自然と人間は一体なり
今日は午前10時から、東京・原宿の生長の家本部会館ホールで「谷口清超大聖師四年祭」がしめやかに挙行された。私は谷口清超先生に絶大な感謝を捧げつつ玉串奉奠を行い、祭の最後に概略、以下のような言葉を述べた--
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皆さん、本日は谷口清超大聖四年祭にたくさんお集まりくださり、ありがとうございます。
谷口清超先生は、今からちょうど4年前の平成20年10月28日に89歳で昇天されました。その1年後の平成21年8月20日付で、先生のご生前の御徳を偲ぶ『真・善・美を生きて』という追悼グラフが出版されました。このグラフには、そのタイトルの通り、清超先生が「真」「善」「美」を心から愛されたこと--つまり、真理宣布と善の実現、美の表現のために一生を捧げられたことが、先生のご文章と沢山のカラーとモノクロの写真を使って記録されています。その中に、ご著書の『限りなく美しい』(1999年)の「はしがき」が引用されているので、それを今日は皆さんに紹介したいのであります。グラフの中では、この「はしがき」には「自然は“真・善・美”を兼ね備えている」という表題がついています。
(同書、pp.1-3 を引用する)
なかなか含蓄のあるご文章で、これをすべて解説しようとすると、30分や1時間はすぐにたってしまいます。そこで、分かりやすい点だけを少し説明いたしましょう。
ここには「真・善・美が、自然界にはかなり現れている」とあり、さらには「神は“真・善・美”それ自体だからである」と書かれています。ですから、ここで説かれている大きな主題は、「自然界は“真・善・美”という神の御徳の現れである」ということです。しかし、「完全な現れ」ではなく「かなりの現れ」であるということで、その現れの程度については、人間の心が大いに関係していると説かれています。「人間の迷いが自然の秩序を破壊すると、この世界の迷妄は限りなく広がり、遂に地球生物全ての死滅にまで到るのである」と書いてあることに、私たちは注目しなければなりません。ここには、人間の心と自然界との深いつながりが説かれているのです。
また、その「“真・善・美”それ自体」は感覚にとらえられない、とあります。しかし、その神の国の実在を信じ、これを観る訓練が「新世紀」には必要だと書かれています。ここで使われている「観る」という字は、神想観の「観」の字ですから、肉眼の目で見るのではなく、「心で観る」という意味合いです。それを「新世紀」には訓練する必要があると説かれている点が重要です。よく考えてみれば、これは「日時計主義」のことなのです。ここではその用語は使われていませんが、清超先生は日時計主義こそ21世紀に必要な実践である、とこの「はしがき」で説かれているのです。私の書いた『日時計主義とは何か?』の本の発行は2007年ですから、新世紀の開始時点からやや遅れてしまいましたが、それでも私たちは今、先生のご意向に沿った方向へ運動を展開していることがお分かりいただけると思います。
さて、翻って考えてみると「自然と人間」とを分けて考え、自然より人間を優先する考え方、人間のためには自然を破壊したり、改変したりすることは自由に行われてよいという考え方が、まだ世界には蔓延しています。しかし、「人間と自然の一体性」については、日本の文化・伝統では当たり前のこととされてきたことを忘れてはいけません。これは、『古事記』や『日本書紀』に出てくる神々の話に始まり、日本家屋の建築様式、茶道・華道・書道、さらには俳句、短歌などの芸術、里山を育ててきた生活の伝統……このような日本人の考え方、生き方の基本には、人間と自然の一体性が前提としなっていることを思い出してください。このことを思えば、経済発展のためならば自然破壊は仕方がないという考え方は本来「日本的でない」と言わねばならないのです。ところが、不思議なことに、政治的には“保守”とか“右側”を自認する人々の多くは、自然を犠牲にした経済発展で人間の幸福が実現すると主張しています。私は、口では「日本の伝統を大切にする」と言う人々が、日本人の自然観と自然を敬う心をいとも簡単に捨て去ることが、不思議でなりません。
私は最近、「生長の家と自然」という題でブログを書いています。生長の家が昔から、自然と人間とが大調和する生き方を説いてきたことを再確認するためです。大自然の中に神を観るのが、生長の家の世界観だからです。ところが、それに対して、ある読者から「もっと人間を問題にせよ」という助言をいただきました。その人が言うには、「宗教団体のトップあるいは“宗教家”としては、環境問題にも繋がっていることとはいえ、まず何より“人間苦の解放”が先でしょう。それがなければ、高コストの環境対策など出来るものではありません」というのです。しかし、この考え方には、人間苦と自然破壊とは関係がないという前提があると思われます。つまり、人間苦の方を先に解決してから、自然破壊の問題に取り組めばいいというのです。あるいは、宗教運動はまず人間社会の問題の解決に優先して取り組み、残りの時間があれば環境問題をやればいいというのです。しかし、本当にそうでしょうか?
私は、福島第一原子力発電所の事故によって故郷を追われ、やむを得ず別の土地で生活している人々に、同じ言葉を投げかけてみたら、どんな答えが返ってくるかと思います。放射能に汚染された広大な地域の自然環境を放置しておいて、人間社会の問題を先に解決することなどできるでしょうか? 私はできないと思います。農業も漁業も林業も、豊かな自然環境なくしては成り立ちません。その自然にとって有害な放射線を大量に出す原発は、何のためにあるのでしょうか? それは、東京を中心とした首都圏の経済活動のためにあるのです。都会と工業地帯で消費するエネルギーのためにあるのです。そういう経済優先の政策を戦後ずっと継続してきた中で、はたして人間苦の問題が解決されたというのでしょうか? 事実は、その逆ではなかったでしょうか?
私たちはそういう反省の上に立って、効率優先、大量消費の都会生活の渦中から脱して、不便ではあっても、自然との共存共栄の中に幸福を見出す道を選んだのであります。言い換えれば、人間苦の問題解決は、自然と人間との調和なくしてあり得ないということです。そして、この考え方は、生長の家の根本的教えの1つである「大調和の神示」の中に明確に示されています--「汝ら天地一切のものと和解せよ。天地一切のものとの和解が成立するとき、天地一切のものは汝の味方である。天地一切のものが汝の味方となるとき、天地の万物何物も汝を害することは出来ぬ」ということです。
私たちは、自然と人間とを分ける考え方から脱却し、谷口清超先生が説かれた真・善・美を地上に現す生き方、すなわち神の国の実相顕現の運動をさらに熱烈に推進し、自然と人間がともに繁栄する“自然と共に伸びる”運動を成功させていきましょう。清超先生の四年祭に当たって、所感を述べさせていただきました。ありがとうございます。
谷口 雅宣