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2012年12月

2012年12月27日 (木)

運動の変化について (6)

 しかし、谷口雅春先生は、龍宮住吉本宮における「鎮護国家」の意味を、日本国の安泰や日本国内の安寧だけに限定されてはいなかった。それよりもむしろ、「日本を通して世界平和を実現する」という強いご誓願を込められていたのである。そのことは、同本宮の落慶大祭のとき先生が唱えられた「鎮座降神詞」の中に明確に表現されている。同本宮の御神体は「護国の神剣」であるが、この「護国」とは、日本国家を外敵や外国思想から護るという意味では必ずしもないことが、祝詞の次の文章を読めば分かるだろう--

「掛けまくも綾に畏(かしこ)き住吉大神、龍宮実相世界の天津御座(あまつみくら)より、此の瑞(みず)の御殿(みあらか)龍宮住吉本宮の御神座に奉安し奉る。
 ここに“護国の神剣”に、大神の尊き神霊(みたま)を天降し給ひて鎮座(しづまりま)してこの神剣を世界平和の核として、この神剣より世界全部に輝くところの平和の霊光を発し給ひて、まことに地上に天国を創造(つくり)給へと請ひ祈(の)み奉らくと白(まを)す。(後略)」(『生長の家』誌、昭和54年2月号、p.33)

 この祝詞の文章には、左翼思想を表す「赤き龍」とか「唯物思想」などの言葉がないどころか、「日本国」や「わが国」など、日本を表す言葉も一切含まれていない。そのうえ、「護国の神剣は世界平和の核」であるとの明確なメッセージで統一されている。同じ祝詞の後半の文章には、次のような箇所もある--
 
「今ぞ護国の神剣に天降(あも)りましたる住吉大神の神霊(みたま)より平和の霊光世界全部に広がりまして、洵(まこと)に地上に天国は創造せらる。明日より、凡(すべ)てのことは浄まりまして、世界は別の姿を現すのであります。有難うございます。有難うございます。」(同誌、同頁)

 このことは、生長の家が生政連運動を推進していた頃の谷口雅春先生のご文章を記憶している人々には、恐らく意外に感じられることだろう。しかし、「鎮座降神詞」に込められた最大の願いは「世界平和」だったということは知っておくべきことである。この大目的のために、目の前で世界の秩序を破壊しようとしている“赤き龍”や“唯物思想”を排除しなければならないと考えられたのである。“赤き龍”や“唯物思想”の排除は「手段」であるということだ。そのことは、この祝詞の後に唱えられた「龍宮住吉本宮鎮座祭祝詞」の中に明確に書かれている。その一部を引用しよう--
 
「…(前略)…大神の使徒(まめびと)らをはじめ、関係(かかは)れる諸人等(もろびとたち)、賓客等(まれびとたち)、多(さわ)に打ち集いて、乞ひ祈(の)みまつらくは、いまだ人類の状(さま)は、足に藻がからむ如く、唯物思想にとらはれて、罪業の意識も浅からず、物質の法則の鉄壁に囲まれて、自己処罰の潜在意識昂まりて、利己主義、反抗心の衝突は個人から国家の次元に至るまで、重く著く、弥(いや)益々に自由を失なひゆくばかりにて、世界至るところで肩摩穀撃(けんまこくげき)衝突の惨事を繰り返す状なれば、…(中略)…この危険なる唯物論的世界観、人生観を、朝日の前の霜露の如くに、大神の光のコトバの力にて、禊ぎ払ひ除き給へと希ひ奉り、わが使徒ら念力を籠め、顕斎(うつしいはひ)につとめ、実相の御心に成る大調和の世界を現実界に持ち来さんことを期し、大神の御出御、御導きを管(ひたす)ら請ひ祈(の)み奉らくと白す。」(同誌、p.35)

 また、先生が日本国憲法によって天皇が「象徴」という地位に置かれたことを憂えられ、それによって日本のみならず世界が“天之岩戸隠れ”の状態になっていると考えられ、大日本帝国憲法の復元改正を望まれていたことも事実である。そうすることが日本国の実相顕現につながるとのお考えも、この祝詞の中には表れている--
 
「つひに天皇は、豊葦原の瑞穂の国治(しろ)しめす御使命の御座より単なる“象徴”といふ空座に移され給ひ、恰も天之岩戸隠れを再現せるが如き暗澹たる国情に陥りて、その隙に乗じて“赤き龍”の輩(やから)、日本国の四方に回りて爆弾騒ぎなどさまざまの策動をなし、革命の焔、いつ燃えあがるとも計り知れざる実情とはなりぬ。
 このとき、住吉大神を、かく実相世界の秩序に基いて顕斎し奉(たてまつ)る所以は、大神の本来の国家鎮護皇国護持の御使命を完全に発動され給はんことを希ひ、日本国土より、すべての妖雲暗雲を悉く祓ひ清め、天照大御神の御稜威(みいつ)六合に照り徹りて、神武天皇建国の御理想は実現せられ、八紘は一宇となり、万国の民悉くその御徳を中心に仰ぎ奉りて中心帰一、万物調和、永久平和の世界を実現せんことを期し奉るがためなり。」(p.36)
 
 このような谷口雅春先生の熱き願いによって地上に建設された龍宮住吉本宮であったが、落慶から11年たって冷戦は終結し、“赤き龍”からの脅威は事実上消滅した。しかし、もう一方の問題である「唯物思想」に関しては、それから23年たった今日でも落慶当時から状況はあまり変わらないか、さらに悪化しているように見えるのである。つまり、物質的豊かさの追求が人生の目的であり、物質が人間の幸福を生み出すとの考え方は、日本を含めた“西側諸国”においてはいまだ趨勢を占めている。その中で、“赤き龍”の後継国であるロシアや中国にあっては、この考え方は、当時よりむしろ拡大していると感じられる。加えて、中南米、中東、東南アジア諸国では、経済発展があたかも“最高の善”であるかのような声が高まっている。そして、これらすべての動きの総合的な効果として、地球温暖化と気候変動が進行しているのである。
 
 だから、“赤き龍”が排除された今日、生長の家が総本山の祭祀の重点を「鎮護国家」から「世界平和」に移し、この地を“自然と共に伸びる”ための生き方を研鑽する道場として改めて位置づけることは、雅春先生が念願された“唯物思想の排除”による人類光明化を、21世紀の文脈の中で遂行するための有効で、有力な方法であると言えるのである。ただし、今の時代に私たちが問題にする「唯物思想」とは、当時のように“左側”に限定されてはいないし、むしろ“西側”に顕著に現れている。つまり、私たちの生活の中にごく普通に見出されるものである。例えば、有名ブランドへの偏愛や肉食を含む“飽食”の現象の中にそれがある。また、食品のムダなどの過剰な消費生活がそれであり、労働者の福祉を度外視したような生産形態や、環境破壊を省みない過度な効率優先の生き方の中にもそれがある。私たちは、そのような現象が「日時計主義」をひろめ、それを多くの人々が実践することによって是正されていくと考える。
 
 ところで、生長の家の一部の講師の中には、龍宮住吉本宮の落慶と冷戦の終結の間に因果関係を読み取ろうとする人もいるらしい。が、すでに述べたように、前者は1978年で、後者はその約10年後である。落慶後には、残念ながら“新冷戦”と呼ばれる対立の時代が再び始まったのである。そして、冷戦終結の大きな原因はイスラーム勢力と民族主義の台頭とソ連の弱体化である。

 谷口 雅宣
 

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2012年12月23日 (日)

運動の変化について (5)

 本シリーズの前回までの世界情勢の分析と理解を前提とすれば、生長の家の国際本部が最近決定した「運動の変化」についての3つの方策が合理的だということが分かるだろう。それらを列挙すれば:
 
 ①生長の家総本山の祭祀の重点を「鎮護国家」から「世界平和」へ移す。
 ②運動年度を国際的に統一し、“森の中のオフィス”の中・長期的ヴィジョンにあわせて新しい行事を導入し、従来の行事を整理する。
 ③世界平和実現に必要な「万教帰一」の象徴として、神像を国際本部に移設する。

 である。
 
 谷口雅春先生ご夫妻が東京から長崎へ移住されたのは昭和50年(1975年)1月13日で、その後、ご昇天まで約10年間を先生は長崎・西彼町で過ごされた。その間、同53年(1978年)11月21日に龍宮住吉本宮の鎮護国家出龍宮顕斎殿が落慶し、この時、生長の家九州別格本山は「生長の家総本山」に改称された。そして、同56年11月には同霊宮が落慶するとともに、生長の家温故資料館も完成した。さらに、翌年9月には「七つの燈台」が完成した。

 先生ご夫妻が長崎に移住された頃は、東西冷戦は“デタントの時代”(1969~1979年)から“新冷戦”(1979~1985年)に向かっていた。ベトナム戦争(1965~1973年)は終っていたものの、1979年のソ連によるアフガニスタン侵攻によって東西関係は再び悪化し、1980年にモスクワで行われたオリンピックを西側諸国はボイコットした。これに対して東側は、4年後のロサンゼルス・オリンピックをボイコットした。しかし、この頃から、東西の2陣営に対して、“第3の勢力”が国際政治に影響力を及ぼし始めるのである。それは「イスラーム原理主義」である。アフガニスタンでは、ソ連軍の強大な兵力によっても、アメリカの援助を受けた「ムジャヒディーン」の抵抗運動は長期にわたって継続し、これがソ連の財政状況を悪化させて、間接的に冷戦の終結とソ連の崩壊に結びついた。また、1979年に起こったイラン革命では、アメリカ大使館が1年以上も占拠され、大使館員救出のための米軍の介入も失敗した。イラン革命の1年後、米ソに支援されたイラクがイランと衝突するイラン・イラク戦争が勃発。1987年には、これに米軍が介入したが結局、勝敗は決まらなかった。

 冷戦の終結は1989年である。この年、ソ連は泥沼のアフガンから完全撤退し、世界での影響力が急速に衰えていく。ポーランドではポーランド統一労働者党が失脚して政権が交代し、ハンガリー、チェコスロバキアでも共産党体制が崩れ、夏には大量の東ドイツ国民が西ドイツへ脱出した。これが、11月9日の“ベルリンの壁崩壊”につながるのである。また、ルーマニアでも革命が勃発し、ニコラエ・チャウシェスク大統領夫妻は射殺された。そして1989年12月には、地中海のマルタ島で、ソ連のゴルバチョフ書記長とアメリカのジョージ・H・W・ブッシュ大統領が会談し、冷戦の終結が宣言された。

 本シリーズの中ですでに述べたことだが、生長の家が政治団体まで結成して“反左翼”の運動を大々的に展開した最大の理由は、冷戦の影響による国内の“東西対立”--共産主義・社会主義陣営と自由主義陣営の対立--により、日本社会が騒然となり、治安状態も悪化して、一時は“暴力革命前夜”のような様相を呈したからである。このような社会状況の原因を、谷口雅春先生は戦後、アメリカによって押しつけられた“占領憲法”にあると考えられた。先生は、日本国憲法が規定する「国民主権」や「戦争放棄」を温存したままでは、“肉体民主主義”が跋扈し、日本国家は東側陣営の内外からの攻撃に耐えられないと危惧されたのである。だから、その憲法を日本の首相が「無効」と宣言し、明治憲法を一旦復元することによって「天皇主権」を回復し、国防と治安を強化することで“赤色革命”の危機から脱しようとされたのである。この危機感のゆえに、「鎮護国家」という言葉が採用されたと思われる。

 そもそもこの言葉は、仏教経典である『金光明経』(こんこうみょうきょう)に由来する。その意味は、「天変地異や内乱、外敵の侵入にあたって、仏教経典を講読祈願したり、真言密教による秘法を行って国家を守護することをいい、広く仏法によって国家を護る」(平凡社『世界大百科事典』)ことである。仏教が中国に伝わり、教団勢力が大きくなると、国家がこれを保護・統制し、利用することになる。特に南朝末の陳の文帝は、『金光明経』四天王品にもとづく鎮護国家思想を表明した。また、隋・唐時代には、大興国寺、大安国寺、鎮国寺などの名称で寺院が建立されたことは、仏教と国家との密接な関係を示している。日本では東大・西大二寺、延暦寺や東・西寺が同様の考えのもとに建てられ、永平寺や安国寺も鎮護国家の思想から建立された。生長の家は、この仏教思想を神道形式の龍宮住吉本宮に導入したという点で、万教帰一の本領を発揮したと言える。

 しかし、すでに見てきたように、“左翼思想”や社会・共産主義国家(左側の唯物論)から日本の国を護るという意味では、冷戦の終結によって脅威が薄れたことは否めない。では、それ以外の何からの鎮護国家であるかと考えれば、それは“占領憲法”を押しつけた“西側の唯物論”からの安国であり、鎮国であったと思われる。しかし、これも自民党が日米安保条約を堅持する方針を貫いていたため、生政連活動を通して自民党を支持してきた生長の家は、日本国憲法を“諸悪の根源”と呼びながらも、“西側の唯物論”(アメリカ)を敵視し、さらには排除することが徹底しなかった。(それは逆に“左翼”が行っていた。)生長の家はもともと「大調和」の教えだから、本当の意味ではその必要はなかったのだが、その代わり「鎮護国家」の意味合いは具体性を失い、しだいに抽象化していったのである。
 
 だから今回、生長の家総本山の祭祀の重点を「鎮護国家」から「世界平和」へ移すとの決定が行われたことは、冷戦終了後20年以上たった時代の変化を思えば、遅きに失したとも言えるのである。
 
 谷口 雅宣

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2012年12月17日 (月)

運動の変化について (4)

 さて、本シリーズの(2)で描いた「人類の環境破壊」と、(3)で取り上げた“冷戦”とは、大戦後の世界を“車の両輪”のように手をつないで進んだと言える。人間が自然界を道具とし、自然界から奪うことによって幸福が訪れるという物質主義的幸福論が、米ソ両超大国の行動原理であった。それと共に、イデオロギーの異なる者同士の共存は不可能だとの共通認識があった。この2つの考え方から、「地球」という一定の“パイ”を目の前にして、そのどれだけ大きな部分を自国の勢力範囲におさめるかの争いが起こった。ところが、前にも書いたように、大戦後まもなく核兵器という“究極の兵器”が開発されてしまったため、一時代前ならば戦争によって決着がついたこの種の争いが、そうできない時代に入っていた。そこで米ソが何に訴えたかというと、それは武力を用いない“総力戦”だった。すなわち、両超大国は政治力、経済力、技術力、情報力、学問、文化、スポーツ……などすべての面で相手を圧倒することで、自国の安全を保障しようとした。これが“冷戦”である。そんな目的が何にもまして優先されれば、当然のこととして、自然界はそのための道具と化してしまう。こうして公害問題は深刻化し、水力、火力、原子力の発電所は増設され、そこでの事故も起こった。
 
 ところが、1989年の“ベルリンの壁の崩壊”をきっかけとして、この世界的枠組みである“冷戦構造”は崩壊していくのである。思想や経済の統制によって相手を圧倒しようとしていた社会主義・共産主義のイデオロギーは敗北し、思想・経済の自由を重んじた自由主義・民主主義の考え方が世界の“共通通貨”になっていった。だから、各国において、“仮想敵国”をつくって相手を力で凌駕することに専念する必要は薄れていった。すると、それまでは“冷戦”という大きな争いのために抑圧されてきた、様々な小さな争い--その多くは、古い植民地主義の遺産が背景にある--が表面化することになる。それらは民族対立であり、宗教対立であった。こうして湾岸戦争(1990~1991年)が起こり、ユーゴスラビア紛争(1991~2000年)が戦われ、イラク戦争(2003~2010年)が行われた。また、これに絡んで、稀少資源の獲得競争も激しさを増していったのである。
 
 日本国内に目を向けると、しかし従来と同様の左右の政治的対立が依然として続いていた。“左翼”の親玉であるソ連が崩壊し、中国も資本主義を受け入れているにもかかわらず、共産主義や社会主義から派生した政治勢力は日本の国会に一定数の議席を占めていた。しかし、もはや“左側の唯物論”からの脅威が消失したことは明らかだった。その代わり、“右側の唯物論”が世界を席捲しはじめたのである。“右側の唯物論”とは、多国籍企業の発展や金融・資本のグローバル化の背後にある1つの考え方を指している。私はここで、すべての多国籍企業、すべての国際金融機関が唯物論に根差していると言っているのではない。が、これらの企業・機関の行動原理が利潤の追求であり、時にそれしか考慮されないかぎりにおいて、企業活動の倫理や、労働者の人権への配慮がないがしろにされる事例(例えば、ナイキの工場での若年労働者雇用)が数多く指摘されてきたし、現在も指摘されている(例えば、アップル社の製品を作る中国人労働者の待遇等)。また、自然破壊や温室効果ガスの排出などの環境倫理については、ほとんどの企業はイメージ戦略の一部として捉えるのみで、自らの利潤追求の目的を優先させているのが現状である。

 こういう中で起こっているのが、当初の予想を上回る速度で進んでいる地球温暖化と気候変動である。技術革新にともなうグローバリゼーションの進行は、地球上の距離と時間を事実上減らす方向に進んでいるから、経済の分野では、先進国の産業の重要な一部が人件費や土地の安い途上国へ移行する動きを生み出している。いわゆる経済の“空洞化”である。これによって、途上国の経済が発展し、国民の生活レベルが向上するという“光明面”は確かにある。しかし、エネルギー消費に注目すれば、先進国から途上国へと工場が移転しただけでなく、途上国での人々の生活レベルの向上によってエネルギー消費も増加するから、地球全体では技術革新が温暖化を促進する結果となっていると思われる。また、製造業の多くが海外へ流出しつつある先進諸国では、スキルを持たない労働者が大量に失業する現象が起きており、スキルのある労働者との“格差問題”が深刻化している。そんな中で“人口の高齢化”と“地方の過疎化”が進む社会状況は、道路や橋などのインフラ整備で問題が簡単に解決するとは思えない。
 
 世界人口が70億を超えた中で、人々の経済レベルが全体として向上し、資源・エネルギーの消費が増大して自然界の安定性を破壊しつつある時、問題の解決を従来同様の“公共投資”や“経済発展”で切り抜けることはできない。それは、かえって地球温暖化と気候変動の“火”に油を注ぐことになる。自然界を犠牲にして、人間だけが発展したり、幸福になることはできない。このことが実感として理解できる人間がいるあいだは、人類の自然破壊にはまだブレーキがかかるだろう。しかし、世界人口の半分が都市に住むようになった今から後は、子供の頃に自然の中で遊んだ記憶をもつ人々が急速に減っていくだろう。幼い頃、自然との切実な触れ合いを経験しない人間は、自然の破壊や自然からの略奪に心の痛みを感じない。それでいて、都会では孤立し、他を傷つけて自分も傷つき、アトピーを発症し、精神の安定を得ることができない。すべてを「買う」ことによってしか得られない人たちは、鉛筆を削れず、リンゴの皮をむけず、動植物の名前を知らず、ロープを結べず、ノコギリを使えない。そういう人間が増えることを“経済発展”といい“幸福の増進”と考えるのは、どうかしているのである。

 私たちは今、人間が自然から奪うことによって幸福が訪れると考える物質主義的幸福論に別れを告げなければならない。「奪うものは奪われる」という心の法則によって、人類が自然災害の犠牲になるケースが増えていることに気づかねばならない。ゲリラ豪雨や山地の深層崩壊、竜巻の襲来、そして東日本大震災を経験してもなお、「自然を征服することで人間は幸福になる」との夢を見続ける生活から脱し、自然との一体感を快復し、「自然との大調和の中にこそ幸福がある」とのメッセージを伝える時機に来ているのである。それは古いながらも、人類に“光明”を与える福音であり、エネルギーや資源の奪い合いから人類を引き戻す“平和”の運動である。このようにして、私たちの運動は、対象や方法は変化しても、「人類光明化」と「大調和の実現」という方向は揺るぎないのである。
 
 谷口 雅宣

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2012年12月12日 (水)

運動の変化について (3)

 さて、本シリーズの前回までに、私は戦後半世紀余の人類の動向を大ざっぱに描いたが、この大きな潮流の中で生長の家の運動はどんな役割を果たしてきただろうか? 私たちは、戦後まもなく始まった“冷戦”というイデオロギー対立の時代には、明確に自由主義陣営の側に立った。それは、生長の家が元来「自由」を重んじる宗教であるから、当然といえば当然である。しかし、自由主義陣営を率いるアメリカは、同時に、「自由貿易」の旗印のもとに物質主義的な経済発展を推進する国でもあった。同国は多様で有能な人的資源に恵まれ、広大で肥沃な国土をもち、資源も豊富で、“超大国”の一翼を担う強大な軍事力を擁していたから、敗戦国・日本は、同国のほぼ言いなりになる“親米路線”を外交政策の基本としてきた。それは、具体的には、日本国内にアメリカの軍事基地を受け入れ、コストの多くを負担して“不沈空母”となるだけでなく、国際政治の舞台ではアメリカの政策を支援することであり、日本の技術や経済力をアメリカに提供することだった。もちろん、その代わりに日本が得たものは、日米安保条約による国の安全である。また、市民レベルでは両国間の理解と交流はかなり進展した。

 この両国関係は長年継続したから、それを採用し続けた自民党は長期政権を維持することができた。しかし、その反面、ベトナムなどでのアメリカの戦争に対して基地を提供し、それにまつわる様々なコストを負担することと、それら戦争の正当性との矛盾が拡大してくると、日本国内には“反米”の形でナショナリズムが噴出することになった。これが、戦後日本特有のナショナリズムの“ねじれ現象”である。奇妙なことだが、他国においては国家の枠組みを超える思想を標榜してきた“左翼”勢力が、公害問題や米軍基地反対運動などを通して、わが国ではナショナリズムの受け皿となってきたのだ。もちろん、いわゆる“右翼”勢力がナショナリズムを表明しなかったわけではない。しかし、右翼のナショナリズムは「“親米路線”を妨げない」という条件によって制約されていた。言い換えると、良好な日米関係にとって有害なナショナリズムは、政権与党によって抑圧されてきたのである。自民党が、「自主憲法制定」を党是としながらも、政権党であるあいだは改憲に真面目に取り組もうとしなかったのは、このことを有力に証明している。

 こういう状況の中で、生長の家創始者の谷口雅春先生は、「大日本帝国憲法復元改正」という改憲論を唱えられた。右翼のナショナリズムとしては、類例のないドラスチックな方策である。自民党が考えていた“自主憲法”は、基本的には現行憲法の改正条項に従って、その精神を尊重したままの条文改正であるが、雅春先生はあくまでも「明治憲法復元論」を正当とされた。その理由は、現行の日本国憲法がアメリカ占領下に“押しつけられた”ものであり、日本国民の自主性が反映されていないからである。だから、アメリカの関与がなく、日本人だけで起草され、決定され、敗戦時まで施行されていた大日本帝国憲法を一旦復活させ、それの条文改正によって、本当の意味での“自主憲法”が生まれると考えられた。ただし、明治憲法のどの条文をどう改正して、戦後日本の自主憲法とすべきかということについて、雅春先生はあまり語っておられない。これに関して特に重要なのは、明治憲法が軍の統帥権を政府と切り離して天皇に直属させていた点であり、これが軍の暴走を政治家が食い止められなかった大きな原因の1つであるという歴史的な評価を、先生がどう捉えておられたかは不明である。
 
 とにかく、生長の家はこうして「大日本帝国憲法復元改正」を最終的な目標として、生長の家政治連合(生政連)を結成(昭和39年)し、政治活動を展開した。しかし、これはどこかにも書いたことだが、この運動は生長の家の代表を政治の舞台に送り出すのが目的だから、日本のどこかで選挙があるたびに、信徒が政治運動に駆り出され、信仰を伝えるのではなく、政治目標を説いて回ることになる。そのためには新たな資金も人材も時間も必要となり、宗教活動はしだいに政治活動に従属していったのである。そして、国会において生長の家が進めていた優生保護法改正がかなわず、加えて参院選でも生長の家代表候補が落選したことを受けて、昭和58年7月、生政連の活動は停止され、「今後は教勢拡大にむけて全力をそそぐこと」が決定された。もう30年近くも前のことであるが、私たちの運動史の中のこの“政治の季節”に体験した高揚感などが忘れられず、その頃の運動に帰りたいと思う人々が、今の運動を批判するグループの中には多いのである。

 さて、約20年におよぶこの“政治の季節”であるが、その中で私たちが行ったことはムダだったのか? 私は決してそう思わない。この頃は、いわゆる“60年安保”から“70年安保”に至る政治混乱の時代だが、東西の“冷戦”を背景として、日本国内は政治的に真っ二つに割れていた。そして、政治的な国民組織としては、“西側”(政権党側=親米派)は劣勢に立たされることもあったのである。今では想像も難しいが、火焔ビンと鉄パイプで武装した学生たちと警察の機動隊とが街頭で衝突し、死者が多数出るような事態に至っていた。有名大学はほとんど左翼の学生によって封鎖され、学問は不能となり、歩道の敷石は学生達の投石用にはがされていた。そんな中で、“暴力学生”の誤りを正面から批判し、国としてどう対応すべきかの方策を理論的に説かれたのが、谷口雅春先生だった。また、日本の文化・伝統が西洋に比べて決して劣るものではなく、むしろ優れた点を多くもつことを説かれ、“右側”の人々に自信と勇気を与えられたのも、雅春先生だった。その意味では、生政連や当時の政治運動は臨機の対応としては必要だったのである。

 が、宗教本来の目的である「真理の宣布」が阻害されるような政治活動は、改めなければならない。また、“東西冷戦”の終結に伴い、世界の大きな枠組みが変われば、宗教運動も当然、変わるべきところは変わらなくてはならない。こうして、生長の家の運動も、政治的変化を目的とした「政治」色の強いものから、「信仰」の大切さを強調する信仰運動へと徐々に変化していったのである。ひと言でいえば、これが谷口清超先生が生長の家総裁として実行された“運動の変化”の1つの大きな流れである。清超先生は、そういう変化が必要であることを副総裁のときから明確に自覚されていて、昭和60年11月22日の生長の家総裁法燈継承の記念式典において、「自分は雅春先生の教えの一言一句を繰り返して説くことはしない」と明言された。私はこれまでも、このことには何回も触れてきたが、重要なことなので清超先生のお言葉を、再びここに引用する--
 
「世の中には“継承”ということを何か誤解している方もいらっしゃいまして、谷口雅春先生のお説きになった一言一句をその通りまたくり返しお伝えするのであろう、かの如く思われる方もおられるかもしれませんが、実はそういうものではないのであります。つまり、教えの神髄の不立文字をお伝え頂き、それを継承するということでありまして、(…中略…)真理というのは、その時その時に応じて色々な相(すがた)をもって展開されねばならない。そこがイデオロギーや運動方針とは違います。イデオロギーならば色々と文字に書きあらわすこともできるかもしれないが、それは“真理そのもの”とは違うのです。そこの所をよく諒解していただかないと、過去の歴史を繰り返せよということを、相承と思い違えたりする。この点は皆さんにも充分ご理解いただく必要がある。そしてこれからの運動はやはり中心帰一の原理を説く生長の家の運動でありますから、中心帰一を守りつつ大いに大々的に展開していきたいと念願している次第であります」。(『新編 聖光録』、pp.296-298)

 谷口 雅宣

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2012年12月10日 (月)

二大政党制を育てるために

 私は、今回の総選挙は日本の将来にとって特に重要だと感じるので、あえてこの一文を書くことにした。生長の家は政治運動をやめて久しいが、それは政治に関心をもつなという意味ではなく、宗教と政治が深く関わることで、宗教のもつ信仰の純粋性が犠牲になった過去の教訓から学んだのである。「朱に染まれば紅くなる」という言葉があるが、宗教が政治目標を掲げて運動することは、宗教本来の目標を忘却させ、政治の汚濁に染まる危険を常に孕んでいる。しかし、宗教が団体として、本質的に利害調整の手段である政治的取引に自ら関与しつつ、政治目的を達成しようとすることと、宗教的価値を重んじる信仰者が、個人としてその価値を社会に表現しようとすることとは、別のことである。生長の家は、前者をすることをやめたのであり、後者を行うことは、自己の内なる神性の表現であるから、愛行の実践や肉食の削減と同様に自然な行為であり、それをしない方が真の信仰者として疑わしいと言える。

 そういう理由で、生政連(生長の家政治連合)の活動停止以後、生長の家は教団として信徒の投票行動に制限を加えたことはなかったし、今後もそれをすることはないだろう。また、私が本欄などで、日本や世界の政治情勢の変化の節目節目で発言してきたのは、複雑で分かりにくい政治現象を前にして、生長の家が擁護し推進する価値を明確にし、信徒が個人として信仰者の選択を行うさいの参考に供するためである。今回も、同じ目的で本文を書いている。

 民主主義は忍耐を要する政治制度である。それは、基本的に“話し合い”を唯一の手段として利害調整を図るからだ。民主主義の中でも、国民が間接的にしか政治過程に参加できない議会制民主主義は、さらに忍耐を要する。なぜならこの制度では、国民は自分の意思を直接政治に反映するのではなく、議員をとおして間接的に表現するからだ。この時重要なのは、自分の意思を表現してくれる“相手”を正しく選ぶことだ。そのためには、選ぶ側と選ばれる側の間に信頼関係があるかどうかが重要になる。また、選ばれる側が選ぶ側の意思をきちんと把握していなければならない。把握していながら、その意思に反することを行えば、信頼関係は崩れる。だから、民主党が3年間で選挙公約のすべてを守るにいたらず、国民の信頼に応えられなかったという理由で、今回の選挙の公示時点で大幅な支持率低下を招いたことは、当然と言えば当然である。

 しかし、自民党の長期支配の後に現れた初めての国政担当者が、3年という短期間ですべての公約を達成することを期待するのも、期待過多ではないだろうか? しかも、この3年の間に、私たちは東日本大震災と原発事故という未曾有の事象を経験したのである。これらの災害と事故の原因は民主党にはない。また、私たちは衆議院では民主党に多数を与えたが、参議院ではそれを許さなかった。その決断自体は賢明な判断だと私は思う。が、この“ネジレ国会”のおかげで国政が停滞した責任の全部を政権与党に帰するのは、不合理である。その一端は野党にもあるし、国民にもある。
 
 これと似た現象は、隣国のアメリカにもあった。建国以来、白人系の大統領しか選ばれなった彼の国で、史上初の黒人系大統領が生まれた。それは、近年増加が著しい非白人系のアメリカ国民の大きな期待があったからだ。オバマ氏は「あれもする、これもする、我々にはできる (We can do it!)」を繰り返して当選した。だから、それらの公約を4年たっても守れないことに業を煮やした国民は多数いたのである。にもかかわらず、アメリカ国民はオバマ氏を見捨てなかった。

 その理由はいくつもあるだろうが、その一つは、政権交代後の新政権の仕事の半分は、前政権の失敗の後始末であることを知っているからだろう。つまり、中東地域でのアメリカの地位低下は、オバマ氏の責任ではなく、前政権の失敗の結果であることを理解していた。また、何年もの戦費拡大が縮小へと転ずれば、軍需産業の雇用が縮小することは当然だし、戦争遂行中は民生用の産業の発展は犠牲になるから、その間にそういう産業の一部は中国やインドに拠点を移すことにもなる。だから、アメリカの失業率の増大は、オバマ氏の率いる民主党のみに責任があるのではない。また、アメリカでも連邦議会で“ネジレ現象”があったから、民主党の政策を実現するための法案の多くは、野党である共和党の反対に合って成立せず、結果的に公約を守らないことになった。だから、今回の“オバマ再選”は、オバマ氏の第一期の施政を国民が評価した結果ではなく、「あなたが公約を実行するか否かは、2期目のこれからが正念場だ」という国民の冷静かつ、厳しい目が背後にある、と私は考えている。
 
 私は、このような“冷静な目”を国民がもつためには、長年の学習が必要だと考える。が、それがない限り、民主主義は常に衆愚政治に堕する危険を内包しているのである。アメリカで可能なことは、原理的には日本でも可能なはずだが、この点、日米間に存在する違いの大きさは無視できない。それは、アメリカでは二大政党制が伝統であるのに対し、わが国は戦後、長期にわたって自民党の単独政権が原則だったからだ。端的に言えば、日本には、いわゆる「責任野党」が育っていないのである。「責任野党」とは、いつ政権を交代しても大過なく国政を遂行できる実力をもった野党である。これを育てなかった責任の一端は、われわれ国民にもある。一般的に政治に無関心で、「経済さえよければ誰が政治をしても構わない」という態度が長く続いた。そして、3年前に初めて政権交代があった。
 
 私は、民主党政治の3年間が成功だったなどと言うつもりはない。失敗も数多くあり、私が口を酸っぱくして説いてきた温暖化対策もほとんど実のある結果を出していないし、第一、京都議定書から事実上脱退してしまった。また、外交面でも実にフラフラしている。しかし、自民党の戦後政策に対する“対立軸”を打ち出そうとしてきたことは事実であり、その一部は生まれつつある。それは例えば、行政のムダと、業界との癒着の削減であり、大企業中心の軸足を中小企業寄りに移す努力であり、中央集権から地方分権へ重点の移動である。もちろん、これらはまだ中途半端だし、民主党の議員によっては、個別的にはこれらに反対する者もいる。しかし、私が強調したいのは「対立軸を形成させる」ための政党が必要だということだ。言い直すと、いろいろな意味で自民党が行き過ぎた場合、それを修正する責任政党を国民が選ぶことができる状態が、日本の政治には必要だと私は考える。
 
 多くの日本人は、恐らく「政党より政治家を選ぶ」のが民主主義だと考えるだろう。しかし、私はそれも一応民主主義には違いないが、人気投票に堕す恐れがあり、衆愚政治にかなり近いと考える。政治を人気投票だと考えるような国民が多い国は、まだ幼い民主国である。ご存じのように、多くの政治家は票を得るためには、人気が出そうなことを何でも言う。夢のあること、美しいこと、耳に快いこと、情緒をかきたてること……を恥ずかしげもなく連呼する。私はそれを聞くたびに、日本国民として悲しい。私たち国民は、政治家からそれほどバカにされているのか、と悔しく思う。なぜなら、そういう候補者は、美辞麗句を並べたてることで自分が当選すると考えているからだ。つまり、彼らは国民を「衆愚」だと思っているのだ。そんなことより、きちんとした「政策」を述べるべきだ。それも、「雇用を増やす」とか「経済を優先する」などという抽象的な言い方ではなく、それを実行するための財源はどうするのか、環境破壊をどう防ぐのか、高齢者をどう処遇するのか、女性の活用をどうするのか……等をきちんと整理して、一貫性のある政策として発表すべきだ。

 今回の選挙の重要な争点は、明らかに「エネルギー政策」である。しかし、自民党以外は“原発ゼロ”を掲げているというのは、驚くべきことだ。何を驚くかと言えば、多くの政党は“原発ゼロ”の旗印を政策としてではなく、標語として、あるいはイメージ戦略として使っていると考えざるを得ないからである。理由は、ほとんどの新政党は“原発ゼロ”までの行程を、政策として具体的に示していないからだ。これほど重要な政策変更を“イメージ”や“ムード”で行おうとする政治家または政党を、私たちは信頼できるだろうか? 答えは「否」である。

 私はもちろん、「脱原発」を宣言した。だから、“原発ゼロ”の日本が実現することを願ってやまない。しかし、それを実際の政治で実行するためには、自民党が長年国策として進めてきた“原発増設”と密接につながった様々な政策を、すべて転換しなければならない。それに伴う利害関係の対立と錯綜を予測し、対策を講じなければならない。多くの法律を改正して、日本の政治・経済界に新しい構造を生み出さねばならないだろう。そういうことを自民党がきちんと処理し得るとは、もちろん私は思わない。しかし、公示直前に大あわてで結成された政党にそれができるとも思えない。それができるのは、やはり短いながらも実際に国政を担当して、自らの“原発増設”の誤りに気づいて政策転換を行った政党が、短期的には満足した結果を出せなくても、試行錯誤しながら営々と努力を積み重ねていくのを、国民が忍耐をもって見まもり、かつ応援していくほかないのだと思う。

 日本の政治を今、博打ゲームのようにすることは、将来において禍根を残すことになる。だから、二大政党制をこの国に根づかせるために、私は再び民主党を支持するのである。

 谷口 雅宣

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2012年12月 3日 (月)

運動の変化について (2)

 前回の本欄では私たちの運動の歩みに簡単に触れたが、今回は、さらに視野を広げて、第二次世界大戦以降の人類の歩みを大づかみに眺めてみよう。それによって、歴史上、私たちが今いる位置が鳥瞰図を見るように鮮明になってくるはずだ。この大戦が、広島、長崎への原爆投下によって終結したという事実は、きわめて象徴的だ。そこから、人間の自然破壊が本格化したからである。当時の人類にとって、自然界は、そして地球は、無限の資源とエネルギーに溢れ、どんな大規模な人間の活動によっても破壊されず、かえって人間を束縛し、人間から奪い、人間の脅威として対峙する存在だった。ところが、その状況は、戦後半世紀を迎えるころから変わってきた。“人口爆発”とも呼ばれる人類の急激な増加と、その生活と経済活動による“公害”の頻発と自然破壊、とりわけ温室効果ガスの大気圏への大量排出によって、地球環境は恒久的に変化していくことが、夥しい数の科学的研究と実証データーの蓄積によって明らかになってきたのである。今や“自然は無限”“地球は無限”という考えが誤りであることは、明確になっている。
 
 この半世紀の世界の変化を数字で見ると、どうなるか? 戦後5年たった1950年の世界の人口は、約25億3千万人だった。これは、昨年時点の人口(約70億人)の約3分の1にすぎない。つまり、世界人口は3倍に増えたのである。当然、資源やエネルギー消費は拡大した。石油の使用量は1950年が4億7千トンだったが、2006年には39億トンへと8倍強に拡大した。同じ時期、天然ガスの使用量は14.5倍、石炭は2.7倍に膨張した。そして、原子力発電所の増設による原子力発電容量は、1956年の10万kWから、2009年には実にその3700倍に当たる3億7090万kWにまで拡大している。また、地球の生物資源を人間の食糧とする量も大いに増えている。具体的には、世界の穀物生産量は、1961年から45年間で2.5倍となり、食肉生産は同じ期間に3.9倍に拡大した。水産物生産量は、1950年が1,984万トンだったのに対し、2008年はその8倍の1億5,910万トンに達した。

 ご存じのように、生物界を含めた自然界は資源循環型である。個々の生物種には、それぞれいわゆる“天敵”がいるから、ある生物種だけが繁栄して地球上を覆い尽くすことなどない。かつて大型爬虫類である恐竜が地上を覆うほど繁栄した時代にも、哺乳動物は恐竜の影で生き続けてきた。だから、恐竜の絶滅の後に、哺乳類は繁栄の時代を迎えたのだ。同じことは、生命をもたない鉱物についても言える。例えば、二酸化炭素の循環について、ワールドウォッチ研究所は次のように描く--
 
「地球の大気中の二酸化炭素は、数億年というようなスパンで考えると、地殻直下のマントル対流によって地表に供給された炭酸塩が起源となり、一方で海の中に溶けた二酸化炭素が生物の働きによって、たとえば珊瑚礁や貝殻、骨などの炭酸塩として固定され、それがプレート運動により再びマントルに戻るという循環を続けている。もし、この固定の働きとマントルに戻す力が弱ければ、大気中の二酸化炭素分圧の上昇が続き、温室効果が効きすぎて海洋は蒸発してしまったかも知れない。あるいは逆に、少しばかり強すぎた場合には、雪や氷は太陽光の反射能(アルベド)が高いので、地表面がこれらに覆われ始めると地表温度がいっそう下がり、全海洋が凍結するまで温度低下が続いていたかも知れない」。(同研究所編『地球環境データブック 2011-12』、pp.173-174)

 そういう微妙なバランスの上に生物は繁栄して生態系を築き、延々と安定を保ってきた中で、人類がある時期から、科学技術と欲望を組み合わせて“自己中心的増殖”を始めたのである。その時期は、産業革命開始のときであるかもしれないし、20世紀末の公害の時代かもしれない。生態系を破壊して自己増殖の道具とし、鉱物資源を掘り出し加熱して大量の二酸化炭素を大気中に排出し、森林を切り倒し、鉄道を敷き、自動車を走らせ、コンクリートと鉄で都市を構築していった。その勢いは、上の数字が示す通りだ。これらは皆、非循環型の資源利用だから、地球の鉱物資源は減少を続け、生物多様性はどんどん失われていったのである。こうして世界人口の半分は、今や都市生活者となった。そして、この世界的な“都市化”の大潮流は、今後も続くと予想される。

 今、日本が直面しているエネルギー利用の選択について、多くの人はこのような“文明的潮流”のことまで語らない。「環境破壊を続ける人類史」という鳥瞰図の中で、今後の人類がエネルギーをどこから得、どう使うかの議論はほとんどない。単なる原子力発電所の安全性の問題ではないのである。日本は、この大潮流の中の一部にしかすぎない。日本が自然から離れる“都市化”の道をさらに進めば、後から続く中国、インド、インドネシアなどの大人口を抱える国々も、同じ道を進むであろうことは十分に予想できる。日本の重電メーカーは今、それらの国々に原発の技術を輸出しようとしている。それによって、世界はより安全になる、と言えるだろうか? その答えは、「否」である。福島第一原発の“事故”の原因は、技術の問題ではなく、制度や人間の問題だったことを忘れてはいけない。
 
 谷口 雅宣
 

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