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2012年10月10日 (水)

生長の家と自然 (2)

 前回の本欄で、私は「生長の家がその立教の当初から“自然と人間”の調和について大きな関心を払ってきた」と書いたが、それは「数多くの関心の中の1つ」という程度の軽いものではない。それを最も有力に語っているのが「大調和の神示」である。この神示は、多くの神示の中でも、生長の家の宗教上の根本規則である「生長の家教規」の中に「教義」として掲げられた唯一のものだ。そして、多くの読者はご存じのように、冒頭を飾る言葉は「汝ら天地一切のものと和解せよ」である。気がついていただきたいのは、和解する相手が「天地一切の人々」ではなく、「天地一切のもの」である点だ。「一切のもの」とは、人間を含み、人間を超えたすべての存在という意味で、「大自然」とほぼ同義語である。そのあと、神示はこう続く--
 
「天地一切のものとの和解が成立するとき、天地一切のものは汝の味方である。
 天地一切のものが汝の味方となるとき、
 天地の万物何物も汝を害することは出来ぬ。
 汝が何物かに傷つけられたり、
 黴菌や悪霊に冒されたりするのは
 汝が天地一切のものと和解していない証拠であるから
 省みて和解せよ。」
 
 これを読めば、神示は昭和6年の当初から、「自然界」を含めた「天地の万物」すべてに対して和解することを命じてきたことは明らかである。「黴菌」について書いてあるのは、「黴菌だけと和解せよ」という意味ではなく、「黴菌とさえ和解せよ」という強調の意味を込めた例示である。だから、上の引用文の最初の3行は、次のように書き直しても意味上の違いはほとんどないはずである--
 
「大自然との和解が成立するとき、大自然は汝の味方である。
 大自然が汝の味方となるとき、
 大自然の中の何物も汝を害することは出来ぬ。」
 
 このように考えると、生長の家の信徒が大自然の素晴らしさを称える「大自然讃歌」を読誦することは、「大調和の神示」の教えを実践する方法の1つとして捉えることができるのである。
 
 「大調和の神示」が生長の家の教えの中で重要であるということは、それが現行の教規に収録されている唯一の神示だというだけでなく、『生命の實相』第1巻の冒頭にある『ヨハネの黙示録』の引用文のすぐ後に掲げられていることからも分かる。『黙示録』は聖書の一部だから、谷口雅春先生ご自身の文章として、先生の代表的著作『生命の實相』の冒頭を飾るのは「大調和の神示」なのである。その神示の冒頭で、自然界を含めた「天地一切のものと和解せよ」と命じられている重みを、私たちは忘れてはいけない。
 
 さて、その『生命の實相』であるが、その第1巻「総説篇」の冒頭にあるのは「七つの光明宣言」である。読者は、この宣言の第1項を憶えているだろうか? それは、次の通りである--
 
「一、吾等は宗派を超越し生命を礼拝し生命の法則に随順して生活せんことを期す。」

 ここに「生命を礼拝」とあり、「生命の法則」とあることに注目してほしい。この「生命」とは、人間の生命だけを指すのだろうか、それとも自然界の中のすべての生命を指すのだろうか? 私は、後者が正しい解釈だと考える。その理由は、谷口雅春先生が「生命」と書かれる時は、一般的には「人間」に関わることが多いのであるが、「人間を含む生物全体」を指すことがほとんどであるからだ。例えば、前回の本欄で引用した「ヘビとカエルの闘争」の話では、先生はヘビに呑まれつつあるカエルの苦痛の様子について、次のように書かれていた--
 
「その苦痛そうに見える四肢のもがきや、“生命”の同胞が相食んでいる光景を“生命”の同胞の一人なる自分がみることは、ただそれを見ることだけでも幸福なる事実でない。」

 ここでは明らかに、先生はヘビやカエルを「生命の同胞」として捉え、そう感じておられるのだ。ということは、光明宣言の第1項で宣言された「生命を礼拝」することは、人間の命だけでなく、自然界の他の生物の命を礼拝することも意味するのである。そして、これと同じ観点から光明宣言の次項以降を読み直してみれば、第2項から4項までが生物界全体に関わるということが分かるはずである。

「二、吾等は生命顕現の法則を無限生長の道なりと信じ個人に宿る生命も不死なりと信ず。」
「三、吾等は人類が無限生長の真道(まことのみち)を歩まんが為に生命創化の法則を研究発表す。」
「四、吾等は生命の糧(かて)は愛にして、祈りと愛語と讃嘆とは愛を実現する言葉の創化力なりと信ず。」

 
 谷口 雅宣

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コメント

『天地一切のものと和解せよ』
動物も、自然も、ある意味生命の同胞ですが(神様が創造されたのですから)人間霊、動物霊、自然霊として見た場合、それぞれの存在、役割はやはり異なるのではないかと思います。そしてそれは、神様が創造された世界、法則ですから、人間の解釈で、一緒コタにしてはいけないと思います。雅宣先生は、本当に愛深いお方で、尊敬申し上げております。愛深いがゆえに、自然も、動植物も、地球にさえも大きな大きな愛を感じられるのだと思います。それぞれ万物の奥の奥の神を観、礼拝する。自然そのもの、動物そのものは、現れた現象ですが、最近の信徒は、その現れの媒体を信仰している感が強く、心配です。以上、私の素朴な疑問です。

投稿: 岡村 源治 | 2012年10月12日 (金) 10時09分

合掌ありがとうございます
私は環境の勉強をしています。勉強すればするほど、全ての命が一体であること、繋がっていること、を感じます。神様が創造された世界が、そのままで調和して素晴らしい、ということも、しっかり裏づけされます。草も木も、動物も虫も、みんな一つなんだと、しみじみ思います。そのままで素晴らしい世界に住んでいるんだな。この自然を本当に大切にしていかなければ、と思います。それを声を大にして説いてくださる雅宣先生に感謝します。

投稿: 水野奈美 | 2012年10月13日 (土) 19時54分

総裁雅宣先生                   毎日、「甘露の法雨」読誦後に「大自然讃歌」「観世音菩薩讃歌」を読誦させていただいています。讃歌の強いおコトバと水も漏らさないような先生の御説法に読むごとに心が浄められていく思いをしています。また、讃歌を読むことで理解が進んだからでしょうか。聖経を読むのに苦心の感がありましたが聖経読誦が楽しいと感じられるようになっています。聖経に「惑障ことごとく消滅し」とありますがまだことごとくとは行きませんが、環境に身にうれしい変化を実感しています。ありがとうございます。 

投稿: 赤嶺里子 | 2012年10月18日 (木) 11時28分

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