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2012年6月22日 (金)

聖経について (6)

 このような事情を知ってみると、「聖経 甘露の法雨」が、『生長の家』誌の合本である初版革表紙『生命の實相』の発刊(昭和7年1月1日)から時期がかなり遅れて、経本として出版された理由の一端が理解できる。それは、当時、会社勤めの中で宗教活動をされていた先生が多忙すぎただけでなく、資金的にも余裕がなかったからである。

先生のこの「会社勤め」と「資金不足」の間には、因果関係がある。当時の先生は金銭に対して非常に潔癖な考えをもっておられ、宗教活動のために信徒から金銭を得ることに抵抗感をもっておられたのだ。特に先生は、信徒に高額のものを売りつけて贅沢な生活をするような宗教家にはなりたくない、と思われていた。だから、出版物が高額にならないように、出版に要する資金はできるだけ自分で負担するお考えだった。先生はそのことを「私が依然として会社生活を持続することにしたのは、修行者に経費を負担させることを私自身が喜ばないためであった」(『生長の家』誌昭和7年9月号、p.86)と書かれている。当時の先生は、「居を従来の2倍以上の広い家に移し、約20畳敷ける2階を、修行者に解放して神示に副わんがために仮見真道場とし、多数の『生長の家叢書』を発行して仮見真道場の宣道機関とし」(同誌、同ページ)ておられたので、家賃その他の経費は以前よりも倍加していた。
 
 このような会社員と宗教家の二重生活が、先生の毎日を極めて多忙なものにしていたのである。その頃の雅春先生の日常を先生御自身が描いている文章を紹介する--
 
「(前略)仮道場を開いて以来、会社を続けている事には時間的無理が出来かけていた、と云うのは会社生活に殆ど10時間を奪われ、会社から帰って来ると、修行者が既に待っていられるので、殆ど夕飯をたべる暇もなく、それらの人々に面接し、話がのびて11時頃になることも度々あった。多くの誌友から悩みの訴えの手紙が来、遠隔治療の希望が来ていてもその返事を書いている時間がない。返事を書いていると『生長の家』を書いている暇がなかったり、遠隔治療をしてあげる暇がなかったりする。10人の遠隔治療をするにも一人宛30分を費すとすれば、5時間を要する。この時間は会社生活に10時間を奪われている私にはないのである。従って一人宛の遠隔治療に費される時間は段々短くなって来るし、時には一定の時間を定めて置いてひと纏(まと)めに名前を呼び上げて祈願してあげるより仕方のない時もあったり、是非返事を書かねばならぬ手紙も其儘(そのまま)になったりした。多くの誌友にこれは済まないと思う。これではならない、自分は会社を止めて、『生長の家』ひとすじに自分の生命を捧げねばならないと切に思う。」(同誌、昭和7年9月号、p.87、同文は谷口雅春著『明窓浄机 草創篇』p.58に収録)

 谷口雅春先生は昭和7年7月末で会社勤めを終えられた。正確には、企業合併によるリストラで解雇されたのだ。しかし、前述のように当時の先生の毎日は“二重生活”のために十分に眠る時間もないほどであり、その一方で、悩みの相談や遠隔治療を求める人々の数はどんどん増えていた。宗教活動に必要な経費を得るためとはいえ、1日10時間の会社勤めは雅春先生にとって肉体的のみならず、倫理的な負担にさえなっていた。だから、会社からの解職通告を、先生は二重生活から解放される絶好の機会であり、“神の御心”と感じられたのである。
 
 『生長の家』誌同年9月号に8月1日付で書かれた「宣言」という文章の最後で、雅春先生はその時の心境をこう綴っておられる--
 
「顧みれば、あるべきものが表われ、来るべきものが来たのであった。私はみこころに従ってひたすら生きて行こう。私は今ほどすがすがしい気持を知らぬ。私の全生活が誌友全部に捧げられたものとなったのである。私は諸君のものである。これからはどの時間でも面会できるからいつ訪ねて来てくれても執筆の時間を加減して会う。質問の手紙にも丁寧に応ずる。遠隔治療の依頼者は、あらためてもう一度現在の病状を詳しく書き、自筆の署名又は掌の型を紙に印して送って欲しい、こちらから遠隔治療を行う時間を知らせる。」(同誌、p.87-88)
 
 谷口 雅宣

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コメント

合掌ありがとうございます。
今回の御文章を読ませていただき、谷口雅春先生が、ご自分の仕事の時間を惜しまれるほど、人々を救うことにいかに全身全霊を傾けておられたかということが、痛いほど伝わって参りました。
自分自身は、自分の与えられた時間を、いったいどれだけ人を救うために使っているか、また使おうとしているだろうかと振り返ってみまして、顔を上げられないような大変申し訳ない思いに至りました。
本当の“献身”の意味を教えていただきました。
有難うございます。

投稿: 前川 淳子 | 2012年7月 6日 (金) 23時52分

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