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2012年6月 9日 (土)

聖経について (2)

 この号に掲載された長編詩は、しかし「天使の言葉」とは題されずに「甘露の法雨(聖詩)」と表記されていた。そして、題に続く“項”として「生長の家」と書かれている。つまり、現在の『甘露の法雨』の「神」「霊」「物質」……「人間」……と続く項の最後のものとして「生長の家」という項があり、それが後に独立して「天使の言葉」と呼ばれるようになったのだ。この項は、同誌24ページにわたって全文が掲載され、最終部は「其處はただ常楽の世界を現じたりき。」と文を終わった後、「(終)」とある。「(聖経終)」ではない。つまり、この詩編については、「聖経」という言葉はこの時点ではまだ使われなかった。この時点では、「甘露の法雨」はあくまでも「聖詩」であり、従ってその詩の終わりには「聖経終」とは書けなかった(あるいは書かなかった)と推測されるのである。
 
 では、「聖詩 甘露の法雨」はいつから「聖経」と呼ばれるようになったのだろう。私はこの時期を昭和6年の秋頃だと推測する。その根拠は、昭和7年の元日を発行日とする初版革表紙『生命の實相』では、「甘露の法雨」のことをはっきりと「聖経」と表示し、全文を掲載したこの詩編の最後にも「聖経終」と明示されているからだ。さらに、この本の「甘露の法雨」の説明には、次のようにこれが「生長の家の経典である」と明確に述べられているからだ--
 
「最後の詩『甘露の法雨』は『生命の實相』を縮約して歌ったもので、単に現実界の人間が読誦して悟りを開いて病苦悩苦を去るばかりでなく、霊界の諸霊もその読誦の声を聞いて悟りをひらき、迷える障(さわ)りの霊も守護の霊となるので、神仏礼拝の際その祭壇に対(むか)いて読誦すべき生長の家の経典(けいてん)である。」(初版革表紙『生命の實相』聖詩篇扉裏、原文は旧漢字歴史的仮名遣い、以下同じ)

 初版革表紙『生命の實相』の奥付には、この本の納本日を昭和6年12月28日と示してある。単行本の製作には数カ月の期間が必要で、特にこの本のように一千ページを超える大部の書物の場合、最低3カ月ほどの製作期間を要するはずだから、その原稿は昭和6年の9月から10月までに完成していなければならない。となると、この時期以前に谷口雅春先生は「甘露の法雨」を「聖経」として認定されたことになる。
 
 しかし、それでは先に触れた『生長の家』誌昭和7年2月号では、なぜ「聖詩」という表現が「甘露の法雨」に冠されているのだろうか? その理由はよく分からない。可能性として1つ考えられるのは、雅春先生が何らかの理由で、後に「天使の言葉」と名付けられるこの長編詩の内容に関して、「聖経」と呼ぶのを躊躇されていたことだ。もう1つの可能性は、単純な見落としである。月刊誌の編集に携わったことのある人ならよく分かるはずだが、2月号の編集というのは、どこの出版社でも他の月号のものより厳しいスケジュールで行われる。年末年始に印刷所や製本所が休業するからだ。昭和6年の11月ごろは、雅春先生にとって、これに加えて初版革表紙『生命の實相』の編集製作が行われていた。それらの作業をもし先生がお1人でなさっていたとしたら、編集作業の細部で若干の見落としがあったとしても、それは先生の偉大さを傷つけることにはならない。
 
 この「聖経」という表現を使うに際して、雅春先生の意思ではなかったとする見方が一部にあるようである。しかし、私はそう思わない。確かに、発表から約1年の間、この長編詩は「聖経」と表示されなかった。しかし、初版革表紙『生命の實相』に「甘露の法雨」を収録することを決めたのは雅春先生以外に考えられないから、その時に「聖経」の2文字を加えることを決めたのも先生御本人だと考えざるを得ないのである。先生が「甘露の法雨」を「聖経」と呼ぶことを避けておられたという印象が生まれたのは、『新講「甘露の法雨」解釈』に書かれた次のような御文章のためだと思われる--
 
「 最初はこの『甘露の法雨』は小さい1冊5銭のパンフレットで、『生長の家の歌』と題する、私の他の多くの詩と一緒に纏(まと)めて編纂したところのたった1冊5銭の詩集になっていたのであります。
 ところがその頃、生長の家の信者になる人は余り芸術とか、文学とかいうことには興味のない人が多かった。本当に宗教的な救いが欲しいので、“文学のようなものはいらん”というような意味からでありましょうか、他の一連のパンフレットはよく売れて出たのでありますけれども、『生長の家の歌』というところの「甘露の法雨」の入っている詩集のパンフレットは、その頃たった5銭でありましたけれども、なかなか売れないでたくさんに余っておったのであります。
 ところがたまたま、京都に明治の初年の工学博士で小木虎次郎といわれる方がおられまして、京都随一の大電機製作会社たる島津製作所の創立についても、大いに協力なさいました方でありますが、(中略)しかもこの方は工学専門の学者であって、文学や宗教の博士ではない。こういう科学方面の練達者がこの『甘露の法雨』を読まれまして、その読誦によって病気が色々と救われる人があり、肉体死後の霊魂が救われたと認められる奇蹟的な実例も沢山でてくるというので、これはただ単に『生長の家の歌』という詩集の中にまじえるのはもったいないのである。だから1つ紫表紙の経本型に製作して「聖経」と書いて霊前で仏前で神前で読むことにしたら、尚一層功徳があるであろうというので、最初は京都の教化部で発行されたのでありまして本部の発行じゃなかったのであります。」 (同書、pp.13-14)

 谷口 雅宣

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