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2012年12月23日 (日)

運動の変化について (5)

 本シリーズの前回までの世界情勢の分析と理解を前提とすれば、生長の家の国際本部が最近決定した「運動の変化」についての3つの方策が合理的だということが分かるだろう。それらを列挙すれば:
 
 ①生長の家総本山の祭祀の重点を「鎮護国家」から「世界平和」へ移す。
 ②運動年度を国際的に統一し、“森の中のオフィス”の中・長期的ヴィジョンにあわせて新しい行事を導入し、従来の行事を整理する。
 ③世界平和実現に必要な「万教帰一」の象徴として、神像を国際本部に移設する。

 である。
 
 谷口雅春先生ご夫妻が東京から長崎へ移住されたのは昭和50年(1975年)1月13日で、その後、ご昇天まで約10年間を先生は長崎・西彼町で過ごされた。その間、同53年(1978年)11月21日に龍宮住吉本宮の鎮護国家出龍宮顕斎殿が落慶し、この時、生長の家九州別格本山は「生長の家総本山」に改称された。そして、同56年11月には同霊宮が落慶するとともに、生長の家温故資料館も完成した。さらに、翌年9月には「七つの燈台」が完成した。

 先生ご夫妻が長崎に移住された頃は、東西冷戦は“デタントの時代”(1969~1979年)から“新冷戦”(1979~1985年)に向かっていた。ベトナム戦争(1965~1973年)は終っていたものの、1979年のソ連によるアフガニスタン侵攻によって東西関係は再び悪化し、1980年にモスクワで行われたオリンピックを西側諸国はボイコットした。これに対して東側は、4年後のロサンゼルス・オリンピックをボイコットした。しかし、この頃から、東西の2陣営に対して、“第3の勢力”が国際政治に影響力を及ぼし始めるのである。それは「イスラーム原理主義」である。アフガニスタンでは、ソ連軍の強大な兵力によっても、アメリカの援助を受けた「ムジャヒディーン」の抵抗運動は長期にわたって継続し、これがソ連の財政状況を悪化させて、間接的に冷戦の終結とソ連の崩壊に結びついた。また、1979年に起こったイラン革命では、アメリカ大使館が1年以上も占拠され、大使館員救出のための米軍の介入も失敗した。イラン革命の1年後、米ソに支援されたイラクがイランと衝突するイラン・イラク戦争が勃発。1987年には、これに米軍が介入したが結局、勝敗は決まらなかった。

 冷戦の終結は1989年である。この年、ソ連は泥沼のアフガンから完全撤退し、世界での影響力が急速に衰えていく。ポーランドではポーランド統一労働者党が失脚して政権が交代し、ハンガリー、チェコスロバキアでも共産党体制が崩れ、夏には大量の東ドイツ国民が西ドイツへ脱出した。これが、11月9日の“ベルリンの壁崩壊”につながるのである。また、ルーマニアでも革命が勃発し、ニコラエ・チャウシェスク大統領夫妻は射殺された。そして1989年12月には、地中海のマルタ島で、ソ連のゴルバチョフ書記長とアメリカのジョージ・H・W・ブッシュ大統領が会談し、冷戦の終結が宣言された。

 本シリーズの中ですでに述べたことだが、生長の家が政治団体まで結成して“反左翼”の運動を大々的に展開した最大の理由は、冷戦の影響による国内の“東西対立”--共産主義・社会主義陣営と自由主義陣営の対立--により、日本社会が騒然となり、治安状態も悪化して、一時は“暴力革命前夜”のような様相を呈したからである。このような社会状況の原因を、谷口雅春先生は戦後、アメリカによって押しつけられた“占領憲法”にあると考えられた。先生は、日本国憲法が規定する「国民主権」や「戦争放棄」を温存したままでは、“肉体民主主義”が跋扈し、日本国家は東側陣営の内外からの攻撃に耐えられないと危惧されたのである。だから、その憲法を日本の首相が「無効」と宣言し、明治憲法を一旦復元することによって「天皇主権」を回復し、国防と治安を強化することで“赤色革命”の危機から脱しようとされたのである。この危機感のゆえに、「鎮護国家」という言葉が採用されたと思われる。

 そもそもこの言葉は、仏教経典である『金光明経』(こんこうみょうきょう)に由来する。その意味は、「天変地異や内乱、外敵の侵入にあたって、仏教経典を講読祈願したり、真言密教による秘法を行って国家を守護することをいい、広く仏法によって国家を護る」(平凡社『世界大百科事典』)ことである。仏教が中国に伝わり、教団勢力が大きくなると、国家がこれを保護・統制し、利用することになる。特に南朝末の陳の文帝は、『金光明経』四天王品にもとづく鎮護国家思想を表明した。また、隋・唐時代には、大興国寺、大安国寺、鎮国寺などの名称で寺院が建立されたことは、仏教と国家との密接な関係を示している。日本では東大・西大二寺、延暦寺や東・西寺が同様の考えのもとに建てられ、永平寺や安国寺も鎮護国家の思想から建立された。生長の家は、この仏教思想を神道形式の龍宮住吉本宮に導入したという点で、万教帰一の本領を発揮したと言える。

 しかし、すでに見てきたように、“左翼思想”や社会・共産主義国家(左側の唯物論)から日本の国を護るという意味では、冷戦の終結によって脅威が薄れたことは否めない。では、それ以外の何からの鎮護国家であるかと考えれば、それは“占領憲法”を押しつけた“西側の唯物論”からの安国であり、鎮国であったと思われる。しかし、これも自民党が日米安保条約を堅持する方針を貫いていたため、生政連活動を通して自民党を支持してきた生長の家は、日本国憲法を“諸悪の根源”と呼びながらも、“西側の唯物論”(アメリカ)を敵視し、さらには排除することが徹底しなかった。(それは逆に“左翼”が行っていた。)生長の家はもともと「大調和」の教えだから、本当の意味ではその必要はなかったのだが、その代わり「鎮護国家」の意味合いは具体性を失い、しだいに抽象化していったのである。
 
 だから今回、生長の家総本山の祭祀の重点を「鎮護国家」から「世界平和」へ移すとの決定が行われたことは、冷戦終了後20年以上たった時代の変化を思えば、遅きに失したとも言えるのである。
 
 谷口 雅宣

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コメント

合掌ありがとうございます

長崎総本山の鎮護国家誓願はイコール「世界平和」と解釈していました。なので「鎮護国家」という意味は世界全体の、国、のことだと理解していました。
どちらにしても、世界平和が目的なので、「世界平和」を前面に出すほうがわかりやすいと思いました。

投稿: 水野奈美 | 2012年12月24日 (月) 19時28分

「生命の実相」は学生時代から拝読していましたが、同世代である谷口雅宣総裁の主張は理解しやすく、共鳴いたします。

投稿: みぶ真也 | 2012年12月24日 (月) 22時26分

合掌  ありがとうございます。

生長の家の運動の変化について鎮護国家から「世界平和」へと広義にわたり理解しております。 わが島根教区においてはN教化部長の元で常に正しく発信していただき今回の運動の変化、総裁先生の御心も含めて心整然と受け止めることができますことに感謝しています。 

投稿: 足立冨代 | 2012年12月26日 (水) 10時56分

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