« 観世音菩薩について (1) | トップページ | 観世音菩薩について (3) »

2012年5月 3日 (木)

観世音菩薩について (2)

 「観自在菩薩」とは観世音菩薩の別名である。と言うよりは、仏教が最初に文字で記録されたのはサンスクリットによってだから、より正確には、このサンスクリットで観世音菩薩に該当する語の漢訳(中国語訳)が2種類あるということだ。そのことを私は『次世代への決断』の中で次のように書いた--
 
“「観世音菩薩」という語は、古代インドの文語であるサンスクリットの「Avalokitesvara bodhisattva」の漢訳である。この原語を、インド人を父にもつ中国人翻訳家のクマラジーヴァ(鳩摩羅什、344~413年)は「観世音菩薩」と訳したが、『西遊記』で有名な玄奘(602~664年)は「観自在菩薩」と訳した。この原語の「avalokita」までが「観」に該当し、ある対象を心の中に思い浮かべ、それと自分とが同化することを念じ、実践することを指す。”(同書、p.76)

 だから観世音菩薩とは、世の中の音(ひびき、世音)を敏感に感じて、それに自己を同一化する能力に秀でた修行中の求道者(菩薩)を意味する。世の中には多くの種類の人々がいるから、この翻訳では「多様性」や「多面性」が強調されていると見ることができる。これに対して観自在菩薩では、自らを他の対象に同一化するという面での自在性が強調されている。つまり、どんな対象にも自己同一化できるという側面である。いずれの用語も原語は同一だから意味上の違いはないはずだが、翻訳者それぞれの思い入れが感じられる。また、観世音菩薩の彫像を見ると、十一面観音や千手観音のように、冠上に多種の化仏をいただくもの、何本もの腕と手をもつものなどが数多く製作されてきた。私見だが、これらは「人を救う」に際しての局面の多様性、救う対象や方法の多面性を「多くの顔」が象徴し、救済力の大きさ、救済の巧みさや機敏性、誰をも救わずにはおかないという徹底した弘誓などを「多くの手」が表現しているように思える。
 
 一般に「観音経」と呼ばれている『妙法蓮華経』の観世音菩薩普門品偈には、この菩薩の救済力の偉大さが微細にわたり克明に描かれているから、経文の意味を考えながらこれを読み進めていくと、観世音菩薩が多面多手で多様な形象で描かれてきた理由が納得されるのである(以下の経文はごく一部。括弧内は拙訳)--
 
 假使興害意 (もし悪意を抱く者がいて)
 推落大火坑 (火が燃えさかる穴の中に突き落としても)
 念彼観音力 (観世音菩薩の救いの力を念ずれば)
 火坑変成池 (火の穴は池に変わるだろう。)
 或漂流巨海 (あるいは大海を漂流していて)
 龍魚諸鬼難 (竜や怪魚などの怪物が襲ってきても)
 念彼観音力 (観世音菩薩の救いの力を念ずれば)
 波浪不能没 (荒波に呑まれて海中に没することはないだろう。)
 或在須弥峰 (あるいは須弥山の高嶺から)
 為人所推堕 (誰かに突き落とされても)
 念彼観音力 (観世音菩薩の救いの力を念ずれば)
 如日虚空住 (太陽の如くに空中に浮かぶことができるだろう。)
 或被悪人逐 (あるいは悪人に追われ)
 堕落金剛山 (金剛山の頂から転落したとしても)
 念彼観音力 (観世音菩薩の救いの力を念ずれば)
 不能損一毛 (髪の毛の一本も傷つかないだろう。)
 ………

 谷口 雅宣

|

« 観世音菩薩について (1) | トップページ | 観世音菩薩について (3) »

旅行・地域」カテゴリの記事

認知科学・心理学」カテゴリの記事

宗教・哲学」カテゴリの記事

コメント

総裁先生                      ありがたいご教示をありがとうございます。この教えの中に、救いの中に私たちがいるのですね。うれしくてドキドキしています。合掌

投稿: 赤嶺里子 | 2012年5月 8日 (火) 07時52分

この記事へのコメントは終了しました。

« 観世音菩薩について (1) | トップページ | 観世音菩薩について (3) »