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2012年7月10日 (火)

聖経について (10)

 前回の本欄を読んだ読者から、貴重なご意見をいただいた。私の推理が間違っているというのだ。もっと色々な資料に当たって総合的に考えねば歴史的事実の検証はできない--そういう意味のお叱りをいただいた。が、だからといって、その読者は私の疑問を晴らす“答え”をもっているのでもなさそうだ。しかし、率直なご意見には感謝申し上げる。
 
 その読者の指摘は、私が谷口雅春先生の『明窓淨机 草創篇』(1979年、日本教文社刊)を読んでいないということだった。全く読まなかったわけではないが、注意が足りなかった。その点は弁解の余地がない。そこでさらに同書を含めて調査を進めた結果、分かってきたことを少し書こう。ただし断定的な言い方はしないので、読者も私の推測を事実だと思わないでいただきたい。何しろ80年以上も前のことで、資料は多く残っていないのだ。
 
 まず最初に確認しておきたいのは、本シリーズの目的である。それは、生長の家の発祥後数年の歴史的事実すべてを検証することではない。そうではなく、あくまでも今日「聖経」と呼ばれているものの成立過程を明らかにしたいのである。歴史的事実の検証はもちろん重要であり、私も現にそれを本欄で進めているが、それはあくまでも本シリーズの目的に資する範囲内に留めたい。そうしなければ、日常の私の他の業務に支障が出るからである。私がなぜ聖経の成立過程に興味があるかといえば、それが生長の家の公式の記録書--いわゆる『○○年史』--に詳しく書かれていないからである。この重要な経典についてさらによく知ることは、本欄読者にとっても有益なことだと私は信ずる。
 
 さて、その読者の指摘を端的に表現すれば、「生長の家叢書」というパンフレットの出版は、私が推測した「昭和7年10月」より前に行われているのであり、そのことは前掲の『明窓淨机』にちゃんと書いてある--ということである。その通りだった。ただし、本シリーズの焦点である聖経を収めた『生長の家の歌』(同叢書第9篇)については何も書いてない。書いてあるのは、『生きとほし』と『生命の神秘』という2冊の5銭パンフレットと、同叢書第2篇『光の新生活へ』、第7篇『無限生命の泉』、第6篇『いのちのゆには』のことで、これらはそれぞれ昭和6年10月、同年12月、同年同月、同7年1月、同年5月が推定発行月である。このうち先頭から2冊は、本シリーズ第8回で示した生長の家叢書のタイトル一覧の中にはないものだ。題名から推測して『人間生通しの話』と『こころ我を生かす』のことかもしれないが、現物を見ることができないので、確かなことは何も言えない。また、なぜ発行日の前に「推定」の2文字を入れたかといえば、前掲の『明窓淨机』には表記の月の翌月号の『生長の家』誌に発行の告知が載っているものの、私の手許にある現物(第2,7,6篇)では、奥付の表記が違うからである。
 
 この矛盾をどう考えるかについて、私に忠告を下さった読者は見事な回答をされている--生長の家叢書はバラ売りが先行し、10篇組のセット物が後から出来たと考えるべきだろうというのである。恐らく、そういうことになるのだろう。すると、セット物の分は奥付が昭和7年10月であっても、それより前にバラ売りが出ている場合、その分の奥付は同年9月以前になるはずである。理論的には、そうだ。しかし、私はまだその現物に出会ったことはない。そして、『生長の家の歌』のパンフレットについては、バラ売りのものがあったとしても、それがいつから行われたかは依然として不明である。
 
 現在の私の関心は、こういうことだ--聖経読誦をしようとする際、コピー機が存在しない草創期の誌友の人たちは、どうやってそれをしたのだろう? パンフレット発行後はその中の聖経を読めばいいのだが、それより前はどうしたのか? 雅春先生が「甘露の法雨」を「聖経」として公表されたのは昭和7年1月だから、それから10カ月の間のことである。

 谷口 雅宣

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コメント

総裁 谷口雅宣先生

合掌、ありがとうございます。
先生が本シリーズにてお調べになっていることがわかり、なるほど・・・ と思わせていただきました。

さて、『甘露の法雨』の読誦に関しまして、少し感じたことがありますので、ここに書かせていただきます。

谷口雅春先生は、『明窓浄机』草創篇(昭和5~12年)の21頁(最後から2行目)で、“神仏礼拝の都度本誌の一節を毎日読経にかえて音誦せられれば” と書かれ、『生長の家』誌を拝読することをすすめていらっしゃるように思います。

そして、昭和6年2月の『生長の家』において、『甘露の法雨』の後半部分を紹介されていますが、そこ(38~39頁)には、“『生長の家』では所依の経典のほかに神仏の祭壇に對つて之を朗読することにしています” と書かれています。
しかしその後、聖経読誦よりも神想観の実修を誌友の皆様に呼びかけていらっしゃるかのようです。(例:S6年4月号には『神想観実修の原理及形式』(52頁~)、同年5月号には『真の神我一体の聖境』、同年7月号の神示、この頃より合本の制作に心寄せられ、8月号には、神想観の実修の原理等については、合本にのみ収録されることになるだろう(77頁)と書かれています)

そこで、勝手な想像ではございますが、聖経『甘露の法雨』読誦も大切ですが、それよりも神想観の実修や合本に、谷口雅春先生は力を注がれたのではないか、と考えました。

講師課 小林光子拝

投稿: 小林光子 | 2012年7月10日 (火) 17時48分

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