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2012年11月

2012年11月28日 (水)

運動の変化について

 本欄の読者はすでによくご存じのことだが、来年度から、生長の家は国際本部を山梨県北杜市の“森の中のオフィス”に移転し、そこで業務を始める。その経緯や目的等については、本欄をはじめ生長の家の公式サイト、SNS上などで発表され、私も『“森の中”へ行く』(2010年)、『次世代への決断』(2012年)などの書籍で詳しく説明した。その後諸般の事情から、実際の移転時期は当初予定していた4月から10月に延期されたが、新しい“オフィス”の建物は来年春には完成する。この変化は、生長の家の歴史の中では、創始者・谷口雅春先生が神戸から東京へ移住された時(1934年)、そして東京から長崎へ移転された時(1975年)にも匹敵する重要度をもつだろう。これらの重要な“節目”の周期を調べてみると、約40年であることに気がつく。もちろん、40年たったら、どんな運動でも大きく変化しなければならないという理由はない。しかし宗教運動は、周囲の世界の状況の変化に正しく対応していくべき使命があるから、変化を恐れていてはならず、必要となれば社会に先駆けて新たな道へと進まねばならないことも事実である。
 
 それは、神の御心の表現として行われるかぎり、宗教本来の動きとも言えるのである。谷口雅春先生は『真理の吟唱』の「久遠いのちを生きる祈り」の中で次のように説かれている--
 
「神の無限の創造はたゆみなく継続して杜絶えることはないのである。それゆえ、神の子の創造もまた無限につづいて中絶することはないのである。神の創造には、二度と同じものが繰り返されることはない。それと同じく私たちの構想も二度と同じものが繰り返されることがないから、わたしの発想は常に溌剌として新たなのである。生命は常に新たであり、自由であり、つねに過去を破壊して新たなる創造へと進むのである」。(同書、p.15)

 これは何も宗教運動だけでなく、企業や事業の経営にも言えることで、変化への適切な対応の中に神の無限アイディアが表現されていくことになる。「無限の富者となる祈り」には、上記と同じ真理が個人にも適用されることが、次のように示されているーー
 
「繁栄は“神の子”にとって当然の付随物であるのである。決して私は貧しくなるなどということはないのである。自分の事業は必ず栄え、計画は必ず図にあたるのである。事に応じ、時に応じ、人に応じて、私は神に導かれて最も適切なる処置をとることができるのである。どんなに衰微せる事業でも、私はそれを生かすことができるのである。なぜなら繁栄の叡智を神から私は与えられるからである。その事業が時代に適しないものであれば、私はそれを適当な方向に転じて活かす事もできるのである。神は神通自在であるから、決して旧態依然たる陋習に甘んじている必要はないのである。棄てるべきものは棄て、切るべきものは切り、生かすべきものは生かし、転ずべきものは転じ、どんな万難をも切りひらいて行きづまることはないのである。行き詰まったと見えるところに、新しく前よりも一層偉大なる使命を見出すのである」。(同書、pp. 241-242)

 現在、東京・原宿にある生長の家本部が、山梨県北杜市の八ヶ岳山麓に移るということは、単純に考えれば“本部事務所の移転”にすぎないから、生長の家の運動の流れに大きな変化が起こると考えない人がいるかもしれない。しかし、雅春先生の神戸からのご上京後、約80年ものあいだ、私たちの運動は基本的に「東京」を本拠地として展開されてきた。東京はその間、日本の政治・経済・情報・文化の中心であり続けたし、今後もそれは続くだろう。その東京から“森の中”へ動かねばならない理由を考えるならば、私たちの運動は今後、これまでの政治が、経済が、情報が、文化が進んできたのとは異なる方向へ進む可能性を内包していることに、気づいてほしいのである。それはもちろん、“原始生活”や“未開文明”にもどることではない。私たちの目的は、すでに公表されているように、「現代人が現代の生活を営みながら自然環境と調和した生活をおくる」(“森の中のオフィス”構想の基本的考え方)ためのノウハウの獲得と、そういう生活の実践である。

 それは決して夢物語ではない。その証拠に、現在建設が進んでいる“森の中のオフィス”は、建設業界では「日本初のZEB(炭素排出ゼロ建築物)」として注目されているだけでなく、地元の木材を多用した大型木造建築物としても類例がない。これらの技術的成果に、生長の家は何か特別な貢献しただろうか。いやそうではなく、日本の企業が開発ずみの技術を組み合わせただけである。私たちは、すでにあるものを利用させていただいただけなのだ。そこにもし何か貢献があったと言えるならば、それはこのような優れた技術を動員するための「需要を喚起した」ことぐらいだろう。しかし、私はそのことが重要だと思う。需要がなければ、技術はあっても使われないし、使われない技術はやがて衰退してしまう。このような建築物の建設とそれを取り囲む環境の整備は、世界有数の大都会・東京では、まず不可能である。少なくとも、生長の家の資金力では無理である。土地の値段の高さを初めとして、法制やインフラや道路事情などを考えても、実現はそれこそ“夢物語”である。「新しい文明」は、それに相応しい場所から生まれるのであって、何も都会から生まれる必要はないのである。
 
 谷口 雅宣
 

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2012年11月24日 (土)

生長の家ってどんな教え?

Donnaoshie_o  このほど生長の家の秋季大祭を記念して『生長の家ってどんな教え?』(生長の家刊=写真)という単行本を上梓させていただいた。本書については、すでに『聖使命』新聞などで紹介していただいているが、この本は、私が日本各地で開催している生長の家講習会の産物である。「問答有用、生長の家講習会」という副題が、そのことを端的に示している。
 
 私は講習会での午前中の講話に対して、受講者から質問を受け付けているが、それによって私自身がずいぶん助けられている。講話に説明不足の点があれば、質問に答えることでそれが補える。私とは異なる質問者の視点から、同じ教義に光を当てることができる。つまり、多様な形の説明ができる。具体的な設問があれば、教義が理論的、抽象的にではなく、受講者に関心のある事例を引いて説明できる。そういういろいろな意味で、「問答」をすることは、宗教や哲学の分野で欠かすことができない有用な方法である。生長の家の聖経や『生命の實相』などの教典でも、だから問答形式の文は多用されてきた。本書では、その問答の効果が全面的に出ていると思う。
 
 本書は大きく二部に分かれている。第一部は「生長の家の教えの基本を語る」と題され、私が講習会で午前中に話していることのほとんどが収録されている。もっと具体的に言えば、生長の家の基本教義である「唯神実相」「唯心所現」「万教帰一」の解説がここにある。さらに詳しく言えば、今年3月25日に大阪教区で行われた講習会での午前中の講話を加筆修正したものである。
 
 しかし、それは最初の70頁分だけで、残りの約190頁(三分の二)を費やして、30を超える質問と、それらに対する私の答えが続く。これらの質問は、2008年から5年間の講習会で、私が全国の受講者から受けたものから厳選してある。だから、生長の家の教義に関する基本的な疑問には、本書で何らかの回答が与えられているはずだ。もちろん、すべての疑問に完全に答えることなどできない。そんな本は、恐らく誰も書けないだろう。しかし、入門レベルの信徒が抱くと思われる疑問は、本書でほとんどカバーしていると思う。質問の選定に当たってくださった編集部の方々には、深く感謝いたします。
 
 また、本書の文章はすべてが「話し言葉」になっているから、常日頃の私の論文調の書き言葉より数段分かりやすいだろう。その反面、「論理を積み上げていくことで高度の理解に達しうる」という論文の長所は、多少犠牲になっているかもしれない。
 
 本書を出版して、私が今困っていることが1つある。それは、生長の家講習会での講話の半分がここに詰まっているから、今後の講習会での講話をどう組み立てればいいか--という問題である。「本と同じことを話すな!」という受講者の声が聞こえてくるような気がするのだ。しかし、創意工夫は表現者の永遠の宿命だから、鋭意努力するほかはない。読者諸賢には、本書を講習会推進や伝道の一助として大いに活用していただきたい。

 谷口 雅宣

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2012年11月22日 (木)

“天孫降臨”とは神意の現成なり

 今日は午前10時から、長崎県西海市にある生長の家総本山の出龍宮顕斎殿で「谷口雅春大聖師御生誕日記念式典」が厳かに挙行された。私は祝詞と宇宙浄化の祈りを唱え、概略以下の内容のスピーチを行った。
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 皆さん、本日は「谷口雅春大聖師御生誕日記念式典」に大勢お集まりくださり、ありがとうございます。

 谷口雅春先生は昭和60年6月に満91歳で昇天されましたが、まだこの世にいらっしいましたならば、今日が119歳のご誕生日ということになります。肉体はお亡くなりになってすでに四半世紀たちましたが、私たちは「400冊」とも言われるご著書によって、今でも先生のお心に接することができる。これは誠にありがたいことであります。
 
 また、雅春大聖師は、晩年にはこの生長の家総本山を建設され、この地に私たちの運動の一大拠点を与えてくださったおかげで、今日も私たちはこのような盛大な記念式典をもつことができると共に、団体参拝練成会を初め、各種の練成会で心を浄め、都会の喧噪を離れて自然と対話し、神-自然-人間の一体感をしみじみと味わう貴重な時間をもつことができるのであります。
 
 この生長の家総本山の重要な施設の1つに「七つの燈台」があります。ここでは、「大調和の神示」が下された9月27日には「七つの燈台聖火授与式」というのが行われているので、皆さんの多くは参加された経験があると思います。この「七つの燈台」について、今日はお話したいと思うのであります。
 
 聖経『甘露の法雨』の詩文が始まる前に、「大調和の神示」に続いて掲載されているのが「完成(ななつ)の燈台の神示」(昭和6年1月15日)であります。「時が来た。今すべての病人は起つことが出来るのである」に始まる、有名な神示です。この神示の題名は「完成」と書いて、振り仮名で「ななつ」と読ませています。それは、「7」という数字に「完全」とか「すべて」という意味が含まれているからです。これは、生長の家の独自の解釈ではなく、世界的にそう見なされてきました。例えばユダヤ教やキリスト教では、神は6日間で天地を創造され、7日目には完成を祝われたとされています。『創世記』の言葉を借りれば、「神はその第7日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである」というわけです。
 
 「完成の燈台の神示」には、「“生長の家”は今かの黙示録が予言した“完成の燈台”として人類の前に臨むのである」とあります。これはご存じの通り、新約聖書の『ヨハネの黙示録』の第1章に記述された“七つの燈台(燭台、lampstand)”のことを指しています。つまり、生長の家のことは、聖書の黙示録に予言されているということです。言い換えれば、キリスト教やユダヤ教の目的と生長の家の目的は同じだということです。その目的は何かというと、神示に書かれている通り、「“罪”と“病”と“死”との三暗黒を消尽する」ことです。この点は、きわめて重要なのですが、時々忘れてしまう人がいるようです。そして、生長の家は他の宗教とは異なる特殊な目的をもっているとか、生長の家は日本で生まれた宗教だから、日本人以外には本当には理解できないとか、妙な解釈をする人も出ているようです。しかし、『生命の實相』の冒頭に出て来る文章は何だか、皆さんは覚えていらっしゃいますか? 谷口雅春先生の御文章として最初に出て来るのは、「大調和の神示」です。しかし、それよりも前に置かれた文章があります。それが、『ヨハネの黙示録』の第1章からの抜粋です。ですから、雅春先生が生長の家をどのような性格の運動として始められたかという点については、きわめて明確なのです。これは日本の宗教としてではなく、世界を視野に入れたユニバーサルな教化運動として開始されたのであります。
 
 さて、この点をしっかりと押さえておいてから、再び「七つの燈台」のことに戻りましょう。
 多くの皆さんにとっては“復習”の部類になりますが、この総本山に建立された「七つの燈台」には、それぞれ名前がついていますね。それを全部言える人はいますか? 手許にリストがあるので読み上げます--

 ➀天孫降臨皇御国成就燈
 ②伊邪那岐文化成就燈
 ③伊邪那美文明成就燈
 ④三界万霊悉皆実相開顕成仏燈
 ⑤地上天国世界連邦成就燈
 ⑥万物一元万教帰一成就燈
 ⑦君民一体地上天国成就燈
 
 これらの燈台についている名前の意味は、ご存じでしょうか? 実は、谷口雅春先生はそれについて詳しい解説を残しておられないのです。しかし、名前に使われた漢字の意味からそれぞれの燈台の意味を類推することはできます。が、これには誤った解釈をする危険が常に伴います。特に重要なのは、第一番目の燈台である「天孫降臨皇御国成就燈」の意味です。その正しい解釈をこれからお話ししましょう。
 
 この名前は一見、現実の日本国の国威発揚を願った燈台のように思われます。また、「スメラミクニ」という言葉からは、天皇主権の日本国家の実現を願った燈台のようにも解釈できます。しかし、本当にそうだろうか? これまで私がお話ししてきた生長の家のユニバーサルな使命、その運動が何を目指しているかについての神示の明確な記述、キリスト教、ユダヤ教、イスラームの共通の教典である聖書の記述との関係……などを考え合わせてみると、日本一国だけの国威発揚を私たちが「いの一番」に目指すということには、疑問があります。ですから、ここの「天孫降臨」の言葉の意味を正確に理解しなければなりません。そのためには、神示をひもとくのが一番でしょう。
 
 谷口雅春先生は全部で33の神示を発表されていますが、その大部分に当たる29の神示は、大東亜戦争前の昭和5年から8年までの日付です。残りの4つの神示は戦後下されたもので、そのうち2つの神示に「天孫降臨」の意味が説かれています。1つは「君民同治の神示」(昭和20.12.28)で、もう1つは「大和の国の神示」(昭和21.1.6)です。まず「君民同治の神示」ですが、その中にこうあります--
 
「人間は自己自身の神聖性のゆえに神造の国家に神聖降臨の神話を創造してその歴史の中に住む自己を観るのである。天孫降臨とは人間自身すなわち民自身が天孫であり、神の子である自覚の反映にほかならない」。

 これは、人間の中にある神聖性の自覚が、“神によって造られた国”という神話物語を生み出した原因である、ということです。これは、直接的には日本神話の天孫降臨の意味を説いているのですが、間接的には、世界各地に残っている神話にも、同じような“神造国家”の物語があることの説明でもあります。つまり、私たち人間の中に、至高のもの、完全なるものへの憧憬--神の子の自覚の“種”があるために、それを自分たちの国の起源として投影する。そういう筋書きの神話を生み出し、それを互いに仲間で共有し、また子孫に語り継ぐことで希望を育て、また生き甲斐をもって前進する。そういう人間心理の分析が書かれているのです。
 
 このような心の中の出来事は、しかし心中にだけ止まるわけではありません。現象世界は「唯心所現」ですから、やがて現実の世界における人間の行動となって現れます。その際、自分たちは神国の民だから、他国や多民族を征服して支配する権利があり、さらには蛮族を支配する義務があるなどと考える人が出てこないわけではない。戦前のドイツや日本、イタリアなどには残念ながら、そういう思想が人気をもって拡大した。しかし、この神示のあとに出た「大和の国の神示」では、そういう解釈は誤りであるということが、明確に書かれていますーー

「天孫降臨と云うことは天の父のみこころが天降って、天が下ことごとくが一つの光の世界になり、大和、平和の世界があらわれると云う意味の象徴的表現である。日本民族が世界を治めるのではなく、『天孫』すなわち『天の父のみこころ』が全世界を治める時期が到ることである」。
 
 この文章が伝えるメッセージは、実に明快です。「天孫降臨皇御国」というのは日本国のことではなく、神の御心が十分に反映した平和な世界のことだと書いてあります。「天孫降臨皇御国」とは、現象的な日本国家のことではなく、世界平和が実現したさいの地球世界ということ、さらには地球を含んだ宇宙をも意味していると考えられます。

 「国」という言葉を「国家」だと解釈すると間違います。このことは、神想観の最後に詠う「光明思念の歌(大調和の歌)」の文言を思い出してくだされば分かることです。それは、「天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙(くに)静かなり」です。この「クニ」という音声に当てはめられた漢字は国家を意味する「国」ではなく、「宇宙」なのです。国家のような地球上の小さな領域ではなく、地球よりさらに広い概念を「クニ」と読ませている。そのこととも一致します。この点をはっきり理解し把握しなければ、運動の方向性を間違うことになります。
 
 また、この「天孫降臨」は他の宗教の目指すものと違うと考えるのも間違いです。その証拠に、「大和の国の神示」には、次のように明示されています--
 
 これ(天孫降臨のこと)がイエスの『主の祈り』にある御心が既に成る世界の意味である。それが真の大日本世界国(ひかりあまねきせかいのくに)である。大日本世界国(ひかりあまねきせかいのくに)と云うことを狭い意味に解釈して、日本民族の国だなどと考えるから誤解(まちがい)を生ずるのである。そんなものは小日本であり、本当の大日本国(ひかりのくに)ではない。天の下ことごとくが『天のみこころ』で満ちひろがる世界が来ることを、「全世界五大州の国土を『天孫(てんのみこころ)』に御奉還申すべき時期が来る」と教えたのである。
 
 このように、戦後雅春先生に下された2つの神示で説かれている「天孫降臨」の意味を正しく理解すれば、雅春先生がこの生長の家総本山を建立され、そこに“七つの燈台”を建てられ、その第1番目の燈台に「天孫降臨皇御国成就燈」という名前を付けられたことの意味は、明確になると思います。先生が私たちに託された願いは、「天の下ことごとくに神の御心が満ちひろがる世界が来ること」です。「日本に天皇制国家を樹立する」などと解釈することは、全くの誤りであります。だから、私たちは世界各地に“神意”が拡大していくことを目指さねばなりません。
 
 では、その“神意”とは何であるかが問題になりますが、そのことも「七つの燈台」のそれぞれに付けられた名前を見れば分かるのであります。今日は、時間の関係もあるので、すべての詳しい解説は別の機会に譲りますが、大ざっぱに言いましょう

 第1の燈台の名前については、すでに述べました。2番目と3番目は、それぞれ「精神文化」と「物質文明」に対応しています。気がついていただきたいのは、生長の家は物質文明を否定していないということです。物質文明の恩恵を否定しないが、それと精神文化がバランスされねばならないということです。そのことが“神意”であると考えられます。また、4番目の名前には「三界」という言葉が出て来ますが、これは必ずしも霊界のことだけではなく、現象界すべてについて言っているので、人間以外の生類すべての実相開顕を願うということです。つまり、自然界の大調和も“神意”であり、したがって私たちの目的の1つである。5番目の「地上天国世界連邦成就」と6番目の「万物一元万教帰一成就」という名前は、わかりやすいので説明を省きます。最後の7番目の「君民一体地上天国成就」については、第1番目の名前と一見似ているようでありますが、「君民一体」という言葉を重視すれば、それは必ずしも「天皇と国民」だけを指しているのではなく、天皇が存在しない国もあるのですから、一般に「支配者と国民」の関係を述べていると思われます。その場合、支配者と国民の間に「意思の齟齬がない」こと、さらには「感情的な対立もない」ということが「一体」の意味ですから、それが“神意”であるということです。

 私たちは、このような実に大規模な、広大無辺の神意の現成を目的とした運動です。「そんなことは夢物語である」と考える人がいるかもしれませんが、生長の家の教えの素晴らしいところは、私たちの心の底にある真摯な願いは、実は実相においてすでに成就しているという点です。しかし、私たちの心が浮き世のいろいろな出来事に翻弄されて、あれがない、これがないと「実相でないこと」ばかりに注目すると、その「実相でないこと」ばかりが現れてくる。昨今の新聞・雑誌、テレビなどを見ると、そういう昏迷や混乱の様子ばかりが現れていますが、そういう時にこそ、私たちはこの総本山に来て「七つの燈台」を巡り、その名前に現れた実相世界の姿を、神意現成の姿をしっかりと見つめ直し、心を乱さずにその神意の実現に邁進していきたいと思うのであります。
 
 皆さま方にはぜひ、これらの点を理解していただいて、「神の御心が十分に反映した平和な世界」「神-自然-人間が大調和した世界」の実現に、さらなる熱意と信仰をもって取り組んでくださることを念願いたします。谷口雅春大聖師の119回目のお誕生日にあたって、所感を申し上げました。ご清聴、ありがとうございました。
 
 谷口 雅宣

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2012年11月 3日 (土)

原子力発電を生んだ“迷い”

 生長の家講習会での私の講話を聞いた読者から最近、お手紙をいただいた。この人はベテランの地方講師で、私が“脱原発”を主張した点が強く印象に残ったというのである。その一部を紹介する--

 「今年は9月に神奈川教区、10月に東京第二教区と続けてご講習会を受講させていただき大変幸せでございました。とりわけ午後の質問に対するご指導は、私たち地方講師にとりましてもよい勉強になりますが、特に今回の飛田給での“原子力エネルギーの利用は迷いの具象化--即ち偽象である”とのお諭しは目の覚める思いで拝聴致しました。 今までにも相愛会誌友会などで原発の話をしますと“放射能をコントロールする技術が開発されないうちに平和利用を始めたことは間違っていると思うが、原子力利用の智慧も神の智慧でしょうから、いずれ放射能をコントロールできる方法が分かってくれば安全に利用できるようになると思います”と言う人が居ます。 そのようなとき『次世代への決断』の“原子力エネルギーの利用はやめよう”の話をしますが、230~231頁の“それらは力が強大ですが、地球の生物とはまったく相容れないものです。それらは、人間と自然との不調和の産物です”と書かれているところに来ますと、“それは利用の仕方の問題なのではないですか? 賢い利用の仕方があるのではないでしょうか……”と中々納得してくれません。“難しくてよく分からない”と言う人も居ます。自分の説得力不足を棚に上げて御願いするのは気が引けますが、できれば“原子力エネルギーの利用は迷いの具象化である”ことの意味を『唐松模様』にて具体的にお説きいただけませんでしょうか。」

 --ご本人は「目が覚める思い」がしたというのだから、私の“脱原発”の主張に納得されたのかと思うのだが、それを他人に理解させるまでには至らないようである。まぁ、この問題は複雑かつ広範囲の事柄を含むので、理解が難しいことは確かだが、専門的知識をもっていなければ理解できないという種類のものでは必ずしもないと思う。それに、本欄の「生長の家と自然」シリーズを読んできて下さっている読者ならば、問題の本質を宗教的、かつ直感的に把握していただけると期待している。それは、結局のところ「人間と自然との関係をどう捉えるか」の問題なのである。

  前回の本欄のタイトルを私は「自然と人間は一体なり」とした。これは生物学的に正しいばかりでなく、宗教的にも「大調和の神示」のバックボーン(背骨)をなす考え方である。その意味はすでに十分説明したところだが、ここで確認のために同神示の最後にある言葉を引用しよう--

  「われを招(よ)ばんとすれば天地すべてのものと和解してわれを招べ。われは愛であるから、汝が天地すべてのものと和解したとき其処にわれは顕れる。」

  ここで「われ」と称しているのは神示を下した“神”(七つの燈台の点灯者、第二義の神)である。そして聖経『甘露の法雨』によれば、「神があらわるれば乃ち 善となり、義となり、慈悲となり、調和おのずから備わり、一切の生物処を得て争うものなく、相食むものなく、病むものなく、苦しむものなく、乏しきものなし」である。これを目的としているのが生長の家の人類光明化運動・国際平和信仰運動であるし、その他の多くの宗教の目的でもあると言える。では、原子力エネルギーの利用は、人類が「天地一切のものと和解する」方向に合致しているのだろうか? 原子力発電所が世界中に普及していくことによって、人類は「天地一切のものと和解する」方向に近づいていくのだろうか? その答えは、断乎として「否」である。

 私は最近、生長の家講習会の講話で“脱原発”の話をするとき、よく「原発いらない6つの理由」という次のようなリストを表示する--
  (1)生命全体に有害
   (2)人と自然を分離する
  (3)ウランは枯渇する
  (4)核兵器拡散の危険
  (5)温暖化を促進
  (6)中央集権を促進

 このうち最初の「生命全体に有害」というのは、もちろん放射線のことを言っている。放射線は、地上生物の遺伝情報を保存しているDNAを破壊するから、すべての生物にとって有害である。大量の放射線の放出を伴わずに原子力発電をすることは不可能である。太陽のような核融合反応を利用する発電も研究されてはいるが、太陽も、人体に有害な紫外線などを大量に放出している。私たちが生活する地球の表面では、太陽光線が短期的には人体に害を与えない状態になっているが、その理由は、地球の周囲を大気圏とオゾン層が取り囲んでいて、この2重の“保護膜”によって太陽からの有害な紫外線が吸収されたり、減衰されたりしているからだ。私は『次世代への決断』の96~97頁に「太陽は一種の“原子炉”」と題してそのことを書いたが、地球を取り巻くこの“2重の保護膜”は生物全体が作り出してきたものだ。つまり、植物が光合成によって排出する酸素の一部を動物が取り込み、その動物が排出する二酸化炭素を植物が吸収し、あまった酸素に太陽の紫外線が作用すると大気圏の外側にオゾン層が形成されるーーこういう営みを何十億年も継続していく中で、現在のように多種多様な生物が繁栄する「地球」という生命圏ができ上がったのである。

 この貴重な生命圏を破壊して、その中の一部に過ぎない人類だけを繁栄させるなどということは不可能である。原子炉内の核分裂反応によって生み出される大量の放射線は、生命圏全体の秩序を保存してあるDNAを等し並みに破壊するのである。人間がなぜ、こんなひどい破壊的技術を開発したかといえば、それは戦争遂行中の異常メンタリティーの産物だとしか思えない。ご存じのように、原子力発電という技術は「原子爆弾」の“落とし子”のような性格をもっている。先の大戦の末期に、武力による戦争終結を急いでいた各国が「敵に圧倒的ダメージを与えたい」という唯一の動機から、原子爆弾は開発された。その破壊力は、従来の兵器をはるかに凌駕し、兵士も市民も、動植物も建物も何もかもを広範囲にわたって無差別に破壊する力がある。そんな兵器はかつて考えられたことも開発されたこともなかったから、従来の戦争法規ではカバーできない。つまり、それまで各国間で合意されてきた戦争法規違反なのである。しかし、敵を恐怖し、敵を憎むあまりに各国は開発に走った。ドイツが開発中なのをアメリカが気づき、危機感を覚えたアメリカは「マンハッタン計画」を進めて、世界での一番乗りをはたした。学者の間では核分裂反応の破壊力は原理的に分かっていたから、日本も原爆を密かに開発していた。

  広島と長崎への原爆投下の後、この大量破壊エネルギーを発電に使えないかと考えたすえ開発されたのが原子力発電の技術である。まず巨大な破壊力を生み出してしまってから、これを制御しつつ民生用に転用するための技術開発が始まったのである。しかし、この技術は未完である。実用化に際し、人類に安全を保証するレベルに達していないのである。その最大の証拠は、放射性廃棄物を無害化する処理方法がないということだ。現在の科学技術のレベルでは、生物全体にとって有害な放射性廃棄物は、ガラスで固めたうえに、分厚い鋼鉄製の容器に入れ、地中深く埋めておくことしかできない。これは放射性物質の「無害化」ではなく、有害のまま、次世代以降の人類が無害化をしてくれることを(無責任にも)祈って廃棄しているにすぎない。

  このような状況を指して、私は「原子力エネルギーの利用は迷いの具象化である」と言ったのである。その「迷い」とは、大量破壊兵器である核兵器の製造と密接につながっている技術であり、破壊のための技術を一時的に民生用に転用して“平和利用”と称している点を指す。長く使えば使うほど、人類および地球生命全体にとって“終末”を持ち来す危険性が増加する。にもかかわらず、多くの人々は目先の快適な生活を犠牲にしたくないという欲望を優先させ、「自然と人間の一体性」を無視し、理性を犠牲にしている。人類の深い迷いがここにある。

 谷口 雅宣

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