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2012年12月17日 (月)

運動の変化について (4)

 さて、本シリーズの(2)で描いた「人類の環境破壊」と、(3)で取り上げた“冷戦”とは、大戦後の世界を“車の両輪”のように手をつないで進んだと言える。人間が自然界を道具とし、自然界から奪うことによって幸福が訪れるという物質主義的幸福論が、米ソ両超大国の行動原理であった。それと共に、イデオロギーの異なる者同士の共存は不可能だとの共通認識があった。この2つの考え方から、「地球」という一定の“パイ”を目の前にして、そのどれだけ大きな部分を自国の勢力範囲におさめるかの争いが起こった。ところが、前にも書いたように、大戦後まもなく核兵器という“究極の兵器”が開発されてしまったため、一時代前ならば戦争によって決着がついたこの種の争いが、そうできない時代に入っていた。そこで米ソが何に訴えたかというと、それは武力を用いない“総力戦”だった。すなわち、両超大国は政治力、経済力、技術力、情報力、学問、文化、スポーツ……などすべての面で相手を圧倒することで、自国の安全を保障しようとした。これが“冷戦”である。そんな目的が何にもまして優先されれば、当然のこととして、自然界はそのための道具と化してしまう。こうして公害問題は深刻化し、水力、火力、原子力の発電所は増設され、そこでの事故も起こった。
 
 ところが、1989年の“ベルリンの壁の崩壊”をきっかけとして、この世界的枠組みである“冷戦構造”は崩壊していくのである。思想や経済の統制によって相手を圧倒しようとしていた社会主義・共産主義のイデオロギーは敗北し、思想・経済の自由を重んじた自由主義・民主主義の考え方が世界の“共通通貨”になっていった。だから、各国において、“仮想敵国”をつくって相手を力で凌駕することに専念する必要は薄れていった。すると、それまでは“冷戦”という大きな争いのために抑圧されてきた、様々な小さな争い--その多くは、古い植民地主義の遺産が背景にある--が表面化することになる。それらは民族対立であり、宗教対立であった。こうして湾岸戦争(1990~1991年)が起こり、ユーゴスラビア紛争(1991~2000年)が戦われ、イラク戦争(2003~2010年)が行われた。また、これに絡んで、稀少資源の獲得競争も激しさを増していったのである。
 
 日本国内に目を向けると、しかし従来と同様の左右の政治的対立が依然として続いていた。“左翼”の親玉であるソ連が崩壊し、中国も資本主義を受け入れているにもかかわらず、共産主義や社会主義から派生した政治勢力は日本の国会に一定数の議席を占めていた。しかし、もはや“左側の唯物論”からの脅威が消失したことは明らかだった。その代わり、“右側の唯物論”が世界を席捲しはじめたのである。“右側の唯物論”とは、多国籍企業の発展や金融・資本のグローバル化の背後にある1つの考え方を指している。私はここで、すべての多国籍企業、すべての国際金融機関が唯物論に根差していると言っているのではない。が、これらの企業・機関の行動原理が利潤の追求であり、時にそれしか考慮されないかぎりにおいて、企業活動の倫理や、労働者の人権への配慮がないがしろにされる事例(例えば、ナイキの工場での若年労働者雇用)が数多く指摘されてきたし、現在も指摘されている(例えば、アップル社の製品を作る中国人労働者の待遇等)。また、自然破壊や温室効果ガスの排出などの環境倫理については、ほとんどの企業はイメージ戦略の一部として捉えるのみで、自らの利潤追求の目的を優先させているのが現状である。

 こういう中で起こっているのが、当初の予想を上回る速度で進んでいる地球温暖化と気候変動である。技術革新にともなうグローバリゼーションの進行は、地球上の距離と時間を事実上減らす方向に進んでいるから、経済の分野では、先進国の産業の重要な一部が人件費や土地の安い途上国へ移行する動きを生み出している。いわゆる経済の“空洞化”である。これによって、途上国の経済が発展し、国民の生活レベルが向上するという“光明面”は確かにある。しかし、エネルギー消費に注目すれば、先進国から途上国へと工場が移転しただけでなく、途上国での人々の生活レベルの向上によってエネルギー消費も増加するから、地球全体では技術革新が温暖化を促進する結果となっていると思われる。また、製造業の多くが海外へ流出しつつある先進諸国では、スキルを持たない労働者が大量に失業する現象が起きており、スキルのある労働者との“格差問題”が深刻化している。そんな中で“人口の高齢化”と“地方の過疎化”が進む社会状況は、道路や橋などのインフラ整備で問題が簡単に解決するとは思えない。
 
 世界人口が70億を超えた中で、人々の経済レベルが全体として向上し、資源・エネルギーの消費が増大して自然界の安定性を破壊しつつある時、問題の解決を従来同様の“公共投資”や“経済発展”で切り抜けることはできない。それは、かえって地球温暖化と気候変動の“火”に油を注ぐことになる。自然界を犠牲にして、人間だけが発展したり、幸福になることはできない。このことが実感として理解できる人間がいるあいだは、人類の自然破壊にはまだブレーキがかかるだろう。しかし、世界人口の半分が都市に住むようになった今から後は、子供の頃に自然の中で遊んだ記憶をもつ人々が急速に減っていくだろう。幼い頃、自然との切実な触れ合いを経験しない人間は、自然の破壊や自然からの略奪に心の痛みを感じない。それでいて、都会では孤立し、他を傷つけて自分も傷つき、アトピーを発症し、精神の安定を得ることができない。すべてを「買う」ことによってしか得られない人たちは、鉛筆を削れず、リンゴの皮をむけず、動植物の名前を知らず、ロープを結べず、ノコギリを使えない。そういう人間が増えることを“経済発展”といい“幸福の増進”と考えるのは、どうかしているのである。

 私たちは今、人間が自然から奪うことによって幸福が訪れると考える物質主義的幸福論に別れを告げなければならない。「奪うものは奪われる」という心の法則によって、人類が自然災害の犠牲になるケースが増えていることに気づかねばならない。ゲリラ豪雨や山地の深層崩壊、竜巻の襲来、そして東日本大震災を経験してもなお、「自然を征服することで人間は幸福になる」との夢を見続ける生活から脱し、自然との一体感を快復し、「自然との大調和の中にこそ幸福がある」とのメッセージを伝える時機に来ているのである。それは古いながらも、人類に“光明”を与える福音であり、エネルギーや資源の奪い合いから人類を引き戻す“平和”の運動である。このようにして、私たちの運動は、対象や方法は変化しても、「人類光明化」と「大調和の実現」という方向は揺るぎないのである。
 
 谷口 雅宣

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