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2012年12月12日 (水)

運動の変化について (3)

 さて、本シリーズの前回までに、私は戦後半世紀余の人類の動向を大ざっぱに描いたが、この大きな潮流の中で生長の家の運動はどんな役割を果たしてきただろうか? 私たちは、戦後まもなく始まった“冷戦”というイデオロギー対立の時代には、明確に自由主義陣営の側に立った。それは、生長の家が元来「自由」を重んじる宗教であるから、当然といえば当然である。しかし、自由主義陣営を率いるアメリカは、同時に、「自由貿易」の旗印のもとに物質主義的な経済発展を推進する国でもあった。同国は多様で有能な人的資源に恵まれ、広大で肥沃な国土をもち、資源も豊富で、“超大国”の一翼を担う強大な軍事力を擁していたから、敗戦国・日本は、同国のほぼ言いなりになる“親米路線”を外交政策の基本としてきた。それは、具体的には、日本国内にアメリカの軍事基地を受け入れ、コストの多くを負担して“不沈空母”となるだけでなく、国際政治の舞台ではアメリカの政策を支援することであり、日本の技術や経済力をアメリカに提供することだった。もちろん、その代わりに日本が得たものは、日米安保条約による国の安全である。また、市民レベルでは両国間の理解と交流はかなり進展した。

 この両国関係は長年継続したから、それを採用し続けた自民党は長期政権を維持することができた。しかし、その反面、ベトナムなどでのアメリカの戦争に対して基地を提供し、それにまつわる様々なコストを負担することと、それら戦争の正当性との矛盾が拡大してくると、日本国内には“反米”の形でナショナリズムが噴出することになった。これが、戦後日本特有のナショナリズムの“ねじれ現象”である。奇妙なことだが、他国においては国家の枠組みを超える思想を標榜してきた“左翼”勢力が、公害問題や米軍基地反対運動などを通して、わが国ではナショナリズムの受け皿となってきたのだ。もちろん、いわゆる“右翼”勢力がナショナリズムを表明しなかったわけではない。しかし、右翼のナショナリズムは「“親米路線”を妨げない」という条件によって制約されていた。言い換えると、良好な日米関係にとって有害なナショナリズムは、政権与党によって抑圧されてきたのである。自民党が、「自主憲法制定」を党是としながらも、政権党であるあいだは改憲に真面目に取り組もうとしなかったのは、このことを有力に証明している。

 こういう状況の中で、生長の家創始者の谷口雅春先生は、「大日本帝国憲法復元改正」という改憲論を唱えられた。右翼のナショナリズムとしては、類例のないドラスチックな方策である。自民党が考えていた“自主憲法”は、基本的には現行憲法の改正条項に従って、その精神を尊重したままの条文改正であるが、雅春先生はあくまでも「明治憲法復元論」を正当とされた。その理由は、現行の日本国憲法がアメリカ占領下に“押しつけられた”ものであり、日本国民の自主性が反映されていないからである。だから、アメリカの関与がなく、日本人だけで起草され、決定され、敗戦時まで施行されていた大日本帝国憲法を一旦復活させ、それの条文改正によって、本当の意味での“自主憲法”が生まれると考えられた。ただし、明治憲法のどの条文をどう改正して、戦後日本の自主憲法とすべきかということについて、雅春先生はあまり語っておられない。これに関して特に重要なのは、明治憲法が軍の統帥権を政府と切り離して天皇に直属させていた点であり、これが軍の暴走を政治家が食い止められなかった大きな原因の1つであるという歴史的な評価を、先生がどう捉えておられたかは不明である。
 
 とにかく、生長の家はこうして「大日本帝国憲法復元改正」を最終的な目標として、生長の家政治連合(生政連)を結成(昭和39年)し、政治活動を展開した。しかし、これはどこかにも書いたことだが、この運動は生長の家の代表を政治の舞台に送り出すのが目的だから、日本のどこかで選挙があるたびに、信徒が政治運動に駆り出され、信仰を伝えるのではなく、政治目標を説いて回ることになる。そのためには新たな資金も人材も時間も必要となり、宗教活動はしだいに政治活動に従属していったのである。そして、国会において生長の家が進めていた優生保護法改正がかなわず、加えて参院選でも生長の家代表候補が落選したことを受けて、昭和58年7月、生政連の活動は停止され、「今後は教勢拡大にむけて全力をそそぐこと」が決定された。もう30年近くも前のことであるが、私たちの運動史の中のこの“政治の季節”に体験した高揚感などが忘れられず、その頃の運動に帰りたいと思う人々が、今の運動を批判するグループの中には多いのである。

 さて、約20年におよぶこの“政治の季節”であるが、その中で私たちが行ったことはムダだったのか? 私は決してそう思わない。この頃は、いわゆる“60年安保”から“70年安保”に至る政治混乱の時代だが、東西の“冷戦”を背景として、日本国内は政治的に真っ二つに割れていた。そして、政治的な国民組織としては、“西側”(政権党側=親米派)は劣勢に立たされることもあったのである。今では想像も難しいが、火焔ビンと鉄パイプで武装した学生たちと警察の機動隊とが街頭で衝突し、死者が多数出るような事態に至っていた。有名大学はほとんど左翼の学生によって封鎖され、学問は不能となり、歩道の敷石は学生達の投石用にはがされていた。そんな中で、“暴力学生”の誤りを正面から批判し、国としてどう対応すべきかの方策を理論的に説かれたのが、谷口雅春先生だった。また、日本の文化・伝統が西洋に比べて決して劣るものではなく、むしろ優れた点を多くもつことを説かれ、“右側”の人々に自信と勇気を与えられたのも、雅春先生だった。その意味では、生政連や当時の政治運動は臨機の対応としては必要だったのである。

 が、宗教本来の目的である「真理の宣布」が阻害されるような政治活動は、改めなければならない。また、“東西冷戦”の終結に伴い、世界の大きな枠組みが変われば、宗教運動も当然、変わるべきところは変わらなくてはならない。こうして、生長の家の運動も、政治的変化を目的とした「政治」色の強いものから、「信仰」の大切さを強調する信仰運動へと徐々に変化していったのである。ひと言でいえば、これが谷口清超先生が生長の家総裁として実行された“運動の変化”の1つの大きな流れである。清超先生は、そういう変化が必要であることを副総裁のときから明確に自覚されていて、昭和60年11月22日の生長の家総裁法燈継承の記念式典において、「自分は雅春先生の教えの一言一句を繰り返して説くことはしない」と明言された。私はこれまでも、このことには何回も触れてきたが、重要なことなので清超先生のお言葉を、再びここに引用する--
 
「世の中には“継承”ということを何か誤解している方もいらっしゃいまして、谷口雅春先生のお説きになった一言一句をその通りまたくり返しお伝えするのであろう、かの如く思われる方もおられるかもしれませんが、実はそういうものではないのであります。つまり、教えの神髄の不立文字をお伝え頂き、それを継承するということでありまして、(…中略…)真理というのは、その時その時に応じて色々な相(すがた)をもって展開されねばならない。そこがイデオロギーや運動方針とは違います。イデオロギーならば色々と文字に書きあらわすこともできるかもしれないが、それは“真理そのもの”とは違うのです。そこの所をよく諒解していただかないと、過去の歴史を繰り返せよということを、相承と思い違えたりする。この点は皆さんにも充分ご理解いただく必要がある。そしてこれからの運動はやはり中心帰一の原理を説く生長の家の運動でありますから、中心帰一を守りつつ大いに大々的に展開していきたいと念願している次第であります」。(『新編 聖光録』、pp.296-298)

 谷口 雅宣

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コメント

合掌ありがとうございます!ブログ拝見しました。清超先生の新編聖光録、僕も家にあるので読ませて頂きます!生長の家が政治連合があったって相愛会、栄える会の地元教区の知り合いの方から名前は聞いた事がありますが中身については総裁先生のブログを見て詳しく説明して下さったので勉強になりました。ありがとうございます!

投稿: 辻昭 | 2012年12月18日 (火) 10時38分

谷口雅春 先生は 当時、青年会全国大会とご著書の中で、 「誰か有能な総理大臣は出ざらんか。やがて、諸君の中から出るであろう。」 と、言われておりました。 私は、その当時、 中学生か高校生でしたが、“よし、俺が総理大臣になるんだ”と、思いました。 そう思ういますと 嬉しいような気持ちになりました。 次に、憲法改正の話しですが、以前にも申し上げましたとおり、その前に、敵国条項を削除してもらう必要があると思います。 以上です。 志村宗春拝

投稿: 志村 宗春 | 2012年12月18日 (火) 12時54分

奈良教区の山中優です。時代の趨勢に合わせた運動の変化について、親しくご教示いただき、誠にありがとうございます。

ところで、自由貿易についてですが、最近、日本の財界が喧伝している「平成の開国」(TPP問題)について私が思っていることは、かつて谷口清超先生が『新しい開国の時代』で説いておられた開国とは、一見すると似ているようで、実は全く違うものではないか、ということです。

最近の「平成の開国」論は、要するに、輸出で儲けたいと考えている企業が、生産コストを下げたいがために、国内の格差を顧みず低賃金労働をグローバルに追い求めようとしているに過ぎないのではないか、と考えています。

その根底には、物質主義的な経済発展を依然として追い求めようとする姿勢が横たわっているのであって、それは、清超先生がかつて説いておられた、いわば “生命の自由” に基づいた開国論とは、実は違うものだと考えているのですが、いかがでしょうか?

山中優 拝

投稿: 山中優 | 2012年12月31日 (月) 12時05分

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