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2012年10月 1日 (月)

生長の家と自然

 私は今年3月末の本欄で、「新年度の始まりに寄せて」と題して今年度の運動の方向性を展望したとき、9・11やそれに続く“テロとの戦い”の昏迷、人間の自然破壊と地球温暖化の進行、さらには東日本大震災とそれによる原発事故など昨今の一連の悪現象の流れの背後に、「神-自然ー人間」の間の不調和があることを述べ、これを解消するためには、これら三者の間の大調和を心に強く描くことが必要であることを訴えた。そして、そのための方法の一つとして、『大自然讃歌』と『観世音菩薩讃歌』を本欄に発表して、これを先に出版した『日々の祈り』に収録された祈りの言葉とともに、読者に利用してもらいたい旨を述べた。その時、これら2つの自由詩の意図についてこう書いたのだった--「私の長編詩は、形式としてはこれら聖経に似てはいるが、それに取って代わるものでは決してない。そうではなく、むしろ聖経で説かれた真理を引用しながら、聖経では強調されていなかった方面の教義--例えば自然と人間との関係など--について補強を試みている」。
 
 この「補強」ということについて、一部で誤解があるようなので少し説明しよう。私は、聖経『甘露の法雨』や『天使の言葉』の中に、例えば自然と人間の関係について「説かれていない」から、その欠落を補うためにこれらの長編詩を書いたのではない。説かれていても、詩編全体の中で量的にあまり多くないなど形式的に「強調されていなかった」ので、それを強調する必要を感じたのである。このほど経本の形で出版された『大自然讃歌』を入手された方はお分かりだが、2つの聖経の中でそれが実際に説かれていた証拠として、経本版『大自然讃歌』では聖経からの引用箇所を鈎括弧でくくって明確に示してある。
 
 例えば、『天使の言葉』にある「外形は唯自己の信念の影を見るに過ぎず」という言葉は、この「外形」を人間に限定して理解する必要はなく、人間と異なる外形をもった生物についても、それを“異物”として排除してはいけないと説いている。また、同じく『天使の言葉』にある「億兆の個霊(みたま)も、悉くこれ唯一神霊の反映(うつし)なり」という言葉についても、ここにある「個霊」の語は、人間の霊に限定すべきではないと述べている。さらに、『甘露の法雨』で説かれている「感覚にて視得るものはすべて心の影にして第一義的実在にあらず」という真理に言及して、この「感覚にて視得るもの」も人間に限定すべきでないとしているし、「感覚はこれ信念の影を視るに過ぎず」との意味も、自然界すべてに及ぶものだと説いている。これらのことは、聖経に書かれた言葉をきちんと理解して読めば、初めからそういう意味で説かれているのであるが、これまでとかく見過ごされてきたと思うのである。つまり、聖経では自然と人間の一体性が説かれているのに、それに気がつかずに読んできた場合も多々あるだろうから、『大自然讃歌』ではそのことを詩文の量的にも、また表現の明確さにおいても、前面に押し出している。そういう意味での「補強」なのである。

 このことは、何も聖経に限られたことではない。『生命の實相』など谷口雅春先生の他の聖典にも、自然界の事象や出来事を先生自らの“心の鏡”として理解し、そこから学ばれようとする態度は明確である。例えば、『生命の實相』聖詩篇(頭注版第20巻)に収録された「甘露の法雨」以外の“生長の家の歌”にも、自然界の出来事を取り上げたものが数多くある。具体的には「生きた生命」「花園にて」「光明の国」「太陽の讃歌」がそれだ。また、同じ巻の自伝篇の部分に出てくる「野の百合の生きる道」という詩も、野生のユリに先生がご自分の理想の生き方を投影されているという点で、人間と自然との一体性を前提とした作品である。詩文のようなものだけでなく、哲学的な論文形式のご文章でも、同じことが言える。自然界の現象を冷静に観察し、そこから真理に到達しようとされる谷口雅春先生の真剣な態度は、多くの生長の家信徒の心を打ったに違いない。その代表的なご文章は、同じ『生命の實相』第20巻の冒頭にある「ヘビとカエルの闘争」の話である。

 読者に思い出していただくために、その一部を引用しよう--

「自分はある日殿様蛙が一匹の小さなる蛇に呑まれる光景を自宅の庭で目撃したことがある。蛙は蛇に呑まれるべくあまりに大きすぎるためにそれを呑みつくすのに一時間以上もかかった。その長い間大いなる蛙はその四肢を苦しそうに打ちもがかせながらビリビリと痙攣的に全身を震わしていた。自分はその蛙でないから蛙が本当に痛がり、また苦しんでいたのかどうかは知らない。しかしその苦痛そうに見える四肢のもがきや、“生命”の同胞が相食べんでいる光景を“生命”の同胞の一人なる自分がみることは、ただそれを見ることだけでも幸福なる事実でない。かくのごとき事実を自分は不調和なりと感じないわけにはゆかない」。(同書、pp. 3-4)

 このような例を見てくると、生長の家がその立教の当初から「自然と人間」の調和について大きな関心を払ってきたことは疑いない事実なのである。
 
 谷口 雅宣

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コメント

総裁谷口雅宣先生

合掌 ありがとうございます。
『大自然讃歌』と『観世音菩薩讃歌』をご執筆されましたことを深く感謝しております。

私自身は、自分は自然の一部であり、自然に感謝し、自然とともに伸びる運動をしていきたいと深く思いながらも、一方では、『大自然讃歌』の10頁にあります天童子と同じ疑問があり、頭では生長の家は生かし合いの世界だと説いていることは分かっていましても、自分の中ではどう解釈すればよいか分かっていませんでした。

『大自然讃歌』を繰り返し読み上げていますと、何となく心の中が落ち着いてきました気がしまして嬉しく思っております。

また、『観世音菩薩讃歌』の這い回る幼児の話にも感銘致しました。これだけ環境を悪化してきました私たち人類も罪を犯しているのではなく、神の愛に守られて“這う”行為をして来ました。いつまでも這うのではなく、今後は、より人間らしい、神の子らしい行動(二脚であるく)を起こしていけばいいという安心感を頂きました。
(勝手で、誤解した解釈かも知れませんが、神の愛の深さに感動致しました。)

ところで、ブラジル人である私にとっては、聖経としての言葉の言い回しは多少難しく、理解の誤解がないように、自分なりに自分のために翻訳していましたら、そこで、一点気になりますところが出てきました。

>また、同じく『天使の言葉』にある「億兆の個霊(みたま)も、悉くこれ唯一神霊の反映(うつし)なり」という言葉についても、ここにある「個霊」の語は、人間の霊に限定すべきではないと述べている。

『天使の言葉』ポルトガル語版は、
"Sabei que a infinidade de almas humanas sao todas reflexos do mesmo Espirito Divino" とあります。

「個霊」という言葉が「人間霊」(almas humanas)と訳されています。今までは、日本語版もポルトガル語版も日常生活の中で読み上げてきましたのに、総裁先生がその部分を強調されますまでは、全然気づいていませんでした。それだけ、「人間霊」として私自身は偏った理解をしていましたと反省いたしました。

再拝

投稿: erica | 2012年10月 2日 (火) 12時32分

総裁先生,ありがとうございます。
「大自然讃歌」有り難く拝読しております。先日の台風17号通過の折り,「台風さんありがとうございます。願わくは,大きな被害無く,特に被災地に大きな影響なく通り過ぎてください。」と前置きをして拝読しました。その祈りが通じたのかどうか因果関係はわかりません。でも結果的には人的被害はなく,影響も最小限のうちに足早に台風は通り過ぎていきました。有り難いことです。台風という大きな自然現象に対して,そんな気持ちで迎えられたことが有り難いと思っております。
再拝

投稿: 佐々木(宮城教区生教会) | 2012年10月 2日 (火) 19時00分

総裁先生、ありがとうございます。

先生が発表された『大自然讃歌』と『観世音菩薩讃歌』についての私の周囲での反応は、ご文章の中で説かれている真理を読みながらイメージすることにおいて、〝先の聖経4部作より現代風にイメージしやすくて読みやすい〟というような印象を持っておられる方が散見されます。
私にとっては、先の聖経4部作も今般の讃歌2部作も一応に同じように情景をイメージしながら真理を読めますので、新旧ともに素直に受け入れることができます。
さらに感想を述べさせていただくならば、先の聖経4部作(特に『甘露の法雨』)は『生命の實相』を短編にまとめられた自由詩で、当時の時代的背景の中での事象から最も相応しい言葉を選んで文章表現されています。
これらに対して、今般の総裁先生の讃歌2部作は、現代の近似の事象を選んで文章表現され、現代の若者にも『生命の實相』に説かれている真理を短編的な自由詩を通じて表現なされたものという風に感じています。
どちらも〝實相とは何か?〟という真理を説いてる面においては、具体的に使われている言葉による表面的な違いを超えて〝同じ真理を説いている〟という認識でいます。
さらに個人的には、この〝どちらも同じ真理を説いている〟ことを多くの方々に伝えられるようになりたいと思っています。

感謝礼拝

投稿: 阿部裕一 | 2012年10月 3日 (水) 11時10分

総裁 雅宣先生                    幸運なことに、9月の団参に参加させていただきました。本山に向かうバスの中で、「観世音菩薩讃歌」に救われていきつつある喜びを聞かせてくれた大幹部の方がありました。また、本山では、楠本総務が「大自然讃歌」のすばらしさを力説してくださいました。20年ぶりに生長の家に復帰し、団参に参加した友人は「観世音菩薩讃歌」を読んで1日を始めているが、楽しくて、楽しくてといっています。私も尊い聖経の中で理解し得ていない面の、心のもやもやが讃歌を読ませていただくことで新しい力と喜びに変わるのを感じています。総裁先生の御愛念に感謝、感動です。 ありがとうございます。   

投稿: 赤嶺里子 | 2012年10月 5日 (金) 11時36分

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