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2012年6月12日 (火)

聖経について (3)

 この中で「本部の発行じゃなかったのであります」という部分は、見方によっては雅春先生が「自分の意志じゃなかった」という意味で書かれたと解釈できる。またさらに拡大解釈すると「自分は東京の本部にいて知らなかった」という意味にも取ろうと思えば取れる。しかし、当時の状況を詳しく知り、教団の中での先生の位置や信徒の尊崇の念を考慮に入れれば、先生の著作物であり、かつ教団の運動中で重要な役割を果たしつつあった「甘露の法雨」の詩編を当時、先生に断りなく誰かが発行する可能性などゼロに等しいと言える。それよりもむしろ、この御文章中にある「最初は京都の教化部で」の意味は、「聖経」という呼称のことではなく、「経本型」での発行のことを指している、と私は考える。つまり、「聖経」と呼ぶことは先生御自身のアイディアであったが、「折本型の経本」という体裁で発行したのは京都が初めてだという意味なのである。
 
 私がこう考えるに至ったのは、当時の雅春先生と京都の信徒の人達の深い関係を知ってからだ。そのことは、昭和34年に出版された『生長の家三十年史』(日本教文社刊)に収録されている齋藤壽美(さいとうすみ)氏の文章が教えてくれた。この文章の表題は「京都布教の歴史」といい、最初の折本型『聖経』が出た頃(昭和10年4月)の京都の事情をやや詳しく描写している。それによると、この聖経発行の7カ月前の昭和9年8月末に、谷口雅春先生御一家は神戸の住吉から東京へ移住され、それを契機に関西方面の運動を発展させていかねばならないとの気運が信徒の間に盛り上がったという。その辺の事情を、齋藤氏は次のように描く--
 
「み教えの発展のためとは申せ谷口先生御一家は東京へ御移転なさいますことになりまして、今迄あまりにも身近に先生をいただいておりました私ども関西の誌友たちには、まるで掌の中の珠玉を奪い去られるような思いでございましたが、これによりまして生長の家も世界的に発展の基礎を築き、また私どもも今迄は住吉へ住吉へ、と先生の御膝元にのみ参っておりましたものが、お互いに内に於て磨き合わねばならなくなり、こうしてはいられないという堅い結束の力を呼び起して下さったように思います。本部が東京へ移されますと同時に、京都では小木虎次郎博士が初代支部長に就かれ11月には『京都誌友』という誌友の連絡誌が発行されまして、顕著な体験談等も収録されましたので皆さんの信仰もしだいに深まってまいりました。」(同書、p.211)

 当時の京都には、現在のように「教化部」と呼ばれるような法人も建物もなく、「生長の家京都支部」という信徒組織が発足したばかりだったのだ。齋藤氏の記述によると、この京都支部は上京区相国寺東門前町の石川芳次郎氏の自宅に置かれたのである。それが昭和10年1月のことで、そこでは「毎月15日午後7時から座談会と神想観の実習(ママ)を行いましたが、誌友の素晴らしい体験談等でとても活発的なもの」だったという。そういう熱心な信徒の要望を入れられて、谷口雅春先生はその年の2月と4月に京都へ講演旅行をされている。その様子については、こうある--
 
「10年2月3日には、谷口先生御東上後はじめて京都に先生をお迎え申し上げまして、誌友会並びに講演会を開かせていただきました。お昼は石川邸での座談会、夜は同志社新島会館での御講演でございましたが、私ども白鳩会員がよりまして大喜びして先生の御食事を石川様のお台所で拵えましたことを覚えております。誌友一同の喜びは申すにおよばず、きっとまた近いうちに先生をお呼び申し上げずにはおかないという誌友の熱意は実現して、二か月後の4月6日にはまた京都へ谷口先生をお迎え申し上げることができました。」(同書、p.212)

 谷口 雅宣

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