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2012年8月20日 (月)

聖経について (20)

 本シリーズも20回を数えたので、この辺で一応の区切りをつけたいと思う。しかし、その前に、「甘露の法雨」の時に行ったのと同様に「天使の言葉」でも、『生長の家』誌発表時の詩文と現在のそれとの間の異同について、簡単にまとめておく。これはもちろん、すべての異同の網羅ではなく、あくまでも概略である。最大の違いはすでに述べたベートーベンの『月光の曲』をめぐる記述であるが、その訂正と論理的な整合性をとるための若干の追加的変更が、前回の引用箇所の後の数行で次のように行われている:

○「彼の指頭はピアノの鍵盤に触るるに従って」→「こころの耳はピアノの鍵盤に触るるに従いて」(p.21)
○「指先」から「指頭」への変更……上の箇所に先立つ5箇所。(p.18, p.20)

 その他の変更を以下に列記する。このうち、変更によって詩文の意味が変わってくると思われるものを「◎」で示した。また、明らかに誤植と思われる箇所もある:
 
○「吾に宿る善きものは皆普遍なる者より来る」→「吾に宿る善きものは皆普遍なる神より来る」(p.7)
○「天使斯くの如く宣えば」→「天使斯くのたまえば」(p.12)
◎「青色の羅綾にその玉の如き身を包める」→「緑色の羅綾にその玉の如き身を包める」(p.13)
○「そはただ想念の影なるが故に」→「それはただ想念の影なるが故に」(p.15)
○「感覚が肉になく」→「感覚が肉体になく」(p.19)
○「体なくして物に触るるを得るは」→「体なくして物に触るることを得るは」(p.22)
○「肉体の相貌或は美しく或は醜く変化し」→「肉体の相貌或は美しく或は見苦しく変化し」(p.27)
○「『人』の実相は別の子にして、」→「『人』の実相は神の子にして、」(p.28)
○「信念を変うればまたその相も実化せん。」→「信念を変うればまたその相も変化せん。」(p.29)
○「これ『生ける肉体』なり。」→「この『生ける肉体』なり。」(p.33)
○「一毫も汝らの生命の実相を不幸ならしむること非ず」→「一毫も汝らの生命の実相を不幸ならしむること能わず」(p.43)
◎「『生命』の実相を知らざる迷いより生ず」→「『生命の実相』を知らざる迷より生ず」(p.44)
◎「汝ら『生命』の実相を知り」→「汝ら『生命の実相』を知り」(p.44)
◎「天国なり、浄土なり」の2行分の挿入……(p.48)
○「病い」から「病」への変更……13箇所。
○「迷い」から「迷」への変更……2箇所。
 
 さて、本シリーズでは「甘露の法雨」と「天使の言葉」を例にとって、生長の家で今日「聖経」と呼ばれているものの成り立ちを追い、これらがかなり長期間の年月を経て、今日のような文章表現と体裁とに定着したことを確認した。「甘露の法雨」の場合、その期間は3年以上、「天使の言葉」は5年以上である。すでに本シリーズの第16回で述べたが、このことは、宗教上の真理を言葉に表現することがいかに難しいかを示している。いわゆる“オリジナル”の表現は、必ずしも“完成”ではない。文学に限らず、表現芸術に携わったことのある人なら、そんなことは誰でも知っている。しかし、こと宗教上の真理に関わってくると、この常識的な考え方をどこかへ置き忘れてしまう人がいるのは残念なことだ。
 
 いわゆる原理主義的な宗教観をもつ人々は、“最初の表現”がオリジナルであり、より完全に近いと考えるのである。その理由は、神や神霊からのインスピレーションは、ある時、ある場所で、一気に、特定の人物にだけ天降ってくると考えるからだろう。また、真理の表現は一回きりで完結すると考えているフシがある。これは一種の神秘主義である。それは確かにロマンチックではあるけれども、どんな宗教の歴史を調べてみても、そんな出来事は事実として存在しない。“架空の物語”なのである。谷口雅春先生ご自身が、多くの聖典の中でそのことを力説されているにもかかわらず、その種の人々は雅春先生のその言葉が受け入れられない。それでいて、自分こそ雅春先生の“真の教え”を引き継ぐ者だと豪語する。その非合理さが自分では分からないのである。
 
 読者は、私が今年の2月28日と3月7日の本欄で「コトバ」の問題を論じたことを思い出してほしい。そこでは、私は“生長の家で「コトバは神なり」とか「コトバの力」という場合のコトバとは、第一義的には身口意の具体的な表現が生まれる前の「想念」や「心の波」のことを指すのであって、肉声による言葉や、それを録音テープに収めたもの、あるいは書籍に印刷された文字による言葉のことではないのである”と書いた。それを読んでもよく理解しない人がいて、私のその文章は、聖経や『生命の實相』をないがしろにするものだと、怒りを込めたコメントを寄こしたのである。事実は、まったくその逆である。今回の「“聖経”について」を丁寧に読んでいただけば、賢明な読者にはそれが分かるはずだ。

 我々にとって最も大切なのは、谷口雅春先生によって文字で表現された聖経の具体的詩文ではないのである。本シリーズで見てきたように、詩文そのものは“オリジナル”から何回も書き直されて今日のものに定着した。もし表現された文字が最高に尊いのであれば、いったいどの段階の聖経の詩文が最も尊いのだろう? 具体的詩文が尊いという人は、『生長の家』誌上に発表されたオリジナルは最新のものに比べると若干、尊くないとでも言うのだろうか? それとも、その逆か? いずれの答えを出しても、それは正解ではありえない。我々信徒にとって最も大切で、最も尊いものは、谷口雅春先生の“悟りそのもの”なのである。それが真理の“コトバの力”である。これがなければ聖経も作られず、『生命の實相』を初めとした何百冊もの書籍も地上に現れなかった。しかし、“悟りそのもの”があるからこそ、オリジナルよりもベターな表現が後に現れてくるのである。“悟りそのもの”の表現の過程に於いては、間違いや言い直しもあり得るのである。また、説く相手に応じた“方便説法”のようなものも必要な場合がある。そのことを認めなければならない。そして、時代が移っていけば、昔の方便説法(表現の一方法)は通用しなくなるのはごく当然のことである。
 
 だから、私が本シリーズで「聖経の詩文には変遷があった」ということを具体的に示したとしても、それは「聖経の価値はあやふやなものだ」という主張をしているのではない。「経」とは「真理」という意味だから、真理の表現に変遷があったとしても、真理そのものの価値が偉大であることに何ら影響はない。そのことを言いたいのである。『月光の曲』がベートーベンの聴覚が失われる前の作品だったとしても、そのことを雅春先生がご存じなかったとしても、『天使の言葉』のオリジナルの詩文を読んで救われる人は依然として救われるのである。また、ベートーベンの記述を訂正された詩文をいくら読んでも、救われない人は依然として救われないのである。表現に囚われて「この表現でなければ真理ではない」というのを止めよ。真理は表現を超えたものであり、したがって無限の表現を要求するものである。
 
 昭和11年11月22日の日付で、谷口雅春先生は『生命の實相大聖典』という出版物を発行された。これはそのページ数と大きさ、装幀の豪華さからいって“空前の出版物”であった。その豪華本の最後を飾る奥付に、先生は次のように書かれているのである。このご文章ほど、生長の家が原理主義ではないことを明確に宣言したものを私は知らない:
 
「真理が一つの経典にのみ書かれていると思うのは偏った考えである。救いは或る特定の宗教でないと得られないと思うのも偏った考えである。若し或る一定の宗教でないと救われないと云うのであれば、其の宗教に属しない何億と云う人間を救う神が必ず出て来るだろう。
哲人は一本の草花にも真理を見出し、預言者は星の瞬きにも真理の黙示を聞く。
かく真理は草花や星の輝きにすら宿っているのに、或る一つの聖典以外の経典には真理がないと云う筈はない。“生長の家”はあらゆる宗教の真髄に、救いの原理を見出し、諸宗を却って生き生きと生かすのである。」
 
 谷口 雅宣

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コメント

谷口雅宣総裁先生 ありがとうございます。
「甘露の法雨」という長編詩を読んで感動して、これをご先祖様に聞いて頂きたいと思った方と思いを共有しているのではないかと思います。総裁先生が発表してくださいました「観世音菩薩讃歌」を初めて読んだ時、感動と感謝で一杯になりました。亡き父の笑顔が太陽の光の中で輝いているような気がして、号泣してしまいました。それ以来、御先祖様に聞いて頂きたくて、「この讃歌は、生長の家総裁谷口雅宣先生が生長の家の神様の教えを現代の表現でお示しくださいました真理の言葉です。どうぞ私と共にお聞き下さい」と述べて読ませて頂いています。自由な伸びやかな、明るい気持ちがあふれます。幸せです。
しかし、この喜びをネットで表現しましたら、私を知っているという匿名の方から、危険だから止めなさいと忠告されました。その方も総裁先生の今回の御文章をちゃんと読んでくだされば、それこそ、「観世音菩薩讃歌」を読んでくだされば、解って頂けると祝福の祈りを捧げました。ありがとうございます。

投稿: 酒井幸江 | 2012年8月21日 (火) 14時05分

>『月光の曲』がベートーベンの聴覚が失われる前の作品だったとしても、そのことを雅春先生がご存じなかったとしても

 晩年に「月光」が作曲されたという史実の間違いであって、作曲した1801年(ベートーヴェン30才代)ではすでに聴覚はほとんど失われていたはずですが、いかがでしょうか?

 「晩年」というところの間違いだけだと思います。
                

投稿: 鈴木雅臣 | 2012年8月21日 (火) 14時06分

総裁 谷口雅宣先生

合掌、ありがとうございます。
ご文章を拝読しまして、ふと思い出した谷口雅春先生のご文章がありますので、ご参考になれば、と思いながらここに書かせていただきます。

『生長の家』昭和8年の4月号(第4集第4号)に「罪と死と病の無を語る」という座談会をまとめたようなご文章がありますが、ここに、『生命の實相』について、雅春先生が次のように語っていらっしゃるところがあります。

「(前略)とも角『生命の實相』に頼っている者には弾丸も当たらねば、兵火にも焼かれなかったと云う事は上海事変が見本的にこれを証明しましたから、その預言の一部は成就した譯です。併し『生命の實相』と云うことを書物の名前だと思ったら間違いですよ。『生命の實相』の本に書いてある人間の真実相-真実義を悟ることが第一です。」(27頁)

以上でございます。

講師課 小林光子拝

投稿: 小林光子 | 2012年8月21日 (火) 17時59分

合掌ありがとうございます
なるほど、おっしゃる通りですね。言葉は変化する。私が生きてきたわずかな間にも、ほとんど死語になって使われなくなった言葉がありますし、意味が変わってしまったものもあります。言葉は、時代に合わせて変化していくものでした。たしか、普及誌を毎月発行するのも、色々な言葉(表現)によって、あらゆる方面から真理を伝えるため、でしたね。
長いシリーズ、ありがとうございました。

投稿: 水野奈美 | 2012年8月21日 (火) 21時11分

総裁先生,ありがとうございます。
「聖経」の成立過程について,先生が貴重なお時間をかけられて書かれた意図が理解できたように思います。『真理は不立文字。過去も現在も未来も永遠に変わらぬものなれど,その時代によって表現は変わりつつ普遍の教えを説き給う。』そう解釈してよろしいでしょうか。“我常にここにあって滅せず。方便力をもっての故に滅,不滅ありと現ず”と法華経に説かれていることもまた同じですね。
 先日,三陸沿岸の某宿に泊まり,そこで甘露の法雨と大自然賛歌を部屋から海に向かって読誦しました。甘露の法雨は震災で犠牲になった人々のために,大自然賛歌は海に問いかける気持ちで拝読しました。窓の外から聞こえる波音は優しく,まるで一緒に賛歌を誦してくれているようでした。そして,「よい哉,よい哉。私はそのような意思を人間に伝えたかったのだ。それですべてを言い尽くしているとは言えないが。」と,母なる海が応えてくれているように観じました。
 今の時代は,まさに人間と自然とが大調和してともに生かし合っていくことが最大の課題なのだと改めて思いました。
 東日本大震災を引き起こした「東北地方太平洋沖地震」は,歴史的にも超巨大な自然現象でしたが,被災地の自然は震災前と変わらない姿で私たちに恵みを与えてくれています。破壊され変わってしまったのは,人間が造った物だけです。
 これからも大自然(神様)からのメッセージを真摯に聴き,今一番大切なことを伝えていきたいと思っています。
                                     再拝

投稿: 佐々木(宮城教区生教会) | 2012年8月21日 (火) 22時38分

ベートーヴェンの「晩年」に関して。感じましたところを追記いたします。

確かに57歳まで生きたベートーベンの生涯から、31歳(月光作曲時)を晩年というのはおかしいかもしれませんが、作曲された1801年の西欧の平均寿命は35歳ぐらいだったといいます。
 ちなみに青年が指摘した昭和12年(1937年)の日本の平均寿命は50歳くらいらしいです。

 1800年の西欧の平均寿命からいうと 晩年でもいいじゃないかとおもいますが、天使の言葉発刊当時の真面目な青年はゆるせなかったのでしょうね。

 そんな青年の言葉に素直に耳を傾けられた雅春先生のご人格に敬服いたします。

 

投稿: 鈴木雅臣 | 2012年8月22日 (水) 04時58分

報告しようか否か、随分悩みましたが、報告します。
ベートーベン
  難聴発病      28才
  月光曲完成     32才
この曲は、ベートーベンが16才の少女に捧げる為に作曲したものです。雅春先生に提言した方の勘違いです。
雅春先生が、その提言に驚かれたのは、雅春先生が、
ベートーベンの知識無に、霊感によって書かれたからだと思います。やはり、雅春先生の霊感、本物ですね。    

投稿: 岡村 源治 | 2012年8月22日 (水) 17時51分

ベートーベンの難聴の程度について、いろいろ憶測があるようですが、
私は詳しいことは知りません。ただ、百科事典の記述によると、難聴はある日突然、襲ってきて、それで全く聞こえなくなったのではなく、比較的長期にわたって進行し、ついに聞こえなくなった……というのが事実のようです。
 以下をご参考に……
「ベートーベンを語るうえで避けて通れないことに耳疾がある。難聴の兆候は早くも1798年ころから現れていた。音楽家にとって致命的ともいえる耳の病いがしだいに悪化していき、一時は自殺さえ考え、いわゆる2通の<ハイリゲンシュタットの遺書>(1802年)を書き残すまで追い込まれている。結果的にこの遺書内容は危機克服の証言として現在では解釈されているが、この機を境に彼の不屈の精神による運命への決然たる挑戦が始まっているのである。その結果が≪英雄交響曲≫であり、≪ワルトシュタイン・ソナタ≫であり、≪熱情ソナタ≫作品57(1805)などである」。

 このあとも彼は作品を書き続けますが、それ以外の健康も悪化しているようで、「重なる失意と衰えいく健康により1813年から16年の間に創作上の停滞がみられる」といいます。そして、「難聴も極度に進行し、原始的なメガホン式補聴器を使用する日常になっていき、18年ころからは筆談帳を用いねばならないほどになっていった」といいます。
(出典:平凡社『世界大百科事典』)

投稿: 谷口 | 2012年8月23日 (木) 11時56分

>しかし、こと宗教上の真理に関わってくると、この常識的な考え方をどこかへ置き忘れてしまう人がいるのは残念なことだ。

以前、『日々の祈り』が初版からその後の版で修正されているのを読み、「おかしい」と思ったことを思い出しました。今回のご文章で「常識的な考え方」であるというご指導をいただき、しっかり理解できました。『生命の実相』だと思いますが、「文章そのものが頭の中に浮かんでくるのではない。イメージが浮かんできて、それを文章にするべく試行錯誤を重ねる。」という意味のことを、雅春先生が書かれていたと記憶しています。

>“悟りそのもの”があるからこそ、オリジナルよりもベターな表現が後に現れてくるのである。“悟りそのもの”の表現の過程に於いては、間違いや言い直しもあり得るのである。

思い違いをしがちだった点をしっかりご指摘いただき、感謝申し上げます。代表者会議でのご指導と共に銘記し、これからも邁進します。

投稿: 加藤裕之 | 2012年8月24日 (金) 20時16分

合掌 ありがとうございます

今回の聖経についてシリーズによって、雅春先生が生長の家を始められた頃の「ご苦労」を垣間見ることができ、より生長の家に親しみを持つことができました。

雅春先生の、他を救いたい、人類を救いたい、という思いが神様に届きインスピレーションを受けられ、それを甘露の法雨や天使の言葉という詩作品として表現された。雅春先生は表現された後も、より他を救うためにはこうしたほうが良い、と改善を続けられた。と私ながら解釈いたしました。

『月光の曲』をめぐる記述も、もしその誤りに気づいた人が「天使の言葉」全体をも信じなくなれば結果としてその人を救うことができない。とにかくあらゆる人を救いたい、という強い思いを感じました。

そしていままた「大自然讃歌」そして「観世音菩薩讃歌」と、救いのインスピレーションが作品となって顕れた、その同時代に立ち会うことができたことに「ありがたい」以外の言葉は本当にありません。地球規模から身近なことまでクリア―しなくてはならない課題が山積な時代ではありますが、それも学びや精進の機会として前向きにとらえ、「大自然讃歌」、「観世音菩薩讃歌」を杖に前進していこうと思います。

ありがとうございます。

投稿: 松本雅幸 | 2012年9月 9日 (日) 19時40分

合掌 ありがとうございます。
甘露の法雨についての記事を読む度、なぜ?このように細かく書かれるのだろうと不思議に思いました。20回目の今回の記事を読みまして得心しました。本当に大切な事は何か?私のように真理に浅い者にも雅宣先生のコトバが響いてきます。
「大自然讃歌」そして「観世音菩薩讃歌」は新鮮に響きます。嬉しくなります。ありがとうございます。
再拝 小澤

投稿: 小澤悦子 | 2012年9月12日 (水) 21時13分

合掌ありがとうございます。大変遅まきながら、シリーズ「聖経について」を、このたび、一気に通読させていただきました。

真理の表現プロセスについて、大変貴重なメッセージをお示しいただき、誠にありがとうございました。

山中優 拝


投稿: 山中優 | 2013年3月13日 (水) 16時57分

山中さん、
 ミスタイプのご指摘、ありがとうございました。訂正しておきました。

投稿: 谷口 | 2013年3月13日 (水) 18時58分

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