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2012年6月

2012年6月30日 (土)

聖経について (7)

 さて、本欄ではしばらく「聖経」とは直接関係がないと思われる“周辺情報”の類について書き継いできたが、その目的は、「甘露の法雨」がいったん「聖経」と認定されながらも、1冊の折本型の経本として成立するまでに3年3カ月という長期間を要した経緯をたどり、著者・谷口雅春先生にどのような事情があったかを明らかにするためである。その作業はまだ終っていないが、昭和7年から同10年4月までの3年余に初期の光明化運動で何が起ったかを詳細に述べることは、本シリーズの趣旨ではない。そこで、これまで明らかになった“周辺情報”を前提として、ここで私の推測を概括的に述べることにする。これはあくまでも「推測」であるから、事実とは異なる可能性もあることを読者はご承知いただきたい。
 
 結論をひと言でいえば、先生はこの時期、完成まもない初版革表紙『生命の實相』と、その続篇である『久遠の實在』の出版と頒布、そしてこれら2冊の中身を分冊したパンフレット等の発行と頒布に注力されていたのである。「甘露の法雨」は、すでに「聖経」としてこのパンフレットの1篇の中に収録されていたから、神前や仏壇の前で読むという日常的な需要には当面応じられていたと思われる。また、すでに述べたように、光明化運動の経済的基盤はまだ決して潤沢でなかったから、新たなコストとリスクが生じる折本型の経本の出版は、もし先生の胸中に浮かんでいたとしても、パンフレットの在庫がなくなった後の仕事だと考えておられたのではないか。
 
 谷口雅春先生の諸著作については、これまで我々の先人が纏めた『生長の家五十年史』のような正式の記録書の中に詳しい記述がある。それらの中の年表や編年体の著作一覧を見ると、この約3年間に雅春先生がどんなものの出版に力を入れられていたかが分かる。それによると、昭和7年の先生の出版物は「生長の家叢書」であり、同8年は『久遠の實在』であり、同9年は「光明叢書」、同10年は『生命の實相』黒布表紙版(全20巻)と革表紙版(全9巻)の一部、そして次の10書であるーー『生命の奔流』『新生活への出発』『地湧の淨土』『いのちのはやて』『本當の教育』『光明の思想』『生命の行方』『光明主義』『生命の神秘』『光明の生活法』。
 
 この中で注目されるのは、「生長の家叢書」と「光明叢書」である。前者は、初版革表紙『生命の實相』の内容を11篇のパンフレットに分けて発行したもので、後者は同じく『生命の實相』と『久遠の實在』の内容を4対9の比率で同様に分冊した13篇のパンフレット・シリーズだ。このことから、谷口雅春先生の初期の単行本出版の考え方が浮かび上がってくる。その基本となるのは、初版革表紙『生命の實相』のようなしっかりとした内容の豪華な聖典を発行する一方で、その中身を小冊子に分けて廉価で入手しやすい“聖典への入口”を数多く作り、頒布することである。これにより、沢山の入口から大勢の人々を誌友として迎え入れ、運動の輪を拡大していこうという戦略を採られたのではないか。
 
 このような計画が背後にあると想定して、昭和7年以降の雅春先生の出版活動を追っていくと、納得できる部分が数多く見出されるのである。本欄の現在のテーマは「聖経」であるから、「甘露の法雨」の出版に焦点を当てながら、その記述を進めよう。

 谷口 雅宣

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2012年6月26日 (火)

「聖経について(4)」を修正

 6月16日付で本欄に書いた「聖経について (4)」では、京都で発行された初めての折本型『聖経』の製作に、谷口雅春先生が関与されていたかどうかを推測する記事を書きました。私の結論は、周辺の状況から考えて、「先生御自身の考えやアイディアがこの『聖経』の編集や体裁に反映されている」というものでした。が、この記事を書いた後で、京都教化部から発行された文書の中に、これを裏づける“決定的”とも言える証拠があることが分かったので、文章のほとんどを書き直しました。興味のある方は、前にもどって読み直してください。
 
 谷口 雅宣

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2012年6月22日 (金)

聖経について (6)

 このような事情を知ってみると、「聖経 甘露の法雨」が、『生長の家』誌の合本である初版革表紙『生命の實相』の発刊(昭和7年1月1日)から時期がかなり遅れて、経本として出版された理由の一端が理解できる。それは、当時、会社勤めの中で宗教活動をされていた先生が多忙すぎただけでなく、資金的にも余裕がなかったからである。

先生のこの「会社勤め」と「資金不足」の間には、因果関係がある。当時の先生は金銭に対して非常に潔癖な考えをもっておられ、宗教活動のために信徒から金銭を得ることに抵抗感をもっておられたのだ。特に先生は、信徒に高額のものを売りつけて贅沢な生活をするような宗教家にはなりたくない、と思われていた。だから、出版物が高額にならないように、出版に要する資金はできるだけ自分で負担するお考えだった。先生はそのことを「私が依然として会社生活を持続することにしたのは、修行者に経費を負担させることを私自身が喜ばないためであった」(『生長の家』誌昭和7年9月号、p.86)と書かれている。当時の先生は、「居を従来の2倍以上の広い家に移し、約20畳敷ける2階を、修行者に解放して神示に副わんがために仮見真道場とし、多数の『生長の家叢書』を発行して仮見真道場の宣道機関とし」(同誌、同ページ)ておられたので、家賃その他の経費は以前よりも倍加していた。
 
 このような会社員と宗教家の二重生活が、先生の毎日を極めて多忙なものにしていたのである。その頃の雅春先生の日常を先生御自身が描いている文章を紹介する--
 
「(前略)仮道場を開いて以来、会社を続けている事には時間的無理が出来かけていた、と云うのは会社生活に殆ど10時間を奪われ、会社から帰って来ると、修行者が既に待っていられるので、殆ど夕飯をたべる暇もなく、それらの人々に面接し、話がのびて11時頃になることも度々あった。多くの誌友から悩みの訴えの手紙が来、遠隔治療の希望が来ていてもその返事を書いている時間がない。返事を書いていると『生長の家』を書いている暇がなかったり、遠隔治療をしてあげる暇がなかったりする。10人の遠隔治療をするにも一人宛30分を費すとすれば、5時間を要する。この時間は会社生活に10時間を奪われている私にはないのである。従って一人宛の遠隔治療に費される時間は段々短くなって来るし、時には一定の時間を定めて置いてひと纏(まと)めに名前を呼び上げて祈願してあげるより仕方のない時もあったり、是非返事を書かねばならぬ手紙も其儘(そのまま)になったりした。多くの誌友にこれは済まないと思う。これではならない、自分は会社を止めて、『生長の家』ひとすじに自分の生命を捧げねばならないと切に思う。」(同誌、昭和7年9月号、p.87、同文は谷口雅春著『明窓浄机 草創篇』p.58に収録)

 谷口雅春先生は昭和7年7月末で会社勤めを終えられた。正確には、企業合併によるリストラで解雇されたのだ。しかし、前述のように当時の先生の毎日は“二重生活”のために十分に眠る時間もないほどであり、その一方で、悩みの相談や遠隔治療を求める人々の数はどんどん増えていた。宗教活動に必要な経費を得るためとはいえ、1日10時間の会社勤めは雅春先生にとって肉体的のみならず、倫理的な負担にさえなっていた。だから、会社からの解職通告を、先生は二重生活から解放される絶好の機会であり、“神の御心”と感じられたのである。
 
 『生長の家』誌同年9月号に8月1日付で書かれた「宣言」という文章の最後で、雅春先生はその時の心境をこう綴っておられる--
 
「顧みれば、あるべきものが表われ、来るべきものが来たのであった。私はみこころに従ってひたすら生きて行こう。私は今ほどすがすがしい気持を知らぬ。私の全生活が誌友全部に捧げられたものとなったのである。私は諸君のものである。これからはどの時間でも面会できるからいつ訪ねて来てくれても執筆の時間を加減して会う。質問の手紙にも丁寧に応ずる。遠隔治療の依頼者は、あらためてもう一度現在の病状を詳しく書き、自筆の署名又は掌の型を紙に印して送って欲しい、こちらから遠隔治療を行う時間を知らせる。」(同誌、p.87-88)
 
 谷口 雅宣

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2012年6月19日 (火)

聖経について (5)

 単行本の一部を取り出して独立した1冊の経本とするまでに、3年と3カ月が経過した。その間に、「聖経 甘露の法雨」は多くの人々に自信と希望を与え、病気や逆境から立ち直る生命力を引き出したに違いない、。谷口雅春先生の数ある自由詩の中から、この長編詩がまず「聖経」として認められ、やがて経本として歩き始めるまでには、信徒からの多くの要望が関与したと思われる。その一部は、雅春先生が読者からの手紙の形で、また地の文章の中で『生長の家』誌上に紹介されていて興味深い。次に掲げる一文は、キリスト教徒でありながら仏教にも魅力を感じて悩む読者からの手紙(一部)で、先生はその手紙に「ポケット型の生長の家」という表題を付けて昭和6年1月号に掲載された--
 
「(前略)基督教のみでも且つ仏教のみにても、又勿論他の宗教に於ても満足が出来ず、悩み苦しんで居りました。そして意気銷沈として居りました。その際丁度『実業の日本』誌上で『生長の家』の広告を見、早速御願いした様な訳であります。有難う御座います。此れで私の運命も段々幸運に向い自分の本分を全うして安心立命することが得らるるを信じて感謝して居ります。私の家を『幸福の家』『生長の家』として生れ変ることが出来ます。吾が家へ帰ると思わず役所からは『幸福の家』『生長の家』へ帰るのだと思い何時も喜びと共に帰宅が出来ます。『生長の家』を何時も毎日ポケットか包かに入れて持ち歩いて居ります。何となし力強い気分に満たされます。
 一周年記念にはどうぞ小形のポケット入りの『生長の家』のもっとも霊的の場所だけを選んで下さいまして、聖書的なポケットに入れて護身的に持ち歩けるものを造って頂き度いものだと私は一人祈って居ります。」(同誌、pp. 62-63)

 このような“ポケット型経典”を求める人もいた一方で、『生長の家』誌の読者が増えるにともない、創刊号からのバックナンバーを求める人も増え、それらバックナンバーの在庫が払底してしまうと、谷口雅春先生のもとには、今度は創刊号以来の合本を出版してほしいとの要望も多く寄せられるようになった。同誌昭和6年7月号に、雅春先生はこれらの事情に触れた「五旬節の奇蹟に就いて」という文章を書かれているが、そこには次のようにある--
 
「だから田平氏も云われたように、ポケットへ這入る位な聖書型の『生長の家』を出して貰って毎日心を磨く護心の糧としたいと云う要求もあるのである。また畑中氏その他は第一集全部を合本して単行本とし発行して頂けば第二集からの読者にとっては実に福音だと云われた。また台湾の某誌友は、綴り込みに便利なように鳩目孔を明けて欲しいと云って寄越された。」(同誌、p.9)

 当時の『生長の家』誌は、しかし残念ながら、これらの要望に応えられるだけの経済的基盤をもたなかった。そのことも、雅春先生はこの文章で正直に告白されている--
 
「私は今迄それらの要求に対して一々返事をしなかったことを茲(ここ)に更めて謝する。それは生長の家出版部にはその出版費がないので、時期尚早いと思われたからである。今も依然として出版部にその出版費はない。何故なら生長の家の出版部と云っても、実は殆ど全部、なけなしの私の財布で支えられて来ているからである。誌代を出して下さる方もあるが(中略)誌代未送の方も夥しい数に上っている。こんな訳で、生長の家出版部をあずかっている私としてはまことに歯痒い思いがしながら、今迄は新しく第一集の合本を出版する計画がたたなかったのである。」(同誌、同ページ)

 谷口雅春先生は、しかしこの一文を書くに当たって「第一集の合本」の出版を固く決意されたようだ。というのは、この文章の最後の所で、先生は「追記」として次のように書かれているからである--
 

「(追記)第二集第四号より印刷部数を殖やしましたので、此の合本には現在残本のない第二集の第三号までの主要部分を全部集めたい計画です。申込部数が少く、且つ出版基金が集らない時幾分この計画の実現は遅れましょうが、必ず実現さします。併し成るべくならば遅らしたくないので出来るだけ奮発して御申込下さい。」(同誌、p.12)

 先生はこの文章に、『生長の家』誌の合本を「兎も角先ず一千部を印刷し得るだけの基金が得たい」(p.12)と書かれている。その主な理由は、一般の人々が入手しやすいように単価を下げるためである。しかし、当時の『生長の家』誌の読者は500人ほどだったらしく、しかも前述したように、読者全員が必ずしも誌代を払っていなかった。その不払いの率は実に5割を超えていたため、先生は次のようなコスト計算まで示して、資金難を訴えられている--
 
「今、五百の読者のうち、誌代を確実に払っていて下さる二百三十の誌友が皆な必ず一冊ずつ買って下さると仮定したところが、僅か二百三十部である。こんな小部数では、第一集全部をまとめた厖大な大冊をつくれば一冊五円以上について了(しま)うのである。これでは欲しいけれども余りに高価で手の出しようがないと云う人も可成り多いに違いない。(中略)いま農村の収入が、一人一日当り十銭に過ぎないときくとき私はせめて一千部を刷ることにして、一部の実費二円五十銭で諸君の手許に送りたい。これは切なる私の要求である。」(同誌、p.11)

 雅春先生はこの一文の最後でも、合本の定価のことを「実費は発行部数で変化しますが便宜上、一冊の定価を仮りに二円五十銭と定めて置きます」と念を押していられる。しかし、現在私の手もとにある初版革表紙『生命の實相』の奥付を見ると、「非売品」と表示されたうえ「有縁の方に限り特に金四円にて頒布す」と印刷されている。目標だった「2円50銭」の定価が難しかったことが窺い知れるのである。
 
 谷口 雅宣 

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2012年6月17日 (日)

光明一元の人生観を堅持しよう

 今日は午前10時から、長崎県西海市の生長の家総本山にある谷口家奥津城で谷口雅春大聖師二十七年祭が厳かに挙行された。前日まで降っていた雨も上がり、薄日も差す心地よい天気となり、奥津城前の広場には、団体参拝練成会の参加者など約600人が集まって、雅春大聖師の限りない教恩に感謝しつつ、聖経読誦のなか玉串拝礼、焼香を心を込めて行った。私は御祭の最後に概略、以下のような挨拶をさせていただいた。
 
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 皆さん、本日は谷口雅春大聖師二十七年祭にご参列いただき、ありがとうございます。

 私は昨年のこの年祭では、雅春先生とフェンウィック・ホルムズ博士の共著である『信仰の科学』という本から引用して、「神の国は汝らの内にあり」という聖書のキリストの言葉の意味についてお話ししました。その時の挨拶の内容は、今年出版された『次世代への決断』の本の中に収録されています。この聖句の意味をひと言で申し上げれば、「心の眼が開かれている者にとっては、神の愛に溢れる天国はいたるところに見出せる」ということでした。「心の眼を開いて実相を見よ」ということです。そのためのトレーニングとして、生長の家の運動では「日時計主義」の実践を皆さんにお薦めしているし、この団体参拝練成会でも、絵手紙を描いたり俳句を詠むことを通して“真象”を見る練習をしているところであります。
 
 谷口雅春先生はまた、「生長の家の礼拝の本尊は観世音菩薩である」と教えてくださいました。この真理は、非常に深い意味をもっていまして、簡単にはそのすべてを理解するのは難しいのです。そこで私は今年の全国幹部研鑽会でその一端をお話ししました。また、ブログにもこれについて連載記事を書き、さらにそういう理屈っぽい説明は苦手だという人のために、直感的、右脳的な理解をしてもらおうと思い、「観世音菩薩讃歌」という長編詩も書かせていただきました。今度この長編詩が「大自然讃歌」と共に折り本型の経本として出版されることになりましたので、皆さんには是非、ご愛用いただきたいのであります。
 
 日時計主義の説明でよく使われる表現は、信徒行持要目の表現にもあるように「人生の光明面を見て暗黒面を見るべからず」ということです。これは一見分かりやすい表現なのですが、人生に起こる実際の出来事に適用しようとすると、案外むずかしい場合があります。それは実際の人生の場面では、何が“光明”であり、何が“暗黒”であるかが明確でないことがあるからです。簡単な例で言えば、今日の御祭の日が雨だったらどう考えますか? 雨は一般的には“悪い天気”と言いますが、梅雨の季節に雨が降らないとコメなどの農産物の成長にマイナスの影響が出ることが多い。だから、梅雨に雨が降るのは“よい天気”だと言っても間違いではない。すると、「雨の日」は人生の“光明面”なのか“暗黒面”なのかと改めて考えてみると、よく分からなくなるのです。では「曇りの天気」だったらどうでしょうか? 私の『日々の祈り』の本の中には「曇り空に感謝する祈り」というのがありますが、そこには曇天の日の有り難い点がいっぱい書いてあります。
 
 では、人間が病気になることはどうでしょう? これは、人生の“暗黒面”なのか“光明面”なのか……一般的には、病気になることは“悪いこと”と言われます。しかし、仕事一辺倒の人が病気になり、おかげで布団の中でゆっくりと生きることの意味を考え直したり、病気になったおかげで家族のありがたさ、友人のありがたさを改めて知ったという人も決して少なくない。「私はガンになって救われた」という人の話は決して珍しくない。谷口清超先生などは、結核にかかったことで戦場へ行かずにすみ、したがって人を殺さずにすみ、さらに加えて、結核病棟で同室だった上等兵から『生命の實相』を借りて読んだことで生長の家を知り、谷口雅春先生の一人娘の恵美子先生と結婚し、私がこの世に生れることになった! 私が考えるに、これは必ずしも“悪いこと”とは言えないでしょう。
 
 このように考えていくと、「人生には“光明面”と“暗黒面”がある」というのは単純すぎる見方であり、一見“暗黒”に見える事象の中にも、実は“光明”が隠されていることが多いのです。だから、日時計主義では、「“暗黒面”から目を背けなさい」とは言わない。私が皆さんに申し上げたいのは、「一見“暗黒”に見えるものの中に、光明を見つけよう」ということです。それができた時、私たちは“観世音菩薩の教え”を聴くことができるのです。この論理が分かりますか? 谷口清超先生の例で言えば、結核患者だった若い日の清超先生に『生命の實相』を貸してくれた上等兵は、その後しばらくして生長の家の信仰を棄ててしまったのですが、それは一見悪いことです。しかし、『生命の實相』を通して清超先生を信仰の世界に導いたのは、世界広しと言えどもこの人物以外にはいない。彼は、清超先生を通して大勢の人々の魂を救ったとも考えられる。だから、「彼は観世音菩薩だった」と言って決して間違いではない。このように、「観世音菩薩の教えを聴く」ということは、一見“悪”のように見える事象の中に、光が輝き出す原因や契機を見出すのですから、結果としてその事象を“善”に変えてしまう。日時計主義の中には、そういう深いものの見方も含まれているということを、ぜひ知っておいてください。
 
 さて、ここへ持ってきたのは、谷口雅春先生の『新版 光明法語【道の巻】』です。この本は今、私が講習会で使っているので、皆さんもお家に持っている方も多いと思います。これは先生が何冊も書かれた“365章モノ”と同じように、1月1日から12月31日までの日付入りで、真理の言葉が365の文章によって書かれている本です。今日は6月17日ですが、この本の今日の日付のところに何が書いてあるかを、最後に紹介いたします。読みます--
 
“ 6月17日の法語 よき「行為(おこない)」の種を蒔け
「思い」の種子は「行為(おこない)」の実を結ぶが、一つの「行為(おこない)」はまた多くの「思い」の果(み)を結ぶ。それは互いに映し合って「合わせ鏡」の如くである。また「思い」の方ではそんなに深切な気持が起こっていないにしても、そこを思い切って深切な行為(おこない)を実行して見た時に、不思議に「嬉しい思い」が湧いてくることを発見するであろう。そこに常に深切な行為(おこない)をする人は、常に幸福な思いを味わう人だと云う事が出来るのである。又、相手の感謝の表情を見る事は人生無上の楽しみである。感謝は感謝の共鳴を喚び起こすのである。”(同書、p.165)

 ここには、心の中の「思い」と「行為(行動)」との関係が明確に書かれています。私たちは普通、何かの行為をする前に、その行為の結果を考えます。つまり大抵の場合、何かの目的をもって行為をします。例えば、買い物に行ったり、会社に行ったり、農作物の世話をするために畑に行ったりする。この文章に書かれているのは、そういう目的をもった「思いが行為を生む」ということであり、さらにその「行為が新たな思い(目的)を生む」ということです。思いと行為との間には、このように密接な関係があるということを、先生は「合わせ鏡の如く」と表現されています。雅春先生がここで言われているのは、ある特定の思い(動機)によって行われた行為であっても、「その行為すること自体から新しい思い(動機)が生まれる」から、その新しい動機にオープンであれということです。しかも、新しい動機を「善」や「深切」の方向に向かわせることが、幸福の秘訣であるというのです。
 
 これは日時計主義を実践する際に有効な、なかなか素晴らしい教えだと私は思います。言い換えれば、私たちの人生は個々バラバラではなくて、互いに密接につながっているということです。しかし、お互いにつながっている人間であっても、それらの人々が皆、幸福生活を営むわけではない。ある人は暗い生活をし、別の人は明るい生活をしている場合もある。その違いはどこから来るかと言えば、この「思い」と「行為」とが連続してつながっていく方向を、明るい方向へ向かせることができるかどうかの違いです。それはちょうど、同じ『生命の實相』を読んでも、清超先生は光明思想に到達されたけれども、先輩の上等兵は別の方向へ行ってしまったことからも分かります。
 
 今日、ここへ来られている皆さんは、生長の家の教えに触れて全員が日時計主義の明るい生活法を学ばれています。しかし、生長の家に触れた人々が皆、例外なく、人生の最後まで光明生活を続けているかというと必ずしもそうではない。これはきわめて残念なことです。ある人は教えから離れ、人生の暗黒面を見て、人々の悪口を言う生活に自ら進んで入っていくこともある。せっかく光明一元の人生観を教わっても、人生の何に注目し、どういう目的、どういう動機で物事を行うかという点で暗い、間違った選択をした場合には、生長の家でかつては幹部活動をしていた人でも、光明思想から離れていくこともあります。ここへ来られた皆さんは、ぜひそういうことがないように、「思い」と「行為」が合わせ鏡のようにつながり合っていく人生の中で、常に正しい選択をしていただきたいのであります。そのためには、生長の家では「三正行」というのを皆さんにお勧めしています。これは、①神想観、②聖経・聖典の拝読、③愛行の3つですが、これを今後もさらに継続されて、谷口雅春大聖師が示された光明生活をまっとうしていただきたいと強く思うしだいであります。
 
 雅春先生の二十七年祭に当たって、所感を述べさせていただきました。ご清聴、ありがとうございました。
 
 谷口 雅宣

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2012年6月16日 (土)

聖経について (4)

 生長の家京都支部が製作した折本型経本『聖経』は、雅春先生の2回目の京都講演旅行の2週間後、昭和10年4月25日が発行日である。もちろん2週間では単行本の製作はできない。しかし2カ月前の2月初めにも先生は京都に来られたから、この経本の編集や製作に関与される機会はあったし、実際に関与されたと考えるのが自然である。それどころか、先生御自身の考えやアイディアがこの『聖経』の編集や体裁に反映されている、と私は考えるのである。その根拠の一つは、『生長の家京都光明化五拾年史』(昭和57年刊)に載っている「『甘露の法雨』第1号」という一文である。これを書いたのは尾本輝三という京都の生長の家の草創期の幹部である。尾本氏によると、本当の意味での第1号の『甘露の法雨』は、著者・雅春先生に無断で実験的に印刷されたらしい。
 
 ある日、小木虎次郎氏が尾本氏に「本願寺さんの前で無地の折本が売ってあるはずやから探して買ってこい」と言い、その無地の折本に「甘露の法雨」の詩文を筆写するように命じた。ところが、詩文が長いため一冊分の折本の中に全部収まり切らない。別の人に頼んだけれどもその人も書き切れず、結局、誌友の印刷屋に頼んで印刷したものが“第1号”になったのだという。尾本氏によると、その経本には「『甘露の法雨』と云う題字もございません。大調和の神示もございません。ただいきなり本文の『甘露の法雨』だけでございました」(同書、p.31)というものだった。同氏はしかし、著者に無断で経本を製作し使い続けることはできないと考え、雅春先生に許可を求めに行った時の様子を、こう記している--
 
「ところが内緒ということは何時までももてるものではございません。先生が見えると読みにくいので読み、先生がお帰りになると読み易いそれを出して読む、というようなことをやっておりましたが、着月先生と相談して、先生に叱られるつもりで谷口先生のところへお伺いに参りました。幸いに叱られずに先生にお喜こびいただきまして、“なんぼでも印刷しなさい”とお許しをいただきまして、今度は大威張りで印刷をやって参りました。そうすると、谷口先生は“もっとせい、もっとせい”となんぼでも数を増してこられる、資本金がたまりません。そこへ谷口隆之助と云う方が“わしが資本金出してやろう”と出して下さった。そういうことから始まった『甘露の法雨』でございます」。(同書、pp.31-32)

 この尾本氏の記述が正確であれば、“京都版”の『聖経』には2種類があったことになる--最初に発行された「甘露の法雨」の詩文だけからなるもの(これを仮に“尾本本”と称す)と、その後、雅春先生から正式に許諾を得て発行されたもの(これを“正式本”と称す)である。私は前者を見たことがないが、後者は現在、生長の家本部に保管されている。両者は、『聖経』という経本の表題は同じであるが、中身に大きな違いがある。“尾本本”が「甘露の法雨」の詩文だけを収録してあるのに対し、“正式本”の『聖経』における歌や神示の配置、配列、経文の組み方、使用活字の種類などは、後に東京で日本教文社(当時は光明思想普及会)から発行される『聖経 甘露の法雨』と、ほとんど同一といっていいほど変わらない。ということは、“尾本本”は誰かの指示によって“正式本”の編集に変更されたのであり、その指示者は、“尾本本”を見て喜ばれ、「なんぼでも印刷しなさい」と仰った著者、谷口雅春先生以外には考えられない。
 
 この“正式本”の聖経の編集内容は、現在流通している大型折本『聖経 甘露の法雨』と表題を除いてはほぼ同一である。つまり、最初のページに「招神歌」を掲げ、扉ページには先生自筆の「甘露の法雨」の揮毫を入れ、次ページから<『七つの燈台の点燈者』の神示>という表題のもとに「大調和の神示」と「完成(ななつ)の燈台の神示」の2つを入れ、そして聖経の本文へと続き、最後に『実相を観ずる歌』で終わる、という流れは同一である。また、表紙デザインである「雲間から差し込む陽光が、土から伸びる植物の芽を照らす」という図案も共通している。
 
 この京都版の“正式本”と、後に東京で作られる日本教文社版の『聖経 甘露の法雨』の内容がなぜ同一であるかの理由も、前掲の『生長の家京都光明化五拾年史』には書いてある。それは、“正式本”の版権が生長の家京都支部から光明思想普及会(日本教文社の前身)に移された時、紙型も一緒に移転されたからだ。紙型とは、印刷所で1冊の本の活字を組んだ後に、大判の紙を活字面に高熱で圧着して各ページの型を取っておくものだ。印刷の際は、この紙型に鉛を流し込んで各ページ大のハンコを作り、インクを載せて刷る。だから、紙型さえあれば、印刷所が変わっても内容が同一の本を何回でも製作することができるのである。『生長の家京都光明化五拾年史』には、この紙型移転について着月暁氏が次のように記している--

「 それから折本甘露の法雨はみなさんのお世話で京都で出来たのです。ところが、光明思想普及会が出来まして、先生の出版物は全部扱うということになり、“戻せ!”とおっしゃる。あれは皆残念だった。京都はやって行けんがな、と思った。よう売れる、よう出るんです。然し小木博士、偉らかったね。“返す、あんた持って行き”と云ってですね、紙型とか材料全部私が抱えて持って、お渡ししたのが理事長先生(中林先生)でした。遅かったなあ、と云われるかと思ったら、“よう来てくれた”と喜こんでいただいて、えらい御馳走になった」。(同書、pp.28-29)

 『生長の家四十年史』(昭和44年、日本教文社刊)によると、折本型『聖経 甘露の法雨』の版権の移転は昭和11年の末である。上の引用文からは、当時のこの『聖経』の人気ぶりがよく分かる。京都版“正式本”の初版発行は奥付に同10年4月25日と記されているから、1年8カ月の間、この経本は京都の光明化運動の重要な資金源となったのである。
 
 谷口 雅宣

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2012年6月12日 (火)

聖経について (3)

 この中で「本部の発行じゃなかったのであります」という部分は、見方によっては雅春先生が「自分の意志じゃなかった」という意味で書かれたと解釈できる。またさらに拡大解釈すると「自分は東京の本部にいて知らなかった」という意味にも取ろうと思えば取れる。しかし、当時の状況を詳しく知り、教団の中での先生の位置や信徒の尊崇の念を考慮に入れれば、先生の著作物であり、かつ教団の運動中で重要な役割を果たしつつあった「甘露の法雨」の詩編を当時、先生に断りなく誰かが発行する可能性などゼロに等しいと言える。それよりもむしろ、この御文章中にある「最初は京都の教化部で」の意味は、「聖経」という呼称のことではなく、「経本型」での発行のことを指している、と私は考える。つまり、「聖経」と呼ぶことは先生御自身のアイディアであったが、「折本型の経本」という体裁で発行したのは京都が初めてだという意味なのである。
 
 私がこう考えるに至ったのは、当時の雅春先生と京都の信徒の人達の深い関係を知ってからだ。そのことは、昭和34年に出版された『生長の家三十年史』(日本教文社刊)に収録されている齋藤壽美(さいとうすみ)氏の文章が教えてくれた。この文章の表題は「京都布教の歴史」といい、最初の折本型『聖経』が出た頃(昭和10年4月)の京都の事情をやや詳しく描写している。それによると、この聖経発行の7カ月前の昭和9年8月末に、谷口雅春先生御一家は神戸の住吉から東京へ移住され、それを契機に関西方面の運動を発展させていかねばならないとの気運が信徒の間に盛り上がったという。その辺の事情を、齋藤氏は次のように描く--
 
「み教えの発展のためとは申せ谷口先生御一家は東京へ御移転なさいますことになりまして、今迄あまりにも身近に先生をいただいておりました私ども関西の誌友たちには、まるで掌の中の珠玉を奪い去られるような思いでございましたが、これによりまして生長の家も世界的に発展の基礎を築き、また私どもも今迄は住吉へ住吉へ、と先生の御膝元にのみ参っておりましたものが、お互いに内に於て磨き合わねばならなくなり、こうしてはいられないという堅い結束の力を呼び起して下さったように思います。本部が東京へ移されますと同時に、京都では小木虎次郎博士が初代支部長に就かれ11月には『京都誌友』という誌友の連絡誌が発行されまして、顕著な体験談等も収録されましたので皆さんの信仰もしだいに深まってまいりました。」(同書、p.211)

 当時の京都には、現在のように「教化部」と呼ばれるような法人も建物もなく、「生長の家京都支部」という信徒組織が発足したばかりだったのだ。齋藤氏の記述によると、この京都支部は上京区相国寺東門前町の石川芳次郎氏の自宅に置かれたのである。それが昭和10年1月のことで、そこでは「毎月15日午後7時から座談会と神想観の実習(ママ)を行いましたが、誌友の素晴らしい体験談等でとても活発的なもの」だったという。そういう熱心な信徒の要望を入れられて、谷口雅春先生はその年の2月と4月に京都へ講演旅行をされている。その様子については、こうある--
 
「10年2月3日には、谷口先生御東上後はじめて京都に先生をお迎え申し上げまして、誌友会並びに講演会を開かせていただきました。お昼は石川邸での座談会、夜は同志社新島会館での御講演でございましたが、私ども白鳩会員がよりまして大喜びして先生の御食事を石川様のお台所で拵えましたことを覚えております。誌友一同の喜びは申すにおよばず、きっとまた近いうちに先生をお呼び申し上げずにはおかないという誌友の熱意は実現して、二か月後の4月6日にはまた京都へ谷口先生をお迎え申し上げることができました。」(同書、p.212)

 谷口 雅宣

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2012年6月 9日 (土)

聖経について (2)

 この号に掲載された長編詩は、しかし「天使の言葉」とは題されずに「甘露の法雨(聖詩)」と表記されていた。そして、題に続く“項”として「生長の家」と書かれている。つまり、現在の『甘露の法雨』の「神」「霊」「物質」……「人間」……と続く項の最後のものとして「生長の家」という項があり、それが後に独立して「天使の言葉」と呼ばれるようになったのだ。この項は、同誌24ページにわたって全文が掲載され、最終部は「其處はただ常楽の世界を現じたりき。」と文を終わった後、「(終)」とある。「(聖経終)」ではない。つまり、この詩編については、「聖経」という言葉はこの時点ではまだ使われなかった。この時点では、「甘露の法雨」はあくまでも「聖詩」であり、従ってその詩の終わりには「聖経終」とは書けなかった(あるいは書かなかった)と推測されるのである。
 
 では、「聖詩 甘露の法雨」はいつから「聖経」と呼ばれるようになったのだろう。私はこの時期を昭和6年の秋頃だと推測する。その根拠は、昭和7年の元日を発行日とする初版革表紙『生命の實相』では、「甘露の法雨」のことをはっきりと「聖経」と表示し、全文を掲載したこの詩編の最後にも「聖経終」と明示されているからだ。さらに、この本の「甘露の法雨」の説明には、次のようにこれが「生長の家の経典である」と明確に述べられているからだ--
 
「最後の詩『甘露の法雨』は『生命の實相』を縮約して歌ったもので、単に現実界の人間が読誦して悟りを開いて病苦悩苦を去るばかりでなく、霊界の諸霊もその読誦の声を聞いて悟りをひらき、迷える障(さわ)りの霊も守護の霊となるので、神仏礼拝の際その祭壇に対(むか)いて読誦すべき生長の家の経典(けいてん)である。」(初版革表紙『生命の實相』聖詩篇扉裏、原文は旧漢字歴史的仮名遣い、以下同じ)

 初版革表紙『生命の實相』の奥付には、この本の納本日を昭和6年12月28日と示してある。単行本の製作には数カ月の期間が必要で、特にこの本のように一千ページを超える大部の書物の場合、最低3カ月ほどの製作期間を要するはずだから、その原稿は昭和6年の9月から10月までに完成していなければならない。となると、この時期以前に谷口雅春先生は「甘露の法雨」を「聖経」として認定されたことになる。
 
 しかし、それでは先に触れた『生長の家』誌昭和7年2月号では、なぜ「聖詩」という表現が「甘露の法雨」に冠されているのだろうか? その理由はよく分からない。可能性として1つ考えられるのは、雅春先生が何らかの理由で、後に「天使の言葉」と名付けられるこの長編詩の内容に関して、「聖経」と呼ぶのを躊躇されていたことだ。もう1つの可能性は、単純な見落としである。月刊誌の編集に携わったことのある人ならよく分かるはずだが、2月号の編集というのは、どこの出版社でも他の月号のものより厳しいスケジュールで行われる。年末年始に印刷所や製本所が休業するからだ。昭和6年の11月ごろは、雅春先生にとって、これに加えて初版革表紙『生命の實相』の編集製作が行われていた。それらの作業をもし先生がお1人でなさっていたとしたら、編集作業の細部で若干の見落としがあったとしても、それは先生の偉大さを傷つけることにはならない。
 
 この「聖経」という表現を使うに際して、雅春先生の意思ではなかったとする見方が一部にあるようである。しかし、私はそう思わない。確かに、発表から約1年の間、この長編詩は「聖経」と表示されなかった。しかし、初版革表紙『生命の實相』に「甘露の法雨」を収録することを決めたのは雅春先生以外に考えられないから、その時に「聖経」の2文字を加えることを決めたのも先生御本人だと考えざるを得ないのである。先生が「甘露の法雨」を「聖経」と呼ぶことを避けておられたという印象が生まれたのは、『新講「甘露の法雨」解釈』に書かれた次のような御文章のためだと思われる--
 
「 最初はこの『甘露の法雨』は小さい1冊5銭のパンフレットで、『生長の家の歌』と題する、私の他の多くの詩と一緒に纏(まと)めて編纂したところのたった1冊5銭の詩集になっていたのであります。
 ところがその頃、生長の家の信者になる人は余り芸術とか、文学とかいうことには興味のない人が多かった。本当に宗教的な救いが欲しいので、“文学のようなものはいらん”というような意味からでありましょうか、他の一連のパンフレットはよく売れて出たのでありますけれども、『生長の家の歌』というところの「甘露の法雨」の入っている詩集のパンフレットは、その頃たった5銭でありましたけれども、なかなか売れないでたくさんに余っておったのであります。
 ところがたまたま、京都に明治の初年の工学博士で小木虎次郎といわれる方がおられまして、京都随一の大電機製作会社たる島津製作所の創立についても、大いに協力なさいました方でありますが、(中略)しかもこの方は工学専門の学者であって、文学や宗教の博士ではない。こういう科学方面の練達者がこの『甘露の法雨』を読まれまして、その読誦によって病気が色々と救われる人があり、肉体死後の霊魂が救われたと認められる奇蹟的な実例も沢山でてくるというので、これはただ単に『生長の家の歌』という詩集の中にまじえるのはもったいないのである。だから1つ紫表紙の経本型に製作して「聖経」と書いて霊前で仏前で神前で読むことにしたら、尚一層功徳があるであろうというので、最初は京都の教化部で発行されたのでありまして本部の発行じゃなかったのであります。」 (同書、pp.13-14)

 谷口 雅宣

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2012年6月 6日 (水)

聖経について (1)

 現在、『甘露の法雨』と呼ばれ、生長の家の「聖経」の1つとして尊ばれている長編詩が初めて世に出たのは、『生長の家』誌の昭和5年12月号(第1集第10号、同年12月1日発行)においてである。ただし、すべての内容が一度に掲載されたのではなく、「神」「霊」「物質」の3項だけが先に掲載され、その後に続編があるかどうかの表示もされなかった。また、この長編詩には「甘露の法雨」という題も付けられず、それまで何編も発表されてきた「生長の家の歌」の中の数編であると思えるような体裁をとっていた。
 
 「生長の家の歌」という題は、当時の『生長の家』誌では谷口雅春先生が作られた詩の総称だったと思われる。つまり、同誌の執筆者は事実上、雅春先生お1人であり、「生長の家」の運動の担い手も(輝子先生を除いては)実質的に先生お1人だったから、その運動を詩作の分野で体現した作品も、発祥の当時しばらくは雅春先生お1人のものである以外に選択肢はなかったと考えられるのである。別の言い方をすれば、「生長の家の歌」は『生長の家』誌の詩作欄の名称であり、書き手は雅春先生お1人だったと言える。当時の先生の詩作品は、この欄を使って随時発表されていた。例えば、「生きた生命」と「光明と暗黒」という詩作品は同誌第2号(昭和5年4月号)の「生長の家の歌」欄に発表され、「光明の國」は同第3号の同欄、「或日の生命の國」「太陽の讃歌」「生長の家々」という詩は同第4号の同欄に題名を付して掲載されている。いずれの作品も、現在は『生命の實相』聖詩篇(頭注版では第20巻)に「生長の家の歌」の一部として同じ題名で収録されているのである。
 
 発行第1年目の『生長の家』誌の「生長の家の歌」欄は、しかし第5号から9号までの5カ月間は、休載となっている。その代わり、第6号には14篇の詩作品からなる「生命讃歌集」という欄が設けられ、その中に先生の作品『朝の太陽』『生命の歌』『花園にて』の3篇が収められている。そして、第10号にいたって「神」「霊」「物質」の3篇が掲載された。ただし、「甘露の法雨」の題名は付されておらず、「生長の家の歌」の一部としてである。また、翌月の第11号(昭和6年1月号)にも「生長の家の歌」欄はない。翌第12号(同年2月号)になって「実在」から「人間」までの5篇が掲載される。総ページ数は80ページだった当時の『生長の家』誌のページ半分の3分の1(26ページ分)を占める量だから、まさに「一挙掲載」と言えるだろう。この時初めて、『生長の家』誌上で「甘露の法雨」という題名が使われた。そして、「生長の家の歌」という欄名が「甘露の法雨」の左脇に小さく括弧書きで付されている。また、この詩の簡単な解説文が欄の冒頭に次のように書かれている--
 
「 第1集第10号の『生長の家の歌』3篇『神』『霊』『物質』の続篇にして、この3篇と共に生命の真理を霊感によって書かしめられたものであります。『生長の家』では所依の経典のほかに神仏の祭壇に対(むか)って之を朗読することにしています。病人に対しては、病人自身が繰返し朗読すれば病いが不思議に癒え、障りの霊に対して読誦すれば、障りの霊が悟りを開いて守護の霊にかわる助けとなります。それ故これは誠に生長の家の経典とも云うべきものであります。」

 この時の「甘露の法雨」の詩は、我々がよく知っているように、「天の使ひの説き給へる眞裡をば、さながら称ふるものの如くなりき」という文で終わるのだが、興味あることに、この掲載誌では「終り」とか「聖経終」との表記はなく、その代わり「(つづく)」と表記されているのである。つまり、この部分に続く詩文が、当時はすでに出来上がっていたと推測されるのだ。このことは、谷口雅春先生御自身が別の箇所に書かれているから、ほぼ確実である。
 
 例えば、『生命の實相』経典篇(頭注版第21巻)の「『甘露の法雨』講義」には、次のようにある--
 
「それで、この『甘露の法雨』という経典はわたしがある機会になんと言ってよいか、どうも説明に困るのでありますが、何か書きたくて知れないような気がして書かずにいられなかった時、すらすらと、自然に霊感的に出てきたものであります。この1冊にあるのが全部じゃないのでありまして、この続きにまだ『生命の實相』全集第3巻(頭注版・携帯版では<第5巻>「聖霊篇」上)の巻頭にある『天使の言葉』というのも続いて一緒に一度に書いてしまったのであります。あまり長いのでそれだけ省いてしまって、仏前などでの朗読にはその前篇『甘露の法雨』だけということになっているのであります。」(同書、p.5)

 このような先生の記述から考えると、現在『甘露の法雨』と『天使の言葉』と呼ばれている長編詩2篇は、昭和5年10月ごろまでには、両者が一体のものとしてほぼ完成していたと推測できる。それならば、『甘露の法雨』の月刊誌掲載後、あまり期間をおかずに『天使の言葉』の掲載があるのが自然である。このことは、前者が掲載された記事の最終部に「つづく」と記されていたことを考えると、雅春先生御自身にその意図があったと推測されるのである。しかし、実際に『天使の言葉』が『生長の家』誌に載るのは、『甘露の法雨』の連載が終わってちょうど1年後の昭和7年2月号(第3集第2号)だった。

 谷口 雅宣

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