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2012年6月17日 (日)

光明一元の人生観を堅持しよう

 今日は午前10時から、長崎県西海市の生長の家総本山にある谷口家奥津城で谷口雅春大聖師二十七年祭が厳かに挙行された。前日まで降っていた雨も上がり、薄日も差す心地よい天気となり、奥津城前の広場には、団体参拝練成会の参加者など約600人が集まって、雅春大聖師の限りない教恩に感謝しつつ、聖経読誦のなか玉串拝礼、焼香を心を込めて行った。私は御祭の最後に概略、以下のような挨拶をさせていただいた。
 
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 皆さん、本日は谷口雅春大聖師二十七年祭にご参列いただき、ありがとうございます。

 私は昨年のこの年祭では、雅春先生とフェンウィック・ホルムズ博士の共著である『信仰の科学』という本から引用して、「神の国は汝らの内にあり」という聖書のキリストの言葉の意味についてお話ししました。その時の挨拶の内容は、今年出版された『次世代への決断』の本の中に収録されています。この聖句の意味をひと言で申し上げれば、「心の眼が開かれている者にとっては、神の愛に溢れる天国はいたるところに見出せる」ということでした。「心の眼を開いて実相を見よ」ということです。そのためのトレーニングとして、生長の家の運動では「日時計主義」の実践を皆さんにお薦めしているし、この団体参拝練成会でも、絵手紙を描いたり俳句を詠むことを通して“真象”を見る練習をしているところであります。
 
 谷口雅春先生はまた、「生長の家の礼拝の本尊は観世音菩薩である」と教えてくださいました。この真理は、非常に深い意味をもっていまして、簡単にはそのすべてを理解するのは難しいのです。そこで私は今年の全国幹部研鑽会でその一端をお話ししました。また、ブログにもこれについて連載記事を書き、さらにそういう理屈っぽい説明は苦手だという人のために、直感的、右脳的な理解をしてもらおうと思い、「観世音菩薩讃歌」という長編詩も書かせていただきました。今度この長編詩が「大自然讃歌」と共に折り本型の経本として出版されることになりましたので、皆さんには是非、ご愛用いただきたいのであります。
 
 日時計主義の説明でよく使われる表現は、信徒行持要目の表現にもあるように「人生の光明面を見て暗黒面を見るべからず」ということです。これは一見分かりやすい表現なのですが、人生に起こる実際の出来事に適用しようとすると、案外むずかしい場合があります。それは実際の人生の場面では、何が“光明”であり、何が“暗黒”であるかが明確でないことがあるからです。簡単な例で言えば、今日の御祭の日が雨だったらどう考えますか? 雨は一般的には“悪い天気”と言いますが、梅雨の季節に雨が降らないとコメなどの農産物の成長にマイナスの影響が出ることが多い。だから、梅雨に雨が降るのは“よい天気”だと言っても間違いではない。すると、「雨の日」は人生の“光明面”なのか“暗黒面”なのかと改めて考えてみると、よく分からなくなるのです。では「曇りの天気」だったらどうでしょうか? 私の『日々の祈り』の本の中には「曇り空に感謝する祈り」というのがありますが、そこには曇天の日の有り難い点がいっぱい書いてあります。
 
 では、人間が病気になることはどうでしょう? これは、人生の“暗黒面”なのか“光明面”なのか……一般的には、病気になることは“悪いこと”と言われます。しかし、仕事一辺倒の人が病気になり、おかげで布団の中でゆっくりと生きることの意味を考え直したり、病気になったおかげで家族のありがたさ、友人のありがたさを改めて知ったという人も決して少なくない。「私はガンになって救われた」という人の話は決して珍しくない。谷口清超先生などは、結核にかかったことで戦場へ行かずにすみ、したがって人を殺さずにすみ、さらに加えて、結核病棟で同室だった上等兵から『生命の實相』を借りて読んだことで生長の家を知り、谷口雅春先生の一人娘の恵美子先生と結婚し、私がこの世に生れることになった! 私が考えるに、これは必ずしも“悪いこと”とは言えないでしょう。
 
 このように考えていくと、「人生には“光明面”と“暗黒面”がある」というのは単純すぎる見方であり、一見“暗黒”に見える事象の中にも、実は“光明”が隠されていることが多いのです。だから、日時計主義では、「“暗黒面”から目を背けなさい」とは言わない。私が皆さんに申し上げたいのは、「一見“暗黒”に見えるものの中に、光明を見つけよう」ということです。それができた時、私たちは“観世音菩薩の教え”を聴くことができるのです。この論理が分かりますか? 谷口清超先生の例で言えば、結核患者だった若い日の清超先生に『生命の實相』を貸してくれた上等兵は、その後しばらくして生長の家の信仰を棄ててしまったのですが、それは一見悪いことです。しかし、『生命の實相』を通して清超先生を信仰の世界に導いたのは、世界広しと言えどもこの人物以外にはいない。彼は、清超先生を通して大勢の人々の魂を救ったとも考えられる。だから、「彼は観世音菩薩だった」と言って決して間違いではない。このように、「観世音菩薩の教えを聴く」ということは、一見“悪”のように見える事象の中に、光が輝き出す原因や契機を見出すのですから、結果としてその事象を“善”に変えてしまう。日時計主義の中には、そういう深いものの見方も含まれているということを、ぜひ知っておいてください。
 
 さて、ここへ持ってきたのは、谷口雅春先生の『新版 光明法語【道の巻】』です。この本は今、私が講習会で使っているので、皆さんもお家に持っている方も多いと思います。これは先生が何冊も書かれた“365章モノ”と同じように、1月1日から12月31日までの日付入りで、真理の言葉が365の文章によって書かれている本です。今日は6月17日ですが、この本の今日の日付のところに何が書いてあるかを、最後に紹介いたします。読みます--
 
“ 6月17日の法語 よき「行為(おこない)」の種を蒔け
「思い」の種子は「行為(おこない)」の実を結ぶが、一つの「行為(おこない)」はまた多くの「思い」の果(み)を結ぶ。それは互いに映し合って「合わせ鏡」の如くである。また「思い」の方ではそんなに深切な気持が起こっていないにしても、そこを思い切って深切な行為(おこない)を実行して見た時に、不思議に「嬉しい思い」が湧いてくることを発見するであろう。そこに常に深切な行為(おこない)をする人は、常に幸福な思いを味わう人だと云う事が出来るのである。又、相手の感謝の表情を見る事は人生無上の楽しみである。感謝は感謝の共鳴を喚び起こすのである。”(同書、p.165)

 ここには、心の中の「思い」と「行為(行動)」との関係が明確に書かれています。私たちは普通、何かの行為をする前に、その行為の結果を考えます。つまり大抵の場合、何かの目的をもって行為をします。例えば、買い物に行ったり、会社に行ったり、農作物の世話をするために畑に行ったりする。この文章に書かれているのは、そういう目的をもった「思いが行為を生む」ということであり、さらにその「行為が新たな思い(目的)を生む」ということです。思いと行為との間には、このように密接な関係があるということを、先生は「合わせ鏡の如く」と表現されています。雅春先生がここで言われているのは、ある特定の思い(動機)によって行われた行為であっても、「その行為すること自体から新しい思い(動機)が生まれる」から、その新しい動機にオープンであれということです。しかも、新しい動機を「善」や「深切」の方向に向かわせることが、幸福の秘訣であるというのです。
 
 これは日時計主義を実践する際に有効な、なかなか素晴らしい教えだと私は思います。言い換えれば、私たちの人生は個々バラバラではなくて、互いに密接につながっているということです。しかし、お互いにつながっている人間であっても、それらの人々が皆、幸福生活を営むわけではない。ある人は暗い生活をし、別の人は明るい生活をしている場合もある。その違いはどこから来るかと言えば、この「思い」と「行為」とが連続してつながっていく方向を、明るい方向へ向かせることができるかどうかの違いです。それはちょうど、同じ『生命の實相』を読んでも、清超先生は光明思想に到達されたけれども、先輩の上等兵は別の方向へ行ってしまったことからも分かります。
 
 今日、ここへ来られている皆さんは、生長の家の教えに触れて全員が日時計主義の明るい生活法を学ばれています。しかし、生長の家に触れた人々が皆、例外なく、人生の最後まで光明生活を続けているかというと必ずしもそうではない。これはきわめて残念なことです。ある人は教えから離れ、人生の暗黒面を見て、人々の悪口を言う生活に自ら進んで入っていくこともある。せっかく光明一元の人生観を教わっても、人生の何に注目し、どういう目的、どういう動機で物事を行うかという点で暗い、間違った選択をした場合には、生長の家でかつては幹部活動をしていた人でも、光明思想から離れていくこともあります。ここへ来られた皆さんは、ぜひそういうことがないように、「思い」と「行為」が合わせ鏡のようにつながり合っていく人生の中で、常に正しい選択をしていただきたいのであります。そのためには、生長の家では「三正行」というのを皆さんにお勧めしています。これは、①神想観、②聖経・聖典の拝読、③愛行の3つですが、これを今後もさらに継続されて、谷口雅春大聖師が示された光明生活をまっとうしていただきたいと強く思うしだいであります。
 
 雅春先生の二十七年祭に当たって、所感を述べさせていただきました。ご清聴、ありがとうございました。
 
 谷口 雅宣

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コメント

吾が教区でも 感謝の心 一杯で 皆様とともに 「甘露の法雨」を あげさせて 戴きました。「観世音菩薩讃歌」と「大自然讃歌」が折り本型の経本になりますそうで 楽しみに待っております。有難うございます。

投稿: 桝谷栄子 | 2012年6月18日 (月) 09時36分

合掌ありがとうございます。
総裁先生、本日喜びの団参を終え、ただ今三重教区の全員とともに帰って参りました。
総裁先生のご挨拶に感激いたしました。帰りのバス車中では「総裁先生のお声が途中で突然に雅春先生のお声に変わって聞こえたのでびっくりしたが、しばらくすると総裁先生のお声に戻られ、とても不思議に思いました。」とか「先生ご夫妻が奥津城に到着された途端にウグイスが綺麗な声で鳴き始めた。歓迎しているようだった」、「自分は病気を患っているが暗黒面ばかりでないことを伺い救われる思いをした」などの感想がありました。様々な面で三重教区のためにお話しくださったと一同とともに感激を再確認いたしました。
 これからは先生のご指導に従い、『生長の家としてふさわしいか』を基準として選択し、『光明一直線』で運動を伸ばして参ります。重ねて感謝申し上げます。再拝  三重教区教化部長 寺川昌志拝

投稿: 寺川昌志 | 2012年6月18日 (月) 20時18分

合掌ありがとうございます

毎日の生活の中で、迷わず、光明面を見て生活する。このことの大切さをつくづく思うことがありました。
私は毎日postingjoyに投稿するのが日課になっています。最近、悪しき想念にとらわれました。とてもpostingjoyに善い事を投稿できる状況ではありませんでした。でも、日課にしてるものですから、やっぱり何か投稿しないと、一日がはじまりません。そこで、必死でよい事、を捜して投稿しました。それが何日も続きました。そうして、無理やりにでも「善い事」を捜して書いているうちに、「現象はない、実相のみ、実在である」いかなる状況でも、実相はかわらずに存在する、ということに気がつきました。そして、今生きている奇跡に、喜びを感じました。また生きる力がわいてきました。
日時計主義の生活は、本当に素晴らしいと思いました。また、postingjoyの素晴らしさを、再確認しました。
ありがとうございます。再拝

投稿: 水野 | 2012年6月18日 (月) 21時04分

谷口雅宣先生

 本当に感動致しました。一見、不幸と見える事象の中に光明を見出すというご指導。
 実は母が先月初めに倒れまして、今では寝たきりの状態になりました。どうも脳梗塞らしいのですが、今では家族中で介護生活に入りました。
 でも、その中で私他家族は実に多くの学びをさせて頂いております。ですから、今回の先生のご指導が今の私に本当に有り難く尊いものとなったのです。

投稿: 堀 浩二 | 2012年6月19日 (火) 12時32分

総裁先生,ありがとうございます。
生長の家の「日時計主義」の生活は立教当初から変わらないすばらしい生き方だと思います。しかしながら,時代の変遷や生活の変化によって,教えの捉え方,説き方は必ず変わるものとの認識はしっかりしておきたいと思います。
ところで,聖経はあくまでも「甘露の法雨」として祭事や供養の際に読誦され続けると思うのですが,「大自然賛歌」と「観世音菩薩賛歌」はどのような位置づけになるのでしょうか。
再拝

投稿: 佐々木(生教会) | 2012年6月19日 (火) 20時02分

合掌 ありがとうございます

総裁先生おはようございます!!
日頃のご指導心より感謝申し上げます。

最近主人が体調を崩しまして 入院いたしました。
その付添いの空いた時間に読もうと 先生著の新刊書「次世代への決断」を持って行きました。

おとなしく寝ている主人の側で 本を開いてびっり...!! 私の知らなかった事 理解していなかったこと..などばかり 書かれている内容 そうか! そうなっているのか!と
感激と感動で 一気に読んでしまいました!!
感激が鈍っていた私の心をが生き返りました。 
先生の訴えられている御心 をパッチリとキャッチして 愛業に励みます!!

先生 素晴らしい御本 ありがとうございました。


おかげ様で主人は身体の大掃除も終わり元気になりました。 私からは日頃薄れていた愛を引き出してくれました。

     先生!! ありがとうございました。
 

投稿: 清水幸子 | 2012年6月19日 (火) 21時26分

佐々木さん、

>>聖経はあくまでも「甘露の法雨」として祭事や供養の際に読誦され続けると思うのですが,「大自然賛歌」と「観世音菩薩賛歌」はどのような位置づけになるのでしょうか。<<

 「甘露の法雨」や「天使の言葉」は、物質なし、肉体なし、環境や肉体は心の影……などの面を強調しています。これは言わば“教義の基本”です。その上に立って、人間同士の関係、また21世紀に問題となっている人間と自然との関係について、すでに『生命の實相』などで説かれていることを自由詩にしたのが今度の「讃歌」2作です。8月に宇治で行われる「自然災害物故者慰霊祭」では「大自然讃歌」を読誦します。自然と人間との密接な関係を想起することにより、実相世界の大調和を祈る機会が今後、ますます必要になると考えます。

投稿: 谷口 | 2012年6月19日 (火) 22時14分

総裁先生,私の質問コメントにおこたえいただきましてありがとうございます。
先生のお考えが理解できました。確かに現代は,人と人との関係,人間と自然との関係を正しく理解することが,喫緊の課題であり,「神意」でもあると考えます。
再拝

投稿: 佐々木(生教会) | 2012年6月20日 (水) 19時06分

谷口雅宣先生

いつも、暖かいご指導賜りますこと、衷心より、感謝申し上げます。

「光明面をみて、暗黒面をみるべからず…」
この真理を、例をたとえて、分かりやすくご指導賜り、感動いたしました。

実家の両親が、長いこと、熱心に教えを勉強させて戴いておりました。
(高齢ですが、二人とも健在です。)

数々の奇跡的な体験も多数あり、谷口雅春先生のご文章のなかにも、度々掲載されていました。

一例を揚げさせていただきますと…私の体験ですが…。

五体満足で生まれましたが、生後まもなく、高熱の後遺症により、ハンデを背負いました。

このときも、医者には、ダメだといわれましたが、奇跡的に生かされましたうえに、切断しなければだめだといわれた足も、切断しないですみました。

この間、母は、寝ずに『甘露の法雨』 をあげ続けてくださいました。

退院の折りに、お礼をいいますと、医者が、『甘露の法雨』を指差し、「医学の力ではダメでした。あのお陰ですよ」
とおっしゃったそうです。
退院後も、歩けなかったわたしを、
「太陽のような明るい子に育てよう」
と決意し、雨の日も、風の日も、やすまずに、三年間、近くの神社に、歩く練習に連れていってくださいました。
その結果、歩けるようになり、幼稚園から、大学まで、普通の学校で学びました。

まだまだ、きりがないくらい、体験があります。

すべて、生長の家の御教えのお陰でございます。

両親の願いどおり、「明るい子」 に育ちました。

結婚し、3人子供を育てさせていただいております。
わたしにとり、人生、最大の課題は、夫です。

優しくて穏やかな実家で育ち、怒られたこともなかったわたしですが…

夫に、毎日鍛えられています。(笑)
その怒り方が、ハンパではありません。
わたしの結婚の運命、そして、観世音菩薩である夫…
独身時代、悩みがないのが悩みだったわたしを、25年間、鍛えてくださっています。
でもきっと、なにか意義があるのでしょうね…

ありがとうございます。m(__)m

投稿: 原 恵美子 | 2012年6月26日 (火) 23時12分

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