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2012年5月 1日 (火)

観世音菩薩について (1)

 4月末に行われた生長の家組織の全国幹部研鑽会と全国大会では、「観世音菩薩」に焦点の1つを当てて話した。とは言っても、日本国内に無数と言っていいほど存在するその彫像について、それらの分類や由来を語ったのではなく、この不思議な菩薩を生長の家ではどう解釈し、どう理解するかを述べたのだった。
 
 もともと仏教で広く信仰の対象とされてきたものを、生長の家が会員・幹部の集会で取り上げる理由は、本欄の読者ならご存知だろう。それは、生長の家の“本尊”は観世音菩薩だと説かれてきたからだ。例えば、谷口雅春先生の『真理の吟唱』には「観世音菩薩を称うる祈り」が収録されていて、その祈りの最後には「生長の家の礼拝の本尊は観世音菩薩なのである」と明確に書かれている。しかし、それでは生長の家の総本山や各地の練成道場でいわゆる「観音さま」の彫像や画像が本尊然として据えられ、あるいは掲げられているかというと、その様子はない。その代わりに「実相」の掛け軸や掲額が礼拝の場の中心的位置を占めている。そして、その前で威儀を正して儀式に臨む際、先導者はよく「“実相”の御軸を通して宇宙の大生命に礼拝いたします」などと厳かに宣言するのである。
 
 そうなのだ。生長の家で信仰の対象としているのは「宇宙の大生命」であり、別の呼称では「唯一絶対神」であり、聖経『甘露の法雨』の表現に従えば「渾(すべ)ての渾てにましまして絶対なる神」「一切のものの創造主(つくりぬし)」「全能なる神」「完全なる神」なのである。では、「生長の家の礼拝の本尊は観世音菩薩である」とは、どういう意味だろう。そのことを私は述べようと思った。
 
 今回のテキストに使った拙著『次世代への決断--宗教者が“脱原発”を決めた理由』(生長の家刊)では、私は観世音菩薩の意味を次のように書いた--
 
“生長の家では、我々人間の「本性」ないし「本質」は神の子であると説く。同じように仏教では、人間の本性を仏と見ている、。本性とは国語的には「生まれつきの性質」とか「本心」などと説明されるが、これでは生物学的な性質(いわゆる五欲)も人間の本性に入れられてしまう。だから、宗教的には、そんな人間以外の動物にも備わった特徴を除いていき、最後に残った「人間の人間たるべき本質」のようなものを意味する。これは、もっと一般的には「良心」と呼ばれるものに近い。そういう優れた本性がどんな人間にもあって、それが言わば“内側から”個々の人間に何かを教える。そのことを仏教では「観世音菩薩」と呼ぶのである。”(同書、p.75)

 ここで私は「仏教では……である」という言い方をしているが、これは、仏教に属するすべての宗教や宗派でこれと同じ解釈をしているという意味では必ずしもない。が、いわゆる“大乗の教え”に分類されているものでは大抵採用されている解釈である。生長の家は仏教では“大乗の教え”に近いから、この見方を明確に打ち出している。
 
 例えば、『生命の實相』の仏教篇(頭注版第39巻)には、人間自身が普賢菩薩であり、観世音菩薩であることが説かれている--
 
“われわれの本体は物質身ではない、肉体身ではない、智慧身である。宇宙に満ちている観自在の智慧である。宇宙に普(あまね)く充ち満ちている智慧(賢)そのものが、「身をちぢめて小ならしめ」(『観普賢菩薩行法経』)て、仮に、物質身に見えて顕われているのがわれわれ人間であります。だからわれわれ人間はこの身このまま普賢菩薩(遍満の智慧身)なのであります。智慧自在、観察自在、観るにしたがって観るとおりに自在に方便身を顕ずるので、観自在菩薩とも申すのであります。われわれはこの身このままが観世音菩薩であり、普賢菩薩なのであります。”(同書、pp.130-131)

 谷口 雅宣

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コメント

合掌ありがとうございます。今年は都合により、全国幹部研鑽会に参加出来なかったので、講話の内容をブログで紹介してもらえるのは嬉しいです。観世音菩薩ですが、よく聞く言葉ですね。心を悩ませるような人が友人や上司にいたりするとあの人は私にとって観世音菩薩様だという形で使う事が多いと記憶しています。まだ続きが有るようなので次の更新が楽しみです。再拝

投稿: 横山啓子 | 2012年5月 5日 (土) 21時45分

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