生まれつきの信仰者
前回の本欄で紹介したジャスティン・バーレット氏(Justin L. Barrett)が書いた最新刊『Born Believers』(生まれつきの信仰者)を読み始めた。この本の主旨の1つは、前回書いたように「“天使”や“神”を信じる人間の性向は生来のものだ」ということである。この結論からすぐに想起されるのは、考古学などによる人類最古の記録を見ても、宗教が人間の生活に深く関わってきたという事実である。また、科学技術が高度に発達した今の時代にあっても、人類の大多数は宗教の信者であるという事実の説明にもなる。しかし、その一方で説明が難しいこともある。その1つは、生まれつきの信仰者が大多数を占めるならば、人類の歴史の中で、宗教を原因とした争いがなぜかくも長く、数多く起こっているかという問題である。
バーレット氏はこの重要な問題について本書では触れていない。しかし、宗教を構成する心的要素を2つに分けることで、1つの宗教内部に存在する心理的緊張状態をうまく描き出している。別の言い方をすれば、同氏は前回紹介した“信仰心生来説”を使って、同じ宗教の信者であっても、その宗教が説く“神学(教え)”に忠実に考える人もいればそうでない人もいる現象を、鮮やかに説明しているのである。
具体的には、同氏は宗教を「自然宗教(natural religion)」と「神学(theology)」の2つの要素に分ける。前者は、人類が進化の過程で獲得した“行為の主体者に敏感な性向”から生じた信仰心である。この性向は、子供が言語を話すことを覚えるように、人間であれば幼児期に誰でも自然に獲得するものだから「自然宗教」と同氏は呼ぶ。これをあらゆる宗教の“骨格”に譬えるとすると、後者(神学)はその骨格の上に形成される“肉づけ”に見立てられる。著書から引用しよう--
「子供というものは、宗教のいくつかの基本的な考え方と行動様式にごく自然に惹きつけられ、その後、両親から教えられるまま、この骨格の上に特定の宗教的、神学的伝統が肉づけされていくのである。この後者の文化的な表現形式こそ、我々が世界の宗教の信仰体系を調べる際に、途方に暮れるほど数多く出会う神学的考え方(=教義)を提供するものである」。
この文章を読んで、読者の中には私が提唱する“宗教目玉焼き論”を思い出した人もいるに違いない。この考え方は、1つの宗教の内容を2つに分け、それぞれを卵の目玉焼きの“黄身”と“白身”に割り当てるものだ。つまり、宗教の教えには、目玉焼きの“黄身”に当たる真理の核心を説く「中心部分」がある一方、その核心を一般人に分かりやすく伝えるための方便も含んだ「周縁部分」がある。前者は各宗教に共通しているが、後者はそれぞれの宗教が生まれた時代的、文化的背景に応じた特徴をもつから、必ずしも共通していない--こういう考え方である。バーレット氏の宗教二分法をこれに当てはめれば、「自然宗教」の部分が卵の黄身であり、神学(教義)は卵の白身ということになるかもしれない。が、よく考えてみると、そういう対応のさせ方は問題を生みそうだ。(この問題については、今回は触れない)
さて、ここまでは主として“子供の信仰心”に焦点を合わせて書いてきたが、その子供が成長すれば大人になるのだから、これまで書いてきたことは“大人の信仰心”と無関係ではない。つまり、我々大人も、普通の生き方をしてきたならば、バーレット氏の言う「自然宗教」の信者になるということだ。これは、なかなか物議をかもしそうな考えではなかろうか? では一体、「自然宗教」とはどんな内容の信仰を言うのだろう。同氏は、次の7点が「自然宗教」の内容だという--
①思想、意図、観点、感情をもった人間以上の存在(超人的存在)を仮定する
②岩や木、山、動物などの自然物は、この超人的存在によって目的をもって、意図的に創造されたと考える。
③この超人的存在は、人の目に見えても見えなくてもよいが、時間と空間を超えた存在ではない。
④この超人的存在は、善や悪などという人格をもっている。
⑤この超人的存在は、人間のように自由意思をもち、人間と交流して賞罰を与える。
⑥道徳的基準は、この超人的存在によっても変化することはない。
⑦人間は、肉体死滅後も存在し続ける。
日本人はインタビューなどに答えて、よく自分を“無宗教”だと言うが、そのくせ寺社に初詣でするし、お盆には墓参をし、葬式や結婚式では神仏の前で神妙に頭を下げ、故郷の祭りは熱心に行い、クリスマスを祝い、最近ではハローウィンの祭りにまで参加する。また、占いを信じる若者も多く、霊媒や霊言に振り回される人も少なくない。こういう現象を考えると、日本人は特定の宗教に所属することはなくても、ほとんどの人がバーレット氏の言う「自然宗教」の信者だと考えれば納得いくのではないだろうか。
谷口 雅宣
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コメント
「自然宗教」つまり、第六感を信じる、という感じでしょうか?
基本、ほとんどの人々が「自然宗教」の信者だと、私も思います。いや、厳密に言うと、全ての人類はそうなんじゃないのでしょうか?
自然と離れた生活をするようになって、第六感を感じにくくなった、と。自然宗教の心を感じにくくなったと、思います。そんな単純なことでもないと思われますが。
自然(神)の感覚を、多くの方が、思い出されることを切に願います。
投稿: 水野奈美 | 2012年4月25日 (水) 19時39分
合掌ありがとうございます。
すごく納得いたしました!
以前、友人何人かを講習会に誘い感想を聞いたところ、その中の一人が「こういう考え方もあるってことはわかったけど、“全面的にそうなんだ”とは思わない。けど、自分は“何か”を信じて生きてはいるんだろうな、ということだけは認める」と答えてくれたことがありました。
神様の存在を皆漠然と心のどこかで認めてはいても、それをはっきり表明できるほど確信を持てていないだけなのかもしれない、と思います。
これまで自分は生長の家を“まだ知らない”人々に伝えようと思ってきましたが、本当はすでに神様を信じている自分に気づかせて差し上げるようにする‥それが伝道の極意なのかもしれない、と思いました!
投稿: 前川淳子 | 2012年4月25日 (水) 21時20分
超人的存在=神だと思って読んでいましたが、そうすると③~⑥は生長の家の神観には当てはまらない…ということは一般的な神のイメージなのだと思いました。
投稿: 山城和史 | 2012年4月28日 (土) 11時12分
水野さん、
山城さん、
コメント、ありがとうございます。
生長の家の神観と“自然宗教”のそれとは、同じでないと思います。この本のポイントは、どの子供も自然に得る“神”の概念が下敷きになって、それぞれの宗教が独自の教義(神学)を築き上げたという点です。このこと自体は、「だから神は存在する」という証明にはならないし、また「だから多宗教の共存はできる」という結論にもならないと考えます。
投稿: 谷口 | 2012年4月29日 (日) 17時03分
谷口先生、
微力ながらコメントさせて頂きます。
バーレット氏の宗教二分法をこれに当てはめれ ば、「自然宗教」の部分が卵の黄身であり、神 学(教義)は卵の白身ということになるかもしれな い。が、よく考えてみると、そういう対応のさせ 方は問題を生みそうだ。
と谷口先生が述べているように、谷口先生の宗教目玉焼き論とバーレット氏の宗教二分法の考え方には必ずしもすべてイコールにはならないと理解しました。
谷口先生が述べている宗教目玉焼き論の内容は、黄身の部分が宗教の真理の核心部分で、白身の部分が核心を一般人に分かりやすく伝えるための方便や時代的・文化的背景から創出されてた宗教教義と理解しています。
一個人的な感想ですが、宗教目玉焼き論と同氏の考え方を同様に考えると疑問がわいてきます。
自然宗教は、人間が内心で自然に感じる神や仏と称する大生命の感じ方であり、宗教目玉焼き論の宗教の真理の核心部分は、個々で自然に感じる神や仏の概念ではなく、もっともっと根底にある神なる、仏なる不変の大真理が宗教目玉焼き論の黄身の部分だと思います。
そのため、自然宗教と宗教目玉焼き論は必ずしもすべてイコールにはならないと思います。
不変の大真理が根底にあり、その上に、自然宗教がり、またその上に、各々の宗教教義がると思います。
個人的な感想で失礼致しました。
ご指導宜しくお願いします。
投稿: 森 貴史 | 2012年4月30日 (月) 07時40分
合掌 ありがとうございます。日本人の信仰心について時々首を傾げています。普及誌を手渡ししようとすると大抵の方は、私は無神論者だからと言って受け取りを拒否されます。でもそういう人が本当に神様を信仰しない訳ではありません。総裁先生が言っておられる事が事実です。「うちは仏教だから、外国の宗教はちょっと」という人に忠告したいです。仏教も外国から入ってきた宗教です。仏教徒なら何故葬式だけでなく結婚式もお寺でやらないのですか?外国人から見たらこの辺に疑問を持つそうです。生長の家を信仰する人なら、どうするべきか考えてみる必要があると思います。再拝
投稿: 横山啓子 | 2012年4月30日 (月) 09時49分