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2012年5月21日 (月)

観世音菩薩について (8)

 話が本シリーズの主題から少し逸れてしまった。いま解明すべきことは、我々の心の中の“良心の囁き”が、なぜ「神」や「観世音菩薩」の概念と結びつくかという問題だった。4月12日の本欄で、生まれてまもない赤ちゃんが、命のない物体と、生命をもった「行為の主体者」とを見分ける能力を獲得し、前者よりも後者に注目することを書いた。しかし、その理由について、あまり詳しく説明しなかった。が、その理由は、たぶん母親と赤ちゃんの関係を思い起こしてみることで理解できるのではないだろうか。

 自ら立って歩けず、言葉も話せない段階の赤ちゃんが生き延びるためには、母親とのコミュニケーションが最も大切だ。赤ちゃんは最初、泣くことしかできない。泣くと母親がやってきて、抱き上げてくれたり、おっぱいをくれたり、オムツを替えてくれる。それだけでなく、話しかけたり、笑いかけたり、ガラガラをくれたり、頭をなでてくれたり……と、赤ちゃんを優しく包んでくれる。母親は事実上、赤ちゃんが望むことをすべて与えてくれるのだ。だから赤ちゃんにとって、「母」とは無限能力をもった“行為の主体者”--恐らく「神」に等しい存在なのである。それに比べて、自分の手が届かない位置にあるガラガラや哺乳ビンは、いくら泣いても、呼びかけても、赤ちゃんの手元にはやって来ない。また、汚れて居心地の悪いオムツも、泣いても叫んでも尻から外れずにベタベタと貼りついたままだ。
 
 そういう経験を積んでいくうちに、赤ちゃんは、自分の周りの世界には大別して、行為の主体者と、行為の客体(物)という2種類のものがあるという認識に達するのだ。もちろん赤ちゃんはまだ言葉を知らないから、頭の中でこんな難しい言葉を使って考えるわけではない。言葉を使わずに「世界には原因と結果がある」ということを直観するのだ。すなわち、この世界では「行為の主体者」が原因として存在する一方で、客体である「物」や、物が組み合わさった「状態」や「条件」などが、行為の結果として変化する--これを言わば世界の“大原則”として理解する。そうすると、赤ちゃんは次に、自分が好む物や、状態、あるいは条件を得たい場合には、その原因となる「主体者」に呼びかければいいという理解に達するのだ。
 
 もっと具体的に言おう。例えば、テーブルの上のオハジキがあり、それがほしくても手が届かないとき、赤ちゃんは母親の手をつかみ、それを使ってオハジキをかき寄せる必要はない。言葉を知らなくても「オハジキを取ってほしい」という意味のサインを送れば、母親はきっとそれに気がついて赤ちゃんの希望どおりにしてくれる。赤ちゃんはそのことを知り、生後3カ月ごろには、人が目の前にいるときは笑いかけたり、小声を出したりして、相手に盛んに働きかけるようになるという。では、人が目の前にいない場合はどうだろう。赤ちゃんと母親の関係では、母親は赤ちゃんから姿が見えなくても、赤ちゃんがしばらく泣けば、大抵の場合、跳んできて希望をかなえてくれるだろう。赤ちゃんはそういう経験を積むことで、たとえ“行為の主体者”が自分の目に見えなくても、必ずどこかに存在するという理解に達するようである。
 
 こうして赤ちゃんは、母親との密接な関係を確立したころには、母親の行動を通して、この世の“大元の主体者”--神や仏ーーの存在を前提にした世界観を形づくる。あとは、やがて成長してから自分の中に生じる“良心の囁き”と“大元の主体者”の存在の感覚が重なり合えばいいわけで、その過程はさほど難しいとは思えないのである。

 谷口 雅宣

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コメント

赤ちゃんは自分の経験である「母親の行動を通して、この世の“大元の主体者”」を自覚するというのは、自然だと思います。それが実は神様の世界で神様を観ずる方法であり、それがこの世界に形として現われているようにも思えます。主体者を呼ぶという行為が自然な行為として人間の中にもともとあるのではないでしょうか。

投稿: Mario Kawakami | 2012年5月25日 (金) 01時40分

人として生きる事の、とても重要なことが話されていると感じました。上手く言い表せないのですが。人は生まれながらにして無意識のうちに神(観世音菩薩)の存在を肯定していると思いますし、その基本が母親とのコミュニケーションにあるのかな?と。深い話をありがとうございます。

投稿: 水野 | 2012年5月25日 (金) 11時49分

総裁先生,ありがとうございます。
小学校低学年くらいまでの児童は,みな「神様」の存在を信じていると感じます。その純粋さを否定しない教育現場にしなければならないと,強く思っております。
再拝

投稿: 佐々木(生教会) | 2012年5月25日 (金) 19時31分

お久しぶりです。これから又拝読させていただきます。ありがとうございます。

投稿: 多久真里子 | 2012年5月25日 (金) 23時39分

合掌ありがとうございます。5月11日以降一度もブログを見ていないのに気付いて、久しぶりにコメントします。私事ですが、去年の10月迄保育士として勤務していました。その時子供達のお母さんである事を心掛けていました。今度は高齢者や障害者の母親代わりになる訳です。総裁先生が言っておられる事よく分かります。肝に命じて勉強に励みます。新しい職場に内定しそうです。取得見込みでも可能だという事ですから。落ち着いたらまたコメントします。

投稿: 横山啓子 | 2012年5月26日 (土) 21時28分

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