聖経について (20)
本シリーズも20回を数えたので、この辺で一応の区切りをつけたいと思う。しかし、その前に、「甘露の法雨」の時に行ったのと同様に「天使の言葉」でも、『生長の家』誌発表時の詩文と現在のそれとの間の異同について、簡単にまとめておく。これはもちろん、すべての異同の網羅ではなく、あくまでも概略である。最大の違いはすでに述べたベートーベンの『月光の曲』をめぐる記述であるが、その訂正と論理的な整合性をとるための若干の追加的変更が、前回の引用箇所の後の数行で次のように行われている:
○「彼の指頭はピアノの鍵盤に触るるに従って」→「こころの耳はピアノの鍵盤に触るるに従いて」(p.21)
○「指先」から「指頭」への変更……上の箇所に先立つ5箇所。(p.18, p.20)
その他の変更を以下に列記する。このうち、変更によって詩文の意味が変わってくると思われるものを「◎」で示した。また、明らかに誤植と思われる箇所もある:
○「吾に宿る善きものは皆普遍なる者より来る」→「吾に宿る善きものは皆普遍なる神より来る」(p.7)
○「天使斯くの如く宣えば」→「天使斯くのたまえば」(p.12)
◎「青色の羅綾にその玉の如き身を包める」→「緑色の羅綾にその玉の如き身を包める」(p.13)
○「そはただ想念の影なるが故に」→「それはただ想念の影なるが故に」(p.15)
○「感覚が肉になく」→「感覚が肉体になく」(p.19)
○「体なくして物に触るるを得るは」→「体なくして物に触るることを得るは」(p.22)
○「肉体の相貌或は美しく或は醜く変化し」→「肉体の相貌或は美しく或は見苦しく変化し」(p.27)
○「『人』の実相は別の子にして、」→「『人』の実相は神の子にして、」(p.28)
○「信念を変うればまたその相も実化せん。」→「信念を変うればまたその相も変化せん。」(p.29)
○「これ『生ける肉体』なり。」→「この『生ける肉体』なり。」(p.33)
○「一毫も汝らの生命の実相を不幸ならしむること非ず」→「一毫も汝らの生命の実相を不幸ならしむること能わず」(p.43)
◎「『生命』の実相を知らざる迷いより生ず」→「『生命の実相』を知らざる迷より生ず」(p.44)
◎「汝ら『生命』の実相を知り」→「汝ら『生命の実相』を知り」(p.44)
◎「天国なり、浄土なり」の2行分の挿入……(p.48)
○「病い」から「病」への変更……13箇所。
○「迷い」から「迷」への変更……2箇所。
さて、本シリーズでは「甘露の法雨」と「天使の言葉」を例にとって、生長の家で今日「聖経」と呼ばれているものの成り立ちを追い、これらがかなり長期間の年月を経て、今日のような文章表現と体裁とに定着したことを確認した。「甘露の法雨」の場合、その期間は3年以上、「天使の言葉」は5年以上である。すでに本シリーズの第16回で述べたが、このことは、宗教上の真理を言葉に表現することがいかに難しいかを示している。いわゆる“オリジナル”の表現は、必ずしも“完成”ではない。文学に限らず、表現芸術に携わったことのある人なら、そんなことは誰でも知っている。しかし、こと宗教上の真理に関わってくると、この常識的な考え方をどこかへ置き忘れてしまう人がいるのは残念なことだ。
いわゆる原理主義的な宗教観をもつ人々は、“最初の表現”がオリジナルであり、より完全に近いと考えるのである。その理由は、神や神霊からのインスピレーションは、ある時、ある場所で、一気に、特定の人物にだけ天降ってくると考えるからだろう。また、真理の表現は一回きりで完結すると考えているフシがある。これは一種の神秘主義である。それは確かにロマンチックではあるけれども、どんな宗教の歴史を調べてみても、そんな出来事は事実として存在しない。“架空の物語”なのである。谷口雅春先生ご自身が、多くの聖典の中でそのことを力説されているにもかかわらず、その種の人々は雅春先生のその言葉が受け入れられない。それでいて、自分こそ雅春先生の“真の教え”を引き継ぐ者だと豪語する。その非合理さが自分では分からないのである。
読者は、私が今年の2月28日と3月7日の本欄で「コトバ」の問題を論じたことを思い出してほしい。そこでは、私は“生長の家で「コトバは神なり」とか「コトバの力」という場合のコトバとは、第一義的には身口意の具体的な表現が生まれる前の「想念」や「心の波」のことを指すのであって、肉声による言葉や、それを録音テープに収めたもの、あるいは書籍に印刷された文字による言葉のことではないのである”と書いた。それを読んでもよく理解しない人がいて、私のその文章は、聖経や『生命の實相』をないがしろにするものだと、怒りを込めたコメントを寄こしたのである。事実は、まったくその逆である。今回の「“聖経”について」を丁寧に読んでいただけば、賢明な読者にはそれが分かるはずだ。
我々にとって最も大切なのは、谷口雅春先生によって文字で表現された聖経の具体的詩文ではないのである。本シリーズで見てきたように、詩文そのものは“オリジナル”から何回も書き直されて今日のものに定着した。もし表現された文字が最高に尊いのであれば、いったいどの段階の聖経の詩文が最も尊いのだろう? 具体的詩文が尊いという人は、『生長の家』誌上に発表されたオリジナルは最新のものに比べると若干、尊くないとでも言うのだろうか? それとも、その逆か? いずれの答えを出しても、それは正解ではありえない。我々信徒にとって最も大切で、最も尊いものは、谷口雅春先生の“悟りそのもの”なのである。それが真理の“コトバの力”である。これがなければ聖経も作られず、『生命の實相』を初めとした何百冊もの書籍も地上に現れなかった。しかし、“悟りそのもの”があるからこそ、オリジナルよりもベターな表現が後に現れてくるのである。“悟りそのもの”の表現の過程に於いては、間違いや言い直しもあり得るのである。また、説く相手に応じた“方便説法”のようなものも必要な場合がある。そのことを認めなければならない。そして、時代が移っていけば、昔の方便説法(表現の一方法)は通用しなくなるのはごく当然のことである。
だから、私が本シリーズで「聖経の詩文には変遷があった」ということを具体的に示したとしても、それは「聖経の価値はあやふやなものだ」という主張をしているのではない。「経」とは「真理」という意味だから、真理の表現に変遷があったとしても、真理そのものの価値が偉大であることに何ら影響はない。そのことを言いたいのである。『月光の曲』がベートーベンの聴覚が失われる前の作品だったとしても、そのことを雅春先生がご存じなかったとしても、『天使の言葉』のオリジナルの詩文を読んで救われる人は依然として救われるのである。また、ベートーベンの記述を訂正された詩文をいくら読んでも、救われない人は依然として救われないのである。表現に囚われて「この表現でなければ真理ではない」というのを止めよ。真理は表現を超えたものであり、したがって無限の表現を要求するものである。
昭和11年11月22日の日付で、谷口雅春先生は『生命の實相大聖典』という出版物を発行された。これはそのページ数と大きさ、装幀の豪華さからいって“空前の出版物”であった。その豪華本の最後を飾る奥付に、先生は次のように書かれているのである。このご文章ほど、生長の家が原理主義ではないことを明確に宣言したものを私は知らない:
「真理が一つの経典にのみ書かれていると思うのは偏った考えである。救いは或る特定の宗教でないと得られないと思うのも偏った考えである。若し或る一定の宗教でないと救われないと云うのであれば、其の宗教に属しない何億と云う人間を救う神が必ず出て来るだろう。
哲人は一本の草花にも真理を見出し、預言者は星の瞬きにも真理の黙示を聞く。
かく真理は草花や星の輝きにすら宿っているのに、或る一つの聖典以外の経典には真理がないと云う筈はない。“生長の家”はあらゆる宗教の真髄に、救いの原理を見出し、諸宗を却って生き生きと生かすのである。」
谷口 雅宣
