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2013年1月

2013年1月24日 (木)

人類の向かう方向は? (2)

 21日(日本時間22日)にワシントンで行われたオバマ大統領2期目の就任演説の評価が、日本とアメリカではかなり違うようだ。23日の『朝日新聞』は、「史上初めて同性愛者の権利拡大に触れ」たことを大きく取り上げ、地球環境問題への言及については、「気候変動問題でも“立ち向かわなければ、子どもたちを裏切ることになる”と積極的な姿勢を見せた」と表現しただけだった。同じ日の『日本経済新聞』は、「平等な社会の実現」を訴えたことを見出しにし、「一方で、中間層の底上げや財政赤字削減など道半ばの課題の実現に向け、米国民が結束するように呼びかけた」と述べるに止まった。気候変動の問題について大統領が何を言ったかにはほとんど言及がなく、「演説では銃規制や地球環境問題、移民制度改革などリベラル色の強い政策を列挙」と表現し、“その他いろいろ”の中の1つだというニュアンスで伝えただけだ。

 これに対して、アメリカの『インターナショナル・ヘラルド・トリビューン』(ニューヨークタイムズ国際版)は、23日の第1面に「オバマは議会の意向にかかわらず、気候変動対策に取り組む」(Obama plans climate action, with or without Congress)という見出しの記事を掲げ、新政権の最優先課題が気候変動問題への対策だと伝えた。日本の新聞は、大統領のこの分野への取り組みに懐疑的、もしくは反対なのだろう。これに対してリベラルな『ニューヨークタイムズ』は、「どんどんやれ」という意思の表明なのかもしれない。それにしても、新聞の報道姿勢によって、同じ1つの演説がまるで違って伝えられるという事実は、この問題の背後にある利害関係の複雑さを有力に示している。ご存じのように、『朝日』は日本の新聞でもリベラルな方だが、『日経』は産業界の利益を代弁する傾向が顕著だ。いずれの新聞も、今後のオバマ氏と議会との対立を予測して、「環境対策はどうせうまく行かない」と考えているのだろう。
 
 『ニューヨークタイムズ』は言わば“地元紙”であり、取材の仕方も日本の2紙とはレベルが違うから、新政権周辺を細かく取材し、説得力のある記事を載せている。それによると、演説の前半はオバマ氏のリベラルな政治哲学を総論的に述べている。後半では、各論的に今後取り組む政策について自分の考えを述べている。気候変動についての演説部分は、その他のどの政策よりも多い8つの文章(センテンス)で構成されており、大統領はその冒頭近くで「我々が気候変動の脅威に対応していくのは、それに失敗すれば、子どもや未来世代を裏切ることになると知っているからだ」と述べている。これは世代間倫理を正面から取り上げたものだ。また、国内にまだある温暖化懐疑論に対しては、「科学が示す圧倒的な証拠を拒む者がまだいるとしても、誰も森林火災や深刻な旱魃、破壊力を増す嵐による壊滅的な衝撃は避けられないだろう」と警告している。

 そして、この後にこの問題とどう取り組んでいくかの方針が明確に示されている--
 
「持続可能なエネルギー源へと転換するための道のりは長く、時には困難もあるだろう。しかし、米国はこの転換に抵抗することはできない。むしろ、それをリードしなければならない。我々は、新たな雇用や産業を生み出す技術を他の国々に明け渡すわけにはいかない。むしろ、その将来性を主張すべきなのだ。それによって、我々は米経済の活力と我々の宝--あの森や川、あの穀倉地帯、あの雪を頂いた山々の頂ーーを護っていくのだ。こうして我々は、神が命じた通りに、この地球を保全していくのだ。そうしてこそ、我々の父祖が宣言した信念が意味あるものになるだろう」。

 これはきわめて明確な方向性と言える。「環境保護と経済発展は両立しない」という保守的な考えを否定し、今環境保護に先手を打って歩み出さなければ、新たな雇用や産業の発展に遅れをとり他国との競争に負ける、という危機感が表れており、さらに「経済発展の源泉は良好な環境である」という視点も明確だ。私も昨年秋の記念式典や今年の新年祝賀式で同様の考えを述べたばかりだから、心強い思いがした。しかし、オバマ大統領は、今回の選挙戦ではこの視点を明確に打ち出さなかった。だから、私はオバマ氏の再選が決まったときに、温暖化対策へのアメリカの今後の取り組みについて期待がもてなかったのである。が、ここへ来て突然、“環境色”を打ち出したネライは何か? それについて、同紙はこう分析する。
 
 オバマ氏は大統領1期目に、包括的な温室効果ガス排出規制法案の議会通過に力を注いだ。しかし、議会で多数を占めた共和党の反対で法案はつぶされた。オバマ氏は当初、共和党への説得と調整で何とかなると考えたが、反対勢力の力を思い知らされたのだ。そこで今回は、この件は慎重に事を進める作戦に転じ、議会ではなく、大統領としての執行権の範囲内で、地道に、しかし強力に対策を講じていく方法を採用したというのである。具体的には、大量のCO2を出す発電所に対して排出規制を強めたり、家電製品や建築物の省エネ化を進めたり、さらには軍を含む政府部門から出る温室効果ガスを削減させる措置を採ろうというのである。これらの方策は、実はオバマ氏の第1期目でも、自動車産業などで一部始まっていた。そして、アメリカ全体の温室効果ガス排出量は実際、オバマ氏の就任前より1割ほども減少したのである。その原因の一端は、もちろん景気後退にもあるだろう。しかし、これが有効だという感触を得た大統領は、選挙戦にあえて“環境色”を持ち込まなかったーーそういう分析である。
 
 政治は、“理想論”だけではうまく進まないものである。しかし、利害関係が錯綜する混沌の中にあっても、政治のトップが“理想論”を唱え続けるところから、国は1つの方向に動いていくのだと思う。そういう意味で、私はオバマ氏の2期目の環境対策に静かな期待を寄せるのである。
 
 谷口 雅宣

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2013年1月21日 (月)

人類の向かう方向は?

 1月17日付の『インターナショナル・ヘラルド・トリビューン』紙に掲載された論説で、アリゾナ州立大学の理論物理学者、ローレンス・クラウス氏(Lawrence M. Krauss)が、科学の成果や科学者の意見が国の政策決定に影響力をもたなくなったと嘆いていた。題して「世界の終末なのに耳が聞こえない」。主として、アメリカ社会での傾向について嘆いているのだが、私は日本にも共通していると感じた。同氏によると、アメリカでは戦中から戦後まもなくの時期は、科学者の考えや意見が政策決定者に重要視されたために、核兵器などの強力な科学技術が登場しても、それが悪用されるのを未然に防ぐことができた。しかし、今日のアメリカでは、科学者の意見は尊重されないというのである。具体的に何のことを言っているかというと、➀気候変動、②核の拡散、そして③人類に死をもたらす病原の創造について、社会は注意を払わないというのである。これら3つの深刻な問題が、科学者の警告にもかかわらず野放しにされていることへの怒りが表れた文章だった。何に対しての怒りか? 直接的には政治家だが、間接的にマスメディアも批判しているのだろう。
 
 私は、本欄などでこれら3つの問題のいずれも取り上げて、特に➀について、私たちの子や孫世代のためにどうすべきかを訴えてきた。しかし、日本の政治は、ご存じのように“経済発展至上主義”に逆もどりしつつある。こういう実例を目の前にしつつある昨今、私は現行の民主主義制度の欠陥をヒシヒシと感じるのである。もちろん、私は民主主義そのものに反対しているのではない。それを実際の政治過程で適切に機能させるためには、現行の制度には欠陥がある、と感じるのである。端的に言うと、個人や団体の短期的利益の調整や増進に焦点が集まりすぎ、もっと長期的な、環境倫理や世代間倫理の観点をも取り入れた政策に結びつかないのだ。すぐ先の参議院選挙のための施策は実行されるが、血税を投入して整備した道路やトンネルを、次世代の人間が必要としているかどうかの問題は、考えない。オリンピックを誘致しようと目の色を変えるが、その競技場となる大都市の低地が、やがて海面上昇で使えなくなる問題については語らないか、考えもしないのである。

 昨今、日本列島によく寒波がやってくるが、日本以外の世界各地域でもこのところ異常気象が起こっている。日本のメディアはこのことをあまり伝えないが、上記の新聞は何回も報じている。北極の海氷が9月に最小になったことは、本欄ですでに書いた。日本のメディアの一部もこれを伝えた。が、それ以降は、あまり熱心でない。それに比べて上掲の『トリビューン』紙は、昨年11月30日付の紙面で国連の気象学者の言葉を引用して、2012年が過去160年間では9番目に暑い年だったと報じた。また今年の1月10日付では、アメリカだけを対象にした気温の変化を調べて、2012年は1998年の記録を抜いて平均気温としては最高だったと書いた。「平均気温で最高」という表現があまりピンと来ないなら、より具体的には、夏の熱波でいうと、アメリカ人の3人に1人は、華氏100度(37.8℃)を超える日を昨年10回以上経験したということらしい。さらに巨大ハリケーンや竜巻も起こり、その被害額を推計すると、2012年に起こったこれら11の気象災害は、合計で「10億ドル」を超えたという。それに加えて、年末にアメリカ東部を襲った巨大ハリケーン「サンディー」の被害は「600億ドル」を超えるだろうという。

 600億ドルとは、日本円(1ドル=90円で)にして7兆2千万円だ。この額は、現在のわが国の農林水産業全体の生産額(約10兆円)より少ないが、そこから、日本のTPP参加で農林水産省が減少すると推定している分を引いた額とほぼ同じである。つまり、それだけ大きな被害が気候変動によっても起こり得るのである。少し乱暴な言い方かもしれないが、TPPに反対し加入を阻止できても、地球温暖化を抑制できなければ、日本の農林水産業が蒙る被害はより大きくなる可能性があるのである。ここ数日は、大雪の被害でアメリカやヨーロッパの空港が一部機能マヒに陥ったそうだ。アメリカだけで欠航便の数が1日で数百便というから、旅行や航空業界に及ぼす影響は大きいはずだ。このようにして、経済的被害が深刻になっていかないかぎり、世界は気候変動の存在を「いつもの通り(business as usual)」と考えて無視し続けていくのだろうか。

 最近、本欄の読者からこの地球温暖化の問題に関して“悩み”の相談を受けた。「温暖化の原因に2説あって、そのいずれを信じるべきか……」という悩みである。2説とは、「人間の活動説」と「太陽原因説」である。私は今のこの時期に、この種の悩みをもつ人が日本で多数を占めるとは思わない。大多数は、地球温暖化の原因は「人間の活動」だと信じており、たぶん学校でもそう教えているだろう。科学者の大多数も、もちろん「人間の活動説」を信じている。しかし、悩んでいるご本人にとっては、自分が多数派か少数派かという問題はあまり重要でなく、それよりも自分の心の中にある“疑い”を晴らしてほしいということなのだろう。でも、環境学や気象学など、測定が容易でなく、しかも厖大な量の自然界のデーターを扱う学問では、数学や物理学のように厳密な答えが出る純粋科学とは異なって、不確実な部分がどうしても残る。そのことは、私たちが毎日テレビで見る「気象情報」を思い出せば分かるだろう。その「不確かさ」を取り除くことは、少なくとも今の科学ではできない。
 
 世の中に「不確かさ」があることについて、悩む人もいれば悩まない人もいる。もちろん「不確かさ」にも程度の違いがあり、入試問題に何が出るかなどということは、不確かなのが当たり前である。それに比べ、親が自分を愛してくれているかどうかは、「不確かだ」と思う人は少ないのではないか。このいずれの場合にも、悩む人も悩まない人もいる。生長の家の信仰をもつ人は、これらの現象的な出来事についての悩みをどう解決すべきだろうか? 私は、神の創造になる“善一元の世界”を信じている場合、また、「人間は神の子である」との教えを信じている場合、人間の判断と、それに伴う最終的な結末に対して、その人が不安を感じる度合いは少なくなるはずだと思う。
 
 私が本欄などを通して、気候変動の深刻化について警鐘を鳴らすのは、読者をいたずらに不安に陥れるためではない。方向を示さずに「世界は暗い」と言えば、不安を引き起こす。しかし、方向を示して「こちらは明るい」と言えば、人々は不安なく明かりに向かうだろう。私は、神の御徳の反映としての人類の英知を信じており、それが科学の営みの中にも現れていると思うから、大多数の気象学者が理論と大量の実際データーをもって示す「人間の活動説」を信じている。また、昨今の気候変動は、彼らが何年も前に予測していた通りになっているという事実は、決定的に重要だと思う。だから、この件について悩んではいない。悩んでいるのは、それにもかかわらず、国際政治や国内政治、産業の動きが、科学者の警告に一向に耳を傾けない様子であることだ。そういう点で、私はクラウス氏と静かな“怒り”を共有するのである。
 
 谷口 雅宣

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2013年1月13日 (日)

コーヒーを子孫に残すべきか?

Caputino2012  自分で言うのはやや気が引けるが、私は“コーヒー党”である。とは言っても、ガブ飲みすることはしない。朝食時に1杯、午後2時ごろに1杯飲んで満足する。疲れた時に飲むのもいい。だから、生長の家の講習会の帰途、航空機や列車の中で飲むことも多い。わが家では、朝食時のコーヒーは私が淹れる。これは結婚して以来の“伝統”である。この1杯がうまいかマズイかは、その日の気分を左右する--と言えばいかにも大げさだが、わが家の構成員(たった二人だが)にとって、重要事項の1つである。幸いなことに、私の熟練のおかげか、朝のコーヒーがマズイという事態は、もうほとんど起こらない。学生時代にはサイフォンで淹れるのが流行ったが、その後、ネルのドリップを使うのもやってみた。さすがに豆の焙煎まではしなかったが、豆で買い、ミルで挽き、ドリップで淹れるというは、当たり前になった。今も、その方法だ。

 で、そういう大事な嗜好品の1つが、孫の世代の人々には「手が届かなくなる」という可能性を考えてみた。それは好ましいことだろうか? いや、好ましくない。では、その可能性を減らす努力をすべきだろうか? その通りだと思う。しかし、今の自分の生活の一部を犠牲にしてでも、その努力をすべきだろうか? それは、程度問題ではなかろうか。一体何をどの程度犠牲にすれば、孫世代にも現在と同様に、コーヒーに手が届く状況であり続けるのか? その答えが「よく分からない」のである。これが地球環境問題で、我々が確信をもって対策を講じにくい原因の1つである。気候変動のメカニズムがあまりに複雑すぎるので、確かな“未来図”が予測できない。したがって、「危ない」という人がいる一方で、「大丈夫」という人も同じくらいいる。そして結局、抜本的対策は講じられず、“ハーメルンの笛吹き男”はさらに崖っぷちに近づいていく。そんなことが何回も繰り返されている。
 
 コーヒーは16~17世紀にアフリカからヨーロッパに導入され、それ以降、人類の創造性と活力を引き出す重要な役割を果たしてきた。産業革命を生んだ要因の1つに、コーヒーを挙げる人もいるくらいだ。その消費量は、石油に次いで第2位なのだそうだ。コーヒーカップの数に換算すれば、世界中で年間5千億杯が飲まれていて、コーヒー輸出産業は150億ドルを稼いでおり、2千600万人の農民がその栽培に従事している。しかし問題なのは、コーヒー豆の品質は生育条件--特に、気温と降雨量ーーに左右されやすいという点だ。そして、ご存じのように、地球温暖化は世界各地の気温と降雨量を変えつつある。つまり、これまで生育の好適地だったところが、そうでなくなりつつあるのだ。イギリスの科学誌『New Scientist』は1月5日号でこの問題を取り上げ、IPCCによる「最悪の予測によれば、現在コーヒー栽培の適地となっているほとんどすべての地域が、2080年までに適地でなくなる」と警告している。IPCCが掲げる“最善の予測”では、適地でなくなる地域の割合は「65%」だが、前回述べたように、この可能性はもうなくなった。

 私は、ブラジルが世界一のコーヒー産地だという情報から、コーヒーの木は気温が高い熱帯でよく育つのだと思っていた。が、「気温が高い」という条件はマイナスに働くこともあり、それより降雨量とその変化の仕方が重要であるようだ。同誌の記事によれば、コーヒーは蕾みが膨らむまでは乾燥した気候を好み、開花するためには雨が必要という。しかし、雨が降りすぎると実がつかない。しかし、実の成長過程ではまた雨が必要なのだそうだ。現在、世界で栽培されているコーヒーはアラビカ種(Arabica)とローバスタ種(Robusta)の2種だけで、前者は標高1000~2000メートルの高地で気温が18~21℃の時が成長に最適であるのに対し、後者は湿気の多い低地で22~26℃の時が最適であるという。しかし、気候変動の影響は、こういう条件を乱しつつある。例えば、世界第2のアラビカ種生産地・コロンビアでは、2009年から2012年までの3年間、ほとんど雨が降りっぱなしだったため、カビによる伝染病が発生して35年来の少ない収穫量だったという。
 
 温暖化が進行すればアラビカ種のコーヒーはしだいに収量が減り、より温暖な地に適したローバスタ種の栽培に移行することを余儀なくされそうだ。しかし、コーヒーの「香り」を演出するのがアラビカ種で、ローバスタ種は強い苦味を特徴とするため、ほとんどはアラビカ種とブレンドして売られているのだという。また、値段でもアラビカ種がローバスタ種に勝るため、移行は簡単でないらしい。そこで必要になるのがアラビカ種の品種改良だが、野生のアラビカ種が残っている所はエチオピアの一部に限定されており、昨今の温暖化で、その範囲も急速に狭まりつつあるという。

 コーヒーは嗜好品だから、飲めなくなっても人類にとって悲劇ではないという考え方は、確かにある。しかし、温暖化によって収量が減っていくのは、何もコーヒーだけではない。コーヒーほど気候に敏感でなくても、このままでは主食穀物の収量も減るだろう。その中で世界人口が増え続けるという構図は、決して歓迎すべきものではない。読者諸賢には、コーヒーを飲む機会があるたびに、この問題を思い出してほしいのである。
 
 谷口 雅宣

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2013年1月11日 (金)

“笛吹き男”に見えないこと

 新年もすでに10日が過ぎ去った。時間が過ぎるのはなんと速いことか……と思うのだが、世の中は変わっているようで変わっておらず、変わっていないようですごく変わりつつある。こういう実感は、私たちがどこを見るかによるようだ。大ざっぱに言えば、前者を感じるのは世界の大きな流れを見渡した時であり、後者を感じるのは、社会の細部や自分の周りの出来事を観察するときだ。今回は、前者について語ろう。
 
 昨年末の総選挙で、日本は変わったことになっている。民主党政権が倒れ、自民党(+公明党)政権が復活したからだ。が、それは政治の“細部”を見た場合で、「戦後日本」という大きな流れと比べて見た場合は、日本全体の動きは“元の流れ”にもどっただけだ。円高では輸出産業が衰退するとの発想のもとに、大声で“金融緩和”を叫び、“経済優先”の旗印の下に大型の公共事業に税金をつぎ込む。こういう政策は、ひと昔前の自民党の政治そのものだ。だから、今後は当然のことながら、大量のエネルギーを使う重厚型産業の利益代表である日本経団連の意向を重んじて、「原発の再稼働」が進められるだろう。エネルギー政策にも大きな変化は起こらない。なぜなら、原発再稼働は、電力の地域独占傾向を強めこそすれ、弱めることはないからだ。ということは、自然エネルギーの利用拡大は遅々として進まないことになる。となると、農林漁業の振興もかけ声だけになる可能性が大きい。
 
 人々が「従来通りの生き方をしたい」と思う気持は、よく理解できる。人間は、特に高齢になると変化を嫌うようになるから、その気持はさらに強まる。日本社会は急速に高齢化しつつあるから、社会全体が「これまで通りがいい」という風潮で染まるかもしれない。昨今、“保守的”な考え方が人気があるのも、そういうことが一つの原因だろう。しかし、人類が「これまで通り」の生き方を継続すればどうなるかは、世界中の気象学者がかねてから警鐘を鳴らしているとおりなのだ。化石燃料の使用量がさらに増加して、海面上昇とともに気候変動が一層深刻化する。環境難民が増加し、海岸近くに位置する大都市は被害が深刻になる。昨年のニューヨーク市の洪水被害のようなものが常態化するのだ。“コンパクト五輪”などという甘い夢は、打ち砕かれるかもしれない。

 そういう“終末論”的な話は聞きたくないという人がいるかもしれないが、「原因を変えなければ結果は必ず来る」というのは、終末論ではなく、科学の基礎である因果関係そのものなのだ。結果が好ましくないことが事前に分かっているのであれば、できるだけ早く、その原因を是正していくことが理性ある人間のなすべきことである。それを、原因には手を触れずに「結果はありえない」と考えるのは愚者であり、理性のない感情論にすぎない。「まず経済を立て直せば強い日本が再生し、日本の地位が向上する」などというのは、戦後の貧しい時代に吉田茂や岸信介が言うのであれば理性的であるが、その孫が、環境破壊と地球温暖化のただ中で繰り返すのであれば、現実無視のノスタルジーにすぎない。私は今、安部自民党総裁が“ハーメルンの笛吹き男”の役割を演じるのではないかと、ハラハラしながら日本の動向を注視している。
 
 昨年9月の本欄で、私は北極海の氷が史上最小になった話を書いた。それ以降も、すでに触れたアメリカ東部を襲った巨大ハリケーンのように、温暖化と関連した異常気象は続いている。その中で、世界唯一の気候変動防止のための国際条約「京都議定書」が期限切れを迎えた。そして日本は、昨年末、同議定書からの実質脱退を決めてしまった。温室効果ガス排出削減のための国際的義務は、もうない。そして、「経済、経済」と連呼する総理大臣が現れたのだ。
 
 イギリスの科学誌『New Scientist』は、昨年11月17日号に「気候変動」の特集記事を掲載した。副題には、こうある--「5年前、我々は最悪の事態を危惧したが、今はそれより悪い状況に見える」。これは2007年、国連の気候変動に関する政府間パネルが予測した“最悪のシナリオ”--「2℃の平均気温上昇」が起こったときの状況について語っている。そして、気候変動が現在の勢いで進めば、それ以上の気温上昇と被害が起こる可能性が大であるという、気象学者たちの最近の評価を示している。同誌によると、そうなると考えられる理由は、5年前と比べて、次の7つの「予想以上」が現実に起こっているからである--
 
 ➀北極の海氷が予想より速く融解している
 ②極端な気象現象は予想以上にヒドイ
 ③食糧生産へのマイナスの影響は予想以上
 ④海面上昇は予想以上
 ⑤自然界からの温室効果ガスの排出は予想以上
 ⑥人間による温室効果ガスの排出も予想以上
 ⑦気温上昇による人体への被害も予想以上
 
 これらを示す具体的データについては、今回は省略する。しかし、ここで読者に知っておいてほしいのは、私たちの目の前で今起こっている気候変動は、5年前の“最悪の予測”より悪い方向に進んでいるということと、日本の政治は、それからまるで目を背けるように“経済成長一辺倒”に進み出したということだ。
 
 谷口 雅宣

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2013年1月 1日 (火)

唯物論から“脱皮”する年

 読者の皆さん、明けましておめでとうございます。旧年中は大変、お世話になりました。本年もよろしくお願い申し上げます。
 
 元日の今日は、午前10時から東京・原宿の生長の家本部会館で「新年祝賀式」が行われた。この行事は例年行われているのだが、今回は出席者が多かったのが印象に残った。聞くところによると、台湾から三十数名の信徒が参列してくださったことが要因の一つのようだ。今回も昨年にならい、長崎・西海市にある生長の家総本山で同時に行われた2つの行事(『みくにきよめの舞』奉納、聖魂奉安の儀)が中継され、映像と音声が全国の本部直轄練成道場に送られた。
 
 私は「年頭の言葉」として概略、次のような話をした:

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 皆さん、新年おめでとうございます。

 今年もこうして、元日の朝に皆さまとお会いして、新年の到来を祝い、1年の抱負を語る機会がもてることを心から感謝申し上げます。すでにご存じかと思いますが、来年からは恐らく、こういう機会は持てないのです。もちろん私は来年の新年も皆さんにご挨拶の言葉を述べるつもりでありますが、それがこの東京・原宿の会館ホールで直接、皆さんとお会いして述べる形にはならないと思います。理由は、もうご存じですね。生長の家の国際本部は本年10月から山梨県北杜市に移転するからです。あの地は標高1300メートルの高地で、1月は厳寒のただ中です。そこへ皆さんにご足労願うのは誠に申し訳ないので、私はその地からビデオメッセージを発信する予定であります。「なんだつまらない」と思う方もおられるかもしれませんが、ビデオメッセージというのは、つまらないものもありますが、事前に収録して編集を加えておくことができるというメリットがあるので、私の顔以外の映像なんかも、そこへ入れ込むことができます。何か工夫してみたいと思うので、ご期待ください。
 
 さて、そんなわけで、今年はいろいろな意味で私たちの運動は“新たな展開”を始める年です。それが“ヘビ年”であるということに、皆さんは何か思い当たることはありませんか? ヘビというのは、聖書の『創世記』では最初の女性であるイブを誘惑して、アダムとともに“知恵の木の実”を食べさせたというので、「狡猾な動物」だと思われたり、さらには一部では「悪の象徴」ということにもなっているようですが、インドでは宇宙エネルギーを表していて,ケルトの神話では「叡智の象徴」ともされているようです。日本神話ではヤマタノオロチは“悪の化身”のように描かれていますが、その一方では、ヘビは昔から水神の化身、あるいは使者として扱われるなど、善悪双方の意味を与えられてきました。西洋でも同じように、必ずしも“悪の象徴”としてだけでなく、ギリシャ神話の医神であるアスクレピオスは、ヘビがからまった杖をもっていて、このデザインがアメリカ医学協会のロゴに採用されています。これは、ヘビが何回も脱皮して若返ることから、“再生と不死身”のシンボルと考えられてきたことに由来するものです。干支(えと)の1つにヘビが当てられているのも、日本ではヘビは「必ずしも悪くない」との考えが背後にあるからでしょう。ヘビさんにとっては、人間のご都合主義に振り回されるのは、はなはだ迷惑だろうと思います。
 
 ところで生長の家では、「ヘビ」にどういう意味を与えているでしょうか? これは、谷口雅春先生の『創世記』の解釈などを読むと、ヘビは全身を地面に接触させて動くので、“物質的知恵”とか“唯物論”の象徴のように言われることもあります。しかし、実は、そうおっしゃる雅春先生はヘビ年なんでありますね。私はそれを子供の頃知って、不思議に思ったことがあります。正月のおせち料理を食べる時には、よく木のお箸を使いますが、その箸を包む紙の袋には干支を動物に当てはめた絵柄が印刷されています。子供の私はそれを興味深く見たものですが、雅春先生のお箸の袋にはヘビで描いてあって、私のお箸はウサギなんであります。で、「ウサギの自分にとってはヘビはこわいなぁ~」などと思ったものです。これは多分、幼い頃の私は、よくふざけて走り回る子だったので、時々、雅春先生に怒られた、その経験が干支の動物の関係に符合したからでしょう。いずれにしても、生長の家では神は善一元の世界を創造されていると考えますから、ヘビを“悪者”扱いにしたりなどいたしません。

 これは昨年の秋の大祭の時にも申し上げたのですが、昨年の11月22日は雅春先生の「満119歳」の誕生日でした。ということは、今年は、先生が満120歳におなりになるのですから、肉体をおもちであったならば2回目の“還暦”の年に当たります。「還暦」という考え方は、干支が一巡して「生まれ直す」という意味をもっていますから、生長の家も新たに生まれ直す時期に来ているという解釈が成り立つのであります。とにかく、ヘビはよく脱皮して新たに生まれるように、生長の家もヘビ年に大きく“脱皮”するとともに、世界の文明も唯物論から脱皮しなければなりません。
 
 ところで、脱皮してどこへ行くかということですが、1月号の『聖使命』新聞に私は書きましたが、生長の家は今こそ「大調和の神示」で説かれた教えに回帰すべきなのであります。糸が切れた凧のようにどこかへ行ってしまうのではなく、再び原点に還るのです。ポイントは、人間同士の調和はもちろん重要ですが、それだけでなく「天地一切のものとの調和」つまり、自然界のすべてのものと大調和するのが私たちの運動の目的であるということです。この神示は、生長の家の神示の中でも最も重要とされ、聖経の冒頭に掲げられているだけでなく、『生命の實相』全集の冒頭を飾り、さらに「生長の家教規」では、生長の家の「教義」として単独で掲げられているものです。また、『真理の吟唱』の中には、この神示の意味を解説した「新生を感謝する祈り」という祈りもあります。この祈りは、新年の、とりわけ元旦に相応しい祈りなので、今日はそれを紹介したいのであります。多くの方は、すでに『真理の吟唱』をお持ちでしょうから、今日は「紹介する」のではなく、「確認する」と言った方がいいかもしれません。思い出す気持で聞いてください。本のいちばん最初にある祈りの言葉です:
 
「新生を感謝する祈り--

 われらここに新しき日を迎る。感謝すべきかな。われ神に感謝し奉り、さらに天地一切のものに感謝し奉る。覚めている間も、眠っている間も、一分一秒といえども、神の護りなくしては私たちは生きていられなかったはずである。日光は、空気は、水は、食物は、すべて神より来り、私たちを養い給うたのであり、これからも常に養い給うのである。新しき年を迎うるにあたり、過去の御護りに感謝し奉るとともに、今後もまた神の御護りの篤からんことを希い奉り、神の御恩に報い奉らんがために、神から与えられたる使命に誠心をつくして邁進せんことを誓い奉る。
 神はすべてのすべてであり給う。天地一切のものは、神の愛と智慧と生命との顕現であり、私たち人間も神の愛と智慧と生命の顕現であるから、天地一切のものと、私たち人間とは、同根であり、兄弟姉妹であるのである。それゆえに、天地間の一切のもの悉くみな私たちの味方であって、私たちを害する者など何一つないのが実相であるのである。
 もし私たちが何者かに害されたり傷ついたりすることがあるならば、天地一切と同根であり一切の存在と兄弟姉妹である自分の実相をわすれて、天地一切のものと自分の心とが不調和になったことの反映であるから、神は“省みて和解せよ”と教えられているのである。
 神はすべてのすべてであり給い、一切処に遍在し給うのである。神は無限にして神聖、常に永遠に、そして今ここに、私を取り巻き、私の周囲に、上にも下にも、左にも右にも、前にもうしろにも、天地、上下、四方、四維、神の在さざる処は無いのである。(…後略…)」
  
 繰り返しになりますが、「天地一切のもの」とは人間を含むとともに、それを取り囲む自然界すべてのもののことです。もちろんヘビも含まれます。人間の独善的なご都合主義を振り回さないで、自然と人間との調和を真剣に進めていこうというのが、私たちの“自然と共に伸びる”運動です。皆さまには、ぜひ本年も絶大なるご支援をご鞭撻をお願いいたします。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

 谷口 雅宣

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