« 2012年6月 | トップページ | 2012年8月 »

2012年7月

2012年7月30日 (月)

聖経について (16)

 過去数回にわたり、本欄では主題から少しズレて「生長の家叢書」の製作と発行の問題を考えた。同叢書の奥付が普通でない理由を知りたかったからだ。この叢書を問題にしたのは、それが今日『聖経 甘露の法雨』と呼ばれている谷口雅春先生の自由詩を、先祖供養など信徒の日常的な用途に供するために、『生命の實相』から切り離して手軽に利用できるようにした最初のものだったからだ。つまり、今日の聖経の“原型”とも言える形態が生長の家叢書の第9篇『生長の家の歌』であり、このパンフレットの先頭を飾ったのが「聖経 甘露の法雨」だった。

 この検討の結果わかってきたことを、編年体で表現してみる--
  
 自由詩「甘露の法雨」は、初版革表紙『生命の實相』が発行される直前の昭和6年の秋に、雅春先生ご自身によって生長の家の「聖経」とすることが決定され、この著作物の中で初めて「聖経」という肩書きを付された。「甘露の法雨」はその後、昭和7年12月ごろに発行された生長の家叢書の第9篇『生長の家の歌』の中に収録され、信徒の間で盛んに利用されるようになった。そして、現在見られるような折本型の経本として初めて発行されたのが昭和10年4月で、版元は生長の家京都支部であり、『聖経』という表題だった。この“最初の聖経”と今日の折本型『聖経 甘露の法雨』の編集内容は、ほぼ同一である。このようにして、自由詩「甘露の法雨」は雅春先生の「聖経」としての認定から3年3カ月という長期間を要して、1冊の折本型経本となったのだった。

 このことを指して、「甘露の法雨は聖経として成立した」と表現しても間違いではないだろう。しかし、本欄の第12回で述べたように、詩文の異同を子細に検討してみると、『生長の家』誌に発表されてから5年がたとうとしている昭和10年の時点でも、詩文の変化はあったのである。またその時、私は「実はこの後にも、やや大きな変更が行われるのである」と書いた。「やや大きな」というのは、必ずしも「重大な」という意味ではない。詩文の意味は変わらなくとも、第12回で紹介したように、「押える」を「圧える」に変えるような使用漢字の変更、そして、送り仮名の使い方や句読点の打ち方にも、一部だが変更が行われている。これらいくつもの変更をこの場で網羅的に示すことは、煩雑すぎるのでしない。また、現行の「聖経 甘露の法雨」の詩文がいつ決定したかを調べることも、ここではしない。「甘露の法雨」の中で説かれている真理は、そんなことによって揺らぐものではないからである。ただ、どういう種類の変更が行われたかを示すために、以下に『生長の家』誌発表時のものと現行のものとの異同例を若干記そう--

○「迷い」から「迷」への変更……『生長の家』誌発表の詩文では、前者が多く使われていたのを、後に原則として後者に統一。10箇所。
○「病い」から「病」への変更……上記と同じ。11箇所。
○「第六官」から「第六感」……“神”の項の終りから2行目。(p.12)
○「実在にあらざる者」→「実在にあらざる物」……“霊”の項の中間。(p.16)
○「実在のほかに非ざるなり」→「実在のほかに在らざるなり」……“霊”の項の後半。(p.17)
○「真理のほかに非ざるなり」→「真理のほかに在らざるなり」……“霊”の項の後半。(p.17)
○「光のほかに非ざるなり」→「光のほかに在らざるなり」……“霊”の項の後半。(p.18)
○「現界の生命ことごとく光を仰ぎ」→「現世の生命ことごとく光を仰ぎ」……“霊”の項の終りから3行目。(p.20)
○「非実在なり、仮妄なり」→「非実在なり、虚妄なり」……“罪”の項の後半。(p.55)
○「死を超えて永遠に生きん」→「死を越えて永遠に生きん」……“罪”の項の最終行。(p.60)
○「『真性の人間』に非ず」→「『真性の人間』にあらず」……“人間”の項の前半。(p.71)
○「最初の夢無ければ」→「最初の夢なければ」……“人間”の項の半ば。(p.77)

 このような変更例を見ていくと、「甘露の法雨」という自由詩は、結構長い時間をかけて現在の「聖経 甘露の法雨」の詩文に定着していったことが分かる。このことはまた、宗教上の真理を言葉に表現することが如何に難しいかを示しており、いわゆる“オリジナル”の表現が必ずしも“完成”ではないことを有力に物語っている。
 
 谷口 雅宣

| | コメント (0)

2012年7月25日 (水)

聖経について (15)

 この御文章には1千ページの大著を活版印刷の方式で、しかも総ルビ(全漢字に振り仮名付き)で組むことの大変さがよく表現されている。この中で注目してほしいのは、この印刷所では『生命の實相』のために新しく振り仮名用の活字を4万字鋳造したということと、これによって一度に組めるページ数が百ページにすぎないということだ。このため、百ページ分を組んだあとは組版を解体しなければならず、その前にはもちろん出版に必要な部数を紙に印刷しておかねばならない。普通こういう場合には、組んだ版の紙型を取っておき、全ページの紙型を取り終わった次の段階で、必要部数を用紙に印刷するだろう。その方がよほど手間と時間が省略できるからだ。しかし、この『生命の實相』の場合、どうも紙型を取らずに、組版を直接印刷にかけたらしいのである。その辺の事情を、谷口雅春先生はこう書かれている--
 
「此処にトライン氏の著書以上の本がある。それは『生長の家』合本だ! 生長の家同人は、声を挙げて此の『人生の燈台』である書を広く人類のために捧げたい! なるべく入用部数を速かにお知らせ下さい。印刷の鮮明を期するために紙型刷りでなく、活字をナマのままで刷るので、印刷部数に限りがあり、更に重版の望みは滅多にありませんから、申込みが遅れますと手に入らなくなるかも知れません」。(『生長の家』昭和6年8月号、p.80)

 ただし、この記事の掲載は昭和6年の夏であり、その後実際に組版作業が進行し、12月には『生命の實相』が出版されるから、その時点で紙型を取ろうと思えば、少なくとも一部のものは取れたはずである。また、これらの作業の中途で、雅春先生が考えを変えられ、紙型を取る決定をされた可能性もあると思う。私がなぜこのことに拘るかと言えば、初版革表紙『生命の實相』の出版後にも継続して出される生長の家叢書や、『生命の實相』の革表紙版の出版を考えた時、印刷作業を知悉している雅春先生が、活版印刷において最もコストがかかる組版の過程を省略できる紙型の利用を、放棄されるとは考えにくいからである。
 
 さて、これらの事実と周辺状況を考慮してみると、生長の家叢書の奥付の問題について何が言えるだろうか? 私はまず、この叢書の原版は初版革表紙『生命の實相』の組版だと考える。これを当初、雅春先生は紙型を取らずに『生命の實相』の注文部数の何倍も多く印刷され、未製本の状態で印刷所に保管されていたのではないか。一冊当たりのコストを下げるためである。しかし、種々の事情から印刷所を何回も変えることになると、組版の移動は難しいから、それの紙型を取って、紙型の運搬で対応するほかはない。このような作業が長く続くと、生長の家叢書の中には、組版から作られたものと紙型から作られたものとが混合してくることになり、前者を“初版”と考えるか、後者を“初版”とするかという複雑な問題が生じたのではないか。また、紙型の修正は組版の修正よりも手間とコストがかかるから、「安価であること」を最大のメリットとして出版された叢書シリーズにあっては、雅春先生は奥付の紙型の修正を一部省略されたのではないだろうか。
 
 このような推測から、私は生長の家叢書の奥付の発行日の日付に、今日の常識では説明不可能なものが一部あるのは、この叢書独特の問題が背後にあったからだと考える。別の言い方をすると、この叢書以外の当時の生長の家出版物の奥付には、今日の常識に反するものはないと考えていいのではないか。念のために繰り返すが、これはあくまでも私の推測であり、解釈である。実際の事実がどうであったかは、決定的な証拠がない現時点では、私には断定できない。
 
 谷口 雅宣

| | コメント (0)

2012年7月23日 (月)

聖経について (14)

 前回の本欄で私は生長の家叢書の奥付にある日付の問題を取り上げ、それが当該叢書の「初版」の日付としても、「この版」の日付としても合理的に説明できないものがあることを示した。私はしかし、そのことをもって谷口雅春先生が奥付表記の原則をご存じなかったとか、ご存じでありながら原則を意図的に無視されたとか言おうとしているのではない。私が前回、画家のいわさきちひろ氏(1918~1974年)の映画の話をしたのは、戦後間もない日本の出版業界での“常識”が現在のそれと大きく異なることを知ったからだが、雅春先生が生長の家叢書を発行されていた時代は、それよりさらに10年ほど前で、日本は中国と戦争中であり、政府による出版物の検閲も厳しい頃だった。きっと現代の我々には想像できないような事情があったかもしれないのである。しかし、前にも述べたように、そういう詳しい時代考証を進めていくことは本シリーズの目的ではないので、ここでは判明した事実で「聖経」の成立と関係ありそうなものを、そのまま記録しておくことにする。
 
 そういう事実の中で、生長の家叢書の奥付表記と関係がありそうなものが、まだある。その1つは、この叢書シリーズを製作した印刷所のことであり、もう一つは印刷方法のことだ。本シリーズの第6回で、私は雅春先生が昭和7年7月末に会社員生活をやめられ、宗教活動に集中されることになった事情を書いた。しかし、その時書かなかったのは、先生が退職金を何に使われたかということだ。これについては、『生長の家三拾年史』の年表の同年7月の欄に明確な記述がある--
 
「ヴァキューム・オイル会社がスタンダード石油会社に合併された結果会社を退職し、その退職金にて小林為兄氏経営の有効社印刷所を買収し、大阪市港区西市岡町1の1に生長の家印刷部を設置す。谷口先生みずから経営されたるも、後、誌友松原太郎氏九州より上阪するに及び同氏に経営を委嘱さる」。

 このように、先生は大阪市の印刷所を買い取られ、そこで『生長の家』誌などの印刷を始められたのである。この有効社という印刷所は、その当時に『生長の家』誌を印刷していた会社であり、同誌昭和6年12月号には、所在地として「大阪市港区音羽町1丁目5番地」と印刷されている。初版革表紙『生命の實相』の奥付にも同じ印刷所が表示されている。しかし、奥付を見るかぎりでは、この後の『生長の家』誌の印刷所は、目まぐるしく所在地が変更するのである。まず、同7年3月号からは、神戸市葺合区磯上通1丁目4番地の光村印刷株式会社に移行し、同年7月号では、『三拾年史』にあったように、大阪市港区西市岡町1丁目1番地を所在地とする「生長の家印刷部」での印刷となっている。ところが同年9月号の奥付では、生長の家印刷部の所在地は谷口雅春先生の住所である「兵庫県武庫郡住吉村字八甲田695ノ2」と同一のものに変わる。そして、翌年2月号で再び「大阪市港区西市岡町」にもどり、ここで初めて「印刷人」として松原太郎氏の名前が出てくる。
 
 このような印刷所の変更の理由は明らかではないが、その事情の一端を示すような記事が、6年12月号には載っている--
 
「在来神戸方面に印刷仕事をもっていて毎日神戸へ来るついでに神戸郊外の『生長の家出版部』と接触のあった印刷所では、其後印刷の主力を主として大阪方面に注ぐようになり神戸へ来られなくなった為め、『生命の實相』の校正刷を直接印刷者に手渡しすることが不可能となり、郵便で大阪住吉間を往復せしめねばならなくなった。(中略)校正刷を大阪住吉間往復するに2日間かかる。三度校正刷を往復しているとそのために6日間かかる。『生命の實相』の印刷専用として新鋳した振仮名活字4万字では百頁を組むだけの字数しかない。で、1千頁の『生命の實相』を仕上げるには多くとも1回百頁宛10回に分けて印刷しなければならない百頁組み上がったものを3往復6日間宛費して校正(なお)して印刷所へ送ると、その印刷を終り活字を解版(ほぐ)し更に活字を選り分けてからでないと、次の頁を組み始める訳には行かない。その間4日間は要する。百頁毎にこれだけの日数が手待ちとなるので、千頁ではこの10倍の日数(中略)が手待ちになる勘定である。色々工夫して校正刷を2往復にし、1回は印刷所で直して貰うことにし、私が会社から夜晩く帰って私自身校正刷を直していると其の日の郵便の間に合わない時には、ほかの人に校正して貰って其の日の郵便に間に合わすことにしたり、印刷所でも夜業して呉れたり、発行日を出来るだけ早くすることに努力した結果、計算上遅れる筈の百日間を切り縮めて、12月中旬を内務省納本日とし、発行日付を昭和7年1月1日とし、諸君の手許には12月中旬に内務省へと同じ頃に届くようにする」。(同誌、pp.79-80)

 谷口 雅宣

| | コメント (0)

2012年7月19日 (木)

聖経について (13)

Soshomugenseimeis1_2  『いわさきちひろ~27歳の旅立ち~』という映画を見て、ハッと気づいたことがある。彼女は23歳ぐらいの若さで、まだよく知らない男との結婚を決めて、満州へ渡り、結局、その夫を愛せずに死別してしまう。今から思えば“ありえない”ような行動だが、相手をよく知らずに結婚することは、当時は決して珍しくはなかった。私が個人的に知っている生長の家の人の中にも、そんなケースはあった。もちろん、私と同世代の人間ではなく、一回り上の年齢の人たちだ。だから、世の中の常識は時代とともに変わる--そう気がついて、私は本シリーズ中の検証方法の“穴”を見せつけられた思いがした。
 
Soshomugenseimeis2_2  本シリーズの第11回で、私は「聖経 甘露の法雨」がパンフレト『生長の家の歌』の一部として最初に出版された時期を「昭和7年12月」だと推定したが、その推定を支持する奥付表記が、現物の冊子の中に見つからないことを説明できなかった。そして、苦しまぎれに“雅春先生の誤認”の可能性まで挙げてしまった。しかし、これらすべての推測は、現在の出版業界で“常識”とされている奥付表記の原則が、70~80年前の日本でも“常識”だったとの前提にもとづいていた。この前提は、しかし間違っているかもしれない--そういう観点から生長の家叢書の奥付を改めて見直すと、現在では“ありえない”表示が当時は堂々と行われていたことが分かってきた。
 
Soshomugenseimeis3  例えば、私の手許にある生長の家叢書の1冊--第7篇『無限生命の泉』の表紙(表1)と奥付頁(表3)、裏表紙(表4)をスキャンしたものを、ここに掲げる。奥付の表記では、この叢書の発行日は昭和7年10月3日であり、著者は谷口雅春先生、発行所は光明思想普及会である。しかし、本シリーズ第3回で書いたように、谷口雅春先生御一家が神戸から東京へ移住されたのは昭和9年8月末である。奥付にある先生の住所は「東京市渋谷区穏田3丁目78」だが、昭和7年10月にはこの住所は別人のものだし、このパンフレットの版元とされている光明思想普及会は、まだ設立されていない(同会の設立は昭和9年11月)。同会の所在地として表記されていSoshosongs1 る「東京市赤坂区檜町5」には、もちろん別の施設か建物があったはずである。さらに不思議なのは、裏表紙の広告にある諸々の雑誌・書籍の名称だ。このうち多くのもの--折本型の『甘露の法雨』や『天使の言葉』を含めて--は、昭和7年10月には存在していない。
 
 ということは、この奥付にある発行日の表示は、『無限生命の泉』という冊子の“この版”がいつ出たかの表示では、明らかにない。では、何の発行日の表示かと考えれば、恐らく“初版”の発行日だと思われる。しかし、次に掲げる叢書第9篇の『生長の家の歌』の奥付を見てほしい。ここには、発行日として「昭和10年12月1日」とあるが、先述したように、この叢書の初版は「昭和7年12月」であるはずなのだ。だから、「奥付には初版の発行日のみを記載する」という方Soshosongs2 針があったとも思われない。それならば、やはり“この版”の発行日かと思って裏表紙の広告を見ると、昭和11年発行の『光の泉』と『白鳩』があるし、昭和14年3月に『いのち』から改題された『行』の広告、そして同年発行のはずの『生命の實相』の紙装廉価版(いわゆる“戦時廉価版”)の申込み受付広告がある。となると、“この版”の『生長の家の歌』の発行日は、どうしても昭和14年以降だと考えざるを得ないのである。

 こうして、生長の家叢書の奥付に書かれた「発行日」の日付は、その記述のままに当該叢書の“この版”の発行日だと考えてきた私の古い前提はSoshosongs3 瓦解してしまった。今後は、叢書の表紙や中身の記述を詳しく調べ、そこから“本当の発行日”を割り出す(推定する)作業が必要になると考える。
 
 谷口 雅宣

| | コメント (1)

2012年7月16日 (月)

聖経について (12)

 前回の本欄で「聖経 甘露の法雨」を収録した生長の家叢書第9篇『生長の家の歌』について触れたとき、私はその発行日を「昭和7年10月3日」とした“初版本”を持っていると解釈できるような書き方をした。もしそんな印象をもった読者がいたとしたら、それは正しくない。正確に言えば、私が実際に手にした5冊の『生長の家の歌』のうち1冊だけが、初版の発行日を「昭和7年10月3日」とした第8版であり、その他の4冊は、発行日を「昭和10年12月1日」とだけ表示しているのだ。後者の場合、奥付の発行日の表記は1本であり、それを見る限りでは、このパンフレットの“初版”が同年12月1日に発行されたと誤解してしまう表記なのである。これに対して第8版の奥付表記は、次のように複雑である--
 
 昭和7年10月1日印刷納本
 昭和7年10月3日発行
 昭和10年8月1日7版発行
 昭和10年10月12日改訂納本
 昭和10年10月15日発行
 
 前に触れたように、雅春先生はこのパンフレットが余り売れなかったように著書に書いておられるが、この奥付表記を見る限りは、発行から3年間で7回印刷し直したのだから、結構な需要があったと推測できる。「売れた」「売れない」の判断は結局比較の問題だから、こちらより他のパンフレットの方がさらによく売れたということだろう。あるいは、印刷のやり直しは改訂が必要なときにも行われるから、何回か内容の見直しが行われたのかもしれない。しかし今回、それを確認することはできなかった。ただし、奥付表記が異なる2冊について、「聖経 甘露の法雨」の詩文を子細に比較してみると、違いが1カ所だけ発見された。それは「知恵」の項の次のような段である--
 
 覚めて観れば現実に何ら吾らを圧える力はなく
 (昭和10年12月1日発行の版、原文は旧漢字旧仮名遣い)
 
 ここの「圧える」という表記が、同年10月15日発行の版では「押える」となっている。この変更はあまり大きなものとは思えないから、これ一つの訂正のために、雅春先生が旧版の印刷からわずか2カ月後に新版を出して、旧版を処分する決定をされたとは考えにくい。とすると、パンフレット『生長の家の歌』はこの当時よく売れていたので増刷が必要となり、その際、ついでに詩文を一カ所だけ変更されたと考える方が自然なような気がする。
 
 このことから分かるのは、「聖経 甘露の法雨」の詩文は、『生長の家』誌に発表されてから既に5年がたとうとしているこの時点でも、まだ完全には確定していなかったということだ。「押える」から「圧える」への変更は微々たるもので、「改訂」と呼ぶほどではないと考えることもできるが、「甘露の法雨」の詩文は、実はこの後にも、やや大きな変更が行われるのである。
 
 谷口 雅宣

| | コメント (1)

2012年7月13日 (金)

聖経について (11)

 生長の家叢書第9篇『生長の家の歌』の初版の時期がようやく分かりかけてきた。と言っても、断定するとお叱りを受けるかもしれないので、あくまでも「推定時期」としてである。これも、本欄の読者(前回の人とは別人)からの情報提供のおかげである。この場を借りて感謝申し上げます。

 まず、次のリストを見てほしい。これは、『生長の家』誌昭和8年2月号に掲載された生長の家叢書の広告である--
 
 第1篇『神への道しるべ』
 第2篇『死を超えて生く』
 第3篇『わが心の王国』
 第4篇『こころ我を生かす』
 第5篇『七つの光明宣言』
 第6篇『いのちのゆには』
 第7篇『家庭生活の光明化』
 第8篇『光明無限の生活』
 第9篇『生長の家の歌』
 第10篇『妙法七つの燈台の教』
 特別篇『生長の家経済連盟の提唱』
 
 このリストを、本シリーズ第8回で掲げた同じ「生長の家叢書」のリストと見比べてほしい。結構の異同があることが分かる。篇数とタイトルが2つのリストで変わっていないものは、10篇中の5篇だけだ。ということは、この叢書シリーズはタイトルや各篇の篇数が 、その時々の事情によって変更されたり入れ替えられる性質のものだったということである。本シリーズ第8回に掲げたリストは、箱型ケース入りの「10篇セット」の生長の家叢書で、発行日の表示はセット共通ではなく、各篇バラバラで昭和7年10月3日、同10年11月25日、そして同年12月1日の3種類がある。これに対して今回掲げたリストは、昭和8年2月号の『生長の家』誌上のものだから、前年12月ごろに広告原稿は作成されているはずだ。ということは、広告文にはその頃の状況が記述されていることになる。これを念頭に置いて、『生長の家の歌』というパンフレットに付された次の広告コピーを読んでほしい--
 
「生長の家叢書第9篇『無限生命の泉』品切れとなりましたので、長らく誌友から翹望せられていた『生長の家の歌』を第9篇に入れました。毎日携帯又は神前仏前等にて読誦するに至便です。慢性病者は特に『生長の家』(ママ)の歌の毎日読誦により快癒を速めます。」

 この記述を素直に読めば、パンフレット『生長の家の歌』は昭和7年12月以降に初版が出版されたことになる。そう言えるのは、この前号(昭和8年1月号)の『生長の家』誌にも生長の家叢書は広告されているが、その時の第9篇は『無限生命の泉』だからだ。また、昭和7年10月号の同様の広告でも、第9篇は『無限生命の泉』である。これらの事実を考えれば、昭和8年の1月号と2月号が出版される間に、叢書第9篇の差し替え作業が行われたとみるべきだろう。だから私は、「聖経 甘露の法雨」を含む最初のパンフレット『生長の家の歌』の初版時期は「昭和7年12月」だと推定するのである。
 
 ただし、問題が一つ残る。それは、私の手許には現物のパンフレット『生長の家の歌』が5冊あるが、そのどれもが奥付の発行日に「昭和7年12月」と表記されていないことだ。最も古い表記は昭和7年10月3日であり、これは前掲した広告コピーと矛盾する。他の4冊は「昭和10年12月1日」である。これらをどう解釈していいのか、私はまだ確かな答えをもっていない。が、可能な解釈の1つは「訂正漏れ」かもしれない。というのは、「昭和7年10月3日」という発行日は、同じ叢書の中の他の何冊もの篇の発行日と同じだからだ。当時の雅春先生の多忙さを考えれば、すでに組んであった奥付の旧版を誤って利用したという可能性はあり得ると思うのである。

 谷口 雅宣

| | コメント (0)

2012年7月10日 (火)

聖経について (10)

 前回の本欄を読んだ読者から、貴重なご意見をいただいた。私の推理が間違っているというのだ。もっと色々な資料に当たって総合的に考えねば歴史的事実の検証はできない--そういう意味のお叱りをいただいた。が、だからといって、その読者は私の疑問を晴らす“答え”をもっているのでもなさそうだ。しかし、率直なご意見には感謝申し上げる。
 
 その読者の指摘は、私が谷口雅春先生の『明窓淨机 草創篇』(1979年、日本教文社刊)を読んでいないということだった。全く読まなかったわけではないが、注意が足りなかった。その点は弁解の余地がない。そこでさらに同書を含めて調査を進めた結果、分かってきたことを少し書こう。ただし断定的な言い方はしないので、読者も私の推測を事実だと思わないでいただきたい。何しろ80年以上も前のことで、資料は多く残っていないのだ。
 
 まず最初に確認しておきたいのは、本シリーズの目的である。それは、生長の家の発祥後数年の歴史的事実すべてを検証することではない。そうではなく、あくまでも今日「聖経」と呼ばれているものの成立過程を明らかにしたいのである。歴史的事実の検証はもちろん重要であり、私も現にそれを本欄で進めているが、それはあくまでも本シリーズの目的に資する範囲内に留めたい。そうしなければ、日常の私の他の業務に支障が出るからである。私がなぜ聖経の成立過程に興味があるかといえば、それが生長の家の公式の記録書--いわゆる『○○年史』--に詳しく書かれていないからである。この重要な経典についてさらによく知ることは、本欄読者にとっても有益なことだと私は信ずる。
 
 さて、その読者の指摘を端的に表現すれば、「生長の家叢書」というパンフレットの出版は、私が推測した「昭和7年10月」より前に行われているのであり、そのことは前掲の『明窓淨机』にちゃんと書いてある--ということである。その通りだった。ただし、本シリーズの焦点である聖経を収めた『生長の家の歌』(同叢書第9篇)については何も書いてない。書いてあるのは、『生きとほし』と『生命の神秘』という2冊の5銭パンフレットと、同叢書第2篇『光の新生活へ』、第7篇『無限生命の泉』、第6篇『いのちのゆには』のことで、これらはそれぞれ昭和6年10月、同年12月、同年同月、同7年1月、同年5月が推定発行月である。このうち先頭から2冊は、本シリーズ第8回で示した生長の家叢書のタイトル一覧の中にはないものだ。題名から推測して『人間生通しの話』と『こころ我を生かす』のことかもしれないが、現物を見ることができないので、確かなことは何も言えない。また、なぜ発行日の前に「推定」の2文字を入れたかといえば、前掲の『明窓淨机』には表記の月の翌月号の『生長の家』誌に発行の告知が載っているものの、私の手許にある現物(第2,7,6篇)では、奥付の表記が違うからである。
 
 この矛盾をどう考えるかについて、私に忠告を下さった読者は見事な回答をされている--生長の家叢書はバラ売りが先行し、10篇組のセット物が後から出来たと考えるべきだろうというのである。恐らく、そういうことになるのだろう。すると、セット物の分は奥付が昭和7年10月であっても、それより前にバラ売りが出ている場合、その分の奥付は同年9月以前になるはずである。理論的には、そうだ。しかし、私はまだその現物に出会ったことはない。そして、『生長の家の歌』のパンフレットについては、バラ売りのものがあったとしても、それがいつから行われたかは依然として不明である。
 
 現在の私の関心は、こういうことだ--聖経読誦をしようとする際、コピー機が存在しない草創期の誌友の人たちは、どうやってそれをしたのだろう? パンフレット発行後はその中の聖経を読めばいいのだが、それより前はどうしたのか? 雅春先生が「甘露の法雨」を「聖経」として公表されたのは昭和7年1月だから、それから10カ月の間のことである。

 谷口 雅宣

| | コメント (1)

2012年7月 7日 (土)

聖経について (9)

 前回の本欄で「生長の家叢書」というパンフレットについて触れたとき、私は「内容は皆、初版革表紙『生命の實相』の一部である」と書いた。これは間違いである可能性があるので、この部分から「初版革表紙」の5文字を削除した。「可能性がある」という言い方はいかにも中途半端だが、現在のところ検証が終わっておらず、確実なことが言えないのである。確実なのは、『生命の實相』の一部であるということで、不確かな点は、その『生命の實相』がいつ発行されたどの種類のものかということだ。
 
 私は当初、これら9篇のパンフレットと併行して製作された『生命の實相』は初版革表紙本1種類だと思っていたので、前掲のような表現をした。しかし『生長の家三拾年史』によると、『生命の實相』には四六判の黒布装の全集があって、これが昭和10年1月15日発行の第1巻を皮切りに、12月15日発行の第12巻までが同年内に発行されたという。また、この同じ聖典には菊半截・聖書型の革表紙版全9巻という豪華版もあり、この中の<地の巻>は昭和10年10月1日に発行されている。これに対して生長の家叢書第9篇の『生長の家の歌』は、奥付表記によると初版の発行が同7年10月3日になっているから、これらいずれの『生命の實相』の紙型も存在しない時期の発行である。だから、それを流用してパンフレットを出すことは不可能なはずだ。そんな理由で、初版革表紙本からパンフレット化されたと考えたのである。
 
 ところが、実際の『生長の家の歌』(私の手許にあるのは昭和10年10月発行の第8版)を見ると、初版革表紙本の紙型から製作することはほぼ不可能な編集になっている。そこで、初期に発行された他の『生命の實相』を調べてみると、革表紙版の全集の<火の巻>の冒頭が「聖詩篇」になっていて、それとパンフレットが組体裁から内容、ページの振り方まで全く同一であることが分かった。だから、第8版の『生長の家の歌』は革表紙版『生命の實相』<火の巻>などの紙型から作られたと考えられる。ところが、さらなる問題があった。この<火の巻>は、奥付表記では「昭和11年2月25日発行」なのである。ということは、『生長の家の歌』の発行日より4年遅れて出版されたことになり、タイムマシンを使わなければ不可能なことだ。
 
 こうして私は今、「聖経 甘露の法雨」がパンフレットの一部として初めて発行された時の、その元となった『生命の實相』を特定できないでいる。パンフレット『生長の家の歌』の初版本が手に入れば、このパズルを解く鍵が見つかると期待しているが、今となっては、それは“かなわぬ夢”なのかもしれない。

 谷口 雅宣

| | コメント (2)

2012年7月 2日 (月)

聖経について (8)

 谷口雅春先生はまず、昭和7年元日発行の初版革表紙『生命の實相』の中で、自由詩「甘露の法雨」を初めて公式に「聖経」と認定された。その後、7月末で会社員をやめて宗教活動に専念される。前述したように、それは会社側の都合による解職であるから、先生の経済事情が好転したわけでは決してない。そこで必要になるのは、完成した豪華本の『生命の實相』をより多く頒布し、『生長の家』の誌友や共鳴者をふやすことである。しかし、誌友は必ずしも全員が誌代を払わず、『生命の實相』も当初の予定より高額となったために、それほどの頒布数は見込めなかったと思われる。このことは、昭和7年発行の『生長の家』誌上で、同書を「誌友に限り1冊2円50銭」で販売するという広告がほぼ1年間続いたことからも分かる。当初の奥付の記載は「有縁の方に限り特に金4円にて頒布す」だったから、これは実質的な大幅値下げである。
 
 これに加えて考案されたのが、『生命の實相』の内容はそのままに、この分厚い本を薄い小冊子10冊ほどに分けて廉価で販売することだった。この小冊子シリーズは結構売れたようだ。そのことは、本シリーズの第2回で引用した『新講「甘露の法雨」解釈』の文章の中で、雅春先生が『生長の家の歌』という題のパンフレットに触れられて、「他の一連のパンフレットはよく売れて出たのであります」と書かれていることからも分かる。つまり、『生長の家の歌』以外のパンフレットは好評だったという意味だ。また、私の手許にあるこれらパンフレットの奥付を見ても、版を重ねたものが多いことからも推測できる。
 
 このパンフレットには『生長の家の歌』という詩集のほかに9篇ほどの“姉妹篇”があり、それらには共通した「生長の家叢書」というシリーズ名が付けられていた。内容は皆、『生命の實相』の一部である。10篇のタイトルを列記すると--
 
 第1篇『神への道しるべ』
 第2篇『光の新生活へ』
 第3篇『家庭生活の光明化』
 第4篇『こころ我を生かす』
 第5篇『吾が心の王国』
 第6篇『いのちのゆには』
 第7篇『無限生命の泉』
 第8篇『光明無限の生活』
 第9篇『生長の家の歌』
 第10篇『人間生通しの話』

 「聖経 甘露の法雨」を収録した第9篇『生長の家の歌』を含めた10篇のパンフレットの発行時期は、雅春先生が“二重生活”に終止符を打たれて宗教活動一本で歩み出されてから3カ月後の、昭和7年10月以降である。奥付に記載された発行日は、10篇のうち7篇には「昭和7年10月3日」と印刷されているから、先生が退職後最初に取り組まれた出版が、このパンフレット7篇の発行だったと思われる。他の4篇のパンフレットの発行日は、同10年11月25日と12月1日である。頒布価格については1冊5銭と8銭の2種類がある。パンフレットのページ表記を見ると、多くのものが1ページから始まっておらず、また「柱」と呼ばれるページ上端の部分に「生命の實相」と横書きに印刷された文字がある。これは、発行のコストを抑えるために『生命の實相』の紙型を流用したからだろう。このような様々な工夫によって値段を極限まで下げたことで、パンフレットは多部数が頒布されていくのである。
 
 谷口 雅宣

| | コメント (1)

« 2012年6月 | トップページ | 2012年8月 »