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2013年2月22日 (金)

ローマ教皇の退位

 ローマ教皇・ベネディクト16世が、この2月末をもって退位すること発表をしたことは読者もご存じだろうが、その後の影響が欧米のメディアでは話題になっている。その最大の理由は、そもそも「ローマ教皇」という地位は終身であり、自ら退位することはないと考えられていたからだ。私もそういう理解だったから、先代のヨハネ・パウロ2世が亡くなった時には、教皇の晩年の様子を思い起こして「老体を酷使する大変な仕事だなぁ」と思ったものだ。
 
 19日付の『インターナショナル・ヘラルド・トリビューン』(ニューヨークタイムズ国際版)によると、ローマ教皇の退位は6世紀ぶりだという。ということは、過去においては必ずしも終身職でなかったのだ。ローマ法王庁もそのことに言及して、カトリック教会法(Canon Law)では教皇退位後の手続きをきちんと定めているとして、信者の間の混乱を防ごうとしているそうだ。しかし、600年前の手続きが現代にそのまま通用するかどうかは、疑問である。この6世紀の間には教皇の権威について変化もあったから、それはなおさらである。その大きな変化の1つは、1869~70年に行われた第一バチカン公会議で教皇の無謬性(infallibility)が明確化されたことだ。つまり、信仰と道徳の事項について教皇が行う聖座宣言(ex cathedra、エキス・カテドラ)は、神の特別の加護によるものだから常に正しく、すべてのカトリック教徒はそれを受け入れる義務を負うという決まりができたのだ。

 この決定のポイントは、教皇の言葉の無謬性を「信仰と道徳の事項について」に限定することにあったのかもしれない。しかし、信仰や道徳は人間の基本的生き方に関わることだから、それさえ守れば、それ以外のことはデタラメでいいというわけにはいかない。だから、通常のカトリック教徒の理解は「ローマ教皇の言動は万般にわたって常に正しい」という考えに近くなる。すると、生前に自ら退位した教皇は、退位後には正しくなくなるのかという疑問が生じる。また、退位後に神の加護を失うのであれば、そんな教皇は在任中も本当に正しかったのか、などという疑義が生じるかもしれない。さらには、新しく就任した教皇と前任者との見解が違った場合、信仰者はどちらを“正当”として受け入れるべきか……などなどの諸問題が浮かび上がってくる。このような諸々の結果から生じるのは、ローマ教皇の権威の「強化」ではなく「弱体化」である、というのが識者の見解であるようだ。
 
 前掲の記事では、ケンブリッジ大学でキリスト教史を教えるイーモン・ダッフィー教授(Eamon Duffy)が、「在任中に自ら退位するという事実だけで、ローマ教皇の地位は本質的に変わってしまった」と驚いている。ダッフィー教授に言わせると、ベネディクト16世は「考えられないことを考え、やり直せないことを実行したのです。600年続いたタブーを破りました。そのうち150年間、教皇はイエス・キリストの象徴として、聖人として見なされてきたのであり、世界宗教の最高指導者などではなかった」という。また、2002年から10年にわたり英国国教会の長を務めたローワン・ウィリアムズ氏(Rowan Williams)は、教皇の退位について、「教皇の地位が、もはや終身務め上げる“神聖王”のようなものではなくなったことを意味する」と述べている。それは、以前よりも「わずかに機能的に、神学的にはわずかに軽く」なったと同氏は言う。
 
 ところで、近代のカトリック教会史において「聖座宣言」が正式に行われたのは、2回だけだという。1回目は、1854年に教皇ピウス9世が行った聖母マリアの処女懐胎についてのもので、2回目は1950年の教皇ピウス12世による聖母マリアの天国への召命についてのものらしい。ということは、ローマ教皇が毎年発表する「新年の言葉」などは聖座宣言ではないということだ。すると、それらはカトリック教徒にとって信仰上の指針にはならないのだろうか? そんなことはあるまい。となると、やはり今回の教皇退位の決断は今後、カトリック教会にとっていろいろ複雑な問題を惹起することになるのだろう。
 
 アメリカの時事週刊誌『Time』は2月25日号の表紙にベネディクト16世の写真を使い、今回の退位について7ページにわたる特集記事を掲載している。そこには、退位を決断した教皇について人間的な側面が描かれている。それによると、教皇は今回の退位の理由を「健康上の問題」としたという。85歳になる教皇は、即位前から心臓のペースメーカーを使っており、最近は大陸間を渡るような長時間の航空機利用は諦めるように、医者からは言われていた。また、教皇就任から5年後の2009年4月には、大地震に襲われたイタリア中部のラクィーラを訪れて、近くにあるセレスティン5世の墓を参拝したという。この教皇は、13世紀にわずか5カ月だけ在任し、自ら退位したことで「大きな拒絶(the Great Refusal)」と呼ばれる事件を起こし、問題となった教皇である。
 
 同誌の記事はさらに、ベネディクト16世の前任者との関係に焦点を当てる。私もかつて言及したが、現在の教皇は前任者のヨハネ・パウロ2世の近くで長年、枢機卿として、主として教学部門で重要な役割を果たしていた。この記事は、教皇の前任者との関係を「友人(friend)」という言葉で表現している。そして、ヨハネ・パウロ2世は晩年、パーキンソン病に冒されていたらしく、ラッツィンガー枢機卿(ベネディクト16世の教皇就任前の名)は、本来活動的だった友人がしだいに衰えていく苦悩の姿を間近に見てきた。そして、2010年に発刊された『世界の光(Light of the World)』という著書の中で、教皇は自分の任務について「もし肉体的、心理的、精神的に任務をまっとうすることができなくなれば……教皇は退位する権利があり、場合によってはそれは義務ともなる」ことを強調しているという。
 
 では、今の教皇はそれほどに体力が衰えているのだろうか? 実際のことは、恐らく本人にしか分からない。が、『Time』誌はそれほどひどくはないと見る。そして、そのことが今後のカトリック教会の運営に問題を投げかけると予測している。つまり、一種の“院政”が布かれることへの懸念が、この記事では語られている。後任の教皇を選ぶコンクラーベという選挙は、3月15日からバチカンで始まるが、まずこの選挙への影響力が無視できない。教皇は世界中にいる枢機卿が一堂に会して選ぶのだが、その枢機卿を任命するのは教皇である。ということは、現在の枢機卿はベネディクト16世に何らかの形で恩義を感じている人々だ。そういう人々が、現教皇と考え方が大きく異なる枢機卿を後任として選ぶ可能性はかなり低い。ということで、新しい教皇は現教皇が引いた路線に忠実な人間になる可能性が大きい--そう分析している。つまり、ヨーロッパ人で保守的な考えをもつ新教皇が選ばれる可能性が大きいのだ。

 しかし、カトリック教会全体の問題は、世俗化の傾向と数々のスキャンダルに影響されて欧米のカトリック教徒が減っていることと、それとは対照的に、アジア=アフリカの一部では教勢が比較的に拡大している点がある。しかし、ブラジルなどのラテン・アメリカ諸国では、逆にプロテスタント教会が勢力を伸ばしている。これに対応するために、欧米以外の地域から教皇が選ばれるのが好ましいと考える人々もいる。そういう考えが強くなれば、従来の路線から離れた“進歩的教皇”の誕生もありえないことはなかった。が、その可能性は、今回の教皇退位の決断によって小さくなったと見るべきかもしれない。

 このように、今回の教皇退位の決断によって、カトリック教会ではいろいろな変化が起こる可能性がある。私は、『ヘラルド・トリビューン』紙が指摘するような“教皇の無謬性”の減退は、宗教界全体にとってはむしろ好ましいことではないかと考える。生長の家では「人間は神の子」と教えるが、これは常に向上を目指す“人間内奥の本質”のことを指していて、肉体をもった“現象としての人間”は常に間違う可能性があると明確に説いている。この点は、程度の差こそあれ、宗教運動の指導者についても変わらない。そして実際、歴史的な検証によれば、宗教指導者による判断の誤りは珍しいことではない。その場合、「あの判断は誤りだった」と言える宗教と、それを言えば存亡の危機を招く宗教があったとすれば、前者の方が後者よりも優れていると考えるのである。
 
 谷口 雅宣

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コメント

私は大学生の時に、ヨーロッパへ2度、旅行しました。2回とも年末年始にかけてでした。12月25日のクリスマスの日は、ヴァチカン市国でミサに参加しました。私はずっとクリスチャンでしたので、ローマ法王が来られて、とても感動しました。
今、世界はグローバルになって、ローマ法王も大変なのだと思います。
色々考える時期が来ているんだな、と思います。

投稿: 水野奈美 | 2013年2月23日 (土) 20時06分

興味深く読ませていただきました。「“保守的”とは必ずしも“伝統的”を意味しない」(小閑雑感 2005年4月4日)ことにも留意します。

>私は、『ヘラルド・トリビューン』紙が指摘するような“教皇の無謬性”の減退は、宗教界全体にとってはむしろ好ましいことではないかと考える。

>実際、歴史的な検証によれば、宗教指導者による判断の誤りは珍しいことではない。その場合、「あの判断は誤りだった」と言える宗教と、それを言えば存亡の危機を招く宗教があったとすれば、前者の方が後者よりも優れていると考えるのである。

素晴らしいご教示ありがとうございます。
もし、宗教指導者の無謬性を認めるとすれば、例えば法王の十字軍や異端審問に対する謝罪、真言宗と天台宗の和解は意味をなさなかったでしょう。これからも、言葉の表面の意味にとらわれず、三正行を実践していきます。
10億を超えるカトリック教徒と世界にとって、最も相応しき指導者が選ばれることを祈りたいと思います。

投稿: 加藤裕之 | 2013年2月24日 (日) 22時47分

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