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2012年6月16日 (土)

聖経について (4)

 生長の家京都支部が製作した折本型経本『聖経』は、雅春先生の2回目の京都講演旅行の2週間後、昭和10年4月25日が発行日である。もちろん2週間では単行本の製作はできない。しかし2カ月前の2月初めにも先生は京都に来られたから、この経本の編集や製作に関与される機会はあったし、実際に関与されたと考えるのが自然である。それどころか、先生御自身の考えやアイディアがこの『聖経』の編集や体裁に反映されている、と私は考えるのである。その根拠の一つは、『生長の家京都光明化五拾年史』(昭和57年刊)に載っている「『甘露の法雨』第1号」という一文である。これを書いたのは尾本輝三という京都の生長の家の草創期の幹部である。尾本氏によると、本当の意味での第1号の『甘露の法雨』は、著者・雅春先生に無断で実験的に印刷されたらしい。
 
 ある日、小木虎次郎氏が尾本氏に「本願寺さんの前で無地の折本が売ってあるはずやから探して買ってこい」と言い、その無地の折本に「甘露の法雨」の詩文を筆写するように命じた。ところが、詩文が長いため一冊分の折本の中に全部収まり切らない。別の人に頼んだけれどもその人も書き切れず、結局、誌友の印刷屋に頼んで印刷したものが“第1号”になったのだという。尾本氏によると、その経本には「『甘露の法雨』と云う題字もございません。大調和の神示もございません。ただいきなり本文の『甘露の法雨』だけでございました」(同書、p.31)というものだった。同氏はしかし、著者に無断で経本を製作し使い続けることはできないと考え、雅春先生に許可を求めに行った時の様子を、こう記している--
 
「ところが内緒ということは何時までももてるものではございません。先生が見えると読みにくいので読み、先生がお帰りになると読み易いそれを出して読む、というようなことをやっておりましたが、着月先生と相談して、先生に叱られるつもりで谷口先生のところへお伺いに参りました。幸いに叱られずに先生にお喜こびいただきまして、“なんぼでも印刷しなさい”とお許しをいただきまして、今度は大威張りで印刷をやって参りました。そうすると、谷口先生は“もっとせい、もっとせい”となんぼでも数を増してこられる、資本金がたまりません。そこへ谷口隆之助と云う方が“わしが資本金出してやろう”と出して下さった。そういうことから始まった『甘露の法雨』でございます」。(同書、pp.31-32)

 この尾本氏の記述が正確であれば、“京都版”の『聖経』には2種類があったことになる--最初に発行された「甘露の法雨」の詩文だけからなるもの(これを仮に“尾本本”と称す)と、その後、雅春先生から正式に許諾を得て発行されたもの(これを“正式本”と称す)である。私は前者を見たことがないが、後者は現在、生長の家本部に保管されている。両者は、『聖経』という経本の表題は同じであるが、中身に大きな違いがある。“尾本本”が「甘露の法雨」の詩文だけを収録してあるのに対し、“正式本”の『聖経』における歌や神示の配置、配列、経文の組み方、使用活字の種類などは、後に東京で日本教文社(当時は光明思想普及会)から発行される『聖経 甘露の法雨』と、ほとんど同一といっていいほど変わらない。ということは、“尾本本”は誰かの指示によって“正式本”の編集に変更されたのであり、その指示者は、“尾本本”を見て喜ばれ、「なんぼでも印刷しなさい」と仰った著者、谷口雅春先生以外には考えられない。
 
 この“正式本”の聖経の編集内容は、現在流通している大型折本『聖経 甘露の法雨』と表題を除いてはほぼ同一である。つまり、最初のページに「招神歌」を掲げ、扉ページには先生自筆の「甘露の法雨」の揮毫を入れ、次ページから<『七つの燈台の点燈者』の神示>という表題のもとに「大調和の神示」と「完成(ななつ)の燈台の神示」の2つを入れ、そして聖経の本文へと続き、最後に『実相を観ずる歌』で終わる、という流れは同一である。また、表紙デザインである「雲間から差し込む陽光が、土から伸びる植物の芽を照らす」という図案も共通している。
 
 この京都版の“正式本”と、後に東京で作られる日本教文社版の『聖経 甘露の法雨』の内容がなぜ同一であるかの理由も、前掲の『生長の家京都光明化五拾年史』には書いてある。それは、“正式本”の版権が生長の家京都支部から光明思想普及会(日本教文社の前身)に移された時、紙型も一緒に移転されたからだ。紙型とは、印刷所で1冊の本の活字を組んだ後に、大判の紙を活字面に高熱で圧着して各ページの型を取っておくものだ。印刷の際は、この紙型に鉛を流し込んで各ページ大のハンコを作り、インクを載せて刷る。だから、紙型さえあれば、印刷所が変わっても内容が同一の本を何回でも製作することができるのである。『生長の家京都光明化五拾年史』には、この紙型移転について着月暁氏が次のように記している--

「 それから折本甘露の法雨はみなさんのお世話で京都で出来たのです。ところが、光明思想普及会が出来まして、先生の出版物は全部扱うということになり、“戻せ!”とおっしゃる。あれは皆残念だった。京都はやって行けんがな、と思った。よう売れる、よう出るんです。然し小木博士、偉らかったね。“返す、あんた持って行き”と云ってですね、紙型とか材料全部私が抱えて持って、お渡ししたのが理事長先生(中林先生)でした。遅かったなあ、と云われるかと思ったら、“よう来てくれた”と喜こんでいただいて、えらい御馳走になった」。(同書、pp.28-29)

 『生長の家四十年史』(昭和44年、日本教文社刊)によると、折本型『聖経 甘露の法雨』の版権の移転は昭和11年の末である。上の引用文からは、当時のこの『聖経』の人気ぶりがよく分かる。京都版“正式本”の初版発行は奥付に同10年4月25日と記されているから、1年8カ月の間、この経本は京都の光明化運動の重要な資金源となったのである。
 
 谷口 雅宣

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