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2012年5月17日 (木)

観世音菩薩について (7)

 4月19日の本欄では明確に書かなかったが、ジャスティン・バーレット氏が指摘した“自然宗教”の信仰内容7カ条は、生長の家が説く真理と同一ではない。具体的に言えば、第3項と第5項は生長の家の教えとは明らかに違うし、第2項、第4項、第6項も厳密に考えると「全く同一」とは言えない。私が先に自然宗教の概念について「万教帰一の考え方を支持する知見」だと言ったのは、この7カ条が人類普遍の救いの原理そのものだという意味ではなく、歴史上、世界各地に宗教を生み出してきた原理(原因)は人類に共通しているという意味である。別の言い方をすれば、宗教が生み出されてきたことには人類学的な共通原因があるということだ。この点は重要なので、読者は誤解しないでほしい。

 自然宗教の信仰7カ条が人類普遍の救いの原理だということになると、奇妙な結論になる。なぜなら、それら7カ条は子供が普通に、それこそ“自然に”獲得する信仰だから、地球上の子供はほとんどすべて、人生のスタート時点ですでに“救われずみ”ということになるだろう。これでは、親の教育も社会生活も不要であり、人生それ自体が子供の魂の救済にとっては“無用の長物”になってしまう。また、世界中の教会やモスク、ヒンズー教や仏教の寺院、神社などで営々と行われてきた宗教儀式や神学の研究も、人間の救いにとっては“ムダな努力”と見なされてしまうだろう。
 
 バーレット氏も、そんなことを主張しているのではない。その逆に、同氏は自然宗教の信仰を“骨格”に喩えて、その上に神学(教義)を“肉づけ”していくことで世界の宗教は成立したと考えている。これは、神学(真理の探究)は宗教の成立にとって不可欠だということだ。ただ、同氏が訴えているもう1つのポイントは、自然宗教の信仰が人類一般にとって“自然”であるのに対し、神学が時代的、文化的色彩を強く帯び、かつ高度の抽象性、論理性をもって築き上げられてきたものであるため、一般の人々に対しては“不自然”な様相を呈しているということだ。そのことが大きな原因となって、特定の宗教の信者であっても、多くの人々は自分が選んだ宗教の教義(神学)とは矛盾する内容の感覚をもったり、体験をしたりするというのである。
 
 私は、バーレット氏のこの分析は当たっていると思う。私はこれまで、生長の家の講習会などで信仰に関する体験発表を数多く聞いてきたが、時々、生長の家の教えとは違うことを堂々と語る人がいた。体験発表をする人は、信仰の深浅にいろいろの段階があっていいから、発表内容をあまり厳密に審査することは却って逆効果になる。だから、そんな時も、私は大抵“聞き流す”ことにしている。しかし、教義にまっこうから反する場合は、その後の私の講話で訂正することもあった。バーレット氏の分析は、こういう現象の理解に役立つと思う。
 
 ところで、このことと関係があると思われる私の最近の体験を、ここで紹介しよう。
 
 それは私が谷口輝子聖姉二十四年祭に参加するために、長崎県西海市の生長の家総本山の公邸に泊まったときのことである。祭当日の朝、私は頭上に飛来したカラスの声で目を覚ました。カラスは寝室の上の屋根にいて、何かを呼ぶようなあの「カァカァ」という鳴き声を何回か繰り返した。時計を見るとちょうど午前5時ごろだった。いつもなら目覚まし時計が鳴る時間である。が、その日は寝場所が変わったことで、目覚ましを鳴らす時刻の設定が少しズレていたのかもしれない。まだ鳴っていないのである。そこで私は、「ああ、これはちょうどカラスが“起きろ”と言っているのだ」と思って、起床することにしたのである。

 読者は、この私の思考法や行動に何か問題を感じるだろうか? こういう心の動きは、日常生活のいろいろのところに、ごく自然に出てくるものではないだろうか。が、現実に起こりえることとの関係を合理的に考えてみると、これはまったく現実離れした発想である。つまり、こんなことは事実としてまず起こり得ないのだ。日本中に数多くいるカラスのうち1羽が、これまた数多くある人家の特定の一軒の上まで目的をもって飛んできて、その家の人間が起きようと思っていたまさにその時刻に、「朝だから起きろ」といって鳴く--そんなことはあり得ない。が、私はこのように考えることによって、周囲で起きるいろいろな現象の1つを、自分へのメッセージとして解釈する道を選んだのである。その時、恐らく私の中にはもう一人の私がいて、「眠いからもっと寝ていたい」という願望をもっていたのである。が、もう一方では、「予定通りに起床すべきだ」と考える自分もいて、この後者の自分が“カラスの鳴き声”を材料に使って前者の自分を説得したのだろう。

 バーレット氏がいう自然宗教の信仰とは、この場合の「カラスが“起きろ”と言っている」と感じる感性のことを指すのではないか。この感性を多少延長・発展させれば、「神がカラスを遣わして、私に“時間通りに起きなさい”と告げられた」という感性になる。また、「あのカラスは、私に呼びかける観世音菩薩の教えだ」という感性とも近い。しかし、この2つの感性が宗教上の真理を正しく反映しているかどうかという問題になると、私は「そうではない」と言わざるを得ない。だが、これらいずれの感性も「まったくの誤り」であるかというと、そうは言えないのである。この辺が、宗教のむずかしいところである。

 谷口 雅宣

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コメント

カラスの体験、面白く思いました。
この感性を宗教的に解釈すると、否でもなく、可でもなく。また、否であり、可でもある。
たしかに、ある意味難しいと思いました。

投稿: 水野 | 2012年5月21日 (月) 23時09分

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