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2012年5月

2012年5月31日 (木)

観世音菩薩讃歌 (4)

  観世音菩薩
天使かくのたまえば
天の童子声落として問う。
「師よ、四苦を感じ
四苦を恐るる吾は、
神の御国に相応(ふさわ)しからずや」。
天使答え給う――
汝は〝神の子〟として
神に愛されし自己を忘れしか。
神は完全にして、
神の造りたまいしすべての物も完全なり。
天の童子答えて曰く――
「されど吾に完全は見えず、
不備や欠陥
不足・不如意の多き世界のみ見ゆるなり」。
天使説き給う――
それは汝が〝神の子〟たる証(あかし)なり。
汝の内に〝完全〟の宿る証拠なり。
〝完全〟の尺度もちて
自己を測り
他人(ひと)を測り
社会を測るが故に、
足らざることのみ見ゆるなり。
〝完全〟の世界を今見んと焦燥すれば、
不足を想い
不如意を感じ苛立つ心起るなり。
現象の中に完全を求むることなかれ。
現象は時間と空間の制約を通し
実相が展開する過程なり。
過程は常に中途にして完璧ならざること、
楽曲が中途で完結すること能わざるが如し。
汝、人生の楽曲を正しく味わうべし。
曲の最中(さなか)に
完結を急ぎて声上ぐるは愚かなり。
曲は必ず完結するが故に、
心静かに曲の進行と転調を楽しむべし。
世界の実相、必ず完全なるが故に、
創造神(つくりぬし)を信じ
人生の変化と多様な進展を味わうべし。
天の童子再び問う。
「師よ、もし〝完全〟がすでに吾が内に在らば、
他人(ひと)や社会は余分なものに非ざるや」。
天使説き給う――
汝の内なる〝完全〟とは
肉体の汝に非ざるなり。
肉体の汝は
加齢とともに不完全の度増すばかりなり。
肉体の汝は
他人(ひと)より能力優るものあれど、
劣るものも数多(あまた)なり。
肉体の汝は
社会の一個の構成員にすぎず、
影響力小さく
体力弱く
死して消え去ること必定(ひつじょう)なり。
汝、肉体を「吾なり」とする妄想から覚めよ。
「肉体の奥に霊妙きわまりなく完全なる存在あり」
 との教えを忘るべからず。
霊妙なる存在は
自他の差別を知らず。
霊妙なる存在は
社会と自己を分別(ぶんべつ)せず。
霊妙なる存在は
他人(ひと)と社会との調和に於いて
汝に〝完全〟を教示せん。
これ観世音菩薩の教えなり。
観世音菩薩は山におらず、
川におらず、
社寺におらず、
市井におらず、
汝の内に在るなり。
されど観世音菩薩は山として、
川として、
寺社・教会の彫像として、
市井の賢者として、
夫として、
妻として、
子や孫として、
時には罪人として、
病人として、
動植物として、
細菌やウイルスとして、
自然現象として、
汝に
内奥の教えを説き給う。
「汝ら億兆の個霊(みたま)も、
悉くこれ唯一神霊の反映(うつし)」なりとの教えを
 想い起すべし。
汝らにとり「外界」と見ゆるもの
悉く「内界」の反映(うつし)なり。
外界に映れる不備や欠陥は、
内界の不備や欠陥の反映なり。
されど外界に見えたる神霊や菩薩も、
内界の汝らの「本性」の鏡像と知らざるべからず。
汝ら「肉体即ち人間なり」の迷いから覚めよ。
「肉体即ち吾なり」の自覚から
自他の差別生るるなり。
「肉体即ち吾なり」の迷妄から
内外の境界現ず。
神の世界の実相は
内外無差別(むしゃべつ)
自他一体
神我一体なり。
霊妙なる存在を「吾なり」と悟らば、
内外の境界消え
自他一体
神我一体の実相
霧晴るるがごとく
汝らの前に顕現せん。

――天使かく説き給えば、
天の童子の姿かき消え
虚空高く雁(かり)の一群の飛び行く姿見ゆ。
その時天空より大音声(だいおんじょう)の響きて曰く、
「見よ、雁と虚空と分(わか)つこと能わず。
虚空と山河と分つこと能わず。
山河と海は不可分なり。
すべての生物と地球は一体なり。
汝ら自らを一個の卑小なる肉体と見るべからず。
人間は山河なくして存在せず、
海陸と別に存在せず、
そこに生くるすべての生物と共に在るなり。
即ち、
すべての生物と山河と海陸は
汝の延長なり、
汝の一部なり、
汝の全体なり」
この時、空を行く雁の群
その数を百倍に増し、
さらに一千倍に拡大して天空を覆いたり。
されど稲妻一閃して
雷鳴轟き、
驟雨(しゅうう)は来り、
やがて日の差し来(きた)るを見れば、
虚空に雁の姿無く、
山々に草木萌え出で
海に無数の魚(うお)泳ぎ
陸には動物(けもの)走り
木々には虫たちの羽音満ち、
鳴鳥(めいちょう)の声山々に響き渡れり。
天使の声聴こえて曰く。
「見よ、これ実相世界なり。
すべての存在は一体にして、
しかも各々(おのおの)個性を有し、
互いに与え
互いに誉め
互いに導き
互いに愛す。
観世音菩薩すべてに宿り、
すべてのもの
観世音の教えを説かざるはなし」。
この時、
天空より風花の夥(おびただ)しく舞い散りて
陽光映してきらめく様は、
さながら観世音菩薩を称うる歌
万物こぞって歌うものの如くなりき。
                      (讃歌終)

【お断り】
 本讃歌は、谷口雅春先生の「聖経 甘露の法雨」と「聖経 天使の言葉」から一部引用しています。ブログの機能の制約と読みやすさを考慮して、ページ数などの引用箇所の明示は省略しました。引用元の著作物は、谷口雅春著『四部経』(1966年、日本教文社刊)です。

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2012年5月30日 (水)

観世音菩薩讃歌 (3)

  
天の童子続けて問う。
「師よ、神は過ちを犯す自由を人になぜ与え給うや。
過ちて苦しむよりは
過たずに楽しむ道が
〝神の愛〟にふさわしからずや」。
天使(てんのつかい)答え給う――
汝、幼き頃の記憶忘るべからず。
人は皆、
手足をもって這(は)い始め、
やがて二本の脚にて歩くに至るなり。
汝は這い回る幼児を見て
過ちを犯したると思えるや。
天の童子答えて言う。
「師よ、這い回る幼児は
何の過ちも犯さざるなり。
彼は自己本来の姿に近づく途上なり」。
天使さらに問い給う――
汝は這い回る幼児に
苦しみの体験ありと思わんや。
天の童子答えて言う。
「師よ、這い回る幼児の目は
好奇心に満ち、
口元は喜びに溢るるなり。
新しき可能性を実感するが故なり」。
天使説き給う――
神が人に自由を与うるは
人に自己の本来相を表現せしむるためなり。
「本来神なり」の実相を
実感せしむるためなり。
人が自らの行為を「過ち」と知るは、
「過たぬ」本来の自己、
その内奥から声上ぐるを聴くなり。
幼児、歩行途上で倒れたりとも
悩み苦しまず
次の歩行に喜びて挑むは、
歩くことが自己の本性にして、
本性の内在を疑わざるが故なり。
幼児倒れても喜び失わざるは、
すでに歩行している自己の実相を
親の歩行の中(うち)に見て、
自己が歩行できること疑わざるが故なり。
汝この幼児のごとく
自己内在の〝神の子〟の本性を常に自覚し、
〝万能の神〟の中(うち)に自己の実相を見、
内奥の声の導きに従い
一歩一歩
実相顕現の道を
喜びをもって歩むべし。
神が汝らに与え給う自由こそ、
最大にして最勝の
神の愛の証なり。
神は汝らを強い給わず、
自由の中から
〝神の子〟の自覚に導き給う。
〝神の子〟に生き甲斐を与え給う。

  祈り
天使続けて説き給う――
汝ら、
神の与え給いし自由を正しく行使し、
神の御心に応え
生き甲斐をもち人生を歩まんとすれば、
祈りを怠るべからず。
祈りは、
神の御心と汝らの心との導管(パイプ)にして
神との交流の楽園なり。
汝ら、
神とのパイプを常に開き、
楽園を逍遥し
神の豊かなるアイディアを受けつつ
人生のカンバスに喜びを描くべし。
これこそ本来の祈りなり。
この時、天の童子問いて曰く――
「師よ、しからば四苦より逃れんと欲する祈りは
 無価値ならんや」。
天使答え給う――
四苦は、神の創造の世界には存在せざるなり。
生は実在にあらず、
病(やまい)は実在にあらず、
老いは実在にあらず、
死は実在にあらず。
汝ら
神の造り給わざるものを実在となすなかれ。
罪も病も老いも死も、
畢竟(ひっきょう)存在せざるものを夢中に描ける妄想(まよいのかげ)
 に過ぎず。
汝ら、
自らの妄想より逃れんと欲すれば、
まず「妄想は実在に非ず」と知らざるべからず。
妄想による罪を〝在り〟と認むれば、
祈りても罪は消えざるなり。
妄想による病を〝在り〟と認むれば、
祈りても病は消えざるなり。
妄想による老いを〝在り〟と認むれば、
祈りても老いは消えざるなり。
妄想による死を〝在り〟と恐るれば、
祈りても死は訪れん。
汝ら、祈りと懇願とを混同すべからず。
「祈り」は命の宣(の)り言(ごと)なり、
生命(いのち)の底からの実在の宣言なり。
「懇願」は
無を在りと認むる欠乏と困窮の宣言なり。
非実在の宣言なり。
滅罪の懇願は
「罪在り」の想いより生ず。
病を除かんとの懇願は
「病在り」の想いより生ず。
不老の懇願は
「老(おい)在り」の想いより生ず。
死を逃れんとの懇願は
「死在り」の想いより生ず。
汝ら祈るとき
四苦を心に想うべからず、
非実在を想うべからず、
実在を祈るべし。
神の造り給いし世界の実相を祈れ。
神の世界に四苦なしと宣言せよ。
されば目の前の苦しみは妄想にして、
自己の執着の産物と悟るに到るべし。
汝ら、
「ねばならぬ」と粘りつく心を捨てよ。
神の創造の世界には
すべての善きもの既に在るなり。
それ以外に「ねばならぬ」もの不要なり。
神の創造の世界には
すべての義(ただし)きもの既に在るなり。
そのほかに「ねばならぬ」もの不要なり。
神の創造の世界には
すべての美(よろ)しきもの既に在るなり。
そのほかに「ねばならぬ」もの不要なり。
汝ら執着を捨ててなお
「吾が希望神の御心に合致す」との想い消えざれば、
その希望実現の相(すがた)を念じ、
「すでに受けたり」と神に感謝を捧ぐべし。
「ねばならぬ」の心を放ち、
結果のすべてを神に委ぬべし。

 谷口 雅宣

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2012年5月29日 (火)

観世音菩薩讃歌 (2)

  自  由
法則は常住不断にして
厳密に働くが故に、
法則としての神も
常住にして厳密なり。
されどそれは
神が無情なることを意味せざるなり。
法則厳密に働くが故に、
鳥や虫は飛行し
魚や鯨は遊泳し
獣(けもの)は走り跳躍せん。
法則厳密に働くが故に、
花粉の飛散が
植物の発芽が
光合成が
長期にわたり一定の結果もたらすなり。
生物それぞれの
自在なる発展と進化は、
法則により初めて実現せん。
知性ある人間に於いては
法則の厳密に働くが故に、
利用者に自由の与えられん。
航空力学
流体力学厳密なるが故に、
飛行機や船は自由に航行し
人の安全は保証されん。
人間の自由なる行動は
法則なくしてあり得ざるなり。
自由は神の御心なり、
神の願いなり。
しかして自由は法則に従うことで実現せん。
神の御心に沿うことにより
何人も真の自由を得るに至らん。
この時天の童子
天使の後背より出で来りて
問いを設けて言う。
「されど師よ、自由とは命令や強制に従わざることを言うに非ずや」。
天使答えて言う――
汝ら、
神の御心を正しく知り、
神の創造の実相を正しく知ること、
自由を得る最大の要(かなめ)なり。
人が利己心を起こすは、
自他対立が世界の真相なりと誤解し、
対立の相手から自己を護らんとする為なり。
他者排斥の行為は
神の創造の世界の不信より生ず。
神の創造世界は
善にして
義にして
慈悲にして
調和おのずから備わる円満完全の世界なり。
それを信ぜず
神の世界に不調和ありと想い、
自己を護らんとして
他を排斥し
他を恐怖するが故に、
自己を縛る力――
命令と強制を他者に感ずるなり。
されど神の世界の大調和を信ずる者は、
自他対立を想わず、
自他の障壁を感ぜず、
自己の本心を
他者の声の内に聴き、
他者の声を
自己の内に聴くことを得ん。
彼は他を排せず恐れざるが故に、
他者の声の中に
神の助言と導きを聴かん。
彼の前には〝他者〟さえなく、
困難の中にも
励ましと
新たなる機会の到来を見出さん。

  
天使(てんのつかい)続けて説き給う――
神は人に最大の自由を与うることにより
善を現し給う。
神は
宇宙を貫く法則
宇宙を貫く力により、
地上の鉱物と生物に於いて
無限のアイディア、
無限の美、
無限の秩序を現し給う。
されど法則そのものは自由を生まず、
力そのものから善悪を生ずることなし。
物理化学の法則は一定の結果を生ずる
 のみにして
その結果に善悪なし。
大規模なる火山活動にて
山崩れて海に入(い)るとも
その結果に善悪なし。
猛獣走りて鹿を倒し
カマキリの鎌、小虫を捕らうれども、
その結果、必ずしも悪に非ず、
善に非ず、
定められたる法則の産物にすぎざるなり。
そこに善悪を見、
善悪の意味を問うは、
人間の心働くが故なり。
人間の心関与せざる世界は
善に非ず、
悪に非ず。
唯、アイディアと
法則と力に満ちたる
壮大華麗なる自動運転の世界なり。
されど人間誕生し、
法則を識り
アイディアを得、
自ら自由を行使せんとする時、
初めて善悪の別生ずるなり。
即ち、
人間は地上に善を現すための
神の分身なり
神の使者(つかい)なり
神の自己実現なり。
されば汝らよ、
善を行わんと欲すれば、
神の御心を知らざるべからず。
自己の立場に固執し
神を見失うことなかれ。
自己の属する社会の利益、
必ずしも善に非ず。
他者の属する社会の利益、
必ずしも善に非ず。
汝ら、
自他対立の妄想に囚わるることなかれ。
神の善なる御国は
自他対立の牢獄の外に開かれてあるなり。
執着を離れたる広大無辺の世界なり。
神の御国には
善悪対立の構図存在せず、
善一元・大調和のみ展開せり。
善とは神の御心を行うことにして
そのほかの如何なるものにも非ず。
さればイエス・キリストは
「まず神の国と神の義とを求めよ。
さらば凡てこれらの物は汝らに加えらるべし」
 と言い給う。
汝ら、
自由は過ちを犯す機会を許せども、
過ちて悪を仮構することなく、
「神の子」の本性に従い
神の義のために
誠実に自由を行使すべし。

 谷口 雅宣

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2012年5月28日 (月)

 観世音菩薩讃歌 (1)

  法  則
天使(てんのつかい)、ふたたび生長の家に来りて教え給う――
絶対の神の真性は
「聖
至上
無限
宇宙を貫く心
宇宙を貫く生命
宇宙を貫く法則」なり。
法則は目に見えず、
耳に聞こえず、
肌に感ぜず、
鼻に臭わず、
舌で味わうこと能わざるなり。
「創造の神は
五感を超越している、
六感も超越している」
 と言うはこの理(ことわり)なり。
法則が厳然として実在すること
何人(なんぴと)も疑わざるなり。
宇宙のいずれの場所、
いずれの時も、
法則は宇宙の隅々に
隈なく行きわたり、
存在のすべてを覆い尽くせり。
近くは心臓の動き、
血液の流れ、
眼球の働きは法則により、
植物の生長、
鳥たちの飛翔も法則これを可能ならしめん。
遠くは地下水の流れ
海流の蛇行
地中の火山活動
星々の運行
星雲の形成も
すべて法則が支配し、
法則によらずして
存在するものあり得ざるなり。
神は見えず
聞こえず
触れられざるに、
万物の創造主(つくりぬし)、
万物の支配者、
万物の維持者として働き給う。
鉱物すべてを創り給い
生物すべてに与え給い
吾らすべてを養い給う。

  秩  序
天使続けて説き給う――
法則により秩序生るが故に、
秩序はまた神の御徳の一(ひとつ)なり。
汝ら当に知るべし、
不可視の法則顕現して
不動の秩序生れん。
宇宙の法則は
一定の周期もて地球を自転・公転さするが故に、
地球の温度に急激な変化起らず、
内部に高温の岩漿(マグマ)擁しつつ
地球の外殻は適度に冷め、
地殻変動をへて
多種の鉱物生成し、
多様な地形は出現せん。
また水豊かに地表に現れ、
引力の法則により
地面や岩石に
複雑にして美しき彫刻を施したり。
この変化に富める舞台に
毎日朝は訪れ
昼に至り
夕(ゆうべ)を経て夜とならん。
同じ一定の秩序は
地球誕生より四十数億年続き、
生物は多様なる環境の中
進化発展を繰り返し
自然界の秩序を顕現せん。
即ち、
法則と秩序は一体なり。
秩序は法則の伴侶なり。
されば地上すべての鉱物の組成
すべての生物の形態と習性は
法則を父とし
秩序を母とせり。
法則は万物の父、
秩序は万物の母。
万物は〝法則たる父〟に従い
〝秩序たる母〟に抱かれて
物質世界として現前せん。
(つづく)

 谷口 雅宣

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2012年5月27日 (日)

「観世音菩薩讃歌」について

 私は本年4月から始まった“自然と共に伸びる運動”の「第2次5カ年計画」の出発を前に、今年3月末日の本欄で、私たちの運動の“コトバの力”拡大のために長編詩を書いたことを述べ、新年度の開始に合わせ、その後の本欄で数回にわたり長編詩「大自然讃歌」を発表した。幸いにもこの長編詩は、機関誌『生長の家』の6月号に掲載していただいたので、本欄を読む機会のない信徒の方々も知るところとなった。この詩は、神の下における自然と人間との一体感を深めるために、読者諸賢には今後も引き続き利用していただきたい。

 ところで、私がこの詩を書きながら気づいたのは、現在「聖経」と呼ばれている長編詩の中には、“生長の家の礼拝の本尊”とされている観世音菩薩について、あまり言及がないことだ。「聖経」の中には『聖使命菩薩讃偈』というのはある。しかし、このお経は、真理宣布の使命を感得した信徒が、自ら悟りに至る前に他者を救おうとの菩提心を起こすことの功徳を説いたものである。これは法施の素晴らしさを説いてはいるが、観世音菩薩とは何であり、その救いはなぜ来たり、救いの働きはどうであるかなどについて、一切触れていない。そこで本欄では過去10回にわたり、これらのことを論文形式で書き継いできた。内容的にこれで十分とは決して言えないが、この分野における読者の理解の助けにはなったろうと思う。

 しかし、これまでの説明には専門的で難しい部分も少なくなく、読者によっては「苦手だ」と感じた人もいるに違いない。そこで、これまでの論文方式とは異なる詩の形式を使って--言い換えると、左脳的な言語ではなく右脳的な表現を使って、観世音菩薩について説くものがあってもいいと考えるに至った。それを読むことで、観世音菩薩の何であるかを論理的にではなく、直感的に感得してくださる読者もいるのではないかと期待している。今後数回にわたり、「大自然讃歌」に続く長編詩として本欄で発表させていただこうと思う。この長編詩「観世音菩薩讃歌」も、前回のものと同様に「聖経に取って代わるもの」を意図していない。諸処に聖経から引用しながら、聖経では触れられていない方面への補強を試みている。
 
 谷口 雅宣

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2012年5月26日 (土)

観世音菩薩について (10)

 ここ数年にわたり、私は幹部研鑽会で人間の左右の脳の機能の違い、また現在意識と潜在意識の違いなどを、都会と自然での生活と関連させて話してきたのだった。その一覧を図にまとめたものを、ここに掲げよう。
 
Summary0_2  読者はこれを見ればお分かりと思うが、私は人間に備わる左脳と右脳の機能のどちらかを「価値なし」として否定しているのではない。人間の左右の脳は、正常な発達の結果として形成されるものだから、それらの一方を否定したり、使用を禁止したりできるものではない。私が問題視しているのは、本来2つあるものの一方だけに偏重した生き方なのである。これと同じように、私はまた都会生活を全面的に否定して、「自然に帰れ」と言っているのでもない。そうではなく、人間のごく自然な欲求として、この表の「自然」の欄に掲げたような心の傾向や、ものの見方が実際に我々の一部として存在しているのであり、我々の先祖は、それらを用いた生き方を何千年、何万年もの間、営々と行ってきたという事実をないがしろにすべきではないということである。
 
 別の言い方をすれば、この表の「都会」の欄に書いた考え方、生き方、環境との関係、エネルギー消費のあり方などは、人間存在の半分しかカバーしておらず、それをいかに大量に手に入れ、あるいはマスターしたとしても、人間に幸福などもたらされないということだ。
 
 私は休日に渋谷や新宿の駅周辺に行くことがあるが、最近とみに感じるのは、駅で出会う人々のほとんどが携帯電話やスマートフォンを見つめている光景の異様さである。私の休日は木曜日であるから、普通の人たちにとっては平日である。そんな日には、渋谷や新宿の駅周辺は人で溢れているが、人々は手元の小さな画面に見入っていて静かである。その中の多くの人たちは耳にイヤフォンも挿しているから、たぶん自分だけで音楽を聴いているのだろう。こうして周囲から自分を切り離し、周りの景色や人々に注意を払うことなく、自分の選んだ情報や映像の中に沈潜しているのである。そして、その姿勢のまま、立ったり歩いたりする。だから、こちらが注意を払っていないと、歩いてくる人に正面からぶつかったり、前を歩く人が突然立ち止まって衝突する恐れがある。

 これが都会の人々の“普通”の姿なのだ。前表の「都会」の欄に掲げたすべての項目が、駅の一場面に見事に収まっている。つまり、人々は左脳でデジタルに考え、排他的な行動をとり、自分と他人との違い(非対称性)を主張し、効率優先で環境と遊離した疑似空間の中を泳いでいる。電力使用量はもちろん多い。こういう生き方が人間にとって幸せでないことは、人々の不安な表情と虚ろな目、時々見せる神経質な動作を見ればよく分かる。皆、落ち着きがなく、何かに取り憑かれたように手元の四角い画面に見入り、それによって自分と外界とを隔離しようとしている。自分が選んで来た都会の何がそんなに怖いのか、何がそんなに嫌なのか……と私は思う。もちろん、この都会生活の一コマに、人々の心のすべてが表れているわけではない。同じ環境にいても、もっと心豊かな生活をしている人もいるに違いない。いや、きっといる。が、ここに描写したような方向に人々が進んでいくことは誤りだ、と私は考えるのである。
 
 最近、渋谷の東京メトロ副都心線渋谷駅で中年男性がナイフで切りつけられ、重傷を負ったが、容疑者として逮捕された32歳のアルバイト男性は、警察の調べに対し、「相手を追い抜く時にひじがぶつかったが、その後、相手が追い抜きざまに自分にぶつかってきたので、頭にきた」と供述しているという。(5月25日『朝日新聞』)人がひしめき合う狭い空間で、都会の人々は追い抜いたり、追いついたり、ぶつかったりしながら、相互に競い殺気立っている。このような都会の排他性、効率至上主義、他より先んじようとする競争の文化は“過剰”と言わずに、何と言うべきか。

 私は、この過剰な都会文化をもっと薄め、自然が提供してくれる包容的、協調的な視点からより深く学び、自他の境界を減らし、潜在意識の豊かな流れからアイディアを得つつ、五感が受け取る自然界の情報を活用して環境と密着した生き方をするような道を、今後の人類は確保し、かつ広げていくべきだと考えるのである。そういう意味で、今回の渋谷の不幸な事件も、その他もろもろの都会生活の問題も“反面菩薩”の説法として謙虚に聴くべきだと思うのである。

 谷口 雅宣

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2012年5月25日 (金)

観世音菩薩について (9)

 5月初めの幹部研鑽会において、私は脳卒中で「左脳」の一部が機能しなくなった脳科学者の体験について紹介した。その目的は、我々誰もがもつ「右脳」の働きが、宗教上の体験や“悟り”と呼ばれる感覚や洞察と関係があることを示すためだった。それはまた、左脳優位になっている我々の日常生活の問題点とともに、左脳の重要性を再認識してもらうためでもあった。

 この脳科学者とは、アメリカのインディアナ医科大学の神経解剖学者、ジル・ボルト・テイラー博士(Jill Bolte Taylor, Ph.D.)である。彼女は、ハーバード大学の医学校で権威あるマイセル賞という、優れた研究に授与される賞を取った1996年、30代半ばの若さで脳卒中に襲われたのだった。左脳の側頭部の出血により、自分の意識が変容していく様子を、『奇跡の脳』という本で克明に描写している。その中に、こんな箇所がある--

「出血中の血液が左脳の正常な機能を妨げたので、知覚は分類されず、細かいことにこだわることもなくなりました。左脳がこれまで支配していた神経線維の機能が停止したので、右脳は左脳の支配から解放されています。知覚は自由になり、意識は、右脳の静けさを表現できるように変わっていきました。解放感と変容する感じに包まれて、意識の中心はシータ村にいるかのようです。仏教徒なら、涅槃(ニルヴァーナ)の境地に入ったと言うでしょう。
 左脳の分析的な判断力がなくなっていますから、わたしは穏やかで、守られている感じで、祝福されて、幸せで、そして全知であるかのような感覚の虜(とりこ)になっていました。わたしの一部は、痛みでズキズキしている肉体の束縛から完全に解放されたがっています。ですが、そんな絶え間のない誘惑のさなかでも、自分自身を救うための方法を探し続けていました。右脳の誘惑に屈しなかったことが、最終的にわたしの命を救ったのでした。」(同書、pp.40-41)
 
 テイラー博士は、この本の各所で、このほかにも左脳の損傷によって意識の前面に現れた“右脳による世界認識”の様子を描いていて、それらは宗教的なイメージに満ちているのだ。その部分を抜粋しよう--
 
「肉体の境界の知覚はもう、皮膚が空気に触れるところで終わらなくなっていました。魔法の壺から解放された、アラビアの精霊になった感じ。大きな鯨が静かな幸福感で一杯の海を泳いでいくかのように、魂のエネルギーが流れているように思えたのです。」(p.70)

「瞬間、瞬間は泡のように消えるものではなくなり、端っこのないものになったのです。ですから、何事も、そんなに急いでする必要はないと感じるようになりました。波打ち際を散歩するように、あるいは、ただ美しい自然のなかをぶらついているように、左の脳の“やる”意識から右の脳の“いる”意識へと変わっていったのです。小さく孤立した感じから、大きく拡がる感じのものへとわたしの意識は変身しました。」(p.72)

「左脳は自分自身を、他から分離された固体として認知するように訓練されています。今ではその堅苦しい回路から解放され、わたしの右脳は永遠の流れへの結びつきを楽しんでいました。もう孤独ではなく、淋しくもない。魂は宇宙と同じように大きく、そして無限の海のなかで歓喜に心を躍らせていました。」(p.73)

 テイラー博士は8年間のリハビリの後に、左脳の損傷から完全に回復した。そして、この時の体験から「深い心の平和というものは、いつでも、誰でもつかむことができるという知恵をわたしは授か」ったと書いている。そして自分が得た新たな発見を、次のような言葉に凝縮している--
 
「頭の中でほんの一歩踏み出せば、そこには心の平和がある。そこに近づくためには、いつも人を支配している左脳の声を黙らせるだけでいい」。(p.132)

 ここに「左脳の声を黙らせる」と書いてあるが、これは左脳の機能を否定しているのではない。その証拠に、テイラー博士は8年を費やして左脳の回復に努力したのである。これは多分、「左脳の機能は必要だが、それに振り回され、支配されるな」ということだ。左脳は、物事を細分化して部分に注目し、全体の把握を怠る。自分や世界が「そのまま」では満足せず、「何かをする」ことに意欲を燃やす。自分と他人、自分と社会を分離し、自己拡張を図る。そういう生き方だけでは、人間は決して満足できないことを、この本は雄弁に語っている。私はここに、第一級の“観世音菩薩の教え”を見出すのである。
 
 谷口 雅宣

【参考文献】
○ジル・ボルト・テイラー著/竹内薫訳『奇跡の脳』(新潮社、2009年)

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2012年5月21日 (月)

観世音菩薩について (8)

 話が本シリーズの主題から少し逸れてしまった。いま解明すべきことは、我々の心の中の“良心の囁き”が、なぜ「神」や「観世音菩薩」の概念と結びつくかという問題だった。4月12日の本欄で、生まれてまもない赤ちゃんが、命のない物体と、生命をもった「行為の主体者」とを見分ける能力を獲得し、前者よりも後者に注目することを書いた。しかし、その理由について、あまり詳しく説明しなかった。が、その理由は、たぶん母親と赤ちゃんの関係を思い起こしてみることで理解できるのではないだろうか。

 自ら立って歩けず、言葉も話せない段階の赤ちゃんが生き延びるためには、母親とのコミュニケーションが最も大切だ。赤ちゃんは最初、泣くことしかできない。泣くと母親がやってきて、抱き上げてくれたり、おっぱいをくれたり、オムツを替えてくれる。それだけでなく、話しかけたり、笑いかけたり、ガラガラをくれたり、頭をなでてくれたり……と、赤ちゃんを優しく包んでくれる。母親は事実上、赤ちゃんが望むことをすべて与えてくれるのだ。だから赤ちゃんにとって、「母」とは無限能力をもった“行為の主体者”--恐らく「神」に等しい存在なのである。それに比べて、自分の手が届かない位置にあるガラガラや哺乳ビンは、いくら泣いても、呼びかけても、赤ちゃんの手元にはやって来ない。また、汚れて居心地の悪いオムツも、泣いても叫んでも尻から外れずにベタベタと貼りついたままだ。
 
 そういう経験を積んでいくうちに、赤ちゃんは、自分の周りの世界には大別して、行為の主体者と、行為の客体(物)という2種類のものがあるという認識に達するのだ。もちろん赤ちゃんはまだ言葉を知らないから、頭の中でこんな難しい言葉を使って考えるわけではない。言葉を使わずに「世界には原因と結果がある」ということを直観するのだ。すなわち、この世界では「行為の主体者」が原因として存在する一方で、客体である「物」や、物が組み合わさった「状態」や「条件」などが、行為の結果として変化する--これを言わば世界の“大原則”として理解する。そうすると、赤ちゃんは次に、自分が好む物や、状態、あるいは条件を得たい場合には、その原因となる「主体者」に呼びかければいいという理解に達するのだ。
 
 もっと具体的に言おう。例えば、テーブルの上のオハジキがあり、それがほしくても手が届かないとき、赤ちゃんは母親の手をつかみ、それを使ってオハジキをかき寄せる必要はない。言葉を知らなくても「オハジキを取ってほしい」という意味のサインを送れば、母親はきっとそれに気がついて赤ちゃんの希望どおりにしてくれる。赤ちゃんはそのことを知り、生後3カ月ごろには、人が目の前にいるときは笑いかけたり、小声を出したりして、相手に盛んに働きかけるようになるという。では、人が目の前にいない場合はどうだろう。赤ちゃんと母親の関係では、母親は赤ちゃんから姿が見えなくても、赤ちゃんがしばらく泣けば、大抵の場合、跳んできて希望をかなえてくれるだろう。赤ちゃんはそういう経験を積むことで、たとえ“行為の主体者”が自分の目に見えなくても、必ずどこかに存在するという理解に達するようである。
 
 こうして赤ちゃんは、母親との密接な関係を確立したころには、母親の行動を通して、この世の“大元の主体者”--神や仏ーーの存在を前提にした世界観を形づくる。あとは、やがて成長してから自分の中に生じる“良心の囁き”と“大元の主体者”の存在の感覚が重なり合えばいいわけで、その過程はさほど難しいとは思えないのである。

 谷口 雅宣

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2012年5月17日 (木)

観世音菩薩について (7)

 4月19日の本欄では明確に書かなかったが、ジャスティン・バーレット氏が指摘した“自然宗教”の信仰内容7カ条は、生長の家が説く真理と同一ではない。具体的に言えば、第3項と第5項は生長の家の教えとは明らかに違うし、第2項、第4項、第6項も厳密に考えると「全く同一」とは言えない。私が先に自然宗教の概念について「万教帰一の考え方を支持する知見」だと言ったのは、この7カ条が人類普遍の救いの原理そのものだという意味ではなく、歴史上、世界各地に宗教を生み出してきた原理(原因)は人類に共通しているという意味である。別の言い方をすれば、宗教が生み出されてきたことには人類学的な共通原因があるということだ。この点は重要なので、読者は誤解しないでほしい。

 自然宗教の信仰7カ条が人類普遍の救いの原理だということになると、奇妙な結論になる。なぜなら、それら7カ条は子供が普通に、それこそ“自然に”獲得する信仰だから、地球上の子供はほとんどすべて、人生のスタート時点ですでに“救われずみ”ということになるだろう。これでは、親の教育も社会生活も不要であり、人生それ自体が子供の魂の救済にとっては“無用の長物”になってしまう。また、世界中の教会やモスク、ヒンズー教や仏教の寺院、神社などで営々と行われてきた宗教儀式や神学の研究も、人間の救いにとっては“ムダな努力”と見なされてしまうだろう。
 
 バーレット氏も、そんなことを主張しているのではない。その逆に、同氏は自然宗教の信仰を“骨格”に喩えて、その上に神学(教義)を“肉づけ”していくことで世界の宗教は成立したと考えている。これは、神学(真理の探究)は宗教の成立にとって不可欠だということだ。ただ、同氏が訴えているもう1つのポイントは、自然宗教の信仰が人類一般にとって“自然”であるのに対し、神学が時代的、文化的色彩を強く帯び、かつ高度の抽象性、論理性をもって築き上げられてきたものであるため、一般の人々に対しては“不自然”な様相を呈しているということだ。そのことが大きな原因となって、特定の宗教の信者であっても、多くの人々は自分が選んだ宗教の教義(神学)とは矛盾する内容の感覚をもったり、体験をしたりするというのである。
 
 私は、バーレット氏のこの分析は当たっていると思う。私はこれまで、生長の家の講習会などで信仰に関する体験発表を数多く聞いてきたが、時々、生長の家の教えとは違うことを堂々と語る人がいた。体験発表をする人は、信仰の深浅にいろいろの段階があっていいから、発表内容をあまり厳密に審査することは却って逆効果になる。だから、そんな時も、私は大抵“聞き流す”ことにしている。しかし、教義にまっこうから反する場合は、その後の私の講話で訂正することもあった。バーレット氏の分析は、こういう現象の理解に役立つと思う。
 
 ところで、このことと関係があると思われる私の最近の体験を、ここで紹介しよう。
 
 それは私が谷口輝子聖姉二十四年祭に参加するために、長崎県西海市の生長の家総本山の公邸に泊まったときのことである。祭当日の朝、私は頭上に飛来したカラスの声で目を覚ました。カラスは寝室の上の屋根にいて、何かを呼ぶようなあの「カァカァ」という鳴き声を何回か繰り返した。時計を見るとちょうど午前5時ごろだった。いつもなら目覚まし時計が鳴る時間である。が、その日は寝場所が変わったことで、目覚ましを鳴らす時刻の設定が少しズレていたのかもしれない。まだ鳴っていないのである。そこで私は、「ああ、これはちょうどカラスが“起きろ”と言っているのだ」と思って、起床することにしたのである。

 読者は、この私の思考法や行動に何か問題を感じるだろうか? こういう心の動きは、日常生活のいろいろのところに、ごく自然に出てくるものではないだろうか。が、現実に起こりえることとの関係を合理的に考えてみると、これはまったく現実離れした発想である。つまり、こんなことは事実としてまず起こり得ないのだ。日本中に数多くいるカラスのうち1羽が、これまた数多くある人家の特定の一軒の上まで目的をもって飛んできて、その家の人間が起きようと思っていたまさにその時刻に、「朝だから起きろ」といって鳴く--そんなことはあり得ない。が、私はこのように考えることによって、周囲で起きるいろいろな現象の1つを、自分へのメッセージとして解釈する道を選んだのである。その時、恐らく私の中にはもう一人の私がいて、「眠いからもっと寝ていたい」という願望をもっていたのである。が、もう一方では、「予定通りに起床すべきだ」と考える自分もいて、この後者の自分が“カラスの鳴き声”を材料に使って前者の自分を説得したのだろう。

 バーレット氏がいう自然宗教の信仰とは、この場合の「カラスが“起きろ”と言っている」と感じる感性のことを指すのではないか。この感性を多少延長・発展させれば、「神がカラスを遣わして、私に“時間通りに起きなさい”と告げられた」という感性になる。また、「あのカラスは、私に呼びかける観世音菩薩の教えだ」という感性とも近い。しかし、この2つの感性が宗教上の真理を正しく反映しているかどうかという問題になると、私は「そうではない」と言わざるを得ない。だが、これらいずれの感性も「まったくの誤り」であるかというと、そうは言えないのである。この辺が、宗教のむずかしいところである。

 谷口 雅宣

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2012年5月15日 (火)

観世音菩薩について (6)

 本欄の前々回までの検討で、我々の肉体(脳)には動物と共通する欲望醸成器官(脳幹と視床下部)が備わっていると共に、それを抑制するための巨大な制御器官(大脳)が存在することが分かった。これはほとんど生得的なものであるから、「自然にある」と言える。そうすると、我々の心の中にいわゆる“良心の囁き”が起こることは、きわめて「自然な」ことであり、進化生物学的には「必要な」ことであったと言うことができる。
 
 では、次の段階として、その〝良心の囁き〟が自分より高次の存在である“神の導き”や“観世音菩薩の教え”のように感じられるのはなぜだろう--この理由を考えよう。
 
 これについて今年の全国幹部研鑽会では、私はアメリカの認知科学者、ジャスティン・バーレット氏(Justin L. Barrett, Ph.D.)の新刊書の内容を紹介した。この本の題名は「Born Believers (生まれつきの信仰者)」といい、副題は「the science of children's religious belief (子どもの信仰心を科学する)」である。本欄では、すでに4月12日19日付でこの本の概要を紹介しているから、多くの読者はご存知だ。初耳の人、内容を忘れてしまった人は、どうか読み返していただきたい。以下は、この2つのブログの記述を前提として話を進めていく。
 
 バーレット氏の主張の1つは、我々人間は通常の環境で生まれ育ったならば、幼児期のごく初期の段階で誰もが信仰心をもつようになり、その信仰の内容は普遍的--つまり、世界共通であるというものだ。同氏はこの信仰に「自然宗教(natural religion)」という名前をつけ、その内容を次の7カ条にまとめている--
 
 ①超人間的存在がある。
 ②それが目的をもって自然界の物質や生物を創造した。
 ③それは時間・空間に制約されるが、
 ④人格をもち
 ⑤自由意思で人を裁く。
 ⑥道徳的基準は不変であり、
 ⑦人間は死後も生き続ける。
 
 そして同氏は、この自然宗教の基盤の上に、世界各地の地理的、歴史的、文化的、政治的などの要請に応える形で、現在我々が知る組織的宗教(organized religions)が築き上げられたと考えるのである。そのことを図示したものを、ここに掲げよう。
 
Natlreligionb  この図を見て分かることは、昨今の宗教をめぐる国際情勢から受ける印象がどうであれ、「宗教の根源は1つ」ということだ。これは生長の家が古くから掲げてきた「万教帰一」の考え方を支持する知見と言える。そして、谷口雅春先生の次の言葉が、バーレット氏の著作より40年以上も前に書かれたことを思うとき、先生の卓越した洞察に頭を下げるほかはない--
 
“あらゆる人間の救いの原理は1つでなければならない。それは人間の生命の起源が1つであるから、その救いの原理も1つでなければならないのは当然である。しかるに世界には多くの宗教があり、互いに排擠(はいせい)して、自己のみ真の救いの原理を把握するのだと主張する。それはなぜであろうか。それは各民族に、また各地域に、また各時代にはそれぞれの雰囲気があり、民族精神があり、時代精神があり、それに連関せずに「救いの原理」を説いても、あまり時代や、民族に懸絶(けんぜつ)せるものは理解しえないがために、教えが時代および民族に意識的または無意識に適するように説かれるようになったのである。そこに人類の唯一なる「本源」と「救いの原理」とが幾多の時代的、場所的、民族的粉飾または付加物をもってつつまれ、その粉飾や付加物の方があたかも宗教の神髄のごとく考えられ、その粉飾と付加物との相違によって、互いの宗教は対立しはじめたのである。(中略)今ほど人類が「一」に結合さるべき要請の強い時代はないのである。したがってまた、今ほど、世界の宗教がその個々の粉飾と付加物とを捨て去って裸になって「一」真理とならなければならない時代はないのである。”
                  (『生命の實相』頭注版第39巻仏教篇「はしがき」)
 
 谷口 雅宣

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2012年5月14日 (月)

電子版『今こそ自然から学ぼう』が発刊

Imakososcreenshot  私が2002年に出した『今こそ自然から学ぼうーー人間至上主義を超えて』の電子版がこのほど、N&H Publishing から発行された。アップル社の iPhone、iPad、 iPod touch上で読めるもので、同社の iTunes App Store から入手できる。ニュース・リリースのページは、ここから見られる。10年前に出たこの本の書籍版は税込みの定価が1,300円だが、電子版は1,000円である。本欄の読者の中にアイフォンやアイパッドのユーザーがどれほどいるか知らないが、移動先での読書や、講師の講話の補助などに使っていただければ幸いだ。また、スマホやアイパッドを使いこなす若い人々の中には、この本の存在すら知らない人もいるだろうから、そういう人々に勧めていただければ、生長の家が推進している“自然と共に伸びる運動”のよき理解者となってくれるかもしれない。
 
 電子本と紙の本はそれぞれに長短があるが、この電子版の優れた点は図版や写真のほとんどがカラーであるのと、目次から各ページに画面のタップで跳んでいけること、さらには脚注もタップで気軽に見れることだろう。これらは電子本一般の特長である。また、電子本最大の特長は、重さが実質的に「ゼロ」だから持ち運びに便利であり、さらに紙を使わないことで森林破壊を防げる。さらに、何回ページをめくっても「擦り切れる」心配はない。出版社側のメリットは、在庫をもたなくてすむから省資源、省エネ、省スペース、そして在庫管理の手間が不要となる。いいことずくめのように聞こえるが、私は紙の本も大好きであり、とても捨てることができない。紙やインクの匂い、手に持ったときの手応え、表紙や背表紙の存在感、ページを広げて眺める一覧性などは、電子本には望めない。
 
 ということで、気に入った本は、私は電子本と紙の本の両方を買うことになる。日本語の電子本はまだ種類が少ないのが難点だが、英語の本はかなりの数が電子化されてきたから、紙と電子の双方で同じ本を読む機会も多くなった。今後、日本語書籍の電子化が進んでいけば、紙の本が傷まなくなってくるという“予想外”の効果を生むかもしれない。

 電子本についてのご意見や注文は、このブログ以外にもフェイスブックの出版社のページに書き込んでいただいてもいい。
 
 谷口 雅宣

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2012年5月12日 (土)

観世音菩薩について (5)

 谷口雅春先生が前掲の文章に「吾は素直に外の導きにも内の導きにも従うのである」と書かれたからといって、それを読んだ人が「だから自分は悪友からの誘いにも、自分の欲望の求めにも素直に従うことにした」と言ったならば、その人はそもそも宗教の基本を知らない愚者である。人間の心中に起こる様々な欲望の中には、従うべきものもあれば拒否すべきものもあるくらいのことは、小学生でも知っている。先生もそのことを後続の「5月10日法語」の中できちんと説かれているから、それを次に引用しよう--
 
「人間は神の造りたまえる最後の最高の自己実現であるから、人間以下のあらゆる動物の段階の各要素を自己の内に含んでいる。最後の最高の神的実現にまで生活を高めることも出来れば、あらゆる種類の動物的状態を実現することも出来るのである。肉慾食慾のみに快感を求めるものは、人間でありながら動物の状態に退歩することである。仏典にも人間の内部には、地獄、餓鬼、畜生、人間、天人の各要素を自己の内部に包蔵すると説かれている。その要素の中(うち)のどれを発揮するかは人間の自由である。」(前掲書、pp.133-134)

 さて、脳科学の分野では、人間の心にいわゆる“動物的欲望”が起こる現象をどのように説明するのだろうか? それを理解するためには、まず人間の脳の基本的構造について知らなければならない。脳はきわめて複雑な器官であるから、その細部を知る前に基本構造を頭に入れておく必要がある。しかし、一口に「基本構造」と言っても、前脳、中脳、後脳というように発生過程に即して見る方法もあれば、右脳、左脳というように機能・解剖学的に見る場合もあれば、前頭葉、頭頂葉、側頭葉、後頭葉というように、大脳だけを外側から見て分類する方法もある。私が生長の家の講習会などでよく使う構造図は、そのいずれでもなく、脳全体を正面から見て、それを頭頂部から脊髄にかけて上下に“輪切り”にしたときの物理的な構造を単純化したものである。(図参照)
 
Brainmap3  この図を使う理由は、これが人間の心の多層性、あるいは重層性をよく示していると思うからだ。多層とか重層などという表現を使うとむずかしく聞こえるかもしれないが、これは「人は悩む」という簡単明白な事実を指しているだけだ。つまり、人間の心には欲望が生まれる一方で、それを抑える葛藤が生まれること、感情が昂ぶっても理性が働くこと、害意が生まれても良心がそれを止めようとすること……そういう二律背反的な動きが生じることを意味する。私は、この心の中の葛藤が宗教や芸術を生み出す“元”だと考えるから、それを構造的に分かりやすく示すこの図を好むのである。

 図を見ると、中央の下から上に向かって「脊髄」「脳幹」と続いて「視床下部」に至る。これは、我々の脳が脊髄(背骨)の上に載っていて、脳幹を介して視床下部に連結していることを示している。脳幹と視床下部は、発生学的に髄脳、後脳、中脳、間脳に分けられ、これらの脳はあらゆる脊椎動物が共通してもっている。つまり、これらの脳内で起こる反応は、人間だけでなく、イヌやネコなどの哺乳動物はもちろん、魚類、両棲類、爬虫類の脳の中でも起こるのである。脳科学者の山本健一氏によると、両棲類や魚類では、間脳は行動の内的要因(欲望)の中枢であり、終脳、中脳(視床下部と脳幹の一部)は外的要因(感覚入力)のうちのそれぞれ嗅覚、視覚の中枢であり、後脳、髄脳は聴覚、平衡感覚を含めた機械的感覚と運動の中枢であるという。
 
 人間の脳では、この脳中心部の共通構造を大脳が覆うように包んでいる。大脳とは、図にある辺縁皮質(古皮質と旧皮質)と新皮質を加えたものである。この大脳の発達の仕方は、動物の種類によって特徴的だ。爬虫類では嗅覚と運動能力を反映して大脳核の発達が顕著であるが、空を飛ぶ能力を獲得した鳥類はさらに大脳核が発達している。哺乳類の脳では、「大脳皮質の異常な発達がみられる」と山本氏は言う。それも大脳核というよりは「嗅覚の分析を司る旧皮質の両側に付け加わった古皮質(海馬)と新皮質の発達」が著しいという。海馬は、記憶に関する重要な役割を果たしており、人間の記憶の量は他の動物に比べて圧倒的に多いという。また、視床下部について山本氏は、これは「“欲望の中枢”ともいわれ、内的要因のセンターである。この部分の電気刺激により、攻撃行動や摂食行動などあらゆる完了行為を誘発できる」(p.66)と書いている。
 
 これらのことから分かるのは、我々人間の内部には、あらゆる脊椎動物に共通する本能的な欲望を起こす機能が備わっているが、それを覆い包むように発達した大脳が、それら欲望の発現を規制しているということだ。だから「人間らしく生きる」ということは、「本能のままに生きる」ことでは決してないのである。
 
 谷口 雅宣
 
【参考文献】
○山本健一著『脳とこころ--内なる宇宙の不思議』(講談社選書メチエ、1996年)
○渡辺茂著『ヒト型脳とハト型脳』(文春新書、2001年)

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2012年5月 9日 (水)

観世音菩薩について (4)

 ここまでの議論では、観世音菩薩についてその“出自”に即して仏教の文脈で考えてきた。しかし、今年の全国幹部研鑽会に参加した読者はご存知だが、私はこの菩薩に関連づけて全く別の分野の話もした。それは脳科学(神経科学)の話だった。そこで本欄でもこの分野に踏み込んで議論を続けたいと思う。つまり、宗教と科学との接点を見出し、考えてみたいのである。具体的には、もし観世音菩薩が我々の“内部”にある人間の「本性」だと宗教で言うならば、脳科学的にはその本性が脳のどの辺に位置しているのか、あるいは脳のどのような機能として説明できるのかという問題を考えてみたい。もちろん私は脳科学者ではないから、ここで何かオリジナルな研究成果を発表するつもりはない。そんなことは不可能である。私にできることがあるとすれば、それは近年の脳科学の研究成果の中から、人間の「良心」や「宗教心」と関係のありそうなものを紹介するくらいである。そして、すべての人間の脳がそのような特徴的な構造と機能をもつのだから、「人間は神の子である」あるいは「人間の本性は仏である」という宗教上の主張は、単なるナイーヴな理想論ではなく、きちんとした科学的な裏づけがあることを示したい。
 
 脳科学的な説明に入る前に、人間の心の素晴らしさと複雑さについて、谷口雅春先生の御文章から確認しよう。まずは、『新版 光明法語<道の巻>』から「1月20日の法語」を引用する--
 
「吾が全ての願いは吾が中(うち)に宿り給う神が内よりもよおし給う願いである。されば吾が願いは決して成就しない事はないのである。吾と神と一体であるという事を自覚するが故に如何なる願いも必ず成就しないということはないのである。吾は吾が中(うち)に宿る神のもよおしに対していと素直にそれに従うのである。神よりの導きは内からも外からも来るであろう。吾に何事でも勧めてくれる人は神が遣わし給いし天の使(つかい)である。吾は素直に外の導きにも内の導きにも従うのである。吾はあらゆるものにすなおに喜びをもって従うのである。」(同書、p.43)

 この本は、引用した箇所ほどの短い文章を毎日読み進めていくことで、読者が神我一体の自覚を深めていく目的で編まれている。だから、短い文章中のリズムや勢いを重視する代わりに、論理性や汎用性が犠牲になることもある。引用箇所はその典型で、「人間・神の子」の自覚がある程度深まった人が読めば、さらに自覚が深まり、勇気と信念をもってその日を送ることができるに違いない。私が特にこの文章を引用した理由は、現下のテーマである観世音菩薩と関係が深い表現があるからだ。それは「吾は吾が中に宿る神のもよおしに対していと素直にそれに従うのである。神よりの導きは内からも外からも来るであろう」というくだりで、雅春先生はここで「観世音菩薩の教えは自分の内にも外にも溢れているから、そこから学べ」と仰っているのである。
 
 しかし、そういう深い意味を読み取るに至らない読者もいる。例えば、自分の選択に自信がもてず、かつ他の選択肢にも魅力を感じていたり、さらには周囲の人々の意見に振り回される傾向のある人などは、引用箇所だけを読んだ場合、誤った印象をもつ可能性がないわけではない。また、自我意識が強く、周囲の人々の意見を無視して物事を押し進める傾向のある人も、間違った解釈をしかねない。なぜなら、引用の最初の部分を文字通りに解釈すれば、「自分の希望はすべて神の御心だ」という浅薄な読み方もできるからだ。さらに引用の最後の文章も、生長の家の教えをよく知らず、物質的な誘惑に弱い人は、誤った解釈をする可能性を否定できないだろう。もちろん私は、雅春先生の文章に欠陥があると言っているのではない。そもそも文章とは、読む人の知識のレベルや心境によって、内容の理解や解釈が変わってくるものである。学術論文であれば、そういう違いが最小限に留まるだろうが、宗教や芸術に関わる文章の場合は、読み手の力量が理解度を大きく左右することになる--そう言いたいのだ。
 
 谷口 雅宣

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2012年5月 6日 (日)

観世音菩薩について (3)

 さて、「観音経」に描かれた観世音菩薩の救いの偉大さを読み、十一面観音像や千手観音像を脳裏に想い浮かべてみると、このような超人的救済者が我々の“外部”にいて、我々が困難に遭遇した際に救いの手を差し伸べてくれる--そういう印象を強くもつ人もいるに違いない。しかし、すでに述べたように、観世音菩薩は我々の「本性」のことだから、我々の“内部”にある。それならなぜ我々自身の顔写真や絵、あるいは彫像を目の前に置いて、それに向かって救いを求めることをしないのだろう? 我々自身が“仏”であり“神の子”ならば、我々自身の神性・仏性が人生万般の問題解決と成功の方法を知っているはずではないか?
 
 この疑問に答えるためには、先に述べた観世音の「観」の意味を思い起こす必要がある。この意味は、「ある対象を心の中に思い浮かべ、それと自分とが同化することを念じ、実践すること」だった。これは即ち、相手の立場に自分の身を置くことであり、相手に感情移入することである。そのことを人生のどんな場面に於いても、どんな相手に対しても自在に実行できるのが観世音菩薩であり、観自在菩薩だった。現象生活を送る我々は普通、そんな生き方を常に実行することはできない。どうしても自分と対象(他者)との分離を感じ、自分と他人との利害は相反すると考えがちだ。そういう自他や自分と社会との差別感、対立感から人生万般の問題が生じやすい。否、問題が生じる前から、倫理や法律、慣習などの社会制度の相当部分が、差別感や分離、対立を前提として組み上げられている。
 
 このことを私は、過去の全国幹部研鑽会などで「デジタル」と「アナログ」という言葉を使って説明した。詳しくは『次世代への決断』の第4章などを読んでほしい。が、簡単に言うと、デジタルとは「離散的」という意味で、アナログは「連続的」「類似的」などと訳される。前者は、物事を互いに分離した部分に切り分けて考え、それらの部分の集まりとして全体を把握する。これに対し後者は、物事は一見分離して見えても、それを全体の中の連続した変化として捉えようとする見方である。多人数を抱える社会の運営には「わかりやすさ」や「効率性」が求められるから、勢い物事をデジタルに切り分け、少数の部分から成るとして制度を作ることが多い。例えば、人を「男」と「女」に分けて「結婚」という制度を作る。同様にして「成人」と「未成年」、「自国民」と「外国人」、「障害者」と「健常者」、「与党」と「野党」、「昼」と「夜」、「及第」と「落第」、「善人」と「悪人」……などと2つの範疇に分け、実際には両者の間に“中間値”がいろいろあってもそれを無視するか、重要視しないことが多い。
 
 そんな中で生きてきた人間が、宗教的素養が不十分のまま「自分に神性・仏性が宿る」と言われた場合、その「自分」とは他人や社会と分離した「個人」(肉体人間)のことだと誤解する可能性が高いのである。そして「自分」は神性・仏性を体現しているが、「他人」や「社会」はそうではないから間違っており、したがって軽蔑や否定、ひどい場合には攻撃の対象にすべきだなどと考えるようになれば、これはもう宗教上の信仰ではなくて、幼稚で独善的なナルシシズムと変わらない。こういうエゴトリップ(自己本位の振る舞い)を防止するための一種の“心理的安全装置”として、宗教の世界では自分を超えた超人間的救済者や慈愛者、審判者を“外部”に仮構して、それを礼拝の対象としてきたのである。
 
 礼拝の対象を“外部”に仮構し、それに対して「観」の心を起こして実践することは、利己心や増上慢を防ぐことになる。なぜなら、それは自分(肉体的自我)ではナイものを理想化し、それに対して自分を同一化するからだ。別の言い方をすれば、「自分でないものになろう」とするところから利己心は起こりにくいからである。それだけでなく、同一化をはかる対象が“仏”や“菩薩”であり、その心の内容自体が利己心を否定するものである場合、それは二重の“エゴトリップ防止装置”となるだろう。私が言っているのは「仏の四無量心」のことである。観世音菩薩や勢至菩薩など、仏教でいろいろの名前をつけて呼ばれる「菩薩」とは、釈迦が悟りに到るまでの修行の内容を人格化したものと考えられているから、それらを心に描いて観ずることは、最終的には「仏の四無量心」へと向かう努力である。つまり、慈・悲・喜・捨の心へと向かうことになり、これは利己心とは反対方向である。

 このような「観世音菩薩」の概念は、仏教の長い歴史の中でしだいに煮詰められ結実したものだろうが、人間心理の複雑な動きをよく考慮した宗教上の傑作の1つだと私は思う。
 
 谷口 雅宣

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2012年5月 3日 (木)

観世音菩薩について (2)

 「観自在菩薩」とは観世音菩薩の別名である。と言うよりは、仏教が最初に文字で記録されたのはサンスクリットによってだから、より正確には、このサンスクリットで観世音菩薩に該当する語の漢訳(中国語訳)が2種類あるということだ。そのことを私は『次世代への決断』の中で次のように書いた--
 
“「観世音菩薩」という語は、古代インドの文語であるサンスクリットの「Avalokitesvara bodhisattva」の漢訳である。この原語を、インド人を父にもつ中国人翻訳家のクマラジーヴァ(鳩摩羅什、344~413年)は「観世音菩薩」と訳したが、『西遊記』で有名な玄奘(602~664年)は「観自在菩薩」と訳した。この原語の「avalokita」までが「観」に該当し、ある対象を心の中に思い浮かべ、それと自分とが同化することを念じ、実践することを指す。”(同書、p.76)

 だから観世音菩薩とは、世の中の音(ひびき、世音)を敏感に感じて、それに自己を同一化する能力に秀でた修行中の求道者(菩薩)を意味する。世の中には多くの種類の人々がいるから、この翻訳では「多様性」や「多面性」が強調されていると見ることができる。これに対して観自在菩薩では、自らを他の対象に同一化するという面での自在性が強調されている。つまり、どんな対象にも自己同一化できるという側面である。いずれの用語も原語は同一だから意味上の違いはないはずだが、翻訳者それぞれの思い入れが感じられる。また、観世音菩薩の彫像を見ると、十一面観音や千手観音のように、冠上に多種の化仏をいただくもの、何本もの腕と手をもつものなどが数多く製作されてきた。私見だが、これらは「人を救う」に際しての局面の多様性、救う対象や方法の多面性を「多くの顔」が象徴し、救済力の大きさ、救済の巧みさや機敏性、誰をも救わずにはおかないという徹底した弘誓などを「多くの手」が表現しているように思える。
 
 一般に「観音経」と呼ばれている『妙法蓮華経』の観世音菩薩普門品偈には、この菩薩の救済力の偉大さが微細にわたり克明に描かれているから、経文の意味を考えながらこれを読み進めていくと、観世音菩薩が多面多手で多様な形象で描かれてきた理由が納得されるのである(以下の経文はごく一部。括弧内は拙訳)--
 
 假使興害意 (もし悪意を抱く者がいて)
 推落大火坑 (火が燃えさかる穴の中に突き落としても)
 念彼観音力 (観世音菩薩の救いの力を念ずれば)
 火坑変成池 (火の穴は池に変わるだろう。)
 或漂流巨海 (あるいは大海を漂流していて)
 龍魚諸鬼難 (竜や怪魚などの怪物が襲ってきても)
 念彼観音力 (観世音菩薩の救いの力を念ずれば)
 波浪不能没 (荒波に呑まれて海中に没することはないだろう。)
 或在須弥峰 (あるいは須弥山の高嶺から)
 為人所推堕 (誰かに突き落とされても)
 念彼観音力 (観世音菩薩の救いの力を念ずれば)
 如日虚空住 (太陽の如くに空中に浮かぶことができるだろう。)
 或被悪人逐 (あるいは悪人に追われ)
 堕落金剛山 (金剛山の頂から転落したとしても)
 念彼観音力 (観世音菩薩の救いの力を念ずれば)
 不能損一毛 (髪の毛の一本も傷つかないだろう。)
 ………

 谷口 雅宣

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2012年5月 1日 (火)

観世音菩薩について (1)

 4月末に行われた生長の家組織の全国幹部研鑽会と全国大会では、「観世音菩薩」に焦点の1つを当てて話した。とは言っても、日本国内に無数と言っていいほど存在するその彫像について、それらの分類や由来を語ったのではなく、この不思議な菩薩を生長の家ではどう解釈し、どう理解するかを述べたのだった。
 
 もともと仏教で広く信仰の対象とされてきたものを、生長の家が会員・幹部の集会で取り上げる理由は、本欄の読者ならご存知だろう。それは、生長の家の“本尊”は観世音菩薩だと説かれてきたからだ。例えば、谷口雅春先生の『真理の吟唱』には「観世音菩薩を称うる祈り」が収録されていて、その祈りの最後には「生長の家の礼拝の本尊は観世音菩薩なのである」と明確に書かれている。しかし、それでは生長の家の総本山や各地の練成道場でいわゆる「観音さま」の彫像や画像が本尊然として据えられ、あるいは掲げられているかというと、その様子はない。その代わりに「実相」の掛け軸や掲額が礼拝の場の中心的位置を占めている。そして、その前で威儀を正して儀式に臨む際、先導者はよく「“実相”の御軸を通して宇宙の大生命に礼拝いたします」などと厳かに宣言するのである。
 
 そうなのだ。生長の家で信仰の対象としているのは「宇宙の大生命」であり、別の呼称では「唯一絶対神」であり、聖経『甘露の法雨』の表現に従えば「渾(すべ)ての渾てにましまして絶対なる神」「一切のものの創造主(つくりぬし)」「全能なる神」「完全なる神」なのである。では、「生長の家の礼拝の本尊は観世音菩薩である」とは、どういう意味だろう。そのことを私は述べようと思った。
 
 今回のテキストに使った拙著『次世代への決断--宗教者が“脱原発”を決めた理由』(生長の家刊)では、私は観世音菩薩の意味を次のように書いた--
 
“生長の家では、我々人間の「本性」ないし「本質」は神の子であると説く。同じように仏教では、人間の本性を仏と見ている、。本性とは国語的には「生まれつきの性質」とか「本心」などと説明されるが、これでは生物学的な性質(いわゆる五欲)も人間の本性に入れられてしまう。だから、宗教的には、そんな人間以外の動物にも備わった特徴を除いていき、最後に残った「人間の人間たるべき本質」のようなものを意味する。これは、もっと一般的には「良心」と呼ばれるものに近い。そういう優れた本性がどんな人間にもあって、それが言わば“内側から”個々の人間に何かを教える。そのことを仏教では「観世音菩薩」と呼ぶのである。”(同書、p.75)

 ここで私は「仏教では……である」という言い方をしているが、これは、仏教に属するすべての宗教や宗派でこれと同じ解釈をしているという意味では必ずしもない。が、いわゆる“大乗の教え”に分類されているものでは大抵採用されている解釈である。生長の家は仏教では“大乗の教え”に近いから、この見方を明確に打ち出している。
 
 例えば、『生命の實相』の仏教篇(頭注版第39巻)には、人間自身が普賢菩薩であり、観世音菩薩であることが説かれている--
 
“われわれの本体は物質身ではない、肉体身ではない、智慧身である。宇宙に満ちている観自在の智慧である。宇宙に普(あまね)く充ち満ちている智慧(賢)そのものが、「身をちぢめて小ならしめ」(『観普賢菩薩行法経』)て、仮に、物質身に見えて顕われているのがわれわれ人間であります。だからわれわれ人間はこの身このまま普賢菩薩(遍満の智慧身)なのであります。智慧自在、観察自在、観るにしたがって観るとおりに自在に方便身を顕ずるので、観自在菩薩とも申すのであります。われわれはこの身このままが観世音菩薩であり、普賢菩薩なのであります。”(同書、pp.130-131)

 谷口 雅宣

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