がありました。
先日、講師の先生にそのことをお話ししましたら、『いや、どんどん書いて出したら、きっと総裁先生も喜んでくださいますよ。』と、言われたので、総裁先生の秘書までなさった講師の先生のご意見であれば間違いないだろうと、そのお言葉を真に受けて、また、書いてしまいました。済みません。
最近は、日本の祝日や記念日が簡単に日曜日に代わることが多いのですが、流石に文の日は、旧歴の7月を文月と読んでいたこともあり、7月23日で固定だと思うのですが、毎月23日は今でもふみを書く日として郵政省が奨励しているのでしょうか。
こうして、海外に暮らしていますと、以前は、手紙が本当に楽しみの一つでした。
特に僕の妻は、亡くなった彼女の母といつも手紙のやり取りをしていました。どこかに出かけて戻った時には、必ずメールボックスを覗いていましたし、朝の早い時間にメールメンがコトンと、メールボックスにメールを落とす音を聞くと、朝食の用意をしていた手を止めて、玄関のボックスの所へ走って行って、手紙が来ているととても大事そうに胸の中に抱えて戻って来ていました。
そんな妻の姿をみていると、愛する人との距離をこんなにも遠くしてしまったことに少し後ろめたさを感じていましたが、『その分、手紙を書く楽しみが出来たので大丈夫よ』と、言う妻の言葉に少し救われ、郵便配達員の方や、海の向こうから手紙を運んでくれる沢山の人や飛行機に心から感謝したものです。
その後、妻の母は亡くなりましたが、妻は彼女のたった一人の姉と、母の時と同じ様に手紙のやりとりを続けておりました。しかし、ある日、日本の実家にインターネットが繋がりました。今では、電子メールの作成の為にキーボードをたたく姿か、ウエブキャムに向かって姉と話す妻をみることの方が多くなりました。時代の流れでしょうが、何となく寂しさを感じる今日この頃です。
ところで、話は変わりますが、私は子供の頃、切手収集をしておりました。毎月のように発行される記念切手は、子供心に、普通の切手よりも大きくてとても美しいと感じておりました。大人になってからも、仕事の関係で高山植物や野鳥、国立公園関係の記念切手などは、その都度欠かさずに購入しておりましたが、僕の場合はその切手を誰かへの手紙に貼って出すのが好きでした。絵手紙を書くほどの腕はないので、せめて素敵な切手を貼って出しておったのです。絵手紙と言えば、今度講師の先生が『技能や芸術的感覚を生かした誌友会』の第1回目として、絵手紙の講座を開催してくださいます。総裁先生のように素敵な絵はかけませんが、今からとても楽しみです。再拝 バンクーバー 大高
投稿: 大高力夫 | 2013年2月 6日 (水) 14時06分
合掌有り難うございます。
ちょうど今さきほどのことです。地元の新聞紙上で友人の名前を見つけ驚き、そのときの気持ちをすぐに伝えたく、まずはメールを‥と思いきや、その友人のアドレスを登録していなかったことに気付きました。
そこで年賀状を引っ張りだし、彼女の家へ葉書を出すことにしました。
手紙、ハガキは普段はめったに書かずうまく書けるか一抹の不安を抱えながらも気持ちを伝えたい!一心で綴りました。意外にもサラサラ書けて、「こういうのも悪くないな」と感じていたところです。
学生のころは、友人たちとよく手紙のやりとりをしてたことを思い出しました。中でも遠く県外へ転校して離れ離れになった親友とは20年近く文通を続け、結婚披露宴にも来てもらうことができました。
普段、ついつい連絡をメールで済ませることばかりですが、ぬくもりのあるやりとりを復活させてみようかなと思わせていただきました。
有り難うございます。
投稿: 前川 淳子 | 2013年2月 6日 (水) 23時13分