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2012年5月 6日 (日)

観世音菩薩について (3)

 さて、「観音経」に描かれた観世音菩薩の救いの偉大さを読み、十一面観音像や千手観音像を脳裏に想い浮かべてみると、このような超人的救済者が我々の“外部”にいて、我々が困難に遭遇した際に救いの手を差し伸べてくれる--そういう印象を強くもつ人もいるに違いない。しかし、すでに述べたように、観世音菩薩は我々の「本性」のことだから、我々の“内部”にある。それならなぜ我々自身の顔写真や絵、あるいは彫像を目の前に置いて、それに向かって救いを求めることをしないのだろう? 我々自身が“仏”であり“神の子”ならば、我々自身の神性・仏性が人生万般の問題解決と成功の方法を知っているはずではないか?
 
 この疑問に答えるためには、先に述べた観世音の「観」の意味を思い起こす必要がある。この意味は、「ある対象を心の中に思い浮かべ、それと自分とが同化することを念じ、実践すること」だった。これは即ち、相手の立場に自分の身を置くことであり、相手に感情移入することである。そのことを人生のどんな場面に於いても、どんな相手に対しても自在に実行できるのが観世音菩薩であり、観自在菩薩だった。現象生活を送る我々は普通、そんな生き方を常に実行することはできない。どうしても自分と対象(他者)との分離を感じ、自分と他人との利害は相反すると考えがちだ。そういう自他や自分と社会との差別感、対立感から人生万般の問題が生じやすい。否、問題が生じる前から、倫理や法律、慣習などの社会制度の相当部分が、差別感や分離、対立を前提として組み上げられている。
 
 このことを私は、過去の全国幹部研鑽会などで「デジタル」と「アナログ」という言葉を使って説明した。詳しくは『次世代への決断』の第4章などを読んでほしい。が、簡単に言うと、デジタルとは「離散的」という意味で、アナログは「連続的」「類似的」などと訳される。前者は、物事を互いに分離した部分に切り分けて考え、それらの部分の集まりとして全体を把握する。これに対し後者は、物事は一見分離して見えても、それを全体の中の連続した変化として捉えようとする見方である。多人数を抱える社会の運営には「わかりやすさ」や「効率性」が求められるから、勢い物事をデジタルに切り分け、少数の部分から成るとして制度を作ることが多い。例えば、人を「男」と「女」に分けて「結婚」という制度を作る。同様にして「成人」と「未成年」、「自国民」と「外国人」、「障害者」と「健常者」、「与党」と「野党」、「昼」と「夜」、「及第」と「落第」、「善人」と「悪人」……などと2つの範疇に分け、実際には両者の間に“中間値”がいろいろあってもそれを無視するか、重要視しないことが多い。
 
 そんな中で生きてきた人間が、宗教的素養が不十分のまま「自分に神性・仏性が宿る」と言われた場合、その「自分」とは他人や社会と分離した「個人」(肉体人間)のことだと誤解する可能性が高いのである。そして「自分」は神性・仏性を体現しているが、「他人」や「社会」はそうではないから間違っており、したがって軽蔑や否定、ひどい場合には攻撃の対象にすべきだなどと考えるようになれば、これはもう宗教上の信仰ではなくて、幼稚で独善的なナルシシズムと変わらない。こういうエゴトリップ(自己本位の振る舞い)を防止するための一種の“心理的安全装置”として、宗教の世界では自分を超えた超人間的救済者や慈愛者、審判者を“外部”に仮構して、それを礼拝の対象としてきたのである。
 
 礼拝の対象を“外部”に仮構し、それに対して「観」の心を起こして実践することは、利己心や増上慢を防ぐことになる。なぜなら、それは自分(肉体的自我)ではナイものを理想化し、それに対して自分を同一化するからだ。別の言い方をすれば、「自分でないものになろう」とするところから利己心は起こりにくいからである。それだけでなく、同一化をはかる対象が“仏”や“菩薩”であり、その心の内容自体が利己心を否定するものである場合、それは二重の“エゴトリップ防止装置”となるだろう。私が言っているのは「仏の四無量心」のことである。観世音菩薩や勢至菩薩など、仏教でいろいろの名前をつけて呼ばれる「菩薩」とは、釈迦が悟りに到るまでの修行の内容を人格化したものと考えられているから、それらを心に描いて観ずることは、最終的には「仏の四無量心」へと向かう努力である。つまり、慈・悲・喜・捨の心へと向かうことになり、これは利己心とは反対方向である。

 このような「観世音菩薩」の概念は、仏教の長い歴史の中でしだいに煮詰められ結実したものだろうが、人間心理の複雑な動きをよく考慮した宗教上の傑作の1つだと私は思う。
 
 谷口 雅宣

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コメント

総裁先生,合掌,ありがとうございます。
観世音菩薩について分かりやすくご説明いただき,得心しました。大自然の一部である私たち人間にも「観世音菩薩」の心が宿っているのですね。その本性に気づき,自己内奥のほんとうの心に従うとき,観音経に説かれているように,現象的な悪や喫緊の問題も自ずと解決するのだと思います。
観音経には,『悲體戒雷震 慈意妙大雲 澍甘露法雨 滅除煩悩燄』という一節もあります。まさに今の時代,観世音菩薩が自然や私たちの心を通して,大切なことを知らせようとしておられるのだと強く思います。
再拝

投稿: 佐々木(生教会) | 2012年5月 8日 (火) 21時28分

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