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2012年10月

2012年10月28日 (日)

自然と人間は一体なり

 今日は午前10時から、東京・原宿の生長の家本部会館ホールで「谷口清超大聖師四年祭」がしめやかに挙行された。私は谷口清超先生に絶大な感謝を捧げつつ玉串奉奠を行い、祭の最後に概略、以下のような言葉を述べた--

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 皆さん、本日は谷口清超大聖四年祭にたくさんお集まりくださり、ありがとうございます。

 谷口清超先生は、今からちょうど4年前の平成20年10月28日に89歳で昇天されました。その1年後の平成21年8月20日付で、先生のご生前の御徳を偲ぶ『真・善・美を生きて』という追悼グラフが出版されました。このグラフには、そのタイトルの通り、清超先生が「真」「善」「美」を心から愛されたこと--つまり、真理宣布と善の実現、美の表現のために一生を捧げられたことが、先生のご文章と沢山のカラーとモノクロの写真を使って記録されています。その中に、ご著書の『限りなく美しい』(1999年)の「はしがき」が引用されているので、それを今日は皆さんに紹介したいのであります。グラフの中では、この「はしがき」には「自然は“真・善・美”を兼ね備えている」という表題がついています。
 
 (同書、pp.1-3 を引用する)
 
 なかなか含蓄のあるご文章で、これをすべて解説しようとすると、30分や1時間はすぐにたってしまいます。そこで、分かりやすい点だけを少し説明いたしましょう。
 
 ここには「真・善・美が、自然界にはかなり現れている」とあり、さらには「神は“真・善・美”それ自体だからである」と書かれています。ですから、ここで説かれている大きな主題は、「自然界は“真・善・美”という神の御徳の現れである」ということです。しかし、「完全な現れ」ではなく「かなりの現れ」であるということで、その現れの程度については、人間の心が大いに関係していると説かれています。「人間の迷いが自然の秩序を破壊すると、この世界の迷妄は限りなく広がり、遂に地球生物全ての死滅にまで到るのである」と書いてあることに、私たちは注目しなければなりません。ここには、人間の心と自然界との深いつながりが説かれているのです。
 
 また、その「“真・善・美”それ自体」は感覚にとらえられない、とあります。しかし、その神の国の実在を信じ、これを観る訓練が「新世紀」には必要だと書かれています。ここで使われている「観る」という字は、神想観の「観」の字ですから、肉眼の目で見るのではなく、「心で観る」という意味合いです。それを「新世紀」には訓練する必要があると説かれている点が重要です。よく考えてみれば、これは「日時計主義」のことなのです。ここではその用語は使われていませんが、清超先生は日時計主義こそ21世紀に必要な実践である、とこの「はしがき」で説かれているのです。私の書いた『日時計主義とは何か?』の本の発行は2007年ですから、新世紀の開始時点からやや遅れてしまいましたが、それでも私たちは今、先生のご意向に沿った方向へ運動を展開していることがお分かりいただけると思います。
 
 さて、翻って考えてみると「自然と人間」とを分けて考え、自然より人間を優先する考え方、人間のためには自然を破壊したり、改変したりすることは自由に行われてよいという考え方が、まだ世界には蔓延しています。しかし、「人間と自然の一体性」については、日本の文化・伝統では当たり前のこととされてきたことを忘れてはいけません。これは、『古事記』や『日本書紀』に出てくる神々の話に始まり、日本家屋の建築様式、茶道・華道・書道、さらには俳句、短歌などの芸術、里山を育ててきた生活の伝統……このような日本人の考え方、生き方の基本には、人間と自然の一体性が前提としなっていることを思い出してください。このことを思えば、経済発展のためならば自然破壊は仕方がないという考え方は本来「日本的でない」と言わねばならないのです。ところが、不思議なことに、政治的には“保守”とか“右側”を自認する人々の多くは、自然を犠牲にした経済発展で人間の幸福が実現すると主張しています。私は、口では「日本の伝統を大切にする」と言う人々が、日本人の自然観と自然を敬う心をいとも簡単に捨て去ることが、不思議でなりません。

 私は最近、「生長の家と自然」という題でブログを書いています。生長の家が昔から、自然と人間とが大調和する生き方を説いてきたことを再確認するためです。大自然の中に神を観るのが、生長の家の世界観だからです。ところが、それに対して、ある読者から「もっと人間を問題にせよ」という助言をいただきました。その人が言うには、「宗教団体のトップあるいは“宗教家”としては、環境問題にも繋がっていることとはいえ、まず何より“人間苦の解放”が先でしょう。それがなければ、高コストの環境対策など出来るものではありません」というのです。しかし、この考え方には、人間苦と自然破壊とは関係がないという前提があると思われます。つまり、人間苦の方を先に解決してから、自然破壊の問題に取り組めばいいというのです。あるいは、宗教運動はまず人間社会の問題の解決に優先して取り組み、残りの時間があれば環境問題をやればいいというのです。しかし、本当にそうでしょうか?
 
 私は、福島第一原子力発電所の事故によって故郷を追われ、やむを得ず別の土地で生活している人々に、同じ言葉を投げかけてみたら、どんな答えが返ってくるかと思います。放射能に汚染された広大な地域の自然環境を放置しておいて、人間社会の問題を先に解決することなどできるでしょうか? 私はできないと思います。農業も漁業も林業も、豊かな自然環境なくしては成り立ちません。その自然にとって有害な放射線を大量に出す原発は、何のためにあるのでしょうか? それは、東京を中心とした首都圏の経済活動のためにあるのです。都会と工業地帯で消費するエネルギーのためにあるのです。そういう経済優先の政策を戦後ずっと継続してきた中で、はたして人間苦の問題が解決されたというのでしょうか? 事実は、その逆ではなかったでしょうか?
 
 私たちはそういう反省の上に立って、効率優先、大量消費の都会生活の渦中から脱して、不便ではあっても、自然との共存共栄の中に幸福を見出す道を選んだのであります。言い換えれば、人間苦の問題解決は、自然と人間との調和なくしてあり得ないということです。そして、この考え方は、生長の家の根本的教えの1つである「大調和の神示」の中に明確に示されています--「汝ら天地一切のものと和解せよ。天地一切のものとの和解が成立するとき、天地一切のものは汝の味方である。天地一切のものが汝の味方となるとき、天地の万物何物も汝を害することは出来ぬ」ということです。
 
 私たちは、自然と人間とを分ける考え方から脱却し、谷口清超先生が説かれた真・善・美を地上に現す生き方、すなわち神の国の実相顕現の運動をさらに熱烈に推進し、自然と人間がともに繁栄する“自然と共に伸びる”運動を成功させていきましょう。清超先生の四年祭に当たって、所感を述べさせていただきました。ありがとうございます。
 
 谷口 雅宣

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2012年10月24日 (水)

生長の家と自然 (4)

 本シリーズではこれまで、生長の家の信仰の根本を示す「大調和の神示」が、人間社会の調和だけでなく、「人間と自然界との調和」を神の創造世界の実相として説いていることを、『生命の實相』『真理の吟唱』などから引用して示してきた。今回は聖経『甘露の法雨』を取り上げて、その詩文にも同じことが説かれていることを示そう。

 まず、冒頭の「神」の項には、神の御徳が次のように描かれている--
 
 創造の神は
 五感を超越している、
 六感も超越している、
 聖
 至上
 無限
 宇宙を貫く心
 宇宙を貫く生命
 宇宙を貫く法則
 …………
 
 この詩文で、神を「無限」と表現していることの意味を、先生は次のように説かれている--
 
「(前略)これはもうお解りの通り限りがないことです。どこにでも充ち満ちておられる。(中略)神は遍在であり、どこにでも充ち満ちていらっしゃる--すなわち“無限”なのです。したがって皆様の内にもいらっしゃる。どんな堅い骨の中でも、歯の中でも、内臓の中にでも、食物の中にでもいらっしゃるのであって、神様のいらっしゃらないところはないのであります。
 これは神様のみち満ちていらっしゃる広がりについて言ったのでありますが、広がりだけではないのでありまして、どんな姿にでも顕れられる。それも亦無限なのであります。どんな色にでも現れるし、どんな形にでも現れる。すべての生きとし生けるもの、植物でも、鉱物でも、動物でも、ありとしあらゆるもの、みんな神様の顕れでありますが、無限に異る姿をしているのであります。これだけ多勢の人がお集りになっても、一人として同じ顔をしている人はいないのです。
 人間だけではない、木の葉一枚にしてもそうです。此処に一枝の紅葉(もみじ)があるとしても、一本の木だからどの紅葉も同じ形をしているかと言うと、そうではないのであって、あの紅葉の葉をちぎって重ねて見ると一つとしてぴたりとひとつに重なるものはないのでありまして、皆多少異うのであります。そのように無限に異なる姿のものを又無限に産み出すところの本元が神さまなのでありますから、神さまはまだまだ無限であると言う訳でありまして、神様は自己の内に無限の姿、イメージ又はアイディアを有ち給うのであります。」(『新講「甘露の法雨」解釈』、pp.37-38--原文は旧漢字旧仮名遣い。以下同じ)
 
 ここを読めば、自然界のすべてに神の「無限」の御徳が満ちている、と先生が説かれていることは明らかだ。つまり、自然界はその隅々までも神の住処であり、神の表現物であるということだ。では、そこにいわゆる“生存競争”のような闘争が観察されるのは、なぜだろう? これを説明するためには、「実相」と「現象」という、生長の家で最も基本的な考え方を導入しなければならないが、ここでは本シリーズのテーマに焦点を合わせたいので、詳しい説明は割愛する。
 
 生長の家では、“生存競争”と呼ぶような殺し合いを世界は現象であり、実相においては存在しないと考える。では、神の創造になる世界の実相は、どのような状態なのか? それを「神」の項は、次のように描いている--
 
 神があらわるれば乃ち
 善となり、
 義となり、
 慈悲となり、
 調和おのずから備わり、
 一切の生物処を得て争うものなく、
 相食むものなく、
 病むものなく、
 苦しむものなく、
 乏しきものなし。
 
 ここに引用した詩文の後半は、「生物間の大調和」を描いていることは明らかだ。これが、神の創造の世界の実相だと考えるのである。「生物間」だから当然、人間と他の生物との関係も含む。それを、谷口雅春先生ご自身はこう解説されている--
 
「吾々は肉眼というレンズを通して五感という感覚器官を通してみると、現象世界の色々の争いや闘いや食い合いや殺し合いの有様を見るのであります。しかし実相においては凡ての生物は互いに食い合っていないのである、殺し合いをしている肉食動物などというものは、実相の世界の中には居ないのでありまして、実相においては互いに殺し合いなどしていないのであるけれども、その人の心の立場において或る角度から眺めて見ると、殺し合いをしているように見える。“見える”ということと“実際にある”ということとはちがう。」(p.64)

 こう述べられた後に、雅春先生は「実相においては一切の生物は(人間をも含めて)完全に調和していて、戦いや食い合いはない」と書かれている。つまり、『甘露の法雨』のこの詩文が描く「生物間の完全な調和」の中には人間も含まれていて、すべての存在は大調和の中にあると説かれているのである。

 谷口 雅宣
 

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2012年10月20日 (土)

生長の家と自然 (3)

 本シリーズの前回では、昭和6年に下された「大調和の神示」が示す真理が生長の家の信仰の根本であることを、同神示が聖経『甘露の法雨』や『生命の實相』の冒頭にあること、また「生長の家教規」に「教義」として掲げられた唯一の神示であることを指摘しながら書いた。また、この神示にある「天地一切のものとの和解」とは、人間同士の和解はもちろん、人間と自然界との和解も含まれていることを述べた。さらに、これらを前提に考えれば、『生命の實相』に掲げられた「七つの光明宣言」中の4宣言までが「生命」という言葉を含むが、この「生命」の中には人間生命だけでなく、自然界に属するすべての生命を含むと解すべきだと書いたのだった。

 このように、生長の家の運動が生命全体の大調和の実現を目指していることを示す有力な証拠は、谷口雅春先生の著『真理の吟唱』にある祈りの言葉の中にも見出される。この著作は、昭和45(1970)年に初版が出た当時は「聖経」の名が冠されていなかったが、その後、『聖経 真理の吟唱』と改められた。これは、雅春先生ご自身がこの書の重要性を認められたことを示している。そして、この聖経の冒頭を飾る祈りの言葉「新生を感謝する祈り」を読むと、「大調和の神示」にある「天地一切のものとの和解」の意味が明確に示されていることを発見するのである。
 
 その部分を引用しよう--
 
「神はすべてのすべてであり給う。天地一切のものは、神の愛と智慧と生命との顕現であり、私たち人間も神の愛と智慧と生命の顕現であるから、天地一切のものと、私たち人間とは、同根であり、兄弟姉妹であるのである。それゆえに、天地間一切のもの悉くみな私たちの味方であって、私たちを害する者など何一つないのが実相であるのである。
 もし私たちが何者かに害されたり傷ついたりすることがあるならば、天地と同根であり一切の存在と兄弟姉妹である自分の実相をわすれて、天地一切のものと自分の心とが不調和になったことの反映であるから、神は“省みて和解せよ”と教えられているのである。」(p.11)
 
 読者はすぐに気づかれたと思うが、このくだりは、前回の本シリーズで言及した「大調和の神示」の引用部分の解説になっている。そして、この祈りの言葉の中には、「天地一切のもの」とは「自然界すべてのもの」という意味だということが明示されている。それは、「天地一切のものは、神の愛と智慧と生命との顕現であり、私たち人間も神の愛と智慧と生命の顕現であるから、天地一切のものと、私たち人間とは、同根であり、兄弟姉妹であるのである」という部分だ。ここでは「私たち人間」と「天地一切のもの」が併記されていて、両者の調和が強調されているのであり、「人間同士の調和」については直接述べられていない。つまり、神の創造になる実相世界では、人間と自然界とは初めから大調和の関係にあるということで、これは、「自然と人間の大調和を観ずる祈り」の冒頭にある次の言葉と同じ意味であることが分かる--
 
「神の創造(つく)り給いし世界の実相は、自然と人間とが一体のものとして常に調和しているのである。」
 
『真理の吟唱』に収録された祈りの言葉の中には、このほかにも大自然と人間との不可分の関係を説いたものがいくつもある。「天下無敵となる祈り」は、まず「宇宙全体が神の自己実現である」と宣言し、「宇宙にある一切の存在にはすべて神の生命と愛と智慧とが宿って」いると説いた後、人間は皆自他一体の関係にあることを述べ、さらに続けて人間と自然との関係について次のように説いている--
 
「すべての人々の生命がわが生命と一体であるだけではなく、すべての動物・植物の生命とも私は一体であるから、すべての動物・植物に対しても私は愛を感ずるのである。それゆえにいかなる動物からも害されることはないのである。すべての昆虫、その他、這う虫、飛ぶ虫のわざわいをも受けることなく、わが果樹園にも茶園にも田畑にも害虫の被害などはないのである。いかなる細菌も真菌もヴィールスも、すべて“生”あるものは、神のいのちを宿しこの世に出現せるものであるから、“神の子”である私を害することは決してないのである。宇宙の一切の生命は、唯ひとつの神の生命に生かされ、唯ひとつの神の智慧に支配され、導かれているが故に、生き物たがいに相冒(あいおか)し合いて病いを起すなどということはあり得ないのである」(pp.95-96)

 実相世界における自然界と人間の一体性と大調和の関係は、このほかにも「有情非情悉く兄弟姉妹と悟る祈り」「良きアイディアを受信するための祈り」「金剛不壊の真身を自覚する祈り」などの中に明確に説かれている。読者はぜひそれらを参照されたい。

 谷口 雅宣

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2012年10月18日 (木)

『週刊文春』を買うなかれ!

 週刊誌がいいかげんな記事を書くことは読者も十分ご存じだろうが、10月25日号の『週刊文春』で生長の家に触れた記事のデタラメさには開いた口が塞がらなかった。今朝の新聞に載った同誌の広告の見出しを読んで、同誌を買おうと考えている人がもしいたとしたら、私は「お金と時間のムダ遣いは、やめた方がいいです」とご忠告申し上げたい。では、そんなツマラナイ記事のためにお前はなぜブログを書くのか? と訊かれるならば、「事実無根のデタラメを、事実だと認めるわけにはいかないから」とお答えするほかはない。
 
 同誌の記事の大要をひと言で表現すれば、「橋下大阪市長の“日本維新の会”の東京事務所の維持費を生長の家が負担する合意ができた」ということで、全くのデタラメである。同記事は、この資金提供の理由もまことしやかに書いているが、これまた全くのデタラメである。同記事によると、その理由は、生長の家総裁である私が「政治に未練を残していても不思議はない」からだと言う。アホらしくて、反論する気にもなれない。本欄の読者なら誰でも、私が今の日本の政治に何か希望や期待をしているなどと感じていられないだろうし、いわんや「生長の家が政治活動に復帰する」などということが、いかに現実的でないかをよくご存じである。私たちは、今のグチャグチャ状態の国政に見切りをつけて、信仰によって国民一人一人の自覚を深め、“神の御心”を生活に実践し、人々にそれを伝えることを通して社会を変革していく道を、従来の方針通りに力強く進んでいくだけである。
 
 ジャーナリズム出身の私として、この記事について最も解せないことは、この完全な“ガセネタ”(根拠のない情報)を橋下氏自身が記事の中で完全に否定し、生長の家の広報担当者も否定し、生長の家と橋下氏との間に立ったとされる中田宏・前横浜市長に訊いても「全面的に否定するコメントが事務所を通じて寄せられた」と書いているにもかかわらず、強引に記事に仕立て上げて出版するという態度である。ある事象について、その関係者全員が全面否定していることを事実だとして書くことがあるならば、その記事は“おとぎ話”か“空想物語”だと呼ぶべきだと私は思う。しかし、その場合でも、実在の人物を実名で登場させるというのは、いかにも想像力が枯渇していないだろうか……。

 谷口 雅宣

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2012年10月10日 (水)

生長の家と自然 (2)

 前回の本欄で、私は「生長の家がその立教の当初から“自然と人間”の調和について大きな関心を払ってきた」と書いたが、それは「数多くの関心の中の1つ」という程度の軽いものではない。それを最も有力に語っているのが「大調和の神示」である。この神示は、多くの神示の中でも、生長の家の宗教上の根本規則である「生長の家教規」の中に「教義」として掲げられた唯一のものだ。そして、多くの読者はご存じのように、冒頭を飾る言葉は「汝ら天地一切のものと和解せよ」である。気がついていただきたいのは、和解する相手が「天地一切の人々」ではなく、「天地一切のもの」である点だ。「一切のもの」とは、人間を含み、人間を超えたすべての存在という意味で、「大自然」とほぼ同義語である。そのあと、神示はこう続く--
 
「天地一切のものとの和解が成立するとき、天地一切のものは汝の味方である。
 天地一切のものが汝の味方となるとき、
 天地の万物何物も汝を害することは出来ぬ。
 汝が何物かに傷つけられたり、
 黴菌や悪霊に冒されたりするのは
 汝が天地一切のものと和解していない証拠であるから
 省みて和解せよ。」
 
 これを読めば、神示は昭和6年の当初から、「自然界」を含めた「天地の万物」すべてに対して和解することを命じてきたことは明らかである。「黴菌」について書いてあるのは、「黴菌だけと和解せよ」という意味ではなく、「黴菌とさえ和解せよ」という強調の意味を込めた例示である。だから、上の引用文の最初の3行は、次のように書き直しても意味上の違いはほとんどないはずである--
 
「大自然との和解が成立するとき、大自然は汝の味方である。
 大自然が汝の味方となるとき、
 大自然の中の何物も汝を害することは出来ぬ。」
 
 このように考えると、生長の家の信徒が大自然の素晴らしさを称える「大自然讃歌」を読誦することは、「大調和の神示」の教えを実践する方法の1つとして捉えることができるのである。
 
 「大調和の神示」が生長の家の教えの中で重要であるということは、それが現行の教規に収録されている唯一の神示だというだけでなく、『生命の實相』第1巻の冒頭にある『ヨハネの黙示録』の引用文のすぐ後に掲げられていることからも分かる。『黙示録』は聖書の一部だから、谷口雅春先生ご自身の文章として、先生の代表的著作『生命の實相』の冒頭を飾るのは「大調和の神示」なのである。その神示の冒頭で、自然界を含めた「天地一切のものと和解せよ」と命じられている重みを、私たちは忘れてはいけない。
 
 さて、その『生命の實相』であるが、その第1巻「総説篇」の冒頭にあるのは「七つの光明宣言」である。読者は、この宣言の第1項を憶えているだろうか? それは、次の通りである--
 
「一、吾等は宗派を超越し生命を礼拝し生命の法則に随順して生活せんことを期す。」

 ここに「生命を礼拝」とあり、「生命の法則」とあることに注目してほしい。この「生命」とは、人間の生命だけを指すのだろうか、それとも自然界の中のすべての生命を指すのだろうか? 私は、後者が正しい解釈だと考える。その理由は、谷口雅春先生が「生命」と書かれる時は、一般的には「人間」に関わることが多いのであるが、「人間を含む生物全体」を指すことがほとんどであるからだ。例えば、前回の本欄で引用した「ヘビとカエルの闘争」の話では、先生はヘビに呑まれつつあるカエルの苦痛の様子について、次のように書かれていた--
 
「その苦痛そうに見える四肢のもがきや、“生命”の同胞が相食んでいる光景を“生命”の同胞の一人なる自分がみることは、ただそれを見ることだけでも幸福なる事実でない。」

 ここでは明らかに、先生はヘビやカエルを「生命の同胞」として捉え、そう感じておられるのだ。ということは、光明宣言の第1項で宣言された「生命を礼拝」することは、人間の命だけでなく、自然界の他の生物の命を礼拝することも意味するのである。そして、これと同じ観点から光明宣言の次項以降を読み直してみれば、第2項から4項までが生物界全体に関わるということが分かるはずである。

「二、吾等は生命顕現の法則を無限生長の道なりと信じ個人に宿る生命も不死なりと信ず。」
「三、吾等は人類が無限生長の真道(まことのみち)を歩まんが為に生命創化の法則を研究発表す。」
「四、吾等は生命の糧(かて)は愛にして、祈りと愛語と讃嘆とは愛を実現する言葉の創化力なりと信ず。」

 
 谷口 雅宣

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2012年10月 1日 (月)

生長の家と自然

 私は今年3月末の本欄で、「新年度の始まりに寄せて」と題して今年度の運動の方向性を展望したとき、9・11やそれに続く“テロとの戦い”の昏迷、人間の自然破壊と地球温暖化の進行、さらには東日本大震災とそれによる原発事故など昨今の一連の悪現象の流れの背後に、「神-自然ー人間」の間の不調和があることを述べ、これを解消するためには、これら三者の間の大調和を心に強く描くことが必要であることを訴えた。そして、そのための方法の一つとして、『大自然讃歌』と『観世音菩薩讃歌』を本欄に発表して、これを先に出版した『日々の祈り』に収録された祈りの言葉とともに、読者に利用してもらいたい旨を述べた。その時、これら2つの自由詩の意図についてこう書いたのだった--「私の長編詩は、形式としてはこれら聖経に似てはいるが、それに取って代わるものでは決してない。そうではなく、むしろ聖経で説かれた真理を引用しながら、聖経では強調されていなかった方面の教義--例えば自然と人間との関係など--について補強を試みている」。
 
 この「補強」ということについて、一部で誤解があるようなので少し説明しよう。私は、聖経『甘露の法雨』や『天使の言葉』の中に、例えば自然と人間の関係について「説かれていない」から、その欠落を補うためにこれらの長編詩を書いたのではない。説かれていても、詩編全体の中で量的にあまり多くないなど形式的に「強調されていなかった」ので、それを強調する必要を感じたのである。このほど経本の形で出版された『大自然讃歌』を入手された方はお分かりだが、2つの聖経の中でそれが実際に説かれていた証拠として、経本版『大自然讃歌』では聖経からの引用箇所を鈎括弧でくくって明確に示してある。
 
 例えば、『天使の言葉』にある「外形は唯自己の信念の影を見るに過ぎず」という言葉は、この「外形」を人間に限定して理解する必要はなく、人間と異なる外形をもった生物についても、それを“異物”として排除してはいけないと説いている。また、同じく『天使の言葉』にある「億兆の個霊(みたま)も、悉くこれ唯一神霊の反映(うつし)なり」という言葉についても、ここにある「個霊」の語は、人間の霊に限定すべきではないと述べている。さらに、『甘露の法雨』で説かれている「感覚にて視得るものはすべて心の影にして第一義的実在にあらず」という真理に言及して、この「感覚にて視得るもの」も人間に限定すべきでないとしているし、「感覚はこれ信念の影を視るに過ぎず」との意味も、自然界すべてに及ぶものだと説いている。これらのことは、聖経に書かれた言葉をきちんと理解して読めば、初めからそういう意味で説かれているのであるが、これまでとかく見過ごされてきたと思うのである。つまり、聖経では自然と人間の一体性が説かれているのに、それに気がつかずに読んできた場合も多々あるだろうから、『大自然讃歌』ではそのことを詩文の量的にも、また表現の明確さにおいても、前面に押し出している。そういう意味での「補強」なのである。

 このことは、何も聖経に限られたことではない。『生命の實相』など谷口雅春先生の他の聖典にも、自然界の事象や出来事を先生自らの“心の鏡”として理解し、そこから学ばれようとする態度は明確である。例えば、『生命の實相』聖詩篇(頭注版第20巻)に収録された「甘露の法雨」以外の“生長の家の歌”にも、自然界の出来事を取り上げたものが数多くある。具体的には「生きた生命」「花園にて」「光明の国」「太陽の讃歌」がそれだ。また、同じ巻の自伝篇の部分に出てくる「野の百合の生きる道」という詩も、野生のユリに先生がご自分の理想の生き方を投影されているという点で、人間と自然との一体性を前提とした作品である。詩文のようなものだけでなく、哲学的な論文形式のご文章でも、同じことが言える。自然界の現象を冷静に観察し、そこから真理に到達しようとされる谷口雅春先生の真剣な態度は、多くの生長の家信徒の心を打ったに違いない。その代表的なご文章は、同じ『生命の實相』第20巻の冒頭にある「ヘビとカエルの闘争」の話である。

 読者に思い出していただくために、その一部を引用しよう--

「自分はある日殿様蛙が一匹の小さなる蛇に呑まれる光景を自宅の庭で目撃したことがある。蛙は蛇に呑まれるべくあまりに大きすぎるためにそれを呑みつくすのに一時間以上もかかった。その長い間大いなる蛙はその四肢を苦しそうに打ちもがかせながらビリビリと痙攣的に全身を震わしていた。自分はその蛙でないから蛙が本当に痛がり、また苦しんでいたのかどうかは知らない。しかしその苦痛そうに見える四肢のもがきや、“生命”の同胞が相食べんでいる光景を“生命”の同胞の一人なる自分がみることは、ただそれを見ることだけでも幸福なる事実でない。かくのごとき事実を自分は不調和なりと感じないわけにはゆかない」。(同書、pp. 3-4)

 このような例を見てくると、生長の家がその立教の当初から「自然と人間」の調和について大きな関心を払ってきたことは疑いない事実なのである。
 
 谷口 雅宣

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