« 観世音菩薩について (3) | トップページ | 観世音菩薩について (5) »

2012年5月 9日 (水)

観世音菩薩について (4)

 ここまでの議論では、観世音菩薩についてその“出自”に即して仏教の文脈で考えてきた。しかし、今年の全国幹部研鑽会に参加した読者はご存知だが、私はこの菩薩に関連づけて全く別の分野の話もした。それは脳科学(神経科学)の話だった。そこで本欄でもこの分野に踏み込んで議論を続けたいと思う。つまり、宗教と科学との接点を見出し、考えてみたいのである。具体的には、もし観世音菩薩が我々の“内部”にある人間の「本性」だと宗教で言うならば、脳科学的にはその本性が脳のどの辺に位置しているのか、あるいは脳のどのような機能として説明できるのかという問題を考えてみたい。もちろん私は脳科学者ではないから、ここで何かオリジナルな研究成果を発表するつもりはない。そんなことは不可能である。私にできることがあるとすれば、それは近年の脳科学の研究成果の中から、人間の「良心」や「宗教心」と関係のありそうなものを紹介するくらいである。そして、すべての人間の脳がそのような特徴的な構造と機能をもつのだから、「人間は神の子である」あるいは「人間の本性は仏である」という宗教上の主張は、単なるナイーヴな理想論ではなく、きちんとした科学的な裏づけがあることを示したい。
 
 脳科学的な説明に入る前に、人間の心の素晴らしさと複雑さについて、谷口雅春先生の御文章から確認しよう。まずは、『新版 光明法語<道の巻>』から「1月20日の法語」を引用する--
 
「吾が全ての願いは吾が中(うち)に宿り給う神が内よりもよおし給う願いである。されば吾が願いは決して成就しない事はないのである。吾と神と一体であるという事を自覚するが故に如何なる願いも必ず成就しないということはないのである。吾は吾が中(うち)に宿る神のもよおしに対していと素直にそれに従うのである。神よりの導きは内からも外からも来るであろう。吾に何事でも勧めてくれる人は神が遣わし給いし天の使(つかい)である。吾は素直に外の導きにも内の導きにも従うのである。吾はあらゆるものにすなおに喜びをもって従うのである。」(同書、p.43)

 この本は、引用した箇所ほどの短い文章を毎日読み進めていくことで、読者が神我一体の自覚を深めていく目的で編まれている。だから、短い文章中のリズムや勢いを重視する代わりに、論理性や汎用性が犠牲になることもある。引用箇所はその典型で、「人間・神の子」の自覚がある程度深まった人が読めば、さらに自覚が深まり、勇気と信念をもってその日を送ることができるに違いない。私が特にこの文章を引用した理由は、現下のテーマである観世音菩薩と関係が深い表現があるからだ。それは「吾は吾が中に宿る神のもよおしに対していと素直にそれに従うのである。神よりの導きは内からも外からも来るであろう」というくだりで、雅春先生はここで「観世音菩薩の教えは自分の内にも外にも溢れているから、そこから学べ」と仰っているのである。
 
 しかし、そういう深い意味を読み取るに至らない読者もいる。例えば、自分の選択に自信がもてず、かつ他の選択肢にも魅力を感じていたり、さらには周囲の人々の意見に振り回される傾向のある人などは、引用箇所だけを読んだ場合、誤った印象をもつ可能性がないわけではない。また、自我意識が強く、周囲の人々の意見を無視して物事を押し進める傾向のある人も、間違った解釈をしかねない。なぜなら、引用の最初の部分を文字通りに解釈すれば、「自分の希望はすべて神の御心だ」という浅薄な読み方もできるからだ。さらに引用の最後の文章も、生長の家の教えをよく知らず、物質的な誘惑に弱い人は、誤った解釈をする可能性を否定できないだろう。もちろん私は、雅春先生の文章に欠陥があると言っているのではない。そもそも文章とは、読む人の知識のレベルや心境によって、内容の理解や解釈が変わってくるものである。学術論文であれば、そういう違いが最小限に留まるだろうが、宗教や芸術に関わる文章の場合は、読み手の力量が理解度を大きく左右することになる--そう言いたいのだ。
 
 谷口 雅宣

|

« 観世音菩薩について (3) | トップページ | 観世音菩薩について (5) »

文化・芸術」カテゴリの記事

認知科学・心理学」カテゴリの記事

宗教・哲学」カテゴリの記事

コメント

合掌ありがとうございます

読み手の力量が理解度を大きく左右することになる--そう言いたいのだ。

本当にその通りだと思います。友達と同じお菓子を食べて「おいしいね」と言い合っても、私とその友達とでは、おいしい、と思う感覚が違ってるかもしれない。私は甘さがおいしい、と思い、友達はやわらかさがおいしい、と思っているかもしれない。

結局は、自分がどう思っているか。そして、思った通りに世界が見える、と言うことだと思いました。
そう考えると、心と、世界、の関係が面白いと思います。


投稿: 水野奈美 | 2012年5月10日 (木) 06時18分

総裁先生                      全国幹部研鑽会に参加させていただきました。が、不覚にもしばらくの間うとうとしてしまい(背中に湯たんぽをあたていたためでしょうか)。肝心なところを聞き逃してしまったと悔やんでいました。ブログを通じて再度研鑽する機会を頂いてとてもありがたく思います。ありがとうございます。  

投稿: 赤嶺里子 | 2012年5月10日 (木) 09時11分

合掌ありがとうございます。総裁先生に質問します。今社会福祉の専門学校に通っているとお知らせしたと思いますが、その講義の中で「お年寄りや障害者(児)を世の光にしよう」にしようというのがありました。世の光という言葉は新訳聖書からきているのだろうと思い、意味は分かりましたが、生長の家の教えに当てはめると観世音菩薩様として拝むという意味になるのでしょうか?変な質問だったらすみません。

投稿: 横山啓子 | 2012年5月11日 (金) 17時25分

横山さん、
>>「お年寄りや障害者を世の光にしよう」<<
あなたがおっしゃるように、聖書から来ている言葉と思われますが、発言者がこれによって何を意味しようとしていたかは、発言者自身にしか分からないので、その方に尋ねられたら如何でしょうか?

投稿: 谷口 | 2012年5月12日 (土) 09時21分

この記事へのコメントは終了しました。

« 観世音菩薩について (3) | トップページ | 観世音菩薩について (5) »