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2012年7月25日 (水)

聖経について (15)

 この御文章には1千ページの大著を活版印刷の方式で、しかも総ルビ(全漢字に振り仮名付き)で組むことの大変さがよく表現されている。この中で注目してほしいのは、この印刷所では『生命の實相』のために新しく振り仮名用の活字を4万字鋳造したということと、これによって一度に組めるページ数が百ページにすぎないということだ。このため、百ページ分を組んだあとは組版を解体しなければならず、その前にはもちろん出版に必要な部数を紙に印刷しておかねばならない。普通こういう場合には、組んだ版の紙型を取っておき、全ページの紙型を取り終わった次の段階で、必要部数を用紙に印刷するだろう。その方がよほど手間と時間が省略できるからだ。しかし、この『生命の實相』の場合、どうも紙型を取らずに、組版を直接印刷にかけたらしいのである。その辺の事情を、谷口雅春先生はこう書かれている--
 
「此処にトライン氏の著書以上の本がある。それは『生長の家』合本だ! 生長の家同人は、声を挙げて此の『人生の燈台』である書を広く人類のために捧げたい! なるべく入用部数を速かにお知らせ下さい。印刷の鮮明を期するために紙型刷りでなく、活字をナマのままで刷るので、印刷部数に限りがあり、更に重版の望みは滅多にありませんから、申込みが遅れますと手に入らなくなるかも知れません」。(『生長の家』昭和6年8月号、p.80)

 ただし、この記事の掲載は昭和6年の夏であり、その後実際に組版作業が進行し、12月には『生命の實相』が出版されるから、その時点で紙型を取ろうと思えば、少なくとも一部のものは取れたはずである。また、これらの作業の中途で、雅春先生が考えを変えられ、紙型を取る決定をされた可能性もあると思う。私がなぜこのことに拘るかと言えば、初版革表紙『生命の實相』の出版後にも継続して出される生長の家叢書や、『生命の實相』の革表紙版の出版を考えた時、印刷作業を知悉している雅春先生が、活版印刷において最もコストがかかる組版の過程を省略できる紙型の利用を、放棄されるとは考えにくいからである。
 
 さて、これらの事実と周辺状況を考慮してみると、生長の家叢書の奥付の問題について何が言えるだろうか? 私はまず、この叢書の原版は初版革表紙『生命の實相』の組版だと考える。これを当初、雅春先生は紙型を取らずに『生命の實相』の注文部数の何倍も多く印刷され、未製本の状態で印刷所に保管されていたのではないか。一冊当たりのコストを下げるためである。しかし、種々の事情から印刷所を何回も変えることになると、組版の移動は難しいから、それの紙型を取って、紙型の運搬で対応するほかはない。このような作業が長く続くと、生長の家叢書の中には、組版から作られたものと紙型から作られたものとが混合してくることになり、前者を“初版”と考えるか、後者を“初版”とするかという複雑な問題が生じたのではないか。また、紙型の修正は組版の修正よりも手間とコストがかかるから、「安価であること」を最大のメリットとして出版された叢書シリーズにあっては、雅春先生は奥付の紙型の修正を一部省略されたのではないだろうか。
 
 このような推測から、私は生長の家叢書の奥付の発行日の日付に、今日の常識では説明不可能なものが一部あるのは、この叢書独特の問題が背後にあったからだと考える。別の言い方をすると、この叢書以外の当時の生長の家出版物の奥付には、今日の常識に反するものはないと考えていいのではないか。念のために繰り返すが、これはあくまでも私の推測であり、解釈である。実際の事実がどうであったかは、決定的な証拠がない現時点では、私には断定できない。
 
 谷口 雅宣

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